煎餅を焼きおわると、気分が非常に
すがすがしい。
「働かざる者、食うべからず」
というフランスの古い諺を見習って、
薄い焼き上げ賃を稼ぐのに汲々として、
無駄な時間を費やしてしまってる。
何の才能もない私のような人間は、
このように虚しい人生を送るしか、
すべがない。いっぽう、
美貌に恵まれ、王家の令嬢なのに、
贅沢はしただろうが、苦悩の一生を送った人に、
エリサベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ
がいる。福澤諭吉と同じく
豊前中津藩士だった父が横浜で絹織物商をしてた
獅子文六の劇、「エリザベート、てんやわんやな一生」
がミューズィカルとしてブレイクしなかったので、
ミヒャエル・クンツェが台本を書いたムーズィカルが
世界的大ブレイクしたことで、近年、
さらに知名度が増した女性である。が、
そんな高貴な女性も嫁ぎ先のハプスブルグ家からは、
「身分の低い田舎者」と蔑まれたとか。
姑からみれば姪にあたる、
ごく近い親戚であるにもかかわらず。
よく言うよ、という感じである。ともあれ、
エリサベートはスィスィ=16歳になる齢に、
オーストリア皇帝フランツ・ヨーセフの嫁になった。
身長=172cm、ウェイスト=50cm、体重=50kg
という特殊体型ながら、
世の、特に女性から人気がある。が、
姑のソフィー大公后からは嫌われ、
目の敵にされてたそうである。婚約の日に、
スィスィは「歯が黄ばんでる」と姑に言われた由。
たしかに黄ばんでたらしい。いっとき、
「芸能人は歯がいのち」というコピーが流行ったが、
下の歯が茶色いTVリポーターもいるご時世である。
通常はタバコやコーヒー、ワイン、などの嗜好によって、
加齢で四十くらいから黄ばむものであるが、
スィスィはの場合は16歳になる前からすでに
黄色信号だったのである。ちなみに、
スィスィが生まれたのは1837年12月24日であるが、
その約100年後の1938年9月23日に生まれた女優に
ロミー・シュナイダーがいる。ヴィスコンティの
「ルートヴィヒ」や、ウディ・アレンの
意味シンなタイトルの映画にも出てた。また、
アラン・ドロンの相方だったときもあり、
「太陽がいっぱい」にも出てくる。が、
43歳のときに睡眠薬大量摂取で死ぬ、
という苦悩の人生を送った人のひとりである。
17歳のときに、映画
「スィスィ」でエリサベートの少女時代を演じた。以来、
シュナイダー女史の愛称もスィスィになった由。ときに、
このシュナイダー女史のシュナーダーは母の姓である。
父と離婚した母も女優だった。そして、
父の母=祖母も女優だった。名を
ローザ・アルバッハ=レッティという。1898年7月、
フランツ・ヨーセフがエリサベートを見染めた
バートイシュルのホテルのレストランで、同女史は
エリサベートを見かける。そして、
こう回想してるのである
……付き人が席を立つと、エリサベートは
マイアーリンクで心中死した倅への弔意を示す
黒いヴェイルを上げると、入れ歯をはずして
コップの水でそれをゆすいで、また、口に戻した
……と。ジュネーヴで刺殺される
二箇月前のことである。スィスィのファンには、
百年の恋も褪めるような事実かもしれない。が、
プチヘンタイな私にはそれがかえって
親しみがわくことになった。強烈な悪臭は
御免だが、ちょっとした臭いはまた、
性的興奮に結びつくものである。ところで、
スィスィは歯ンガリー好きだったらしい。
オーストリアはハンガリーを実効支配してた。そして、
オーストリア皇帝ハプスブルグ家は
ハンガリー王も兼ねることになった。ということは、
スィスィはハンガリー王妃にもなるということである。
ハンガリー王妃戴冠に臨んで、スィスィは馬上で
心からわきあがる感情を体感した。そして、
感極まって涙をうかべたのである。
オーストリア皇妃エリサベートではなく、
ハンガリー王妃エルジェーベトとして。が、
暗殺されたとき、その棺には、
「オーストリア皇妃エリサベート」とされ、
「ハンガリー王妃エルジェーベト」と
併記されることはなかった。
オーストリアを嫌ったスィスィ心中の虫
エルジューベトの生前の行いは、
オーストリア帝国崩壊の原動力となった。
某国の廃太子及び弟皇子立太子問題も、
真剣に考えねばならない。
1898年9月10日、ジュネーヴのホテル・ボー・リヴァージュを
出て湖の桟橋に向かおうとしたスィスィに
男が近づいて体当たりした。スィスィは
仰向けに倒れたが、乗船しなければと、
桟橋に向かう。そして、船内で
崩れ落ちるのである。犯人はすぐに捕まった。
エリサベートを鋭く削ったヤスリの先で刺殺した
イタリア人の犯人は、母親に捨てられた
孤児院育ちである。が、
裁判の結果、終身刑となる。
流刑ニはならず。そして、11年後、
監房で首を吊って死ぬ。
死に瀕して、ハンガリー語を習得してたスィスィは
お付きのシュターレイ伯爵夫人に、
こうは言わなかったが……。
Maid meglatjuk!
(マイド・メグラーチュク≠「毎度、巡り着く」)
=「あとで、私たちは見るでしょう」
≒「地道に誠意を示してイレバ、いつか、解るときがくるわよ」
すがすがしい。
「働かざる者、食うべからず」
というフランスの古い諺を見習って、
薄い焼き上げ賃を稼ぐのに汲々として、
無駄な時間を費やしてしまってる。
何の才能もない私のような人間は、
このように虚しい人生を送るしか、
すべがない。いっぽう、
美貌に恵まれ、王家の令嬢なのに、
贅沢はしただろうが、苦悩の一生を送った人に、
エリサベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ
がいる。福澤諭吉と同じく
豊前中津藩士だった父が横浜で絹織物商をしてた
獅子文六の劇、「エリザベート、てんやわんやな一生」
がミューズィカルとしてブレイクしなかったので、
ミヒャエル・クンツェが台本を書いたムーズィカルが
世界的大ブレイクしたことで、近年、
さらに知名度が増した女性である。が、
そんな高貴な女性も嫁ぎ先のハプスブルグ家からは、
「身分の低い田舎者」と蔑まれたとか。
姑からみれば姪にあたる、
ごく近い親戚であるにもかかわらず。
よく言うよ、という感じである。ともあれ、
エリサベートはスィスィ=16歳になる齢に、
オーストリア皇帝フランツ・ヨーセフの嫁になった。
身長=172cm、ウェイスト=50cm、体重=50kg
という特殊体型ながら、
世の、特に女性から人気がある。が、
姑のソフィー大公后からは嫌われ、
目の敵にされてたそうである。婚約の日に、
スィスィは「歯が黄ばんでる」と姑に言われた由。
たしかに黄ばんでたらしい。いっとき、
「芸能人は歯がいのち」というコピーが流行ったが、
下の歯が茶色いTVリポーターもいるご時世である。
通常はタバコやコーヒー、ワイン、などの嗜好によって、
加齢で四十くらいから黄ばむものであるが、
スィスィはの場合は16歳になる前からすでに
黄色信号だったのである。ちなみに、
スィスィが生まれたのは1837年12月24日であるが、
その約100年後の1938年9月23日に生まれた女優に
ロミー・シュナイダーがいる。ヴィスコンティの
「ルートヴィヒ」や、ウディ・アレンの
意味シンなタイトルの映画にも出てた。また、
アラン・ドロンの相方だったときもあり、
「太陽がいっぱい」にも出てくる。が、
43歳のときに睡眠薬大量摂取で死ぬ、
という苦悩の人生を送った人のひとりである。
17歳のときに、映画
「スィスィ」でエリサベートの少女時代を演じた。以来、
シュナイダー女史の愛称もスィスィになった由。ときに、
このシュナイダー女史のシュナーダーは母の姓である。
父と離婚した母も女優だった。そして、
父の母=祖母も女優だった。名を
ローザ・アルバッハ=レッティという。1898年7月、
フランツ・ヨーセフがエリサベートを見染めた
バートイシュルのホテルのレストランで、同女史は
エリサベートを見かける。そして、
こう回想してるのである
……付き人が席を立つと、エリサベートは
マイアーリンクで心中死した倅への弔意を示す
黒いヴェイルを上げると、入れ歯をはずして
コップの水でそれをゆすいで、また、口に戻した
……と。ジュネーヴで刺殺される
二箇月前のことである。スィスィのファンには、
百年の恋も褪めるような事実かもしれない。が、
プチヘンタイな私にはそれがかえって
親しみがわくことになった。強烈な悪臭は
御免だが、ちょっとした臭いはまた、
性的興奮に結びつくものである。ところで、
スィスィは歯ンガリー好きだったらしい。
オーストリアはハンガリーを実効支配してた。そして、
オーストリア皇帝ハプスブルグ家は
ハンガリー王も兼ねることになった。ということは、
スィスィはハンガリー王妃にもなるということである。
ハンガリー王妃戴冠に臨んで、スィスィは馬上で
心からわきあがる感情を体感した。そして、
感極まって涙をうかべたのである。
オーストリア皇妃エリサベートではなく、
ハンガリー王妃エルジェーベトとして。が、
暗殺されたとき、その棺には、
「オーストリア皇妃エリサベート」とされ、
「ハンガリー王妃エルジェーベト」と
併記されることはなかった。
オーストリアを嫌ったスィスィ心中の虫
エルジューベトの生前の行いは、
オーストリア帝国崩壊の原動力となった。
某国の廃太子及び弟皇子立太子問題も、
真剣に考えねばならない。
1898年9月10日、ジュネーヴのホテル・ボー・リヴァージュを
出て湖の桟橋に向かおうとしたスィスィに
男が近づいて体当たりした。スィスィは
仰向けに倒れたが、乗船しなければと、
桟橋に向かう。そして、船内で
崩れ落ちるのである。犯人はすぐに捕まった。
エリサベートを鋭く削ったヤスリの先で刺殺した
イタリア人の犯人は、母親に捨てられた
孤児院育ちである。が、
裁判の結果、終身刑となる。
流刑ニはならず。そして、11年後、
監房で首を吊って死ぬ。
死に瀕して、ハンガリー語を習得してたスィスィは
お付きのシュターレイ伯爵夫人に、
こうは言わなかったが……。
Maid meglatjuk!
(マイド・メグラーチュク≠「毎度、巡り着く」)
=「あとで、私たちは見るでしょう」
≒「地道に誠意を示してイレバ、いつか、解るときがくるわよ」
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