チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「伏見の国のありんす/作詞家大石内蔵助とチュー臣蔵、招き猫とキティちゃん」

2011年10月13日 00時53分23秒 | 歴史ーランド・邪図
この秋の京都観光は混雑するであろう紅葉の時期を
回避しようと考えてた。春も桜の頃はよけてる。なにしろ、
昨今は京都は若者のカップルが歩き回り、風情がかきけされる
手頃なデイト・スポットに変貌してしまったからである。ならば、
混雑期を避けて緑のモミジもまた趣もある時期にしようと、
10月を念頭に入れてた。が、
震災の影響で客が減ったために烏丸口の
客待ちタクシーがあふれてしまったことに、
タクシー業界団体とJR西日本が業を煮やして、
10月からタクシー乗り入れ規制をするという情報を得た。
そうなったら今度は、
タクシー待ちの客があふれることになるに決まってる。そこで、
9月半ばに京都以外の関西に行く用事があったので、
その帰りに立ち寄ってしまうことにした。

今回の行程プログラムは明快である。
紫式部と安倍晴明のゆかりの場所を中心に
冥界と現世との狭間を巡ってきた。しかも、
土日なのにまったく混んでなかった。
紫式部と小野篁が並んでる墓(とされてる所)、それから、
安倍晴明の墓とされてる場所にいたっては、
人っ子一人もいなかった。晴明神社も観光客はまばら。
あまりにもすいてたので帰りの新幹線まで時間があまった。
そんなときはいつも駅近くの伏見稲荷大社御旅所に立ち寄り、
八条口の近鉄名店街で土産を買う。今回は
伏見の松本酒造の「桃の滴」を店頭販売してたので、
試飲もしないでその大吟醸を買った。
帰って飲んだが、あまり我が口には合わなかった。
芭蕉が伏見の西岸寺(油懸地蔵)に晩年の
任口(にんこう)上人を訪ねて詠み、「野ざらし紀行」に収めた、
[我衣(わがきぬ)に、ふしみの桃の、しづくせよ]
という意味がいまいち解らない句にちなんだ酒名らしい。
[桃]を任口上人に喩える解釈が一般的である。
[桃]が春の季語であることは明かである。が、
推定80歳超の、しかも出家した女性を[桃]に喩えたとも
思われない。無論、
家持の[桃の花。下照る道に出で立つをとめ]の
[をとめ]であるはずでもない。まして、
桃娘(タオニャン)などではけっしてない。
桃から油が採れるというわけでもないようである。
任口上人はこのとき死の床に就いてたともいわれてる。
歌の世界で[袖を濡らす=別れの涙]という意味であるから、
芭蕉は任口上人がもう長くないことをわきまえた上で、
こう詠んだとも考えれる。

さて、伏見といえば、
江戸時代、河川交通の要港であり、そこには撞木町という
遊廓があった。伏見稲荷大社からは少し離れてる。
現在の京阪墨染駅が最寄駅である。
山科隠棲時の大石内蔵助が通ってたのは、各種芝居に脚色された
祇園などではない。この伏見撞木町の安女郎屋である。
元禄年間には祇園はまだ花街ではなかった。
浄瑠璃や歌舞伎などではたいそう立派な人物に仕立てられてるが、
内蔵助は性欲のかたまりのようにここで遊んでたのである。
「昼行灯」は脚色ではなく、実際に「5時から男」だった。
政務はともかく、書や画、詩作などに長けた、
1500石も食んでた大金持ちの風流人である。
この撞木町の女郎屋で遊びほうけながら、内蔵助は
いわゆる地唄の詞をいくつか作ってる。現在、
聖路加看護大学になってる浅野内匠頭屋敷が
刃傷沙汰で返納されてから約200年後にその場所で生まれた
芥川龍之介(ちなみに、生後1年足らずでひきとられたのは
本所松坂町の吉良上野介屋敷のすぐ近くである)の小説
「或日の大石内蔵助」(アントキノ内蔵助ではなく)にも、
「里景色(さとげしき)」の一節が引用されてる。
<<さすが涙のばらばら袖に、
こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ>>
この<<浮き>>から、女郎屋で内蔵助は
「浮き様」と呼ばれてたのだそうである。
芥川のような深遠な作家の蜘蛛の意図は、
三代目市川猿之助と故村田英雄の顔がたやすく判別できない
拙脳なる私には解るはずもない。が、
性を売る商品として囲われて過ごし死んでいく女郎たちも、
高禄の家老として主君に忠義を尽くして死んでいく、
と一般には信じられてる内蔵助も、
地位・境遇こそ違え、はかない存在でしかない、という
芥川の厭世観が静かに流れる小説であるように思える。

内蔵助の詞になるものはこの他には、
・「狐火(きつねび)」
(月はつれなや。はや暁の、鐘の音(こゑ)。
 さらばさらばの、声も絶えゆく、おだのはら)
・「六段恋慕(ろくだんれんぼ)」
(松の枝には、雛鶴巣立つ。
 谷の流れに、亀遊ぶ)
などがある。「里景色」も含め、いずれも、
のちに祇園の茶屋「井筒屋」の主人となる盲人でない三弦奏者、
岸野次郎三(郎)が曲をつけた。

ところで、
「招き猫」のルーツには現在、大きく4つの説があるという。そのうち、
浅草の今戸神社、新宿の自性院、の各説はいかにも眉唾っぽい。
前者は被差別民居住地に必ずある白山神社が合祀されてる、
ということでもわかるとおり、江戸時代は
弾左衛門の屋敷の一角で、塀で囲われてたゲットー地区である。
そういう場所で「招き猫」が焼かれてたはずがない。また、
後者は「伝説(=後世の作り話)」に事欠かない人物である
「大田道灌ネタ」である。この二箇所は元祖の商売繁盛ぶりに倣って
自分のとこでも始め、それがあたかもルーツであるかのように
吹聴したものだと考えれる。ということで、
残るふたつのうちのひとつが、
伏見稲荷である。伏見稲荷は和銅年間からあった。
渡来人(一説にユダヤ人)とされる秦(ハタ)氏が祀った社である。
[ユダ→フダ→ハダ→ハタ=機(はた)=旗=端=蓋=蔕]
八幡(ヤハタ)もユダが由来かもしれない。
秦氏は機織だけでなく、酒造、養蚕も大和朝廷に伝えた。
伏見ではその土地の土が合ったのか、古くから土器を焼いてた。
酒盛りの皿→かわらけ、も焼く。そこから、
土人形が作られるようになった。
唱歌作詞者高野辰之、童謡作曲家中山晋平の出身地である
信州中野の土人形に代表されるように、江戸時代後期から、
伏見の土人形は全国で流行った。そして、
本家伏見の土人形製造者の中から江戸時代後期に
「招き猫」を作る者が現れたのだという。
廓の部屋には女郎によって土人形が置かれてたという。
花柳界で当然のスロウガン「千客万来」に適ってるのである。
英語やフランス語でも同様であるが、「猫」は女性器を表す。
それを置いとけば男性器がやってくる、というわけである。

残るひとつは、
豪徳寺である。徳川将軍家譜代筆頭井伊家の菩提寺である。
大老の元祖とされてる井伊直孝の"伝説の大筋"はこうである。
<<直孝が現在の世田谷一帯に賜った領地で鷹狩をしたおりに、
 粗末な寺(弘徳庵)の前を通りかかると、猫が中に入るよう手招いた。
 直孝が寺に入ると、一転空がかきくもり、雷雨になった。
 猫が雨に打たれることから救ってくれたと感じ、
 直孝はその寺を井伊家の菩提寺とすることを決意した>>
これは寛永年間の"話"である。だから猫が、
"Hey, come on!(ヘイ、掃部!)
と手招きするのは時代考証がおかしい(※)。が
直孝は大阪の陣の直前に、
「伏見城番」となったことがある。そうした経緯から、
井伊家に縁のある寺に「招き猫」伝説を付したのだろう。ともあれ、
直孝の法名、久昌院殿豪徳天英大居士から、
弘徳庵はのちに豪徳寺と改称した、とされてる。
伝説のように粗末な寺のわけがない。いずれにしても、
「こうとく」「ごうとく」は同じである。
豪雨に見舞われてもその難を逃れたから豪雨徳、
なのではなさそうである。ところが、
弘徳庵も実は法名から採られた名称である。
弘徳院殿久栄理椿大姉。つまり女性である。そしてそれは、
吉良頼高の姉であり、頼高の子政忠が
伯母の供養ために建てたものである。この「吉良」というのは、
赤穂事件の吉良上野介の吉良家と同族である。すなわち、
鎌倉幕府の御家人だった足利義氏が子の二人に
三河の吉良の領地を与えた。古矢作川の東西でそれぞれ、
西条吉良氏と東条吉良氏である。
前者の子孫が上野介で、後者の子孫が政忠である。
東条吉良氏は奥州吉良氏となり、やがて室町時代になると
世田谷を支配する。ひょっとすると、祖父の代まで
盛岡藩南部家の能楽師だった東条英機の家は、
この吉良氏かもしれない。それはさておき、
弘徳寺はそうした一族が建てた寺である。そして、
戦国時代が終わろうとする天正年間に、
門菴宋関(もんなんそうかん)禅師が
曹洞宗の寺として再興した寺なのである。
この門菴宋関という人物は没落した今川家の縁者だという。
今川家というのは吉良氏の支族である。ともあれ、
門菴宋関はもうひとつ有名な曹洞宗の寺を
家康の命によって興してる。それが、
吉良上野介を仇とした大石以下の墓もある
赤穂浅野家の菩提寺泉岳寺なのである。

江戸時代、我が松代藩でも養蚕が行われてた(上田時代から)が、
もっとも盛んだったのは「上野国」、京都周辺の
「近江国」「綾部」「丹波」など、それから
「八王子から甲斐国にかけて」である。当然、
井伊家の彦根藩でも養蚕が盛んだった。養蚕農家にとって
一番の敵は、桑の葉や蚕を食い荒らすネズミである。
そのネズミの天敵はネコである。養蚕農家ではネコが飼われた。また、
生身のネコが寝コんでるときにも寝ズミに睨みをきかせるために
ネコの置物が部屋の各所に配された。ここで
ハタと思い浮かぶのが、機織を大和朝廷にもたらしたのが
秦氏であったということである。ところで、
12日は満月だったが、「望月氏」は信州佐久が発祥の地で
(真田氏もその同族である)、現在もその名字がやたらと多い山梨県、
旧甲斐国は養蚕が盛んだった地域のひとつである。
昭和35年、山梨県庁職員だった辻信太郎は県庁を辞め、
地元の特産である絹製品を販売する「株)山梨シルクセンター」を設立した。
これは県庁の外郭団体だったものだが、それをそっくりそのまま
株式会社として引き継いだのである。が、
絹製品の売上ははかばかしくなく、雑貨販売に転じた。そして、
花柄のゴム草履が売れたことで、かわいらしい模様や
キャラクターを付けるとウケることを実感したのである。
そうしてできあがったのが、「キティちゃん」である。
要は現代流「招き猫」である。金運にしろ集客にしろ、
いずれにしても、儲かって儲かって笑いがとまらない。
"Grinning like a Cheshire Cat" at
"Arinsu's Adventures in Puroland"
といったところであろう。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「天保11年(皇紀2500年)生ま... | トップ | 「デビュー7戦めよりデビュー... »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
浅草弾左衛門 (iina)
2011-10-21 08:57:12
>横浜は市民だったことはないにしろ家があったこともある
単身赴任でもされて、住民票を移動しなかったのでしたか。

passionbbbさんの記事は長いので、斜め読みしたところ、「弾左衛門」はiinaも関心を抱いた人物です。
iina宅の記事をご覧ください。

返信する

コメントを投稿

歴史ーランド・邪図」カテゴリの最新記事