Jennifer Heil女史はモーグル仲間らと
"Ski, Heil!"
という挨拶を交わすのかどうか、
ベッキー女史と柴咲コウ女史の歌声の違いが
聴き分けれない拙脳なる私には分からない。いずれにしても、
コウチとアツアツなんだそうである。それなら、
連覇できなくても「無事に」滑っただけで「幸せ」である。
今日は「furniture dealer(家具屋)の日」、ではない。81年前の
2月14日に、シカゴでギャングの抗争事件があったとき、
その首謀者はマイアミにいた。これを九州の人は、
現場不在証明アルバイ、と言うかもしれない。
生まれてこのかた義理でないチョコをもらたことがない私に、
年老いたママンが気の毒と思ったのか、けっこうたいそうな
スイスのショコラを買っといてくれた。
「きょう、アマンが勝ったよ(Aujourd'hui, Amman a remporte.)。
よいしょこら」
と痛い腰をさすりさすり棚から取って渡してくれた。
母はSimon Ammann贔屓である。長野のときの
美少年ジャンパーだったアマンを覚えてて、
ソルトレイクでのダブル金メダルをぴしゃりと予想してた。今は、
アインシュタインが出たETH Zurichの学生だそうである。
前回のトリーノでの不振でかなりがっかりしてたが、
昨日、またノーマル・ヒルで勝ったので喜んでた。
ところで、
一昨日夜のTBSのNews番組では、男性共演者が二人、それぞれ別に、
「チョコレイト」の話題を女性MCにふった。が、
「今年は日曜だから義理チョコの心配が要りませんね」
みたいなことを言ってた、ような気がする。なにせ、
石田り子女史が出てたからみた「Aスタジオ」という
番組のチャンネルのままにしてただけで、
そのNews番組を特段みたいと思ってたわけではないので、
きちんと聴いてたわけではない。が、そのキャスターは、
高額なギャラをいただいてるくせに、なんと
吝嗇なおかたであろう。日本における
「セント・ヴァレンタインズ・デイ」は、高給取り女性が
日頃お世話になってるスタッフに気配りを示す
絶好の機会であるのに。そのくせ、石川遼を
その番組で「遼くん」とニヤケながら呼んだこともあるという。また、
NHK時代には、視聴者の受信料で給料をもらってるくせに、
業務を怠ったゼンカもある。
「漫湖が世界遺産に登録されました」という原稿の
「漫湖」を読まなかった、という、
アナウンサーにあるまじき人物である。ちなみに、その部分を
「湿地帯」に勝手に替えて読んだというからお笑いである。
そのほうがよほど猥褻である。
東京大学医学部健康科学看護学科卒、
というのに、こういう手合いが目立つ。
文3というのが自身としては恥だったのか、
東大医学部卒、という肩書が欲しかったのか、
理3に二度も落ちた拙脳な私には分かるべくもない。
それでいてアナウンサーなどと修学とは無縁の職に就き、
国民の税金で相当に助成されてる国立大を出させていただいた、
という感謝の気持ちや社会還元の態度がまったくない。もっとも、
故筑紫哲也の肺癌に対する処し方の適切なアドヴァイスを、
自分の離婚の相談のお返しとしてしてやった、
なんてことはあったかもしれないが。
ときに、
吉良上野介の同族に、武蔵吉良家がある。元をたどれば、
足利義継、さらにたどれば尊氏である。吉良荘の東を領したので
東條吉良氏、のちに領した現在の横浜の蒔田から、
三河の吉良家(西條吉良家)を憚って蒔田と称したので、
蒔田吉良家とも呼ばれる。この家は、室町時代には
世田谷に土着してた。が、秀吉の小田原攻めで
ほとんど没落してしまった。蒔田家は、
名家を残す徳川の政策で高家となったが、蒔田の家臣の一人は
そのまま世田谷で帰農した。そして、一帯を開墾した。
いまでは地方から上京した若者が住み着くことが多い
下北沢あたりである。明治になって地租改正がなされ、
一族は大地主となった。
そんな、
地主などという裕福な家とは無縁であるが、
宝暦10年9月(西暦1760年相当)に
本所割下水(わりげすい。現在の墨田区亀沢、
両国駅の北東側)で生まれ、
吉良の家臣だった小林平八郎の曾孫であると自称してたのが、
「川村時太郎」、のちの「葛飾北斎」である。
「時太郎」から「鉄蔵」と改め、幕府御用鏡師である
叔父中島伊勢の養子となった。この
中島伊勢の屋敷は旧吉良邸の一画にあった。が、
12歳の頃には貸本屋の小僧となり、
15歳くらいで木版印刷の版木彫りとなった。が、
19歳のときには浮世絵師春川春章に弟子入りして、
絵師を目指すようになる。名は、
「勝川春朗」。絵師として立ちゆくようになる、寛政4年、
33歳のときに師匠の春川春章が死ぬ。そして、
勝川春朗の名を他に譲り、勝川派から離脱する。
破門された、という説もある。いずれにせよ、
ちょうどその頃、寛政6年半ばから、
「東洲斎写楽」
が、役者絵を蔦重から立て続けに出す。そして、
「写楽」が翌年の春に消えると、
春朗は画風も変え、「俵屋宗理」というアヴァターで現れる。
わずか3年で名をまた譲り、
「北斎辰政」という名を名乗る。これは、北斎の
北斗七星への妙見信仰に由来する名らしい。ところで、
「北斎」と「東洲斎」との間には、
「方角」と「斎」が共通してる。
「斎」とはツンを連れてるわけではないが
「斎号」である。たとえば、
「書斎」というように、籠って勉強したり研究したりと、
道を究めるための部屋のことである。
天の「北」に対して、東方の島=日本。そして、
「写楽」は「対象物を写しおどける」意味と
「洒落(しゃらく→しゃれ)」野郎とをかけた
言葉遊びである。そして、
「しゃ・らク・サイ・・秋・冬」=「ほク・サイ」
というのは、辰巳琢郎と岸部シローの歌の違いが
ほとんど判別できない拙脳なる私の
「見当」違いであろう。
ちなみに、
木版画では「見当」が大事である。そして、
擦り加減にはバレン(馬楝)の当てかたが
重要である。ところで、
渦巻状の竹の撚り紐の芯を竹皮で包んだものをなぜ
馬楝(バレン)というのか、じつは
不明なんだという。旧暦2月14日に
江戸の色男の擦り師に町娘が愛を込めて贈ったもの、
というわけではけっしてなさそうである。で、
不学ゆえに九九の「6*6もときどき37」としてしまうような
拙脳なる私が推測してみるに……。
江戸時代の馬には蹄鉄はなく、
草履、つまり、藁・革・和紙のクツを履かせてた。それを
「馬沓(ウマグツ)」と総称した。その形状は
ちょうど木版で擦りに使う道具に似てた。
広重の「四ッ谷内藤新宿」を見ればよくわかる。いっぽう、
「馬沓」は音読みすれば「バトウ」である。バトウならば、
日本の漢音では「沓」と同じく「棟」もトウである。
「馬棟」と洒落て書ける。それ自体に意味はないが、
「棟(トウ)」と「楝(レン)」が間違いやすい漢字どうし、
ということに意味がある。
「楝(レン)」は訓では「あふち」→「おうち」である。
栴檀の古名である(双葉より芳しいのは、正しくは白檀)。
「大宰帥」大伴旅人が妻の大伴郎女に先立たれたとき、
旅人の"部下"にあたる「筑前守」だった山上憶良が
旅人の立場で詠った挽歌に、
「妹が見し、楝(あふち)の花は、散りぬべし。
我が泣く涙、いまだ干なくに」
(拙大意)私の奥方が好んで観賞してた、栴檀の花は、
もう散ってしまったにちがいない。
私が泣いて流す涙は、まだ止まらないというのに。
というものがある。また、
清少納言も「枕草子」の有名な
"木の花は濃きも薄きも紅梅"で始まる第37段の終いで、
「木のさまにくげなれど楝の花いとをかし。
枯れがれに様異に咲きてかならず五月五日にあふもをかし」
(拙大意)木の格好は醜げだけど、楝の花はとてもいい感じ。
しおれたような一風変わった咲きかたをするけど、
必ず5月5日に一斉に咲きあうとこも、いいんじゃないかしら。
5弁の花に、咲き頃の5月と5日を語呂合わせしてる
ダジャレオバサンであるが、それはともあれ、
栴檀(楝)の花は鼻緒のような形状で、また、
枝葉の分岐のしかたも鼻緒に似てるのである。
画狂老人はその最期も、オザワ・カンジチョウのようには所有する土地も
オウチもなく、浅草聖天町(現在の言問橋西詰の北側一帯)の
長屋で数え90歳で死んだ。辞世の句は、
「飛登魂で、ゆく気散しや、夏野原(ヒトダマデ、ユクキサンジャ、ナツノハラ)」
(拙大意) 飛んで登る人魂となって行くさ。
こんなことで死んでられん。薬じゃ。
夏の夜空の北斗七星まで。
漢方薬の「気散じゃ」と、住まいからすぐ近くの
「三社」をかけてるのである。昔の三社祭は5月でなく、
3月に行われてた。推古天皇36年(628年93月18日に、
現在の隅田川で浅草寺の本尊である
観世音菩薩が網にかかったとされてるからである。
画狂老人の死と"同じ年"(1849年)の秋、
今年が生誕200年のショパンも39歳の生涯を閉じた。
"Ski, Heil!"
という挨拶を交わすのかどうか、
ベッキー女史と柴咲コウ女史の歌声の違いが
聴き分けれない拙脳なる私には分からない。いずれにしても、
コウチとアツアツなんだそうである。それなら、
連覇できなくても「無事に」滑っただけで「幸せ」である。
今日は「furniture dealer(家具屋)の日」、ではない。81年前の
2月14日に、シカゴでギャングの抗争事件があったとき、
その首謀者はマイアミにいた。これを九州の人は、
現場不在証明アルバイ、と言うかもしれない。
生まれてこのかた義理でないチョコをもらたことがない私に、
年老いたママンが気の毒と思ったのか、けっこうたいそうな
スイスのショコラを買っといてくれた。
「きょう、アマンが勝ったよ(Aujourd'hui, Amman a remporte.)。
よいしょこら」
と痛い腰をさすりさすり棚から取って渡してくれた。
母はSimon Ammann贔屓である。長野のときの
美少年ジャンパーだったアマンを覚えてて、
ソルトレイクでのダブル金メダルをぴしゃりと予想してた。今は、
アインシュタインが出たETH Zurichの学生だそうである。
前回のトリーノでの不振でかなりがっかりしてたが、
昨日、またノーマル・ヒルで勝ったので喜んでた。
ところで、
一昨日夜のTBSのNews番組では、男性共演者が二人、それぞれ別に、
「チョコレイト」の話題を女性MCにふった。が、
「今年は日曜だから義理チョコの心配が要りませんね」
みたいなことを言ってた、ような気がする。なにせ、
石田り子女史が出てたからみた「Aスタジオ」という
番組のチャンネルのままにしてただけで、
そのNews番組を特段みたいと思ってたわけではないので、
きちんと聴いてたわけではない。が、そのキャスターは、
高額なギャラをいただいてるくせに、なんと
吝嗇なおかたであろう。日本における
「セント・ヴァレンタインズ・デイ」は、高給取り女性が
日頃お世話になってるスタッフに気配りを示す
絶好の機会であるのに。そのくせ、石川遼を
その番組で「遼くん」とニヤケながら呼んだこともあるという。また、
NHK時代には、視聴者の受信料で給料をもらってるくせに、
業務を怠ったゼンカもある。
「漫湖が世界遺産に登録されました」という原稿の
「漫湖」を読まなかった、という、
アナウンサーにあるまじき人物である。ちなみに、その部分を
「湿地帯」に勝手に替えて読んだというからお笑いである。
そのほうがよほど猥褻である。
東京大学医学部健康科学看護学科卒、
というのに、こういう手合いが目立つ。
文3というのが自身としては恥だったのか、
東大医学部卒、という肩書が欲しかったのか、
理3に二度も落ちた拙脳な私には分かるべくもない。
それでいてアナウンサーなどと修学とは無縁の職に就き、
国民の税金で相当に助成されてる国立大を出させていただいた、
という感謝の気持ちや社会還元の態度がまったくない。もっとも、
故筑紫哲也の肺癌に対する処し方の適切なアドヴァイスを、
自分の離婚の相談のお返しとしてしてやった、
なんてことはあったかもしれないが。
ときに、
吉良上野介の同族に、武蔵吉良家がある。元をたどれば、
足利義継、さらにたどれば尊氏である。吉良荘の東を領したので
東條吉良氏、のちに領した現在の横浜の蒔田から、
三河の吉良家(西條吉良家)を憚って蒔田と称したので、
蒔田吉良家とも呼ばれる。この家は、室町時代には
世田谷に土着してた。が、秀吉の小田原攻めで
ほとんど没落してしまった。蒔田家は、
名家を残す徳川の政策で高家となったが、蒔田の家臣の一人は
そのまま世田谷で帰農した。そして、一帯を開墾した。
いまでは地方から上京した若者が住み着くことが多い
下北沢あたりである。明治になって地租改正がなされ、
一族は大地主となった。
そんな、
地主などという裕福な家とは無縁であるが、
宝暦10年9月(西暦1760年相当)に
本所割下水(わりげすい。現在の墨田区亀沢、
両国駅の北東側)で生まれ、
吉良の家臣だった小林平八郎の曾孫であると自称してたのが、
「川村時太郎」、のちの「葛飾北斎」である。
「時太郎」から「鉄蔵」と改め、幕府御用鏡師である
叔父中島伊勢の養子となった。この
中島伊勢の屋敷は旧吉良邸の一画にあった。が、
12歳の頃には貸本屋の小僧となり、
15歳くらいで木版印刷の版木彫りとなった。が、
19歳のときには浮世絵師春川春章に弟子入りして、
絵師を目指すようになる。名は、
「勝川春朗」。絵師として立ちゆくようになる、寛政4年、
33歳のときに師匠の春川春章が死ぬ。そして、
勝川春朗の名を他に譲り、勝川派から離脱する。
破門された、という説もある。いずれにせよ、
ちょうどその頃、寛政6年半ばから、
「東洲斎写楽」
が、役者絵を蔦重から立て続けに出す。そして、
「写楽」が翌年の春に消えると、
春朗は画風も変え、「俵屋宗理」というアヴァターで現れる。
わずか3年で名をまた譲り、
「北斎辰政」という名を名乗る。これは、北斎の
北斗七星への妙見信仰に由来する名らしい。ところで、
「北斎」と「東洲斎」との間には、
「方角」と「斎」が共通してる。
「斎」とはツンを連れてるわけではないが
「斎号」である。たとえば、
「書斎」というように、籠って勉強したり研究したりと、
道を究めるための部屋のことである。
天の「北」に対して、東方の島=日本。そして、
「写楽」は「対象物を写しおどける」意味と
「洒落(しゃらく→しゃれ)」野郎とをかけた
言葉遊びである。そして、
「しゃ・らク・サイ・・秋・冬」=「ほク・サイ」
というのは、辰巳琢郎と岸部シローの歌の違いが
ほとんど判別できない拙脳なる私の
「見当」違いであろう。
ちなみに、
木版画では「見当」が大事である。そして、
擦り加減にはバレン(馬楝)の当てかたが
重要である。ところで、
渦巻状の竹の撚り紐の芯を竹皮で包んだものをなぜ
馬楝(バレン)というのか、じつは
不明なんだという。旧暦2月14日に
江戸の色男の擦り師に町娘が愛を込めて贈ったもの、
というわけではけっしてなさそうである。で、
不学ゆえに九九の「6*6もときどき37」としてしまうような
拙脳なる私が推測してみるに……。
江戸時代の馬には蹄鉄はなく、
草履、つまり、藁・革・和紙のクツを履かせてた。それを
「馬沓(ウマグツ)」と総称した。その形状は
ちょうど木版で擦りに使う道具に似てた。
広重の「四ッ谷内藤新宿」を見ればよくわかる。いっぽう、
「馬沓」は音読みすれば「バトウ」である。バトウならば、
日本の漢音では「沓」と同じく「棟」もトウである。
「馬棟」と洒落て書ける。それ自体に意味はないが、
「棟(トウ)」と「楝(レン)」が間違いやすい漢字どうし、
ということに意味がある。
「楝(レン)」は訓では「あふち」→「おうち」である。
栴檀の古名である(双葉より芳しいのは、正しくは白檀)。
「大宰帥」大伴旅人が妻の大伴郎女に先立たれたとき、
旅人の"部下"にあたる「筑前守」だった山上憶良が
旅人の立場で詠った挽歌に、
「妹が見し、楝(あふち)の花は、散りぬべし。
我が泣く涙、いまだ干なくに」
(拙大意)私の奥方が好んで観賞してた、栴檀の花は、
もう散ってしまったにちがいない。
私が泣いて流す涙は、まだ止まらないというのに。
というものがある。また、
清少納言も「枕草子」の有名な
"木の花は濃きも薄きも紅梅"で始まる第37段の終いで、
「木のさまにくげなれど楝の花いとをかし。
枯れがれに様異に咲きてかならず五月五日にあふもをかし」
(拙大意)木の格好は醜げだけど、楝の花はとてもいい感じ。
しおれたような一風変わった咲きかたをするけど、
必ず5月5日に一斉に咲きあうとこも、いいんじゃないかしら。
5弁の花に、咲き頃の5月と5日を語呂合わせしてる
ダジャレオバサンであるが、それはともあれ、
栴檀(楝)の花は鼻緒のような形状で、また、
枝葉の分岐のしかたも鼻緒に似てるのである。
画狂老人はその最期も、オザワ・カンジチョウのようには所有する土地も
オウチもなく、浅草聖天町(現在の言問橋西詰の北側一帯)の
長屋で数え90歳で死んだ。辞世の句は、
「飛登魂で、ゆく気散しや、夏野原(ヒトダマデ、ユクキサンジャ、ナツノハラ)」
(拙大意) 飛んで登る人魂となって行くさ。
こんなことで死んでられん。薬じゃ。
夏の夜空の北斗七星まで。
漢方薬の「気散じゃ」と、住まいからすぐ近くの
「三社」をかけてるのである。昔の三社祭は5月でなく、
3月に行われてた。推古天皇36年(628年93月18日に、
現在の隅田川で浅草寺の本尊である
観世音菩薩が網にかかったとされてるからである。
画狂老人の死と"同じ年"(1849年)の秋、
今年が生誕200年のショパンも39歳の生涯を閉じた。
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