先々週、ようやく煎餅を焼き終わって、
自分へのご褒美としてAVを観てたら、まるで
焼き上がる頃合いでも見計らったかのように
入院中の知人からメイルが着た。
退屈しのぎの相手に選ばれたのだった。
慶應大学病院の駐車場は込む。
絵画館駐車場に停めて向かった。
院内の喫茶店で話をした。
隣のテイブルの中年女性の声が大きかった。
「ここらへんは何で信濃町って言うんやろ?」
「信州の人が大勢で移住してきたんやないの?」
知人が受けた術は侵襲性が少ないものである、
ちなみに。それにしても、「移住」はないだろう、
というものである。が、
私たちが自分らの会話を止めてたからか
(おばちゃんたちが騒がしいからだが)、
目が合ってしまった。すかさず、
彼女らは私らにふってきた。
「知ってはります?」
もちろん、親切な私は丁寧に答えた。
「知らないこともないですけど、話すと
ナガイ話になりますよ」
おばちゃんらは顔を見合わせながら、
「かまへんわよねぇ~?」
と口ぐちに。以下、
忘れかけてた話であるが、例によって、
きれいなおねえさんのブログにこのときのことを
思い出して書いてしまった。それから、今日の
NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で
「姫路城」を取り上げてたので、急に
自分のブログにも書きとめとくことにした。
以下、関西のおばちゃんらに
役に立たない蘊蓄を騙った一部始終である。
否、要約したものである。
姫路城を現在の規模にしたのは、
池田輝政である。秀吉の取り成しで、
家康の次女督姫を娶った。これが、
「豊臣恩顧」ながら家康に付いて、
細川同様に世渡り上手となるきっかけとなった。
その10年前、輝政は、
秀吉と家康の戦である長久手の合戦で
父と兄を家康方に討ち取られたのである。だから、
「秀吉が取り成した」のである。が、
「ものは考えよう」である。
父はともかく兄が討たれたおかげで、
輝政は池田家の家督を嗣げたわけである。
その後は徳川の手下として大活躍。
姫路52万石の太守となる。そして、
松平を名乗ることまでも許される。が、
栄光も束の間、大坂の陣を迎えることなく
48歳で病没。さて、
この池田輝政であるが、
その父恒興を討ち取ったのは、
家康の一家臣にすぎない永井直勝だった。
のちに輝政が父を討ち取った直勝と対面したとき、
たった5000石の将と聞き、そんな少禄の者に
討ち取られたことに憤ったと伝えられてる。が、
直勝はのちに1万石の大名昇進し、さらに
関ヶ原で武功をたてて、
下総古河7万2千石を領するまでなった。そして、
この直勝の子孫が徳川家から拝領してた江戸下屋敷が、
現在の慶応大学病院のあるあたりだった。
大名永井家の当主は官位が信濃守であることが多く、
最後の当主も「信濃守」だった。時代が明治に変わると、
その屋敷跡一帯を「信濃町」というようになったのである。
永井直勝の子孫には、
永井荷風と三島由紀夫がいる。
三島は永井の女系がちょっと入っただけであり、ほとんど
武士の家系ではない。
三島が学習院初等科のとき、三島一家は
信濃町に住んでだことがある。が、
4年ほどで、三島が学習院中等科に進んだ頃、
家風に合わなかったのか、
一家は現在の渋谷区松涛に引っ越す。ちなみに、
三島が切腹し斬首させて果てた旧自衛隊市ヶ谷駐屯地は、
信濃町からほんのちょっと北にいったとこにある。
おばちゃんたちは、
「永井荷風て、武・士なの?」
ゆうてた。
自分へのご褒美としてAVを観てたら、まるで
焼き上がる頃合いでも見計らったかのように
入院中の知人からメイルが着た。
退屈しのぎの相手に選ばれたのだった。
慶應大学病院の駐車場は込む。
絵画館駐車場に停めて向かった。
院内の喫茶店で話をした。
隣のテイブルの中年女性の声が大きかった。
「ここらへんは何で信濃町って言うんやろ?」
「信州の人が大勢で移住してきたんやないの?」
知人が受けた術は侵襲性が少ないものである、
ちなみに。それにしても、「移住」はないだろう、
というものである。が、
私たちが自分らの会話を止めてたからか
(おばちゃんたちが騒がしいからだが)、
目が合ってしまった。すかさず、
彼女らは私らにふってきた。
「知ってはります?」
もちろん、親切な私は丁寧に答えた。
「知らないこともないですけど、話すと
ナガイ話になりますよ」
おばちゃんらは顔を見合わせながら、
「かまへんわよねぇ~?」
と口ぐちに。以下、
忘れかけてた話であるが、例によって、
きれいなおねえさんのブログにこのときのことを
思い出して書いてしまった。それから、今日の
NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で
「姫路城」を取り上げてたので、急に
自分のブログにも書きとめとくことにした。
以下、関西のおばちゃんらに
役に立たない蘊蓄を騙った一部始終である。
否、要約したものである。
姫路城を現在の規模にしたのは、
池田輝政である。秀吉の取り成しで、
家康の次女督姫を娶った。これが、
「豊臣恩顧」ながら家康に付いて、
細川同様に世渡り上手となるきっかけとなった。
その10年前、輝政は、
秀吉と家康の戦である長久手の合戦で
父と兄を家康方に討ち取られたのである。だから、
「秀吉が取り成した」のである。が、
「ものは考えよう」である。
父はともかく兄が討たれたおかげで、
輝政は池田家の家督を嗣げたわけである。
その後は徳川の手下として大活躍。
姫路52万石の太守となる。そして、
松平を名乗ることまでも許される。が、
栄光も束の間、大坂の陣を迎えることなく
48歳で病没。さて、
この池田輝政であるが、
その父恒興を討ち取ったのは、
家康の一家臣にすぎない永井直勝だった。
のちに輝政が父を討ち取った直勝と対面したとき、
たった5000石の将と聞き、そんな少禄の者に
討ち取られたことに憤ったと伝えられてる。が、
直勝はのちに1万石の大名昇進し、さらに
関ヶ原で武功をたてて、
下総古河7万2千石を領するまでなった。そして、
この直勝の子孫が徳川家から拝領してた江戸下屋敷が、
現在の慶応大学病院のあるあたりだった。
大名永井家の当主は官位が信濃守であることが多く、
最後の当主も「信濃守」だった。時代が明治に変わると、
その屋敷跡一帯を「信濃町」というようになったのである。
永井直勝の子孫には、
永井荷風と三島由紀夫がいる。
三島は永井の女系がちょっと入っただけであり、ほとんど
武士の家系ではない。
三島が学習院初等科のとき、三島一家は
信濃町に住んでだことがある。が、
4年ほどで、三島が学習院中等科に進んだ頃、
家風に合わなかったのか、
一家は現在の渋谷区松涛に引っ越す。ちなみに、
三島が切腹し斬首させて果てた旧自衛隊市ヶ谷駐屯地は、
信濃町からほんのちょっと北にいったとこにある。
おばちゃんたちは、
「永井荷風て、武・士なの?」
ゆうてた。
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