チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「不良華族事件と里見トンのペンネイム(ゴンドラの唄スピンオフ:その1)」

2010年08月05日 02時05分00秒 | 暗号ノ米マデイッテテブチキラル
昨日はアイリッシュ・バーで黒いビールを飲んできた。
現在の銀座ライオンが開店した日にちなんでビアホールの日だったが、
昨日書いた鎌倉(というより葉山のことだが)で思い出したことがある。
白樺派の作家、里見とんのことである。
渡部豪太とジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥール画ということになってる
「女占い師」(NYメトロポリタン美術館蔵)で財宝を奪われてる若者の顔が
まったく区別できないような拙脳なる私には、
「とん」をうまく漢字に換字できないので了承いただきたい。

1933年(昭和8年)、不良華族事件というゴスィップが露呈した。
作詞家伯爵吉井勇の妻徳子が、溜池のダンスホールで
男爵近藤廉平の次男の近藤廉治と「自由恋愛」を謳歌し、いっぽう、
その近藤廉治の妻泰子(白洲正子の姉)はダンス教師といい仲になり、
他の有閑マダムらにダンス教師を紹介したり、
相手男性を交換したりしてたのである。それだけでなく、
昨今角界で話題の賭博であるが、華族や文人らによる
花札賭博・麻雀賭博なども読売新聞にすっぱ抜かれ、
警視庁に次々に摘発されたのである。このとき、
川口松太郎らと警察にしょっぴかれて事情聴取された作家のひとりが
里見とん(1888年-1983年)だった。同人は、
有島武郎と有島生馬の実弟であり、つまりは
鹿児島藩郷士の倅である。吉井勇とは、
鹿児島藩コネクションで繋がってたのである。いずれにせよ、
すべてを取り仕切ってたのが吉井勇夫人の徳子だったのである。当然、
勇から離縁された。

鎌倉には里見とんが昭和58年に亡くなるまでの30年間をすごした家、
「里見とん旧居跡」がある。
扇ガ谷(おうぎがやつ)2-11-14、浄光明寺からすぐのとこである。
思い出したのは、私が中二のときの新聞記事だった。なぜか
その記事は鮮明に覚えてる。
小説家里見とんの夫人が夜中、若宮大路を横断してるときに
ひき逃げされて亡くなった、
という記事だった。1973年(昭和48年)2月のことである。
私はその記事を読んで他人事ながら、とてもかわいそうに思った。
賭博でしょっぴかれても懲りずに麻雀をしてた亭主につきあって、
しかし先に自宅に帰る途中だったのである。
夫人は大阪の芸者だった。置屋に居候してた
放蕩息子里見といい仲になって、里見の親の反対にもめげず
結ばれたのである。その結果、74歳の最後にまってたのが
轢死である。

里見トンはペンネイムである。
叔父(母の弟)が死んで母の実家(盛岡藩士)の跡継ぎがいなくなったので、
その山内家を継ぎ、山内英夫となった。それが本名である。
里見とんというペンネイムは、
電話帳をペラペラとめくって指でトンと突いたらそこが里見姓だった、
ということになってる。が、
私はそれは「冗談」だと思う。
居住した鎌倉はその昔、山内庄といった。そして、
そこを領してたのがその地名を採った山内氏である。
里見とんの母親の実家の山内家がその山内氏かどうかは知らないが、
鎌倉幕府の御家人だった里見氏がその後勢力を拡大し、
安房を治めるようになってから、小田原の後北条氏と
覇権を競ったのが鎌倉だったのである。
里見とんはその「弓引き」のことと、

=(文字化けしてる場合、弓偏に享)
=朱の漆を塗った籐を巻いた弓
「笛籐(ふえどう)」
→これをフエドウと正しく読まず、イチジルサンサイ流に適当に読めば、
→テキトウ

自分はテキトウ野郎だという「謙遜」で、
こんなペンネイムにしたのだと、
私は推測する次第である。

道元にも禅についても曹洞宗についても
「幼児に等しい無智」だったという里見とんの著書に
「道元禅師の話」というものがある。以前、
岩波文庫からも出てた。が、我が家は
曾祖父母の代まで、仕えてた殿様と同じ曹洞宗だった
(祖父は途中から世渡りのため神道に改宗)が、
トンと解らない著作である。

xoxo、ゴスィップがある。
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