BSフジの深夜番組「ワッチ・ミーTV」を久々にオン・タイムでみてた。
今夜の「12人の怒れる才色兼備」の話題は「外国人地方参政権問題」。
世の中にはこういうとこにもバカはいるものである。2人。
バカにつける薬なし。バカは死ななきゃ治らない。というより、
日本人の仮面をかぶった邪心ある外国人かもしれない。でも、
さすがは東大工学部。加納舞女史のようなまともな若者がいることは、
日本の将来もそう悲観したものではないかもしれない。
鎌倉の海岸の一部である「由比ガ浜」は、現在でもときどき、
人骨が自然に出土する。鎌倉時代、
御家人らの諍いや謀略の結果、
武力闘争が何度も行われた場所なのである。
文治2年(概ね、西暦1186年)、
源義経とその妾静御前の間に生まれた男児が
殺されて沈められたのが、由比ガ浜だった。
鎌倉は悲しい歴史に塗られた町である。
源平合戦が平家滅亡という源氏の圧勝に終わったとき、今度は
その戦での最大功労者ともいうべき義経と、
源氏の棟梁である異母兄頼朝が対立する。といっても、
義経にはハナから勝ち目はない。
頼みにしてた後白河法皇から自分への追討の院宣が下ってしまい、
都落ちを余儀なくされた義経は、九州の緒方氏を頼りに西国に向かう。
摂津の大物浦(現在の尼崎)から船出した。義経は、
ついこの前、自分が平家を追いやったのと同じような運命に立たされる。
クロウして船出したものの嵐に遭い、命からがら出港した岸に戻る。しかたなく、
義経一行は吉野に隠れる。が、そこにも追っ手が迫り、
静御前は捕らえられてしまう。そして、母の磯禅師とともに
鎌倉に護送され、上記のごとく、出産した義経の子が女児ではなく
男児だったために、その子は殺害されることになったのである。
静御前と磯禅師は赦されて京に戻ったとも、
磯禅師の故郷に戻ったとも言われる。
磯禅師は讃岐(現在の香川県)出身と言われてる。
その讃岐が戦場となった屋島の合戦は、
都落ちした平家に壊滅的な打撃を与えた合戦である。
その屋島の戦いで、後白河院と結んだ頼朝の先兵義経が採った
阿波からの裏ルートは、磯禅師の地元なのである。
その手引きで首尾良く軍勢を進めることができた。そのとき、
義経が平家軍を見張ったのが源氏ケ峰という場所である。
静御前は義経を慕って、
[吉野山、峰(ミネ)の白雪、踏み分けて、入りにし人の、跡ぞ恋しき]
と詠んだとされる。ちなみに、この歌は
[み吉野の、山の白雪、踏み分けて、入りにし人の、訪れもせぬ]
という壬生忠岑(ミネ)の歌を本歌取りしたものである。
「恋しい跡」とは、義経だけでなく、
白雪踏み分け→白拍子静御前の腹の中に宿され、出産後には
由比ガ浜に沈められる運命の胎児のことでもあったのだろう。
さて、
私はキャサリン・ゼータ・ジョウンズ女史と知花くらら女史の顔を
ときどき取り違えてしまうような拙脳なくらいなので、
大自然を目の当たりにして感嘆する風流さを持ち合わせず、
ヒトが作った庭園とか建物とか行事のほうに興味がある、
無粋な野郎である。能も幽玄なものももちろんいいが、
スペクタクルの素がある五番目物が好きなミーハーである。その
五番目物の代表である「船弁慶」は、世阿弥の甥音阿弥の子、
観世小次郎信光が作者だろうと推定されてる。つまり、
室町時代中期、義政あたりの時代に創作された。したがって、
すでに「判官贔屓」は世に浸透してたのである。
あらすじとしては、先述した義経一行の都落ちである。この能は、
前段のシテ(前シテ)が静御前、後段のシテ(後シテ)が平知盛の幽霊、
という二段仕立てになってる。後段では、
摂津の大物浦(現在の尼崎)から船出すると、
壇ノ浦に身を投げて入水自殺して果てた平知盛の幽霊が出てきて、
自分が沈んだのと同じように義経も沈めてやる、
と義経一行の舟にまとわりつくが、なぜか義経が子方の幼い姿で、
果敢に知盛の亡霊の薙刀攻撃に太刀で応戦するのである。が、
弁慶がそこに「割って入り」、
「太刀打ちできる相手ではありません」
と、天台密教の秘技を駆使して亡霊を呪い殺そうと数珠を揉んで、
必死に義経を救おうとするのである。知盛の幽霊は
しつこかったが、弁慶の祈祷でついに白波となって消え去る。実は、
この「割って入る」というのがミソであり、それが
(亡霊ではあっても)知盛の泣き所なのである。そして、
二十代後半の義経ではなく、子供の義経であることもまた、
大きな意味をなすのである。
(次機会、「よう命は惜しいものにて候ひけりと
今こそ思ひ知られて候へ/能『船弁慶』その2」につづく)
今夜の「12人の怒れる才色兼備」の話題は「外国人地方参政権問題」。
世の中にはこういうとこにもバカはいるものである。2人。
バカにつける薬なし。バカは死ななきゃ治らない。というより、
日本人の仮面をかぶった邪心ある外国人かもしれない。でも、
さすがは東大工学部。加納舞女史のようなまともな若者がいることは、
日本の将来もそう悲観したものではないかもしれない。
鎌倉の海岸の一部である「由比ガ浜」は、現在でもときどき、
人骨が自然に出土する。鎌倉時代、
御家人らの諍いや謀略の結果、
武力闘争が何度も行われた場所なのである。
文治2年(概ね、西暦1186年)、
源義経とその妾静御前の間に生まれた男児が
殺されて沈められたのが、由比ガ浜だった。
鎌倉は悲しい歴史に塗られた町である。
源平合戦が平家滅亡という源氏の圧勝に終わったとき、今度は
その戦での最大功労者ともいうべき義経と、
源氏の棟梁である異母兄頼朝が対立する。といっても、
義経にはハナから勝ち目はない。
頼みにしてた後白河法皇から自分への追討の院宣が下ってしまい、
都落ちを余儀なくされた義経は、九州の緒方氏を頼りに西国に向かう。
摂津の大物浦(現在の尼崎)から船出した。義経は、
ついこの前、自分が平家を追いやったのと同じような運命に立たされる。
クロウして船出したものの嵐に遭い、命からがら出港した岸に戻る。しかたなく、
義経一行は吉野に隠れる。が、そこにも追っ手が迫り、
静御前は捕らえられてしまう。そして、母の磯禅師とともに
鎌倉に護送され、上記のごとく、出産した義経の子が女児ではなく
男児だったために、その子は殺害されることになったのである。
静御前と磯禅師は赦されて京に戻ったとも、
磯禅師の故郷に戻ったとも言われる。
磯禅師は讃岐(現在の香川県)出身と言われてる。
その讃岐が戦場となった屋島の合戦は、
都落ちした平家に壊滅的な打撃を与えた合戦である。
その屋島の戦いで、後白河院と結んだ頼朝の先兵義経が採った
阿波からの裏ルートは、磯禅師の地元なのである。
その手引きで首尾良く軍勢を進めることができた。そのとき、
義経が平家軍を見張ったのが源氏ケ峰という場所である。
静御前は義経を慕って、
[吉野山、峰(ミネ)の白雪、踏み分けて、入りにし人の、跡ぞ恋しき]
と詠んだとされる。ちなみに、この歌は
[み吉野の、山の白雪、踏み分けて、入りにし人の、訪れもせぬ]
という壬生忠岑(ミネ)の歌を本歌取りしたものである。
「恋しい跡」とは、義経だけでなく、
白雪踏み分け→白拍子静御前の腹の中に宿され、出産後には
由比ガ浜に沈められる運命の胎児のことでもあったのだろう。
さて、
私はキャサリン・ゼータ・ジョウンズ女史と知花くらら女史の顔を
ときどき取り違えてしまうような拙脳なくらいなので、
大自然を目の当たりにして感嘆する風流さを持ち合わせず、
ヒトが作った庭園とか建物とか行事のほうに興味がある、
無粋な野郎である。能も幽玄なものももちろんいいが、
スペクタクルの素がある五番目物が好きなミーハーである。その
五番目物の代表である「船弁慶」は、世阿弥の甥音阿弥の子、
観世小次郎信光が作者だろうと推定されてる。つまり、
室町時代中期、義政あたりの時代に創作された。したがって、
すでに「判官贔屓」は世に浸透してたのである。
あらすじとしては、先述した義経一行の都落ちである。この能は、
前段のシテ(前シテ)が静御前、後段のシテ(後シテ)が平知盛の幽霊、
という二段仕立てになってる。後段では、
摂津の大物浦(現在の尼崎)から船出すると、
壇ノ浦に身を投げて入水自殺して果てた平知盛の幽霊が出てきて、
自分が沈んだのと同じように義経も沈めてやる、
と義経一行の舟にまとわりつくが、なぜか義経が子方の幼い姿で、
果敢に知盛の亡霊の薙刀攻撃に太刀で応戦するのである。が、
弁慶がそこに「割って入り」、
「太刀打ちできる相手ではありません」
と、天台密教の秘技を駆使して亡霊を呪い殺そうと数珠を揉んで、
必死に義経を救おうとするのである。知盛の幽霊は
しつこかったが、弁慶の祈祷でついに白波となって消え去る。実は、
この「割って入る」というのがミソであり、それが
(亡霊ではあっても)知盛の泣き所なのである。そして、
二十代後半の義経ではなく、子供の義経であることもまた、
大きな意味をなすのである。
(次機会、「よう命は惜しいものにて候ひけりと
今こそ思ひ知られて候へ/能『船弁慶』その2」につづく)
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