>やすのぶさん、
コメント、ありがとうございます。
<名前は書かれて、るんですね?<@スコアはお持ちではないの?
ちなみにぼくの持っているスコアは、カーマスの緑表紙の3巻本です。
むかし、ブロード版も見かけましたが、高くて買えなかったです>
▲これも誤解……というか、私の言葉不足……でしょうか。
やすのぶさんがお持ちなのはすべて「ブロード版」だと思ってたので、
(ブロード版には)「名前は書かれて、るんですね?」と伺ったのです。
お手数をかけました。いたみいります。ちなみに、私の
「カマス緑表紙3巻本」は、第2書庫で百年の眠りについてるはずです。
いま手元に置いてるのは、NYのチャイコフスキー財団が出してる
ジロティが編んだpf版のみです。
<まあ、そんなことはどうだっていいんでしょう。
物語に関係ない余興ですから・・・・>
▲たしかにおっしゃるとおりですが、西洋の御伽噺はどれもこれも、
「ドノ話」も、けっこうワンパターンというか、共通してるというか、
類似したものばかりのような感がありますね。
「白い猫」「青い鳥」なんて色分けしてなかったら、
ほとんど混同してしまうくらいですから、それらは
「眠りの森の美女」への「ダメオシ」みたいなものなのでしょう。
<『眠り』の第3幕でスコア上不思議なのは、
フランス語、ロシア語、両語併記をどう使い分けているかです。
ヴァリアシオンというフランス語は全く出てきません。
ロシア語でそれらしいことが書いてあるのですが、
読めないので推測するだけです>
▲チャイコフスキー財団のpf版は英語のみ、です。が、私は、
もとより、何語もできないので同じですが。(※) ともあれ、
よろしかったら、その露語をコメントに添えていただければ、
あてずっぽう「大意」を返させていただきます。ただし、
私にも優先すべき生活がありますので、
とりあえずはチョットだけにしといてください。
<『白鳥』は、最初の物語すらチャイコフスキーが構想していたのではないか
とぼくは感じています。だから台本と一致しない・・・・また
一致しない音楽がしばしば出てくる・・・・と思うのです。
そこが、謎であり面白いところです>
▲おっしゃるとおりでしょう。「白鳥湖」の「テーマ」は、
チャイコフスキーの「永遠のテーマ」です。最初のオペラ
「ウンヂーナ(お水の精)」とまったくおんなじです。
「愛と死」……ただし、ヴァーグナーと違うのは、その「愛」が
「純愛」であることです。それはともかく、少年期に山口百恵と
カール・ムーゾイスの御伽噺「奪われたヴェイル」のつらい噺に
魅せられたチャイコフスキーが、
♪ツゥラいはぁ、ツラいはぁ、シュラァ~イアァ~~~♪
と、それを「はごろも缶詰」に封印して、
ずっと温めてたものだったそうですね。ちなみに、同御伽噺では、
「白鳥湖」の舞台は、ベアリーンとミュンヒェンを結ぶ直線上に存する
ツヴィッカオ辺りとされてるそうですが、同地は、
ドレスデンとニュルンベルクを結ぶ、ザクセンの交通の要所のひとつで、
ローベルト・シューマンの出生地です。
「月日は百代の過客にして、Zwickau人もまた旅人なり」
独語の「zw」は英語になると「tw」ですね、
zwei(mal)に対してtwiceとか。つまり、
「2つ」「2つに分かれる」「分岐点」「2つの間」みたいな。
<ネズミとの戦争とお菓子の城の間には『死』があるわけですよね。
『第5』の終結、『悲愴』マーチの終結と同じ終わり方。
すると最後にクララが目覚めるという『落ち』は、
全く見当違いということになりますよね>
▲『トート』ウ、この話題になりましたね。さすが、やすのぶさん、
『タタタ・タン』をおろそかにはなさらない。
『白い世界=ツヴィッカオ懐郷雪景色』とは『死』ですね。ただ、
キリストすら復活するらしいので、別に、かまったことはないでしょう。
クラーラ嬢の正体は聖母マリアさまなのですから。そんな天上人はともかく、
シモジモの世界では、死者に対して生き返ってほしい、という
「残された者」の叶わぬ願いを「芝居」にたくす、
ということもあるでしょう。
<でも、クララが何故死んだのかというのを舞台上で明示しないことには、
観客は納得しないでしょう>
▲「秘すれば華」……カンゼんにネタバラシをしてしまったら、あるいは、
泉ピン子女史や石坂浩二御大などにすべてを語らせてしまったら、
橋田寿賀子大先生の茶番劇とおんなじになってしまいます。
♪かぁ~たるになれば、すぅ~がこぉ~も、解けて♪
納得ラッカーしない観客など、放っておけばよろしい。
<舞台上でどのように表現するのでしょうか? パドゥカトル?>
▲舞台で「実演」する、とは言ってないのですが、まぁ、いいでしょう。
メル「カトル」図法で舞台を作れば「実演」できるかもしれませんから。
冗談はともかく、私の頭に浮かぶ「風景」を述べたまでです。
現実の舞台は「ドラジェの精とオルジャ王子」でかまいません。
<くるみ割リという道具は大小あるのでしょうかねえ?>
▲平林本によれば、「大小ある」そうですよ。
サムライのようには差してないかもしれませんが。
<はしばみの実というのは見たこと無いですが、
くるみの実とは大きさがどれほど違うのでしょうか?>
▲ハシバミは「ヘイゼル・ナッツ」のことです。
まったく違います。ハシバミは長径20mm短径15mmほど、
クルミは長径45mm短径30mm程度だと私は認識してます。
容量では1:4くらいの違いがあります。
東京だと広尾の「ナショナル麻布マーケット」で売ってます。
ハシバミはクルミとおなじくカバ科の木ですが、その実は、
味はむしろバラ科のアーモンド(ドラジェ)に似てます。
殻を取った外見はピーナッツのように薄い茶色い皮で覆われてます。
<くるみ割りで銀杏のような小さなものも割れるのでしょうか?>
▲ギンナンも割れないことはないかもしれませんが、
ナンギだと思います。
<ていうのは、英語では単に『豆割り』ですが、フランス語では直訳すると
確かに『はしばみの実を割る道具』ですね。ただ、『くるみの実を割る
道具の小さなもの』とも訳せなくもないような気がしますので・・・・>
▲「ヌワゼット」自体が「ヌワ」の小型という意味ではなく、
「カス・ヌワゼット」は「カス・ヌワ」の小型ではないようです。
大は小を兼ねる、大きいことはいいことだ、とはいっても、
ハシバミやギンナンを割るのに、
クルミ割り器をカスノワ賢明なこととはいえません。(※)
<そういったものの中からも、
なにか重要なものが引き出せるのではないでしょうか?>
▲そうかもしれませんね。肝に銘じます。
<ご自分で見つけることです。熱意のみ。だれも助けてくれないでしょう>
▲いままでの人生で、妬まれたり足を引っ張られたりすることはあっても、
助けられたということはほとんどありません。よく分かっております。
<どこから、ひょうたんからこまが出るか分かりませんからね(笑い)>
▲ヒョウタンからコマったことが出てしまってもいやですね。(※)
<ブルックナーは自作交響曲を『娘たち』と言っていましたね。献呈先について
《娘をよいところに嫁にやろうとするのは当然でしょう》と述べています>
▲美人妻と愛娘がいながら独り無惨な死をむかえたフォスターには、
♪ダ・キャンプタウン・レイディーズ・スィング・ディス・ソング、
ドーターズ、ドーターズ(テュヒター、テュヒター)♪
というミンストレル用歌謡「草競馬」がありますね。冗談はともかく、
「娘」トナールとY染色体を子に橋渡し(ブリュッケ)できません。
<ブルックナーの不思議さは、後発の天才だったこと、また、
作曲後にも作品を成長させたことにも現れています>
▲神にもいろいろあってしかるべきです。ときに、
「親父」が「非音楽家」という点では、
シューベルト、チャイコフスキーとおなじですね。
<チャイコフスキーなら、話が非常に面白いところへ行くので、
そちらへ集中した方がよいということですよ>
▲了解いたしました。ただ、私のほうから
「出張所」にお誘いした覚えはないのですが……いかがでしょう?
<音楽には2つの作用があると思っています。
(もちろん自身が感動しない音楽は別ですが)
感心・感動する音楽と泣きが入る音楽です。
ただ泣きが入るというのは低次元の音楽にもありうることです。
夕方にお帰りの音楽(家路みたいなものなど)が
夕焼けの時になったりします。
それだけで泣けてきたりしませんか?
音楽とは魔術のようなものです。単純なものであっても
その人の琴線に触れると涙を呼び起こすものです。
そのためには作曲上の能力なんて全く必要ありません。
ただ、立派な音楽で泣けるというのは素晴らしいことですが、
それは結局音楽のす晴らしさを泣いているのではなく、
自分の中に蓄えられた何ものかが
泣かせているのではないでしょうか?>
▲後半はまったくおっしゃるとおりだと感心いたしました。しかも、
生意気な言いかたですが、適切な言い表しかただと思います。ただ、前半は、
それはそのとりなのですが、私が申しあげた
<泣き濡れて涙が「ハナ」水とぐちゃぐちゃになるほどの曲でないと、
真の傑作とはいいがたい、というのが私の考えです>
は、必要条件であって十分条件ではない、ということです。
泣ければ真の音楽という意味ではありません。
ちなみに、ハシバミ(いわゆる「くるみ割り王子」……
私は若かりし頃、よく、扁桃腺を腫らした痛みと肥満体質から、
アセバミ王子と呼ばれてました)も、
アーモンド(ドラジェ)も、スペインが有数の生産国であることが、
ディヴェルスモン先鋒を務めた所以だったかもしれません。
コメント、ありがとうございます。
<名前は書かれて、るんですね?<@スコアはお持ちではないの?
ちなみにぼくの持っているスコアは、カーマスの緑表紙の3巻本です。
むかし、ブロード版も見かけましたが、高くて買えなかったです>
▲これも誤解……というか、私の言葉不足……でしょうか。
やすのぶさんがお持ちなのはすべて「ブロード版」だと思ってたので、
(ブロード版には)「名前は書かれて、るんですね?」と伺ったのです。
お手数をかけました。いたみいります。ちなみに、私の
「カマス緑表紙3巻本」は、第2書庫で百年の眠りについてるはずです。
いま手元に置いてるのは、NYのチャイコフスキー財団が出してる
ジロティが編んだpf版のみです。
<まあ、そんなことはどうだっていいんでしょう。
物語に関係ない余興ですから・・・・>
▲たしかにおっしゃるとおりですが、西洋の御伽噺はどれもこれも、
「ドノ話」も、けっこうワンパターンというか、共通してるというか、
類似したものばかりのような感がありますね。
「白い猫」「青い鳥」なんて色分けしてなかったら、
ほとんど混同してしまうくらいですから、それらは
「眠りの森の美女」への「ダメオシ」みたいなものなのでしょう。
<『眠り』の第3幕でスコア上不思議なのは、
フランス語、ロシア語、両語併記をどう使い分けているかです。
ヴァリアシオンというフランス語は全く出てきません。
ロシア語でそれらしいことが書いてあるのですが、
読めないので推測するだけです>
▲チャイコフスキー財団のpf版は英語のみ、です。が、私は、
もとより、何語もできないので同じですが。(※) ともあれ、
よろしかったら、その露語をコメントに添えていただければ、
あてずっぽう「大意」を返させていただきます。ただし、
私にも優先すべき生活がありますので、
とりあえずはチョットだけにしといてください。
<『白鳥』は、最初の物語すらチャイコフスキーが構想していたのではないか
とぼくは感じています。だから台本と一致しない・・・・また
一致しない音楽がしばしば出てくる・・・・と思うのです。
そこが、謎であり面白いところです>
▲おっしゃるとおりでしょう。「白鳥湖」の「テーマ」は、
チャイコフスキーの「永遠のテーマ」です。最初のオペラ
「ウンヂーナ(お水の精)」とまったくおんなじです。
「愛と死」……ただし、ヴァーグナーと違うのは、その「愛」が
「純愛」であることです。それはともかく、少年期に山口百恵と
カール・ムーゾイスの御伽噺「奪われたヴェイル」のつらい噺に
魅せられたチャイコフスキーが、
♪ツゥラいはぁ、ツラいはぁ、シュラァ~イアァ~~~♪
と、それを「はごろも缶詰」に封印して、
ずっと温めてたものだったそうですね。ちなみに、同御伽噺では、
「白鳥湖」の舞台は、ベアリーンとミュンヒェンを結ぶ直線上に存する
ツヴィッカオ辺りとされてるそうですが、同地は、
ドレスデンとニュルンベルクを結ぶ、ザクセンの交通の要所のひとつで、
ローベルト・シューマンの出生地です。
「月日は百代の過客にして、Zwickau人もまた旅人なり」
独語の「zw」は英語になると「tw」ですね、
zwei(mal)に対してtwiceとか。つまり、
「2つ」「2つに分かれる」「分岐点」「2つの間」みたいな。
<ネズミとの戦争とお菓子の城の間には『死』があるわけですよね。
『第5』の終結、『悲愴』マーチの終結と同じ終わり方。
すると最後にクララが目覚めるという『落ち』は、
全く見当違いということになりますよね>
▲『トート』ウ、この話題になりましたね。さすが、やすのぶさん、
『タタタ・タン』をおろそかにはなさらない。
『白い世界=ツヴィッカオ懐郷雪景色』とは『死』ですね。ただ、
キリストすら復活するらしいので、別に、かまったことはないでしょう。
クラーラ嬢の正体は聖母マリアさまなのですから。そんな天上人はともかく、
シモジモの世界では、死者に対して生き返ってほしい、という
「残された者」の叶わぬ願いを「芝居」にたくす、
ということもあるでしょう。
<でも、クララが何故死んだのかというのを舞台上で明示しないことには、
観客は納得しないでしょう>
▲「秘すれば華」……カンゼんにネタバラシをしてしまったら、あるいは、
泉ピン子女史や石坂浩二御大などにすべてを語らせてしまったら、
橋田寿賀子大先生の茶番劇とおんなじになってしまいます。
♪かぁ~たるになれば、すぅ~がこぉ~も、解けて♪
納得ラッカーしない観客など、放っておけばよろしい。
<舞台上でどのように表現するのでしょうか? パドゥカトル?>
▲舞台で「実演」する、とは言ってないのですが、まぁ、いいでしょう。
メル「カトル」図法で舞台を作れば「実演」できるかもしれませんから。
冗談はともかく、私の頭に浮かぶ「風景」を述べたまでです。
現実の舞台は「ドラジェの精とオルジャ王子」でかまいません。
<くるみ割リという道具は大小あるのでしょうかねえ?>
▲平林本によれば、「大小ある」そうですよ。
サムライのようには差してないかもしれませんが。
<はしばみの実というのは見たこと無いですが、
くるみの実とは大きさがどれほど違うのでしょうか?>
▲ハシバミは「ヘイゼル・ナッツ」のことです。
まったく違います。ハシバミは長径20mm短径15mmほど、
クルミは長径45mm短径30mm程度だと私は認識してます。
容量では1:4くらいの違いがあります。
東京だと広尾の「ナショナル麻布マーケット」で売ってます。
ハシバミはクルミとおなじくカバ科の木ですが、その実は、
味はむしろバラ科のアーモンド(ドラジェ)に似てます。
殻を取った外見はピーナッツのように薄い茶色い皮で覆われてます。
<くるみ割りで銀杏のような小さなものも割れるのでしょうか?>
▲ギンナンも割れないことはないかもしれませんが、
ナンギだと思います。
<ていうのは、英語では単に『豆割り』ですが、フランス語では直訳すると
確かに『はしばみの実を割る道具』ですね。ただ、『くるみの実を割る
道具の小さなもの』とも訳せなくもないような気がしますので・・・・>
▲「ヌワゼット」自体が「ヌワ」の小型という意味ではなく、
「カス・ヌワゼット」は「カス・ヌワ」の小型ではないようです。
大は小を兼ねる、大きいことはいいことだ、とはいっても、
ハシバミやギンナンを割るのに、
クルミ割り器をカスノワ賢明なこととはいえません。(※)
<そういったものの中からも、
なにか重要なものが引き出せるのではないでしょうか?>
▲そうかもしれませんね。肝に銘じます。
<ご自分で見つけることです。熱意のみ。だれも助けてくれないでしょう>
▲いままでの人生で、妬まれたり足を引っ張られたりすることはあっても、
助けられたということはほとんどありません。よく分かっております。
<どこから、ひょうたんからこまが出るか分かりませんからね(笑い)>
▲ヒョウタンからコマったことが出てしまってもいやですね。(※)
<ブルックナーは自作交響曲を『娘たち』と言っていましたね。献呈先について
《娘をよいところに嫁にやろうとするのは当然でしょう》と述べています>
▲美人妻と愛娘がいながら独り無惨な死をむかえたフォスターには、
♪ダ・キャンプタウン・レイディーズ・スィング・ディス・ソング、
ドーターズ、ドーターズ(テュヒター、テュヒター)♪
というミンストレル用歌謡「草競馬」がありますね。冗談はともかく、
「娘」トナールとY染色体を子に橋渡し(ブリュッケ)できません。
<ブルックナーの不思議さは、後発の天才だったこと、また、
作曲後にも作品を成長させたことにも現れています>
▲神にもいろいろあってしかるべきです。ときに、
「親父」が「非音楽家」という点では、
シューベルト、チャイコフスキーとおなじですね。
<チャイコフスキーなら、話が非常に面白いところへ行くので、
そちらへ集中した方がよいということですよ>
▲了解いたしました。ただ、私のほうから
「出張所」にお誘いした覚えはないのですが……いかがでしょう?
<音楽には2つの作用があると思っています。
(もちろん自身が感動しない音楽は別ですが)
感心・感動する音楽と泣きが入る音楽です。
ただ泣きが入るというのは低次元の音楽にもありうることです。
夕方にお帰りの音楽(家路みたいなものなど)が
夕焼けの時になったりします。
それだけで泣けてきたりしませんか?
音楽とは魔術のようなものです。単純なものであっても
その人の琴線に触れると涙を呼び起こすものです。
そのためには作曲上の能力なんて全く必要ありません。
ただ、立派な音楽で泣けるというのは素晴らしいことですが、
それは結局音楽のす晴らしさを泣いているのではなく、
自分の中に蓄えられた何ものかが
泣かせているのではないでしょうか?>
▲後半はまったくおっしゃるとおりだと感心いたしました。しかも、
生意気な言いかたですが、適切な言い表しかただと思います。ただ、前半は、
それはそのとりなのですが、私が申しあげた
<泣き濡れて涙が「ハナ」水とぐちゃぐちゃになるほどの曲でないと、
真の傑作とはいいがたい、というのが私の考えです>
は、必要条件であって十分条件ではない、ということです。
泣ければ真の音楽という意味ではありません。
ちなみに、ハシバミ(いわゆる「くるみ割り王子」……
私は若かりし頃、よく、扁桃腺を腫らした痛みと肥満体質から、
アセバミ王子と呼ばれてました)も、
アーモンド(ドラジェ)も、スペインが有数の生産国であることが、
ディヴェルスモン先鋒を務めた所以だったかもしれません。
▲よろしかったら、その露語をコメントに添えていただければ、
@ぼくの持っている東京音楽社版(小倉重夫校訂)もVariationとなっています。カーマス版をご覧になればお分かりでしょうが、ざっと普通のタイプでいけそうな風に打つと、BapyaUyR です。
Rは鏡像。
ちなみに、『白鳥』では#4、#5、#13ともヴァリアシオンという言葉は使っていないですね。パドゥシスだけVar.になっています。なんでだろう?
▲「秘すれば華」……カンゼんにネタバラシをしてしまったら、橋田寿賀子大先生の茶番劇とおんなじになってしまいます。納得ラッカーしない観客など、放っておけばよろしい。
@この意見には反対ですね。観客は、いろいろな階層があり、受容度もまちまちです。それはそれでよいでしょう。しかし、演出は、たとえオチャラケでやるにしても、幼稚園のお遊戯のようにやるにしても、根底にその精神があって、要所要所にそれとなくネタを仕込ませておくべきですよね。
ちなみに、その部分をちまちましたランチベリーの演奏で確かめてみました。スコアを手に聴くと、さすがに立派な音楽ですね。たしかに『死』をテーマにしていることが感じられます。いままでは、映像が主体であんまり音楽を聴いていなかったということでしょう(笑い)。
そして、「金平糖の踊り」の後半がなぜ組曲でカットされたかが分かったような気がしました。
▲舞台で「実演」する、とは言ってないのですが、まぁ、いいでしょう。現実の舞台は「ドラジェの精とオルジャ王子」でかまいません。
@とは「クララとくるみ割り王子」でもかまわないということでしょうか?
とにかく、脳内でどうあろうと、舞台上でどうあるべきかの結論をださないと無責任でしょう(笑い)。
とにかくこの作品は、いくら音楽が優れていても【舞台で上演してナンポ】の曲ですから・・・・
▲「ヌワゼット」自体が「ヌワ」の小型という意味ではなく、「カス・ヌワゼット」は「カス・ヌワ」の小型ではないようです。
@実は、ぼくは【くるみ割り人形】というのを手にとって実際に見たことはありません。ネットでは写真ではたくさん見れますがねえ・・・
大工ののみやかんなは用途に応じてさまざまなヴァリエーションがあるように、この【豆割器】も豆の種類によってヴァリエーションがあるのではないでしょうか?
すなわち、くるみのための【カスヌワ】、ハシバミの実のための【カスヌワゼット】といった風に・・・・
それとも、英訳のように豆類全体を割る道具を【カスヌワゼット】というのでしょうか?
▲「親父」が「非音楽家」という点では、
シューベルト、チャイコフスキーとおなじですね。
@チャイコフスキーはよくわからないですが、ブルックナーやシューベルトは教師の家庭に生まれました。
ブルックナーについて言えば、彼の祖父の代から教師だったようです。それ以前はさまざまな職業だったようですが、東方から流れてきて上部オーストリアに土着した当時から農業では無かったですね。
さて、同地、同時代の教師というのは、日本の幼稚園や小学校の先生が音楽にたずさわるより、はるかに音楽は重要な意味を持っていました。そういう点をかんがみれば、彼ら二人は完全プロの音楽家家系ではないにしても、セミプロの音楽家の家庭に生まれた、といえるでしょう。ですから、彼ら天才は、出るべくして出たと言えるでしょう。
▲了解いたしました。ただ、私のほうから
「出張所」にお誘いした覚えはないのですが……いかがでしょう?
@そりゃそうでしたね。(笑い)わき道は、単なる感想としておきましょう。それに論評を加えると分けわかんなくなってしまう(笑い)。
▲必要条件であって十分条件ではない、ということです。泣ければ真の音楽という意味ではありません。
@いくら立派な音楽でも、泣けなければランクは下だということですね。でも、この考えについて、ぼくは反論します。世の中にはドビュッシーやプロコフィエフで泣ける人がいるわけで、あまりに個人的な基準ではないかと思うのです。僕がブルックナーを偏愛するのはぼくの勝手であり、泣くのもぼくの勝手です。パッションさんがチャイコフスキーが特にお好きなのもご自由です。で、その範囲内で、仰ることは何も問題は起こりません。そこから一歩外れたことを対話者が意識しだすと問題が生じます。だから出張所の話はしないでおこうといっているのです。(笑い)
バンド演奏に熱中する少女たちがいますね。彼女たちにとってそれは最上の音楽です。一方で偉い人たちが名曲と言っている音楽があります。それに涙できる人もいれば出来ない人もいるということです。