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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「チャイコフスキー『1812年』のソナタ部第3主題/コロッセオの敗者(=死者)の門」

2012年01月02日 23時07分28秒 | 戦勝&大聖堂奉献式祝いに(イワイニ)1812年

チャイコフスキー 1812年


今年はナポレオンがロシアに侵攻してから200年めにあたる。
チャイコフスキーの「1812年」は、
A=ラールゴ、3/4、3♭、「ロシア正教聖歌」
B=アンダーンテ、4/4、3♭、「進軍ラッパ」
C=アッレーグロ・ジュストのソナータ、4/4、6♭
 第1主題
 推移部挿入=「ラ・マルセイエーズ」
 第2主題=破棄したオペラ「地方長官」の二重唱
 第3主題=ロシア民謡「門の前で」
A´=ラールゴ、3/4、3♭、「ロシア正教聖歌」
B´=アッレーグロ・ヴィヴァーチェ、4/4、3♭、
   「進軍ラッパ」「ロシア帝国国家」
という構成になってる。

このC部「ソナータ形式」の第3主題は、
"ロシア民謡「門の前で」が用いられてる"
といように、
ちょっと知ったかぶった巷の説明文では書かれてる。ところが、
その"民謡"が詳らかに解説されてるものを見たことがない。が、
それはひとまずおいといて、
チャイコフスキーは1868年乃至1869年に、
「50曲のロシア民謡集」というピアノ連弾用に和声づけして編曲した。
それは1869年にユルゲンソンから出版された。その
第48曲"У ворот, ворот(ウ・ヴァロート、ヴァロート)"
がその"ロシア民謡「門の前で」"である。

[Не слишком скоро(ニ・スリーシカム・スコーラ=あまり早すぎずに)
2/4拍子、3♯(嬰ヘ短調)]
♪ミー、ミ<ファ、・>ミー、>レー、│>ドー、ドー、・<レー、>ラー│
<ドー、ドー、・>ラーーー、│<ドー、>シ<ド・<レー、>ラー、│
<ミーーー・>ラー、ラー、│ラー<ドー、>シー、>ラー、│
<ミーーー・>ラー、ラー、│ラー<ドー、>シー、>ラー、│
<ミー、ミー、・ミー、ミー、│ミー<ソ>ミ・>レー、>シー、│
<ドー、ドー、・>ラーーー、│<ド>シ<ドー、・<レー、<ファー、│
>ミーーー・>ラー、ラー、│ラ<シ<ドー、>シー、>ラー、│
>ミーーー・>ラー、ラー、│ラ<シ<ドー、>シー、>ラー♪

pf2台用なのでこれには当然歌詞は附いてない。が、
以下のようなものらしい。

У ворот, ворот, ворот,
(ウ・ヴァロート、ヴァロート、ヴァロート、)
「(逐語大意)前で、門の、門の、」

Да ворот батюшкиных.
(ダー。ヴァロート・バーチュシキヌィフ、)
「といっても、父の、門だけど、」

Аи, Дунай, мой Дунай,
(アイ、ドゥーヌィ、モーィ・ドゥーヌィ、)
「ああ、ドナウ、我がドナウ、」

Аи, весёлый Дунай!
(アイ、ヴィショールィ・ドゥーヌィ!)
「ああ、楽しい、ドナウよ!」

Разыгралися ребята,
(ラズィグラーリシャ・リビャータ、)
「遊びに夢中になって(波立つという二重の意味か)、子供たちは」

Распотешились.
(ラスパチェーシリシ。)
「楽しませた。」

チンプンカンプンである。
ドナウがドナイしとんのや!? なんでドナウなんや!?
恵俊彰と加藤晴彦の声が区別できず、
外国語のひとつも話せない拙脳なる私には、
この詞の意味がさっぱり分からない。が、
それはひとまずおいといて、上記
「50曲のロシア民謡集」には、第5曲にも、
"Не разливайся, мой тихой Дунай
(ニ・ラズリヴァーィシャ、モーィ・チーハィ・ドゥーヌィ =氾濫しないで、穏やかなドナウ川よ)"
という"民謡"が収められてるのである。ロシア帝国は、
【(オスマーン帝国からの)ギリシャ独立戦争】に絡んで
1828年から1829年にかけて戦われた露土戦争の結果、
黒海沿岸低地とドナウ川河口をオスマーン帝国から割譲した。
ドナウ川はかつて十字軍の際にも遠征路として使われ、ナポレオンは、
"Le Danube...le roi des fleuves de l'Europe"
(ル・ダニュブ……ル・ルワ・デ・フルヴ・ドゥ・ルロプ=ヨーロッパの川の王)
と呼んでその重要性を表した。それほどの川なので、
ロシアは獲得してすぐさま、「ドナウ川」を題材にした"民謡"を
たてつづけに作ったのかもしれない。日米戦争で
米国が原爆を投下したどさくさにまぎれて
我が国の北方領土を火事場泥棒した、
がめついソ連ロシアである。ともあれ、すると、
"У ворот"のворотаも、一般的な意味の
「門」ではなく、ドナウ川に敷設された「水門」かもしれない。そして、
【子どもと父】という関係は、片足が不自由ながらも、
同じくキリスト教国ギリシャ支援のために反イスラーム義勇軍を編成して
イヌとサルとキジをお伴に連れて
【(オスマーン帝国からの)ギリシャ独立戦争】
に赴いたバイロン桃太郎侍卿の長編詩、
【Childe Harold's Pilgrimage(チャイルド・ハロルドの巡礼)】
の中の、
"He heard it, but he heeded not...his eyes
Were with his heart, and that was far away;
He reck'd not of the life he lost nor prize,
But where his rude hut by the Danube lay,
There where his young barbarians all at play,
There was their Dacian mother...he, their sire,
Butcher'd to make a Roman holiday...
All this rush'd with his blood...Shall he expire
And unavenged? Arise! ye Goths, and glut your ire!"
(カタカナ読みは省略)
「(拙大意)
彼の耳にはそれが聞こえた。が、心には響いてなかった。彼の目は
心とともにあり、遠く離れたところにあった。
彼はかまわなかった。自分の命がなくなろうと勝負に勝とうと。
が、ドナウ川近くの彼の粗末なほったて小屋が建つところに、
遊び回る彼の素朴な子供たちと、
そのルーマニア人の母親がいることしか頭になかった。その父である彼が、
されて、ローマ人流の休日の娯楽のためにならねばならないのだ。
そうしたことすべてが一瞬にしてこみあげてきた、血が噴き出すとともに。
彼は死ななければならないのか? 復讐の機会も与えられないままに。
立ち上がれ! 汝らガリア人。汝らの怒りをぶつけろ!」
というくだりと大いに関係があるように思える。ちなみに、
ロシアがオスマーン帝国から割譲したドナウ川河口の対岸は
【ルーマニア】である。帝国の領土各地から
強制連行された奴隷や、あるいは生活のために志願した剣闘士がいたが、
現在のルーマニアあたりからも連れてこられたのである。
ローマではコロッセオ(ロシア語でいうАрена=アリェーナ)で猛獣相手に、あるいは、
同じく剣闘士どうしで殺し合うことを余儀なくされた
グラディエイター(グラディアトール)らの無惨な死が
ローマ市民の見せ物であり娯楽であった。
命乞いをする敗者を助命するか殺すかは、
観客が布切れを振る(助命)か、親指を下に(殺処分)するかで
判定された。これは、現在も闘牛のマタドールに対して振られる観客の
白いハンカチの多寡が評価の基準、という形で残ってる。ともあれ、
おなじ人間なのに、強制連行された奴隷剣闘士の命は、
虫けらのように扱われ、見せ物とされてた。そして、
それは現在でもローマ観光などという
脳天気な遊山の種のひとつとなってる、
ということへの狂信的な憤りをドールトン・トランボウは皮肉を込めて
"Roman holiday"というタイトルにした。それが、
映画「ローマの休日」である。いずれにせよ、
猛獣相手に負傷・死亡し、あるいは、相手剣闘士との勝負に
負けて殺されるか、降参して命乞いの結果観客にサムを下に向けられて
ブーイングされた結果殺処分となった奴隷剣闘士の遺骸は、
"La Porta Libitinensis(ラ・ポルタ・リビティーネンスィス)"
(libitina(リビティーナ=死、弔いを司る女神)の門"=敗者の門、死者の門)
という東門から外に運び出されたのである。

チャイコフスキーはこの故事を
念頭に、「1812年」の主題のひとつに採ったのかもしれない。
「1812年」を作曲した1880年の10月に、チャイコフスキーの召使い
アレクセイ・ソフローノフが徴兵のくじ引きにモスクワに出向いた。チャイコフスキーは
八方手を尽くして召使いの懲役を免れさせようとしたらしい。が、
徒労に終わり、結果、
ソフローノフは12月から3年4か月の兵役に就くことになった。繊細な
チャイコフスキーは、召し使いが兵役にとられることを気の毒に思い、
自身も淋しくて酒に溺れる日々となってしまったのである。

[(アッレーグロ・ジュスト、4分音符ー138の)リステッソ・テンポ(同じ速度で)、
4/4拍子、6♭(変ホ短調)]
コントラバスの前2拍の2分音符と2番クラリネット1管の2拍めからの
付点2分音符の主音低奏と、ヴィオーラとチェロのオクターヴ・ユニゾンの
♪●●ラー・ーー<シー・・<ドーーー・<レーーー♪
という同型反復のオッブリガートと、
タンバリンの[ター●●・ターター・ター●●・ター●●]という
同型反復打突律動に乗って、
1番フルート1管とコルノ・イングレーゼのオクターヴ・ユニゾンが、
♪ミーッ、ミ<ファ・>ミー、>レー・・>ドー、ドーッ、・<レー>ラー、│
<ドーッ、ドーッ、・>ラーーー、・・<ドー>シ<ド・<レーッ、>ラーッ、│
<ミーーー・>ラー、ラーッ、・・ラー<ドー、>シーッ、>ラーッ、│
<ミーッ、ミーッ、・ミーッ、ミーッ、・・ミー、<ソ>ミ・>レーッ、>シー│
<ドー、ドーッ・>ラーーー、・・<ドー>シ<ド・<レーッ、>ラーッ、│
<ミーーー・>ラー、ラーッ、・・ラー<ドー、>シーッ、>ラーッ、│
<ミーーー・>ラー、ラーッ、・・ラ<シ、<ドッドッ、・>シ>ラ、ソッ、>ファッ、│
>ミー♪
という、民謡「ウ・ヴァロート」を吹奏する。この主題の断片が、
オーボエ1管から低音域ファゴット1管、そして、
ヴィオーラ、チェロによって受け継がれて繰り返され、
主音esの全音符→desの全音符となり、
ソナータの提示部を終え、展開部に移行する。
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