チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「『富士山図屏風』と甲状腺ホルモン/谷文晁生誕250年」

2013年10月15日 14時20分29秒 | 歴史ーランド・邪図
表参道の交差点を明治神宮方面に向かって
200mくらい行くと歩道橋があって、その右詰に
現在は「原二本通り」という名がついてる小道がある。
(とんかつの「まい泉」へ行く道)、その分岐点に
伊藤病院がある。甲状腺関係の専門病院である。
朝早くにその前を通りかかると、病院前に
診察待ちの女性が並んでたりするのが見える。
それはともあれ、
表参道をそのまま下ってくと、明治通りと交差する。
明治神宮前交差点である。この交差点は、
表参道の交差点からここまでは下り坂、
神宮橋の交差点までは上り坂、
という形をしてる。だから、
この交差点内では事故が多い。明治神宮前交差点はいわば、
谷底なのである。

本日2013年10月15日は、
江戸時代後期の絵師
谷文晁(たに・ぶんちょう、西暦およそ1763-同1841)
の生誕250年にあたる日である。
田安家の家臣で漢詩人の倅として下谷根岸に生まれた。
松平定信に見込まれて絵師となった。
定信に随行して各地の絵を描きとめた。後年、
下谷ニ長町(現在の台東区台東1丁目。凸版印刷本社周辺)に、
二階建ての家を構え、そこで画塾を開いた。
ニチョウチョウだからといって、別段、
ショパンが嫌いだったわけではない(※)。弟子に
渡辺崋山がいる。その宅からは富士山の眺望がよく、
「写山楼」と号した。この「山」は富士のことである。
他の絵師と同じく、文晁は富士を愛でた。この宅には、
仲良しの大田南畝や酒井抱一などもよく訪れた。

この7月乃至8月に、
六本木のミッドタウン内にあるサントリー美術館で
「谷文晁生誕250年」展覧会が開かれてた。そこには、
「富士山図屏風」も展示されてた。6年前に、
テレ東の「美の巨人たち」で紹介されてて興味を惹かれたのだが、
ちょうど父が死んでいろいろな手続きで忙しかったので、
番組も留守録&早回しでしか見なかったので、
実物をみてみたいと思ってた。が、次郎長マニアでもないため、
静岡県立美術館までわざわざ行くこと適わず、
見れずじまいだった。それが、
六本木という地元で見れたのでラッキーだった。
わりと近年に"発見"された同屏風は、贋作が多い文晁ゆえ、
その真贋のほどは、みのもんたに尻を揉まれた
TBSアナの吉田明世女史と岸田森の顔の判別がままならない
拙脳なる私には判らないが、
天保6年(西暦およそ1835年)の作とされてるので、
真作だとしてたら文晁73歳のときのものである。
たとえ誰が描いたものだとしても、この屏風絵には趣がある。

さまざまな画風で描けたゆえに、
写楽の正体(のひとり)ではないかとする者もいる文晁である。
文晃の号は「写山楼」、定信のは「楽翁」であり、
このふたつを併せて「写楽」とした、というのが
その根拠のひとつである。ともあれ、「富士山図屏風」は、
用途に器用に応じれたカメレオン画家が、定信の死後、
真に自分の創作意欲から描いたものとされてる。
得意の雲烟を立ち込めさせてるが、それよりも、
墨の濃淡のみの富士のセンスのよさが目を引く。ただし、
片方の稜線だけに群青を重ねて、アクセントを与えてる。
絶妙である。

谷文晁は写山楼での画作推進の触媒として、
手乗り文鳥はペットにしてなかったようだが、
大きな水鉢にたくさんのオタマジャクシを飼ってた。それが成長して
カエルになって鉢から飛び出してくるのを楽しみとしてたという。
ちなみに、
「甲状腺」を除去してしまうと、つまり、
「甲状腺ホルモン」をなくしてしまうと、
オタマジャクシはカエルに変態できなくなる。
自画像その他、谷文晁の肖像からは、
甲状腺が腫れてるように見えないでもないが、
その出っ歯は甲状腺機能とは無関係なのは確かである。
文晁の墓がある上野源空寺には、他に、
幡随院長兵衛、高橋至時&景保父子、そして、伊能忠敬の墓もある。
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