京町家 鰻の寝床
結局春秋2回だけだった今年の私の京都観光のテーマの中心は、
「方丈記」が書かれてから800年とされてる年なので下鴨神社だった。
[宵の間の、月の桂の、薄紅葉。照るとしもなき、初秋の空]
これは、壬生忠岑の、
[久方の、月の桂も、秋はなほ、紅葉すればや、照りまさるらむ]
を本歌取りしたものだが、鴨長明はじつに
風流のセンスが研ぎ澄まされた人物だったことが判る。ともあれ、
今年の京都観光のルートは下鴨神社がメインで、それから、伏見の
「月桂冠大倉記念館」だった。
今日の産経新聞(印刷誌面版、電子版とも)に、
<天然ウナギの謎 東大チームが解明、幼生の餌を突き止める>
という記事が載ってた。いっぽう、先週の
NHK-BSの「Cool Japan」の再放送(12月1日)では
「京都Special」を流してた。その中で、
京町家にはいわゆる「鰻の寝床」のような
間口が狭くて奥が深いものがなぜ多いのか、ということについて、
<江戸時代には間口の幅によって税金の額が決められたため、
多くの町家が細長い構造になったと言われています>
と言い放ってた。つまり、
間口の広さに対して課税されてたから、
その税金対策として間口を狭くしたのだ、
というのである。そして、それが
江戸時代(徳川政権)に行われた、
という"具体"的指摘である。ともあれ、
夏の土用の丑の日でもないのに、
京都の紅葉ほどではないにしろ、
鰻の話題がてんこ盛りである。
実際に私は、反応がおもしろいので、
「鰻の寝床」に関しては、現在の京都市市街の住民・就労者や
旅行者などにことあるごとに訊いてみてる。
若い人は<わかりません>と言う人も多いが、
中年以降の"知ってるつもり"の人は100パーセント、
<(江戸時代に)間口の広さに対して課税されてたんで、その
対策で狭うしとったんです>
と答える。さらに、半可通な御仁は、
<田沼意次が課税しはったんです>
としたり顔で言う。それから、
文章になったものを見てみると、こんなのがあった。
<三間(約5.4m)の間口を一軒役として課税する
豊臣秀吉の税制に反発した形状である>
こちらは徳川ではなく秀吉を"悪者"にしてる。
それはひとまずおいといて、
<町家の間口はどこも狭い。
間口の広さで年貢が決まったからである。
だから京町家は、間口が狭く奥に長いうなぎの寝床なのだ>
というのもあった。
洛中の商人らはどこかに田を持ってて米を収穫してて、
その米を年貢として取られてたらしい。こうなるともう、
デタラメというよりお笑いである。それと、瑣末なことだが
……<どこも狭い>……に関しては、
もう数えきれないほど京都観光をしてきて見聞したうえでの
私の感想にすぎないが、
かなり広い間口の店は意外なほど多い。まず、
考えてみていただきたい。仮に、
間口の広さで課税するとしたら、
1間の家が10軒あるのと、10間の家が1軒あるのとでは、
徴収者はどちらが徳だろうか?
限りある敷地では"同じ"である。あるいは、
隣家間の境界に取られる"しろ"を考慮すれば、
できるだけ間口が広い店が並ぶほうが徳である。
私が"知ってるかぎり"の事実はこうである。
1)徳川幕府は開府から大政奉還に至るまで
いずれの領内においても家屋税を課し、
または課させたためしはない。
2)「鳴くよ(794)ウグイス、平安京」で都が現在の
京都になってから約1世紀、貞観5年の東日本大震災大津波を
契機としてのちに「祇園祭」となる祭は始まったが、
その経費をまかなうのに、
「間口」の広さに応じた「寄附金」が集められた。
伏見稲荷の祭礼の費用にも同様の集金システムがあった。
3)かといって、それだからすぐに大店が間口を狭くする、
などということがあったとは到底思われない。
多くの寄附金を出せばそれだけでかいつらができるから。
4)とはいえ、この「自治会費」的な"慣習"が、
税金として利用できると考えた為政者がいた。
室町幕府第3代将軍足利義満の代に、
「間口税」として洛南において課税された。不定期だったらしい。
5)孫の義政の後継者争いに伴う各管領家その他の内紛、
旧勢力と台頭勢力の諍いが複雑に絡んだ応仁の乱で
洛中は焼け野原となった。
6)この戦後復興で新たに"町人"が流入してきた。ちなみに、
このときに創業して明治になって東京に出てきて
今でも続いてる店に虎屋がある。ともあれ、
そうした振興店は"最小限"のタナしか展開できず、また、
流入者が多いために一店舗の間口を狭くしないと
需要を満たすことができない。いっぽう、
"碁盤の目状"の京では表通りに面した店数を
多くしようとしたら、必然的に間口は狭くなる。
あらゆる面から自然と間口は最小限になった。
7)"金欠"室町幕府にとって、ばかにならない
"収入源"だったのである。
8)が、10代将軍が廃位されたり12代将軍が近江に亡命したり
13代将軍が御所を囲まれて討ち死にしたり、
幕府の力が完全に衰えた16世紀以降は、
その「税」の徴収者自体が入れ替わった。
9)織田軍による京支配で徴税者は信長となった。
10)本能寺の変で信長を誅した光秀が、かつて
信長が永禄年間に岐阜城下で行った
"固定資産税"免税に倣って、
洛中の"固定資産税"を免じた。
11)天下人となった秀吉は光秀を踏襲して、
洛中の町家への"固定資産税"を免じ、代わりに、
聚楽第建設その他で、"区画整理"を行った。
12)徳川幕府の世となると、米経済基盤に立つ家康は、
基本的には"家屋税"その他の"固定資産税"を
徴収しなかった。
13)江戸時代も半ばすぎの天明年間、
無位無冠から老中にまで出世した田沼意次は、
米経済の限界に現実的に立ち向かい、
さまざまな税制改革を行う一環として
「家屋税」導入の具申をした。が、
これに旧体制の諸侯・名主・大店などが大反対した。
タイミング悪く将軍家治が死に、自身も
老中を罷免されて、それらの"新税"は
結局導入されずじまいに終わった。
14)薩摩島津家の傀儡である家斉とその幕閣は
田沼を"悪者"という避雷針にすることで
自身の保身を図った。ちなみに、
家斉の覚え目出度かった取り巻きの大身旗本のひとりが、
落語家古今亭志ん生の先祖である。
15)幕末の倒幕の流れで京の町は、
「蛤御門の変(禁門の変)」で焼土と化した。
16)その4年後に明治維新となり、
地租改正によって地租、戸数割が課せられることとなった。
この税制は高額だったので庶民の猛反発を引き起こした。が、
禁門の変で幕府に駆逐された長州藩の下級武士や
本来は武士以下の身分上がりが維新政府の中心だったため、
京都を焼き尽くした責任も徳川におしつけ、
「何でも悪いのは"封建的"な徳川」
という意識を学のない無垢な者らに浸透させた。
17)明治政府は戸数割りを課税するようになると、
できるだけ戸数(戸主の人数)を多くすれば
それだけ税収が大きくなるので、
禁門の変で焼け野原になった跡地には、
間口が狭い家屋を建てさせる政策を採ったのである。が、
これはあくまでも「戸数」の多寡であって、
間口の広い狭いの問題ではない。
下級武士どころか中間でオケラ同然だった山縣有朋は、
明治維新によって椿山荘や京都の別荘まで持つほどの
大金持ちとなった。13石2人扶持の下級武士福澤諭吉も、
白金長者となった。現代では、非日本人からの献金や
公設秘書の給料や諸経費を誤魔化して懐を膨らませる
セイジ家もいる。いずれにしても、
「京町屋に鰻の寝床状の家屋が散見される理由」は、
「徳川幕府が間口の広さに応じて課税したからではない」
のである。
いわゆる「鰻の寝床状京町屋」の構造はこのようになってる。
間口の4分の1ほどは奥にまっすぐ「通り庭」が貫かれる。
間口の4分の3のスペイスに各部屋が奥に連なる。そのもっとも手前、
通りに面したところには、当然ながら、「店(たな)」が置かれる。
通り沿いに店(見世)があることをミセることが即、集客につながる。また、
格子ごしに中の商売の様子や職人の仕事ぶりが見えて判りやすい。
その奥に「玄関(中の間)」が続く。ここまでが、
この家の『商業スペイス』である。
その奥に、「台所」が設けられる。
この台所から奥がこの家の『私的空間』となる。ちなみに、
こうした構造はたとえば江戸城のいわゆる「大奥」も、
「表→中奥→大奥」
と、基本的には京町屋形式に則ってるのである。これは、
「将軍屋」ともいうべき
「将軍というオシゴト」をする「店」のようなものである。
「表」では将軍の大名・旗本などとの謁見が行われ、
幕閣や下役人が政務というシゴトを行う。
「中奥」では将軍が政務を執り、居住する。
「大奥」は正室(御台所)や側室、そのおつきの女性たちの居住空間である。
ともあれ、
この台所スペイスには就寝などに使われる二階への階段が設置される。また、
この台所に面する通り庭には炊事場がある。
その天井は吹き抜けになってて、火の熱を戸外へ放出する。
台所の奥には「奥の間」がある。
店先で済ませれない上客をもてなす間である。
他の部屋より数段見栄えのいい内装になってることが常である。
その間の奥からL字型に「縁側」が渡されてる。
そこに「坪庭」が作られてる。縁側の裏に、
洗面所・便所・風呂が備え付けられてる。
坪庭の奥(家のいちばん奥になる)には
「蔵」が置かれ、防火の機能も担ってる。
坪庭のオウプン・スペイスは採光と通気をもたらす。
通り庭や台所の吹き抜けの天井とで、
空気の流れを作るのである。
庭の地面への打ち水と蔵の白壁がそれを増進させる。
それには一軒が細長いことが肝要である。
京都の夏は暑い。
西洋文明がもたらされる以前の日本の家屋は、
まず第一に夏を涼しく過ごすことが最優先だった。
ザ・盆地ながら大都市の京都では、
A地点からB地点までの最短距離をどうするかということよりも、
限られた空間をこのように工夫して、
「商い」「居住」双方の便を最大限にするための知恵が、
いわゆる「ウナギの寝床」と呼ばれる短冊状の
家屋を一般的にしたのである。
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