今年の日本の桜は寒さのせいで遅い。いっぽう、
おととしには140cmという、111年ぶりに降雪量を更新した
ワシントンでは、今年は3月12日には摂氏22度になるほど
暖かかったために開花が早かったそうである。
このワシントンの桜であるが……
日本語が英語に次いで世界で2番目に通話された
電話の"発明者"として知られる
アレクザンダー・グレアム・ベルの次女と結婚した米国の植物学者
David Fairchild(デイヴィド・フェアチャイルド、1869-1954)が
来日時に荒川堤で金八先生に遭ったという事実はないが、
五色桜に魅せられて帰国時に幾種類かの桜を持ち帰り、
自宅庭に植えたところ、無事育った……ことに始まる。
1909年、知人で周期ゼミの研究者である
Charles Lester Marlatt(チャールズ・レスター・マーラット、1863-1954)、
紀行作家の
Eliza Scidmore(いわゆるエリザ・シドモア女史、1856-1928)らと、
「鑑桜会」を開いた。そこには、
駐米日本大使をはじめとする大使館員、NY総領事、そして、
高峰譲吉夫妻、新渡戸稲造夫妻(両夫人は米国人)などの
日本人関係者も招かれてた。そして、
日本の桜を米国の首都DCに、
という話で盛り上がったのである。当時の大統領
William Howard Taft(ウィリアム・ハウアド・タフト、1857-1930)の夫人
ヘレン女史とスィドモア女史は知人だった。そこで、
スィドモア女史はヘレン・タフト女史に
「ポトマック河畔に日本の桜を」運動の手紙を書き、その
依頼ザをしたのである。この運動はそれ以前からあったが、
「タフト=桂協定」を結ぶために陸軍長官時代の1905年に
来日したこともあるタフト夫妻には受け入れられやすいのでは、
という目算があった。果たせるかな、
タフト夫人からは即、受諾する旨の返事がきたのである。そこで、
新渡戸夫人が親しかった当時の東京市長
尾崎行雄(およそ西暦1858-1954)の後妻
テオドラ英子女史(1871-1932)に、
NY総領事が外務大臣小村寿太郎にそれぞれ手紙を送って、
日米親善の「植桜運動」にタフト夫人が乗り気であることを訴えた。
その結果、外務省は東京市に桜寄贈への協力を要請した。
梨の「二十世紀」の命名者と誤って伝えられてる
渡瀬寅次郎(西暦およそ1859-1926)が経営してた
東京興農園から購入したソメイヨシノ600本をはじめとする
各種の桜の苗木2000本が、1909年の11月に
横浜港から異人さんに連れられてイッチャッタ、のである。
半月後にワシントン州スィアトルで陸揚げされ、
翌年に首都ワシントンに到着した。ところが、
フェアチャイルドとマーラットが検疫すると、
病虫が付着してたのである。すべての苗木は、
細野豪志が山本中西モナ女史と路チュウして要請するまでもなく、
焼却処分されてしまったのである。が、
尾崎市長は諦めなかった。翌年、
足尾鉱毒事件の原因が銅による汚染であることを実証した
農商務省の古在由直(こざい・よしなお、西暦およそ1864-1934)に
苗木作りの方策を打診した。そして、
ソメイヨシノに限らず接ぎ木による栽培を採ることにした。
桜の権威だった植物学者
三好学(みよし・まなぶ、西暦およそ1862-1939)に助言を求めた。
当時「五色桜」として知られてた荒川堤の桜並木の桜を穂木として、
兵庫県東野(現、伊丹市)の山桜を台木として、
静岡県興津(現、静岡市清水区)の農事試験場で、
接ぎ木栽培することになったのである。が、
無農薬時代に数千本単位の苗を短期間に育てるのは
至難の業だったという。その間、
スィドモア女史も視察に来日して、
高原の小枝というわけでなしどモアベターよ、
とご満悦だったらしい。そして、
1912年のヴァレンタイン'ズ・デイに、
横浜港から苗木6400本がスィアトルに向けて出港したのである。
スィアトルからは、クール宅急便がなかったので、
冷蔵貨物車でDCまで運ばれたという。
農務省が検疫した結果、今度は1本たりとも
病気になってもなく、害虫が付着もしてなかった。
1912年3月27日、
タフト夫人は日本大使夫人とそれぞれソメイヨシノを1本ずつ
タイダル・ベイズン畔に手ずから植樹した。今年はそれから
100年にあたる。記念行事として、
「桜」の歌を何曲も歌ってるAKBのメンバーが
DCを訪れてるらしい。また、
ナショナル・ギャラリーでは、伊藤若冲の
「動植綵絵」全30幅、「釈迦三尊像」などが
30日から1か月間展示されるという。ところで、
タフト夫人が植えたソメイヨシノから接ぎ木されたものが
東京都足立区区制50周年の昭和56年に
"里帰り"した。当時の大統領レーガンの夫人ナンスィ女史が
「DC桜まつり」の名誉会長だったことから、
当時の東京都知事鈴木俊一が前屈して
「レーガン桜」と命名した。それがいまも、
舎人公園に植わってるという。
いっぽう、
DCに向かわなかった半分の苗はNYに送られた。
マンハッタンのアッパーウェスト、
ハドスン河畔のグラント将軍国立墓所
(「グラント将軍」であって「グラント大統領」でないところに、
彼らの「愛国」への心が如実に表されてる。売国
民主党員を選出して平気な選挙民が7割もいる
日本人には愛国心などすでにない)横の
当時クレアモント・パークと呼ばれてた、現在は
"Sakura Park"という場所に植樹された。現在も
桜の季節にはそこそこの数の桜が咲く。
マンハッタンにおけるけっこうな穴場である。
ともあれ、
この東京からの桜の寄贈に対して、1915年、
「返礼」としてハナミズキ40本が東京に送られてきた。
おもに日比谷公園に植えられたという。が、
日米戦争中に「敵性植物」としてほとんどが
伐採されたそうである。現在、
米国から送られた原木と判明してるのは、
東京都立園芸高等学校と
農水省果樹試験場興津支場と
東京大学理学部付属小石川植物園の
三箇所4本だという。日比谷公園には
都立園芸高校の木から接いだものがある。ちなみに、
東京都港区と横浜市港北区は私が長く住んでたとこだが、
いずれもその「区の木」は、ハナミズキである。
♪うーーーーーーすべーにいーーろのーーーー♪
というサビを効かせる一青窈の「ハナミズキ」は、
9.11同時多発テロへに触発されて"作詞"したのだという。
これに増子達郎というのが"作曲"したのが、
♪【ミーーー・ーーーミ・・<ファー>ミ>レ・ーー>ド<ミ│
ーーーー】・●●●ミ・・<ファー>ミ<ファ・ー<ソーソ│
ーーーー・ーーー>ド・・ドーーー・●●●●♪
である。これは、1969年の米映画
"Butch Cassidy and the Sundance Kid"
(邦題=明日に向かって撃て)の主題歌、
Burt Bacharach(バート・バカラック、1928-)の
"Raindrops Keep Fallin' On My Head"
(邦題=雨に濡れても)の冒頭、
♪ソ│<【ミーーー・ミーーミ・・<ファーー>ミ・>レーー>ド│
<ミーーー】・●●●●・・●●●●・●●●>ソ│
<ソーーー・ソーーソ・・<ラーー>ソ・>ファーー>ミ│
ミーーー・<ファーーー・・>レーーー・>ドーーー♪
そのものである。
ワシントンの桜は100年続いたことになるが、
30数年で日本と米国は戦争になった。
"友好"のしるし、も政治的思惑の前では
"有効"ではなくなる、といういい例である。
いずれにせよ、
40本のハナミズキが東京からのサクラへの返礼として
送られてきた1915年は、すでにタフト政権ではなかった。
タフトの再選を阻んで次期大統領になった
Woodrow Wilson(ウッドロウ・ウィルスン、1856-1924)も
大好きだったという「ジョージ・ワシントンの逸話」という
作り話が仮に事実だったとしても、
その"桜"がソメイヨシノでないことだけは確かである。この
「作り話」は「正直者たれ」という教訓のための話だが、
尾崎行雄といえば「清廉潔白」の代議士、否、代名詞だった。
「清廉」といえば……
平安時代のサクラといえば当然ながら
野生のいわゆるヤマザクラというものである。
奈良時代にすでに野生のサクラを狩ってきて、
庭で観賞する風流があったという。が、
平安京に遷都して以降は、おいそれと
吉野の山にサクラを狩りに行くことが難儀である。
そうして庭にサクラの木を植える、
ということが始まったのである。
「日本後紀」には、弘仁3年2月12日、西暦およそ
812年の3月28日、神泉苑で嵯峨天皇が
「花宴の説」を催したことが記されてるが、それが、
記録に残る最初の桜の花見、ということになってる。
明日はそれから1200年にあたる。ところで、
嵯峨天皇といえば、先帝で兄の平城天皇が
平城京に遷って政治を執ろうとして
いわゆる"二所朝廷"となって争ったため、
薬子の変という軍事衝突まで起きたことが
思い起こされる。ともあれ、
ソメイヨシノが作られてサクラの主流になってからは、
接ぎ木でしか生育しないクロウン性と、
花が下向きに咲く性質と、
開花時期の短さと、
散りっぷりの潔さが、
明治になって消えた「武士」への懐古と重なり、
「日本人」一般の気風として、よりいっそう
愛でられることになった。もはや、
日本人にとってサクラは「清廉」、そして
「実直」の象徴なのである。
葉桜になってしまうと毛虫だらけになることを、
一般の人は知らないようだが、まさに、
蛆虫のような周辺のウソツキ民族らに"悪"へと仕立て上げられ、
餌食にされる日本を表してるかのようである。ところで、
「宇治拾遺物語」の巻3に、小野篁の逸話が書き留められてる。
かなり平易な文なので、拙大意は附けない。
[今は昔、小野篁といふ人おはしけり。
嵯峨の帝の御時に内裏に札を立てたりけるに、
「無悪善」
と書きたりけり。帝、篁に
「読め」
と仰せられたりければ、
「読みは読み候ひなむ。されど恐れにて候へばえ申し候はじ」
と奏しければ、
「ただ申せ」
と度々仰せられければ、
「さがなくてよからむとして候ふぞ。
されば君を呪ひ参らせて候ふなり」
と申しければ、
「おのれ放ちては誰か書かむ」
と仰せられければ、
「さればこそ申し候はじとは申して候ひつれ」
と申すに帝、
「さて、何も書きたらむものは読みてむや」
と仰せられければ、
「何にても読み候ひなむ」
と申しければ、片仮名の子もじを十二書かせ給ひて、 「読め」
と仰せられければ、
「ねこの子のこねこ。ししの子のこじし」
と読みたりければ、帝ほほゑませ給ひて事なくてやみにけり。]
これももちろん作り話であるが、それだけ
篁の知識が広かった、ということを示してるのである。
「無悪善」という"三筆"の漢語の落書きは、
「さがなくてよからむ」「さがなくはよかりなむ」
などと読み下せる。いずれにしても、意味は
明解である。
「悪いモノがなければ善い→嵯峨帝さえいなければ善政」
という意味をかけてるのである。篁は
落書きという形で嵯峨天皇に"Oh, No!"と言った、
という作り話である。
♪サガしものはなんですか?
見つけにくいものですか?……
夢の中へ、冥界へ、行ってみたいと思いませんか?
うふっふ~~~ぅ♪
嵯峨天皇は、財政負担が大きくなるために
譲位を反対されてるにもかかわらず押し切り、
退位後に冷然院や嵯峨院を造営して散財し、
政務に口出しをし、やりたい放題の人物だったのである。
「花見」の先駆者ということで記録されただけでなく、
嵯峨院(死後に大覚寺)を造って贅沢な隠居生活を送ったために
「嵯峨野」という地名も残した「風流人」でもあった。
(足利)義政もまた同じで、風流には金がかかるのである。
私もあと金だけあれば、けっこう満足いく人生なのにと思う。
♪女も要らなきゃ、毛も要らぬ。
わたしゃもすこしゼニが欲しい♪
おととしには140cmという、111年ぶりに降雪量を更新した
ワシントンでは、今年は3月12日には摂氏22度になるほど
暖かかったために開花が早かったそうである。
このワシントンの桜であるが……
日本語が英語に次いで世界で2番目に通話された
電話の"発明者"として知られる
アレクザンダー・グレアム・ベルの次女と結婚した米国の植物学者
David Fairchild(デイヴィド・フェアチャイルド、1869-1954)が
来日時に荒川堤で金八先生に遭ったという事実はないが、
五色桜に魅せられて帰国時に幾種類かの桜を持ち帰り、
自宅庭に植えたところ、無事育った……ことに始まる。
1909年、知人で周期ゼミの研究者である
Charles Lester Marlatt(チャールズ・レスター・マーラット、1863-1954)、
紀行作家の
Eliza Scidmore(いわゆるエリザ・シドモア女史、1856-1928)らと、
「鑑桜会」を開いた。そこには、
駐米日本大使をはじめとする大使館員、NY総領事、そして、
高峰譲吉夫妻、新渡戸稲造夫妻(両夫人は米国人)などの
日本人関係者も招かれてた。そして、
日本の桜を米国の首都DCに、
という話で盛り上がったのである。当時の大統領
William Howard Taft(ウィリアム・ハウアド・タフト、1857-1930)の夫人
ヘレン女史とスィドモア女史は知人だった。そこで、
スィドモア女史はヘレン・タフト女史に
「ポトマック河畔に日本の桜を」運動の手紙を書き、その
依頼ザをしたのである。この運動はそれ以前からあったが、
「タフト=桂協定」を結ぶために陸軍長官時代の1905年に
来日したこともあるタフト夫妻には受け入れられやすいのでは、
という目算があった。果たせるかな、
タフト夫人からは即、受諾する旨の返事がきたのである。そこで、
新渡戸夫人が親しかった当時の東京市長
尾崎行雄(およそ西暦1858-1954)の後妻
テオドラ英子女史(1871-1932)に、
NY総領事が外務大臣小村寿太郎にそれぞれ手紙を送って、
日米親善の「植桜運動」にタフト夫人が乗り気であることを訴えた。
その結果、外務省は東京市に桜寄贈への協力を要請した。
梨の「二十世紀」の命名者と誤って伝えられてる
渡瀬寅次郎(西暦およそ1859-1926)が経営してた
東京興農園から購入したソメイヨシノ600本をはじめとする
各種の桜の苗木2000本が、1909年の11月に
横浜港から異人さんに連れられてイッチャッタ、のである。
半月後にワシントン州スィアトルで陸揚げされ、
翌年に首都ワシントンに到着した。ところが、
フェアチャイルドとマーラットが検疫すると、
病虫が付着してたのである。すべての苗木は、
細野豪志が山本中西モナ女史と路チュウして要請するまでもなく、
焼却処分されてしまったのである。が、
尾崎市長は諦めなかった。翌年、
足尾鉱毒事件の原因が銅による汚染であることを実証した
農商務省の古在由直(こざい・よしなお、西暦およそ1864-1934)に
苗木作りの方策を打診した。そして、
ソメイヨシノに限らず接ぎ木による栽培を採ることにした。
桜の権威だった植物学者
三好学(みよし・まなぶ、西暦およそ1862-1939)に助言を求めた。
当時「五色桜」として知られてた荒川堤の桜並木の桜を穂木として、
兵庫県東野(現、伊丹市)の山桜を台木として、
静岡県興津(現、静岡市清水区)の農事試験場で、
接ぎ木栽培することになったのである。が、
無農薬時代に数千本単位の苗を短期間に育てるのは
至難の業だったという。その間、
スィドモア女史も視察に来日して、
高原の小枝というわけでなしどモアベターよ、
とご満悦だったらしい。そして、
1912年のヴァレンタイン'ズ・デイに、
横浜港から苗木6400本がスィアトルに向けて出港したのである。
スィアトルからは、クール宅急便がなかったので、
冷蔵貨物車でDCまで運ばれたという。
農務省が検疫した結果、今度は1本たりとも
病気になってもなく、害虫が付着もしてなかった。
1912年3月27日、
タフト夫人は日本大使夫人とそれぞれソメイヨシノを1本ずつ
タイダル・ベイズン畔に手ずから植樹した。今年はそれから
100年にあたる。記念行事として、
「桜」の歌を何曲も歌ってるAKBのメンバーが
DCを訪れてるらしい。また、
ナショナル・ギャラリーでは、伊藤若冲の
「動植綵絵」全30幅、「釈迦三尊像」などが
30日から1か月間展示されるという。ところで、
タフト夫人が植えたソメイヨシノから接ぎ木されたものが
東京都足立区区制50周年の昭和56年に
"里帰り"した。当時の大統領レーガンの夫人ナンスィ女史が
「DC桜まつり」の名誉会長だったことから、
当時の東京都知事鈴木俊一が前屈して
「レーガン桜」と命名した。それがいまも、
舎人公園に植わってるという。
いっぽう、
DCに向かわなかった半分の苗はNYに送られた。
マンハッタンのアッパーウェスト、
ハドスン河畔のグラント将軍国立墓所
(「グラント将軍」であって「グラント大統領」でないところに、
彼らの「愛国」への心が如実に表されてる。売国
民主党員を選出して平気な選挙民が7割もいる
日本人には愛国心などすでにない)横の
当時クレアモント・パークと呼ばれてた、現在は
"Sakura Park"という場所に植樹された。現在も
桜の季節にはそこそこの数の桜が咲く。
マンハッタンにおけるけっこうな穴場である。
ともあれ、
この東京からの桜の寄贈に対して、1915年、
「返礼」としてハナミズキ40本が東京に送られてきた。
おもに日比谷公園に植えられたという。が、
日米戦争中に「敵性植物」としてほとんどが
伐採されたそうである。現在、
米国から送られた原木と判明してるのは、
東京都立園芸高等学校と
農水省果樹試験場興津支場と
東京大学理学部付属小石川植物園の
三箇所4本だという。日比谷公園には
都立園芸高校の木から接いだものがある。ちなみに、
東京都港区と横浜市港北区は私が長く住んでたとこだが、
いずれもその「区の木」は、ハナミズキである。
♪うーーーーーーすべーにいーーろのーーーー♪
というサビを効かせる一青窈の「ハナミズキ」は、
9.11同時多発テロへに触発されて"作詞"したのだという。
これに増子達郎というのが"作曲"したのが、
♪【ミーーー・ーーーミ・・<ファー>ミ>レ・ーー>ド<ミ│
ーーーー】・●●●ミ・・<ファー>ミ<ファ・ー<ソーソ│
ーーーー・ーーー>ド・・ドーーー・●●●●♪
である。これは、1969年の米映画
"Butch Cassidy and the Sundance Kid"
(邦題=明日に向かって撃て)の主題歌、
Burt Bacharach(バート・バカラック、1928-)の
"Raindrops Keep Fallin' On My Head"
(邦題=雨に濡れても)の冒頭、
♪ソ│<【ミーーー・ミーーミ・・<ファーー>ミ・>レーー>ド│
<ミーーー】・●●●●・・●●●●・●●●>ソ│
<ソーーー・ソーーソ・・<ラーー>ソ・>ファーー>ミ│
ミーーー・<ファーーー・・>レーーー・>ドーーー♪
そのものである。
ワシントンの桜は100年続いたことになるが、
30数年で日本と米国は戦争になった。
"友好"のしるし、も政治的思惑の前では
"有効"ではなくなる、といういい例である。
いずれにせよ、
40本のハナミズキが東京からのサクラへの返礼として
送られてきた1915年は、すでにタフト政権ではなかった。
タフトの再選を阻んで次期大統領になった
Woodrow Wilson(ウッドロウ・ウィルスン、1856-1924)も
大好きだったという「ジョージ・ワシントンの逸話」という
作り話が仮に事実だったとしても、
その"桜"がソメイヨシノでないことだけは確かである。この
「作り話」は「正直者たれ」という教訓のための話だが、
尾崎行雄といえば「清廉潔白」の代議士、否、代名詞だった。
「清廉」といえば……
平安時代のサクラといえば当然ながら
野生のいわゆるヤマザクラというものである。
奈良時代にすでに野生のサクラを狩ってきて、
庭で観賞する風流があったという。が、
平安京に遷都して以降は、おいそれと
吉野の山にサクラを狩りに行くことが難儀である。
そうして庭にサクラの木を植える、
ということが始まったのである。
「日本後紀」には、弘仁3年2月12日、西暦およそ
812年の3月28日、神泉苑で嵯峨天皇が
「花宴の説」を催したことが記されてるが、それが、
記録に残る最初の桜の花見、ということになってる。
明日はそれから1200年にあたる。ところで、
嵯峨天皇といえば、先帝で兄の平城天皇が
平城京に遷って政治を執ろうとして
いわゆる"二所朝廷"となって争ったため、
薬子の変という軍事衝突まで起きたことが
思い起こされる。ともあれ、
ソメイヨシノが作られてサクラの主流になってからは、
接ぎ木でしか生育しないクロウン性と、
花が下向きに咲く性質と、
開花時期の短さと、
散りっぷりの潔さが、
明治になって消えた「武士」への懐古と重なり、
「日本人」一般の気風として、よりいっそう
愛でられることになった。もはや、
日本人にとってサクラは「清廉」、そして
「実直」の象徴なのである。
葉桜になってしまうと毛虫だらけになることを、
一般の人は知らないようだが、まさに、
蛆虫のような周辺のウソツキ民族らに"悪"へと仕立て上げられ、
餌食にされる日本を表してるかのようである。ところで、
「宇治拾遺物語」の巻3に、小野篁の逸話が書き留められてる。
かなり平易な文なので、拙大意は附けない。
[今は昔、小野篁といふ人おはしけり。
嵯峨の帝の御時に内裏に札を立てたりけるに、
「無悪善」
と書きたりけり。帝、篁に
「読め」
と仰せられたりければ、
「読みは読み候ひなむ。されど恐れにて候へばえ申し候はじ」
と奏しければ、
「ただ申せ」
と度々仰せられければ、
「さがなくてよからむとして候ふぞ。
されば君を呪ひ参らせて候ふなり」
と申しければ、
「おのれ放ちては誰か書かむ」
と仰せられければ、
「さればこそ申し候はじとは申して候ひつれ」
と申すに帝、
「さて、何も書きたらむものは読みてむや」
と仰せられければ、
「何にても読み候ひなむ」
と申しければ、片仮名の子もじを十二書かせ給ひて、 「読め」
と仰せられければ、
「ねこの子のこねこ。ししの子のこじし」
と読みたりければ、帝ほほゑませ給ひて事なくてやみにけり。]
これももちろん作り話であるが、それだけ
篁の知識が広かった、ということを示してるのである。
「無悪善」という"三筆"の漢語の落書きは、
「さがなくてよからむ」「さがなくはよかりなむ」
などと読み下せる。いずれにしても、意味は
明解である。
「悪いモノがなければ善い→嵯峨帝さえいなければ善政」
という意味をかけてるのである。篁は
落書きという形で嵯峨天皇に"Oh, No!"と言った、
という作り話である。
♪サガしものはなんですか?
見つけにくいものですか?……
夢の中へ、冥界へ、行ってみたいと思いませんか?
うふっふ~~~ぅ♪
嵯峨天皇は、財政負担が大きくなるために
譲位を反対されてるにもかかわらず押し切り、
退位後に冷然院や嵯峨院を造営して散財し、
政務に口出しをし、やりたい放題の人物だったのである。
「花見」の先駆者ということで記録されただけでなく、
嵯峨院(死後に大覚寺)を造って贅沢な隠居生活を送ったために
「嵯峨野」という地名も残した「風流人」でもあった。
(足利)義政もまた同じで、風流には金がかかるのである。
私もあと金だけあれば、けっこう満足いく人生なのにと思う。
♪女も要らなきゃ、毛も要らぬ。
わたしゃもすこしゼニが欲しい♪
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