11月7日、といえばスティーヴ・マクウィーンの命日である。
11月6日、といえばチャイコフスキーの命日である。
"The Cincinnti Kid(1965)"よろしくpokerでもしながら、
久々に「悲愴」のCDでも聴いてみようと思ったが、
煎餅を焼くのが忙しい時期に重なってしまった。
まだまだ終わってないが、きぶん転換におでんを食って、
昔のMLBの映像を観た。
いわゆる「ビッグ・レッド・マシーン」とは、
Sparky Anderson(スパーキー・アンダースン/1934-2010)監督のもと、
1970年から1976年までの期間におけるMLBのナションル・リーグの
スィンスィナティ・レッズに附けられた名である。この7スィーズン中、
レッズは5回地区優勝し、4度リーグのペナントを獲得し、そして、
1975、1976年と2年連続でワールド・チャンピオンに輝いた。とくに、
1976年は対NYヤンキーズで、レッズが4タテで勝利したのだが、その
第4戦ではキャッチャーのジョニー・ベンチが2本の本塁打を放って、
ヤンキーズを突き放した。この年、
いちおう受験勉強中ということになってた私は、
当然、観に行くことなどできず、英語などまったく
解らないにも関わらず家でFENを聞いてた。
ともあれ、
"The Big Red Machine"のメンバーといえば、
Johnny Bench(ジョニー・ベンチ/5=ユニフォーム・ナンバー、以下同)、
Pete Rose(ピート・ロウズ/14)、
Joe Morgan(ジョウ・モーガン/8)、
Tony Perez(トウニ・ペレーズ/24)、
George Foster(ジョージ・フォスター/15)、
Dan Driessen(ダン・ドリーセン/22)、
Cesar Geronimo(スィーザー・ジェロニモウ/20)、
Ken Griffey, Sr.(ケン・グリフィー、スィニア/30)、
Dave Concepcion(デイヴ・コンセオプスィオーン/13)、
Junior Kennedy(ジュニア・ケネディ/11→のちに26)、
Ray Knight(レイ・ナイト/25=ゴルファー、ナンスィー・ロペスの夫)、
などだった。
この、
"The Big Red Machine"という呼び名は、
1854年のクリミア戦争における、バラクラーヴァの戦闘で、
露軍の攻撃で英国の同盟国オスマーン帝国軍が潰走してしまい、
コリン・キャンベル卿(のちのクライド男爵)が指揮する
英国陸軍第93歩兵連隊が2列横隊の陣を組んで
露軍騎兵の突撃を防いだ、という
「勇猛な」戦闘にちなんでるのである。
このときの守備隊列がたった2列の「薄い」もので、
赤いコウトを着た隊列が
"The Thin Red Line(ザ・シン・レッド・ライン=細い赤色の線)"
と見えた。のちに、「地上より永遠に」の作家、James Jonesが
「大日本帝国対アメリカ合衆国+大英王国+オーストラリア+ニュー・ズィーランド連合」
の太平洋戦争における悲惨を極めた「ガダルカナルの戦闘」を題材にした
戦記物を1962年に出版したが、そのタイトルをこの故事から採って、
"The Thin Red Line"とした。それをまた、
Bob Hertzel(ボブ・ハーツェル)というスィンスィナティ・インクワイアラーという新聞の
baseball担当記者がもじって、
"The Big Red Machine"と命名したのである。
ちなみに、
昭和17年8月7日に米海兵隊上陸に始まった
ガナルカナル島の戦闘において、それまで
スマトラ島の守備を担ってた大日本帝国陸軍
第【38】師団が投入されることになった。中でも、
その第【38】師団の矢野大隊750名は
撤退のための陽動に使われたのである。
ところで、
私の世代はスィンスィナティ・レッズといえば、
あの人工芝の、閉塞感たっぷりの円形球場だった、いまはなき
オハイオウ川沿いのRiverfront Stadium(リヴァーフロント・ステイディアム)を
すぐさま連想する。1970年6月30日の開幕戦で、
相手方アトランタ・ブレイヴズのHank Aaron(ハンク・エロン)が
この球場初の本塁打を放った。そして、レッズは2-8で敗れた。
1974年は4月4日の開幕戦がアトランタ・ブレイヴズとの試合だった。
Jack Billingham(ジャック・ビリンガム)投手はエロンに第1打席で
714号を打たれた。この球場の開幕戦といえば、
1996年4月1日の、いまはなきモントリオール・エクスポウズとの開幕戦で、
試合開始直後にアンパイアのJohn McSherry(ジョン・マクシェリー)が
心臓発作を起こして倒れ込み(死亡)、ゲイムが中止になった。
2001年には人工芝を廃して天然芝にして、
レフトからセンターのスタンドを取り潰して開放的なボールパークにしたものの、
翌スィーズン終了とともに歴史を終え、年末に取り壊された。
さて、
スパーキー・アンダースンは1978年、来日して試合を行い帰国した直後、
レッズを解任される。が、翌スィーズン途中、
アメリカン・リーグのデトロイト・タイガーズから監督に起用された。
レッズ時代の背番号10ではなく、そのひとつ上の
11を着けた。そして、
1984年、サンディーエイゴウ・パードレイズとのワールド・スィリーズで、
相手方のディック・ウィリアムズと、
「史上初の両リーグでワールド・スィリーズ優勝監督」
をかけて戦い、そして勝った。
私の世代はスィンスィナティ・レッズといえば、
1869年に合衆国史上初のプロ球団として
スィンスィナティ・レッドストッキングズが誕生したことに敬意を表して、
開幕戦は必ずレッズが地元で行うしきたり、という認識だった。が、
1986年にデトロイト・タイガーズが「日程上の理由」で、
4月7日にレッズより先に開幕戦を行った。
タイガーズのエイス、Jack Morris(ジャック・モリス)は、
ボストン・レッドソックスの先頭打者、強健右翼手の
Dwight Evans(ドワイト・エヴァンズ)に初球を本塁打され、
3回表には4番左翼手Jim Rice(ジム・ライス)から、
7回表には5番指名打者Don Baylor(ドン・ベイラー)から、
次いで6番捕手Rich Gedman(リッチ・ゲドマン)から、
連続ソウロウ・ホウマーを打たれながらも、
味方カーク・ギブスンの2本の本塁打などで、
6-5と開幕戦を逆転勝利した。ともあれ、
この「開幕戦掟破り」は、
あれほど勝利に導いたレッズを突如解雇された
スパーキー・アンダースンの意趣返しに違いない。
11月6日、といえばチャイコフスキーの命日である。
"The Cincinnti Kid(1965)"よろしくpokerでもしながら、
久々に「悲愴」のCDでも聴いてみようと思ったが、
煎餅を焼くのが忙しい時期に重なってしまった。
まだまだ終わってないが、きぶん転換におでんを食って、
昔のMLBの映像を観た。
いわゆる「ビッグ・レッド・マシーン」とは、
Sparky Anderson(スパーキー・アンダースン/1934-2010)監督のもと、
1970年から1976年までの期間におけるMLBのナションル・リーグの
スィンスィナティ・レッズに附けられた名である。この7スィーズン中、
レッズは5回地区優勝し、4度リーグのペナントを獲得し、そして、
1975、1976年と2年連続でワールド・チャンピオンに輝いた。とくに、
1976年は対NYヤンキーズで、レッズが4タテで勝利したのだが、その
第4戦ではキャッチャーのジョニー・ベンチが2本の本塁打を放って、
ヤンキーズを突き放した。この年、
いちおう受験勉強中ということになってた私は、
当然、観に行くことなどできず、英語などまったく
解らないにも関わらず家でFENを聞いてた。
ともあれ、
"The Big Red Machine"のメンバーといえば、
Johnny Bench(ジョニー・ベンチ/5=ユニフォーム・ナンバー、以下同)、
Pete Rose(ピート・ロウズ/14)、
Joe Morgan(ジョウ・モーガン/8)、
Tony Perez(トウニ・ペレーズ/24)、
George Foster(ジョージ・フォスター/15)、
Dan Driessen(ダン・ドリーセン/22)、
Cesar Geronimo(スィーザー・ジェロニモウ/20)、
Ken Griffey, Sr.(ケン・グリフィー、スィニア/30)、
Dave Concepcion(デイヴ・コンセオプスィオーン/13)、
Junior Kennedy(ジュニア・ケネディ/11→のちに26)、
Ray Knight(レイ・ナイト/25=ゴルファー、ナンスィー・ロペスの夫)、
などだった。
この、
"The Big Red Machine"という呼び名は、
1854年のクリミア戦争における、バラクラーヴァの戦闘で、
露軍の攻撃で英国の同盟国オスマーン帝国軍が潰走してしまい、
コリン・キャンベル卿(のちのクライド男爵)が指揮する
英国陸軍第93歩兵連隊が2列横隊の陣を組んで
露軍騎兵の突撃を防いだ、という
「勇猛な」戦闘にちなんでるのである。
このときの守備隊列がたった2列の「薄い」もので、
赤いコウトを着た隊列が
"The Thin Red Line(ザ・シン・レッド・ライン=細い赤色の線)"
と見えた。のちに、「地上より永遠に」の作家、James Jonesが
「大日本帝国対アメリカ合衆国+大英王国+オーストラリア+ニュー・ズィーランド連合」
の太平洋戦争における悲惨を極めた「ガダルカナルの戦闘」を題材にした
戦記物を1962年に出版したが、そのタイトルをこの故事から採って、
"The Thin Red Line"とした。それをまた、
Bob Hertzel(ボブ・ハーツェル)というスィンスィナティ・インクワイアラーという新聞の
baseball担当記者がもじって、
"The Big Red Machine"と命名したのである。
ちなみに、
昭和17年8月7日に米海兵隊上陸に始まった
ガナルカナル島の戦闘において、それまで
スマトラ島の守備を担ってた大日本帝国陸軍
第【38】師団が投入されることになった。中でも、
その第【38】師団の矢野大隊750名は
撤退のための陽動に使われたのである。
ところで、
私の世代はスィンスィナティ・レッズといえば、
あの人工芝の、閉塞感たっぷりの円形球場だった、いまはなき
オハイオウ川沿いのRiverfront Stadium(リヴァーフロント・ステイディアム)を
すぐさま連想する。1970年6月30日の開幕戦で、
相手方アトランタ・ブレイヴズのHank Aaron(ハンク・エロン)が
この球場初の本塁打を放った。そして、レッズは2-8で敗れた。
1974年は4月4日の開幕戦がアトランタ・ブレイヴズとの試合だった。
Jack Billingham(ジャック・ビリンガム)投手はエロンに第1打席で
714号を打たれた。この球場の開幕戦といえば、
1996年4月1日の、いまはなきモントリオール・エクスポウズとの開幕戦で、
試合開始直後にアンパイアのJohn McSherry(ジョン・マクシェリー)が
心臓発作を起こして倒れ込み(死亡)、ゲイムが中止になった。
2001年には人工芝を廃して天然芝にして、
レフトからセンターのスタンドを取り潰して開放的なボールパークにしたものの、
翌スィーズン終了とともに歴史を終え、年末に取り壊された。
さて、
スパーキー・アンダースンは1978年、来日して試合を行い帰国した直後、
レッズを解任される。が、翌スィーズン途中、
アメリカン・リーグのデトロイト・タイガーズから監督に起用された。
レッズ時代の背番号10ではなく、そのひとつ上の
11を着けた。そして、
1984年、サンディーエイゴウ・パードレイズとのワールド・スィリーズで、
相手方のディック・ウィリアムズと、
「史上初の両リーグでワールド・スィリーズ優勝監督」
をかけて戦い、そして勝った。
私の世代はスィンスィナティ・レッズといえば、
1869年に合衆国史上初のプロ球団として
スィンスィナティ・レッドストッキングズが誕生したことに敬意を表して、
開幕戦は必ずレッズが地元で行うしきたり、という認識だった。が、
1986年にデトロイト・タイガーズが「日程上の理由」で、
4月7日にレッズより先に開幕戦を行った。
タイガーズのエイス、Jack Morris(ジャック・モリス)は、
ボストン・レッドソックスの先頭打者、強健右翼手の
Dwight Evans(ドワイト・エヴァンズ)に初球を本塁打され、
3回表には4番左翼手Jim Rice(ジム・ライス)から、
7回表には5番指名打者Don Baylor(ドン・ベイラー)から、
次いで6番捕手Rich Gedman(リッチ・ゲドマン)から、
連続ソウロウ・ホウマーを打たれながらも、
味方カーク・ギブスンの2本の本塁打などで、
6-5と開幕戦を逆転勝利した。ともあれ、
この「開幕戦掟破り」は、
あれほど勝利に導いたレッズを突如解雇された
スパーキー・アンダースンの意趣返しに違いない。
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