8月9日というのは、清朝第2代皇帝ホンタイジの命日らしい。
ホンタイジ時代に「後金」から「大清国」と名変したのであるが、
自身はまだ「満州どまり」であった。そして、
清朝第2代皇帝であり、ヌルハチが初代皇帝なのである。
うろ覚えなので数字は誤ってるかもしれないが、ホンタイジは
ヌルハチの第8子である。長子相続という決まりはなかったようだが、
普通なら後継者にはなれない。しかも、当初はヌルハチの後継者は、
第1子チュエンに確定してたのである。が、
「後継者の立場を継続し難いオ・オキナな事由」が生じた(叔父と通じてた?)ようで、
チュエンは廃嫡され、やがて死罪となったのである。ところが、次男の
ダイシャンはシンチョウというか、分をわきまえてるというか、
8男である異母弟を立てるのである。まさにダイシャンの男である。いっぽう、
ホンタイジはチュエンのようなモンダイジではなかったが野心家だった。ちなみに、
ホンタイジの妃はすべてモンゴル部族の出である。モンゴルの王女を娶ることで、
元王朝の玉爾を譲り受けたのである。それを知ってかしらずか、
ホンタイジが派遣した従兄弟アミン(岡村孝子とは無関係)の軍に大敗した李氏朝鮮は、
明から乗り換えて後金に下ったのである。それはともかく、
北京に入城してからの清朝皇帝はすべて満蒙人ということである。
ホンタイジが死ぬと、アイシンギョロ一族は山海関を越えて北京に入城するが、
ダイシャンは一族の有力者にして3代めの摂政である異母弟ドルゴンを抑え、
ホンタイジの系統が続くように努めたのである。
入城から5年後、ダイシャンは北京で死んだ、戦死でも刑死でもなく。
30歳も年下の異母弟ドルゴンの死はそれからわずか2年後である。
ダイシャンは一度手を結んだ弟ホンタイジをけっして裏切らなかったのである。
さて、「裏切り」、といえば、映画「第三の男」は、
アントーン・カラスのツィターがオシャレな映画だが、
友人オースン・ウェルズがいかな悪人だとわかっても、当初、
米人(ベイジン=北京=清の都)であるジョセフ・コットンは裏切れない。が、
アーンナを道具としか思ってないウェルズの本性を知ってついに警察に協力した、
というとこが、この映画のミソ=作家取ル手なのである。それはともかく、
ツィターといえば、「第三の男」と「ヴィーンの森の物語」である。
後者はヨーハン・シュトラオス2世の作であるが、
「ウィーンの森の自然を愛し、しばしばそこを散策したシュトラウスの
美しい自然への感謝が表れた作品」などという強烈に捏造された「解釈」、
がまかりとってるらしい。オーストリアの首都ラオス2世というくらいであるから、
都会好き、トカイワイン好きである。
アウトドアなことが大嫌いで外出はほとんどしなかったヒトである。
ときに、このワルツはop.325であるが、
そのひとつ前のop.324は「雷鳴と電光」である。このポルカ(シュネル)は、
当初、「流れ星」というタイトルで想定されてたそうである。
が、シュトラオスの創造意欲はもっと身近な天空に向いたようである。
作られたのが冬ガチガチの2月だということであるから、
季節はずれの「霊感」雷に打たれた、ということかもしれない。さて、
「ウンター・ドナー・ウント・ブリッツ」とは、
「ヒット・アンド・ラン」のように、順序が逆である。
まず、ヨーセフ・ランナーが走って、それから打つのであるように、
ピカッ!→ゴロゴロ・ド~~~~ン!
ブリッツ(電光)があって、それからドナー(雷鳴)が響き渡るのである。
音速が光速より速かったらおおごとである。ときに、おおごと、といえば、
この曲の冒頭の大太鼓をティンパニに換えてしまう「指揮者」がいる。
どういう「効果」を狙ってるのかは「はかりしれない」が、
少なくとも「その意図」は無駄、猿知恵に終わってるようである。
シュトラオスの抜群の楽器使いのセンスを台無しにするものにすぎない。
ティンパニを用いない、ことがこの曲の特徴のひとつである。
また、そのうちのひとりは、凶暴きわまりないドンチャンに終始する。
同人はチャイコフスキーの「ハシバミ割り人形」抜粋でも、
思慮足らずな恣意的改竄と無神経きわまりない粗野な演奏を聴かせてくれてる。
曲は、「主調」である「ト長」の属調「ニ長」のクロマティク下降で開始される。
3小節めと4小節めの同型反復によって「本調」に切り替わり、
ディヴァイドされたvnプリと木管が、
♪シ>ラ|>ファーーー・>シーーー|<ファーーー・>シーーー|
<ラー○ラ・ラー○ラ|ラーーー・ーーー♪
という節を軽快に奏でる。大自然は驚異だぞ。雷に警戒しろ、ということかもしれない。
pからクレッシェンドしてデミヌエンドしてpに戻る大太鼓のトレモロと、
同じ強弱づけのファゴとチェロのユニゾンの16分音符スケールが、
おそらくは「雷鳴」を表してるのであろう。これは、
「低音」であるからして、雷は近くない。遠雷である。なぜなら、
高音は周波数が短く、大気中のさまざまな「障害物」に吸収されてしまうし、
回折度が低いので、障害物をすり抜けて伝わりにくいからである。
いずれにしても、この曲から悲「惨ダー」というふうには感じれない。
オンモが嫌いなシュトラオスは、「実害がない」場所で、
むしろ雷を打ち上げ花火として楽しんでるようである。
途中からのシンバルが「ブリッツ(電光)」を表してるのかもしれないが、
これと「ドナー(雷鳴)」の間隔が短ければみじかいほど、雷から近いのである。
それにしても、この曲は心ときめく感動的な音楽である。
ときに、光も音も波であるからして、稲妻も雷鳴も、大気がなければ伝わらない。
2月のヴィーンの夕方、気温0度、1013ヘクトパスカルのもとでは、
22.4リットル中の空気の中には、6.02*10^23個の気体分子が存在する。
雷鳴はそんな中を秒速332mで伝播してくのである。が、そのいっぽうで、
気温零度のとこでは「森のバター」と呼ばれてる果物は、
2240立方(立法)ミリメートルの温室(音質)の中でも、
6.02*10^23個は育たない。これを我々エセ法曹関係者の間では、
「アヴォカドの法則」と呼んでるのである。なお、今季、大都会のLAから
アリゾナ・ダイアモンドバックスに移籍したショーン・グリーンが
「3番」の打順で打つことはほとんどない。グリーンのように青白い二枚目は、
太陽光の市街戦に弱い。すぐに日焼けしてしまう。サンバーンだからである。
ホンタイジ時代に「後金」から「大清国」と名変したのであるが、
自身はまだ「満州どまり」であった。そして、
清朝第2代皇帝であり、ヌルハチが初代皇帝なのである。
うろ覚えなので数字は誤ってるかもしれないが、ホンタイジは
ヌルハチの第8子である。長子相続という決まりはなかったようだが、
普通なら後継者にはなれない。しかも、当初はヌルハチの後継者は、
第1子チュエンに確定してたのである。が、
「後継者の立場を継続し難いオ・オキナな事由」が生じた(叔父と通じてた?)ようで、
チュエンは廃嫡され、やがて死罪となったのである。ところが、次男の
ダイシャンはシンチョウというか、分をわきまえてるというか、
8男である異母弟を立てるのである。まさにダイシャンの男である。いっぽう、
ホンタイジはチュエンのようなモンダイジではなかったが野心家だった。ちなみに、
ホンタイジの妃はすべてモンゴル部族の出である。モンゴルの王女を娶ることで、
元王朝の玉爾を譲り受けたのである。それを知ってかしらずか、
ホンタイジが派遣した従兄弟アミン(岡村孝子とは無関係)の軍に大敗した李氏朝鮮は、
明から乗り換えて後金に下ったのである。それはともかく、
北京に入城してからの清朝皇帝はすべて満蒙人ということである。
ホンタイジが死ぬと、アイシンギョロ一族は山海関を越えて北京に入城するが、
ダイシャンは一族の有力者にして3代めの摂政である異母弟ドルゴンを抑え、
ホンタイジの系統が続くように努めたのである。
入城から5年後、ダイシャンは北京で死んだ、戦死でも刑死でもなく。
30歳も年下の異母弟ドルゴンの死はそれからわずか2年後である。
ダイシャンは一度手を結んだ弟ホンタイジをけっして裏切らなかったのである。
さて、「裏切り」、といえば、映画「第三の男」は、
アントーン・カラスのツィターがオシャレな映画だが、
友人オースン・ウェルズがいかな悪人だとわかっても、当初、
米人(ベイジン=北京=清の都)であるジョセフ・コットンは裏切れない。が、
アーンナを道具としか思ってないウェルズの本性を知ってついに警察に協力した、
というとこが、この映画のミソ=作家取ル手なのである。それはともかく、
ツィターといえば、「第三の男」と「ヴィーンの森の物語」である。
後者はヨーハン・シュトラオス2世の作であるが、
「ウィーンの森の自然を愛し、しばしばそこを散策したシュトラウスの
美しい自然への感謝が表れた作品」などという強烈に捏造された「解釈」、
がまかりとってるらしい。オーストリアの首都ラオス2世というくらいであるから、
都会好き、トカイワイン好きである。
アウトドアなことが大嫌いで外出はほとんどしなかったヒトである。
ときに、このワルツはop.325であるが、
そのひとつ前のop.324は「雷鳴と電光」である。このポルカ(シュネル)は、
当初、「流れ星」というタイトルで想定されてたそうである。
が、シュトラオスの創造意欲はもっと身近な天空に向いたようである。
作られたのが冬ガチガチの2月だということであるから、
季節はずれの「霊感」雷に打たれた、ということかもしれない。さて、
「ウンター・ドナー・ウント・ブリッツ」とは、
「ヒット・アンド・ラン」のように、順序が逆である。
まず、ヨーセフ・ランナーが走って、それから打つのであるように、
ピカッ!→ゴロゴロ・ド~~~~ン!
ブリッツ(電光)があって、それからドナー(雷鳴)が響き渡るのである。
音速が光速より速かったらおおごとである。ときに、おおごと、といえば、
この曲の冒頭の大太鼓をティンパニに換えてしまう「指揮者」がいる。
どういう「効果」を狙ってるのかは「はかりしれない」が、
少なくとも「その意図」は無駄、猿知恵に終わってるようである。
シュトラオスの抜群の楽器使いのセンスを台無しにするものにすぎない。
ティンパニを用いない、ことがこの曲の特徴のひとつである。
また、そのうちのひとりは、凶暴きわまりないドンチャンに終始する。
同人はチャイコフスキーの「ハシバミ割り人形」抜粋でも、
思慮足らずな恣意的改竄と無神経きわまりない粗野な演奏を聴かせてくれてる。
曲は、「主調」である「ト長」の属調「ニ長」のクロマティク下降で開始される。
3小節めと4小節めの同型反復によって「本調」に切り替わり、
ディヴァイドされたvnプリと木管が、
♪シ>ラ|>ファーーー・>シーーー|<ファーーー・>シーーー|
<ラー○ラ・ラー○ラ|ラーーー・ーーー♪
という節を軽快に奏でる。大自然は驚異だぞ。雷に警戒しろ、ということかもしれない。
pからクレッシェンドしてデミヌエンドしてpに戻る大太鼓のトレモロと、
同じ強弱づけのファゴとチェロのユニゾンの16分音符スケールが、
おそらくは「雷鳴」を表してるのであろう。これは、
「低音」であるからして、雷は近くない。遠雷である。なぜなら、
高音は周波数が短く、大気中のさまざまな「障害物」に吸収されてしまうし、
回折度が低いので、障害物をすり抜けて伝わりにくいからである。
いずれにしても、この曲から悲「惨ダー」というふうには感じれない。
オンモが嫌いなシュトラオスは、「実害がない」場所で、
むしろ雷を打ち上げ花火として楽しんでるようである。
途中からのシンバルが「ブリッツ(電光)」を表してるのかもしれないが、
これと「ドナー(雷鳴)」の間隔が短ければみじかいほど、雷から近いのである。
それにしても、この曲は心ときめく感動的な音楽である。
ときに、光も音も波であるからして、稲妻も雷鳴も、大気がなければ伝わらない。
2月のヴィーンの夕方、気温0度、1013ヘクトパスカルのもとでは、
22.4リットル中の空気の中には、6.02*10^23個の気体分子が存在する。
雷鳴はそんな中を秒速332mで伝播してくのである。が、そのいっぽうで、
気温零度のとこでは「森のバター」と呼ばれてる果物は、
2240立方(立法)ミリメートルの温室(音質)の中でも、
6.02*10^23個は育たない。これを我々エセ法曹関係者の間では、
「アヴォカドの法則」と呼んでるのである。なお、今季、大都会のLAから
アリゾナ・ダイアモンドバックスに移籍したショーン・グリーンが
「3番」の打順で打つことはほとんどない。グリーンのように青白い二枚目は、
太陽光の市街戦に弱い。すぐに日焼けしてしまう。サンバーンだからである。
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