入試の時節になった。
12月30日の21時から日テレで
「日本No.1の頭脳王大決定戦」を放送してた。
優勝した東大医学部生の広範囲にわたる知識と
秀でた認識能力・計算能力に舌を巻いた。が、そのいっぽうで、
1月3日の18時30分からテレ朝でやってた
「クイズQさまスペシャル」の中で
ポーツマス条約のロシア全権の名も知らない知的レヴェルでも
昨今は東大に容易く入れることに驚かされた。
20年くらい前まではどこの大学のどの学部を出てるかで
その人物のおおよその知的レヴェルが判った。が、今では
帰国子女枠に単一志願や一芸入試などのAO、それから
学士入学や学部再編などで容易く入れる道が多くなったため、
大学名とその学部名などを聞いただけでは、
実態は量れない。反対に、それを利用して、
○○大学卒業、
という看板で自分を盛ることに余念がない輩も少なくない。
ヒトの知能というのは親の職業の貴賎には依存しないが、
遺伝的な要素がほとんどを占める。たとえば江戸時代には、
幕末に農家の家に生まれたが維新になって
学問で出世できる道が開けた者がけっこういる。が、
江戸時代に農民だったとはいっても、もとは
武士だった家系というのが多く、名字は持ってても
名乗りを許されなかったのがほとんどである。そんな中に、
代々木ゼミナールの創立メンバーのひとりとなった
勝俣久作がいる。東電会長勝俣恒久の父である。
勝俣は箱根仙石原に多い名字である。
武田家が織田・徳川連合軍に追われて崩壊したため、その
家臣だった勝俣氏は仙石原に逃れて帰農した。かつまた、
勝又・勝俣・勝亦・勝間田という名は、仙石原の近くである
現在の静岡県の御殿場にも多い。TVタレントの勝俣州和も
御殿場に縁がある。ときに、
御殿場という地名は徳川家康にちなむ。
元和元年(西暦およそ1615年)に家康が駿府から足柄を経て
江戸に赴くときの宿泊御殿を、沼津代官長野九左衛門清定に
命じて造らせた。が、翌年の4月に家康は死んだので、結局、
使われずじまいだった。が、死後1年で
久能山から日光に遺体が移されるとき、家康の遺骸は
この御殿に一時留められたともいわれる。ともあれ、
この御殿の周りには大御所様特需を狙って
すでに人が集まって住んでたのである。それが、
「御殿新町」と称されたことに「御殿場」の由来がある。べつに、
おてんば娘が多かったわけではない。
今日、2012年1月5日は乙丑(きのとうし)の日である。菅原道真は、
承和12年6月【25】日(現行暦換算845年8月1日)に生まれた。
乙丑の年である。いっぽう、同人は
延喜3年2月【25】日(現行暦換算903年3月26日)に死んだ。
道真といえば「学問の神様」、「天神様」である。
天神とは雷神のことである。政敵藤原時平の奸計で、
延喜元年(およそ西暦901年)正月【25】日、
右大臣から太宰権帥に左遷という措置を受け、同地で
無念のうちに死んだ。が、その死後、京では日照りが続き、
新羅の使者がもたらした疫病が流行って
醍醐天皇の皇子が相次いで薨去し、
清涼殿に落雷して多数の死者が出た。清涼殿落雷は、
延長8年(およそ西暦930年)6月26日ということになってるが、
実際はその前日だったという【噂】がある。ともあれ、
それらがすべて、無念死した道真の怨霊によるもの、
と言われはじめた。これが、
[落雷→雷神→天神]という図式である。
北野天満宮は勅命で創建された。ときに、
現在の埼玉県川越市にある三芳野神社は、この
北野天満宮を勧進したものといわれる。
[通りゃんせ。通りゃんせ。
ここはどこの細通じゃ。
天神様の細道じゃ。
ちっと通して下しゃんせ。
御用のないもの通しゃせぬ。
この子の七つのお祝いに、
お札を納めに参ります。
行きはよいよい、帰りはこわい。
こわいながらも、
通りゃんせ。通りゃんせ]
この"わらべうた"は三芳野神社の参道を詠ったもの、
とされてる。が、これにはさまざまな意味、言葉が
混ぜてあるように思われる。たとえば、
新吉原には浅草寺に詣でるという名目で出かけた。
浅草から新吉原までは田の中の細道を進む。
「天神」というのはもともと京都島原の妓女の
「大夫」に次ぐランクを指す名称だった。なぜ
「天神」と呼ばれたかといえば、その揚代が
天神様道真に縁のある数字、「銀【25】匁」だったからである。
(文政年間の大工の日当がだいたい銀5匁。現在の価値で約1万円。
30年前の代ゼミの模試の監督官のバイトの日当だった。
芝居小屋のS席相当に次ぐ下桟敷席(A席相当)が銀25匁だった)
帰りはコワイのコワイは疲レタという意味ともとれる。ともあれ、
長岡天満宮、太宰府天満宮、道明寺天満宮、大阪天満宮、
これらの天満宮では電話番号の下2桁を
【25】としてる。いっぽう、
藤原定家は「百人一首」で道真の歌を
「24」番めとし、「百人秀歌」では
「23」番とした。25を避けてるともとれる。百人一首で
「25」番に入れたのは、醍醐天皇の外叔父である
三条右大臣(藤原定方)である。百人秀歌では、
その藤原定方に庇護されてた
凡河内躬恒があてられた。ちなみに、当然ながら、
「100」は「25」で割り切れる。ときに、
ルート25は±5であるが、
ルート5は±2.2360679...富士山麓オウム鳴く、である。
特別手配犯平田信が大晦日に出頭してきた。
東京でも「湯島天神」で道真を祀ってる。
金沢藩のオルフェヴルの家系に生まれた病的な潔癖症の
泉鏡花の代表作「婦系図」では、そこが
お蔦&主税の舞台とされた。そして、
日米戦争中の昭和17年、いまから70年前には
佐伯孝夫の詞、清水保雄の曲で
「湯島の白梅」という流行歌が作られ、藤原亮子女史と
朝鮮人歌手カン・ヨンチョル(日本名=小畑実)のデュエットによって歌われた。
(以下、YouTubeの音源から私が採譜・採詞したものなので、
原作とは異なる箇所があることを悪しからず了承いただきたい)
♪ソ(ゆ)ーーー・ーーーー・・>ミ(し)ーーー・<ソ(ま)ーーー│
<ラ(と)ー<ド(お)ー・<レ(れ)>ド>ラー・・>ソ(ば)ーーー・ーーーー│
●●<ラ(お)ー・ラ(も)ー>ソー・・>ド(い)ーーー・<レ(だ)ーーー│
<ミ(す)ーーー・ーーーー・・ーーーー・●●●●│
<ソ(お)ーーー・ーーーー・・<ラ(つ)ー>ソー・>ミ(た)ーーー│
<ミ(ち)ー>レ(か)ー・ーー>ドー・・>ラ(ら)ーーー・ーー>ソ(の)ー│
●●>ド(こ)ー・<レ(こ)ー<ミー・<ソ(ろ)ー>ミ(い)ー・ーー>レー│
>ド(き)ーーー・ーーーー・・ーーーー・●●●●♪
「東風吹かば、匂ひおこせよ。梅の花。
主なしとて、春を忘るな]
「芽には芽を。葉には埴輪を」である。
道真は政敵時平とともに「貞観の大地震・大津波」も記してる
「日本三代実録」の編者のひとりである。昨日は
午後からミッドタウンの虎屋まで梅型の最中を年賀に買いに行く
母の運転手をさせられた。母が贈答用に買う最中は
5×5=25個詰めである。隣の虎屋菓寮で汁粉をすすってきた。
12月30日の21時から日テレで
「日本No.1の頭脳王大決定戦」を放送してた。
優勝した東大医学部生の広範囲にわたる知識と
秀でた認識能力・計算能力に舌を巻いた。が、そのいっぽうで、
1月3日の18時30分からテレ朝でやってた
「クイズQさまスペシャル」の中で
ポーツマス条約のロシア全権の名も知らない知的レヴェルでも
昨今は東大に容易く入れることに驚かされた。
20年くらい前まではどこの大学のどの学部を出てるかで
その人物のおおよその知的レヴェルが判った。が、今では
帰国子女枠に単一志願や一芸入試などのAO、それから
学士入学や学部再編などで容易く入れる道が多くなったため、
大学名とその学部名などを聞いただけでは、
実態は量れない。反対に、それを利用して、
○○大学卒業、
という看板で自分を盛ることに余念がない輩も少なくない。
ヒトの知能というのは親の職業の貴賎には依存しないが、
遺伝的な要素がほとんどを占める。たとえば江戸時代には、
幕末に農家の家に生まれたが維新になって
学問で出世できる道が開けた者がけっこういる。が、
江戸時代に農民だったとはいっても、もとは
武士だった家系というのが多く、名字は持ってても
名乗りを許されなかったのがほとんどである。そんな中に、
代々木ゼミナールの創立メンバーのひとりとなった
勝俣久作がいる。東電会長勝俣恒久の父である。
勝俣は箱根仙石原に多い名字である。
武田家が織田・徳川連合軍に追われて崩壊したため、その
家臣だった勝俣氏は仙石原に逃れて帰農した。かつまた、
勝又・勝俣・勝亦・勝間田という名は、仙石原の近くである
現在の静岡県の御殿場にも多い。TVタレントの勝俣州和も
御殿場に縁がある。ときに、
御殿場という地名は徳川家康にちなむ。
元和元年(西暦およそ1615年)に家康が駿府から足柄を経て
江戸に赴くときの宿泊御殿を、沼津代官長野九左衛門清定に
命じて造らせた。が、翌年の4月に家康は死んだので、結局、
使われずじまいだった。が、死後1年で
久能山から日光に遺体が移されるとき、家康の遺骸は
この御殿に一時留められたともいわれる。ともあれ、
この御殿の周りには大御所様特需を狙って
すでに人が集まって住んでたのである。それが、
「御殿新町」と称されたことに「御殿場」の由来がある。べつに、
おてんば娘が多かったわけではない。
今日、2012年1月5日は乙丑(きのとうし)の日である。菅原道真は、
承和12年6月【25】日(現行暦換算845年8月1日)に生まれた。
乙丑の年である。いっぽう、同人は
延喜3年2月【25】日(現行暦換算903年3月26日)に死んだ。
道真といえば「学問の神様」、「天神様」である。
天神とは雷神のことである。政敵藤原時平の奸計で、
延喜元年(およそ西暦901年)正月【25】日、
右大臣から太宰権帥に左遷という措置を受け、同地で
無念のうちに死んだ。が、その死後、京では日照りが続き、
新羅の使者がもたらした疫病が流行って
醍醐天皇の皇子が相次いで薨去し、
清涼殿に落雷して多数の死者が出た。清涼殿落雷は、
延長8年(およそ西暦930年)6月26日ということになってるが、
実際はその前日だったという【噂】がある。ともあれ、
それらがすべて、無念死した道真の怨霊によるもの、
と言われはじめた。これが、
[落雷→雷神→天神]という図式である。
北野天満宮は勅命で創建された。ときに、
現在の埼玉県川越市にある三芳野神社は、この
北野天満宮を勧進したものといわれる。
[通りゃんせ。通りゃんせ。
ここはどこの細通じゃ。
天神様の細道じゃ。
ちっと通して下しゃんせ。
御用のないもの通しゃせぬ。
この子の七つのお祝いに、
お札を納めに参ります。
行きはよいよい、帰りはこわい。
こわいながらも、
通りゃんせ。通りゃんせ]
この"わらべうた"は三芳野神社の参道を詠ったもの、
とされてる。が、これにはさまざまな意味、言葉が
混ぜてあるように思われる。たとえば、
新吉原には浅草寺に詣でるという名目で出かけた。
浅草から新吉原までは田の中の細道を進む。
「天神」というのはもともと京都島原の妓女の
「大夫」に次ぐランクを指す名称だった。なぜ
「天神」と呼ばれたかといえば、その揚代が
天神様道真に縁のある数字、「銀【25】匁」だったからである。
(文政年間の大工の日当がだいたい銀5匁。現在の価値で約1万円。
30年前の代ゼミの模試の監督官のバイトの日当だった。
芝居小屋のS席相当に次ぐ下桟敷席(A席相当)が銀25匁だった)
帰りはコワイのコワイは疲レタという意味ともとれる。ともあれ、
長岡天満宮、太宰府天満宮、道明寺天満宮、大阪天満宮、
これらの天満宮では電話番号の下2桁を
【25】としてる。いっぽう、
藤原定家は「百人一首」で道真の歌を
「24」番めとし、「百人秀歌」では
「23」番とした。25を避けてるともとれる。百人一首で
「25」番に入れたのは、醍醐天皇の外叔父である
三条右大臣(藤原定方)である。百人秀歌では、
その藤原定方に庇護されてた
凡河内躬恒があてられた。ちなみに、当然ながら、
「100」は「25」で割り切れる。ときに、
ルート25は±5であるが、
ルート5は±2.2360679...富士山麓オウム鳴く、である。
特別手配犯平田信が大晦日に出頭してきた。
東京でも「湯島天神」で道真を祀ってる。
金沢藩のオルフェヴルの家系に生まれた病的な潔癖症の
泉鏡花の代表作「婦系図」では、そこが
お蔦&主税の舞台とされた。そして、
日米戦争中の昭和17年、いまから70年前には
佐伯孝夫の詞、清水保雄の曲で
「湯島の白梅」という流行歌が作られ、藤原亮子女史と
朝鮮人歌手カン・ヨンチョル(日本名=小畑実)のデュエットによって歌われた。
(以下、YouTubeの音源から私が採譜・採詞したものなので、
原作とは異なる箇所があることを悪しからず了承いただきたい)
♪ソ(ゆ)ーーー・ーーーー・・>ミ(し)ーーー・<ソ(ま)ーーー│
<ラ(と)ー<ド(お)ー・<レ(れ)>ド>ラー・・>ソ(ば)ーーー・ーーーー│
●●<ラ(お)ー・ラ(も)ー>ソー・・>ド(い)ーーー・<レ(だ)ーーー│
<ミ(す)ーーー・ーーーー・・ーーーー・●●●●│
<ソ(お)ーーー・ーーーー・・<ラ(つ)ー>ソー・>ミ(た)ーーー│
<ミ(ち)ー>レ(か)ー・ーー>ドー・・>ラ(ら)ーーー・ーー>ソ(の)ー│
●●>ド(こ)ー・<レ(こ)ー<ミー・<ソ(ろ)ー>ミ(い)ー・ーー>レー│
>ド(き)ーーー・ーーーー・・ーーーー・●●●●♪
「東風吹かば、匂ひおこせよ。梅の花。
主なしとて、春を忘るな]
「芽には芽を。葉には埴輪を」である。
道真は政敵時平とともに「貞観の大地震・大津波」も記してる
「日本三代実録」の編者のひとりである。昨日は
午後からミッドタウンの虎屋まで梅型の最中を年賀に買いに行く
母の運転手をさせられた。母が贈答用に買う最中は
5×5=25個詰めである。隣の虎屋菓寮で汁粉をすすってきた。
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