マニャール 葬送歌
第一次世界大戦に従軍して戦死した作曲家は、
Rudi Stephan(ルーディ・シュテファン、1887-1915)、
George Butterworth(ジョージ・バターワース、1885-1916)、
Cecil Coles(スィースル・コウルズ、1888-1918)、
Ernest Farrar(アーネスト・フェラー、1885-1918)、
などがいたが、ほとんどが当時20代から30代前半だった。
本日は、フランスの作曲家
Alberic Magnard(アルベリッキ・マニャル、1865-1914)
が第一世界大戦下、パリの北東約40kmにあるオワズ県バロンの
自宅に近づいてきたドイツ兵に発砲して兵士1人を射殺した仕返しに
未発表作品の自筆譜とともに遺体が判然としないほど
激しく焼き討ちされて100年の日にあたる。
年代的には、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ディーリアス、スィベリウス、
同国人ではドビュッスィー、サティ、ルーセルなどと同世代、
ヴァーグナー・インフルエンス世代である。
古典的な和声による音楽がいよいよ出尽くしに近くなってきて、
何かしら奇天烈なことをしないといけなくなってきた時代である。
そうした時代の作曲家のご多分に漏れず
マニャールも教会旋法に活路を求めた。とはいえ、
上記の作曲家連中ほどにはパッとした作品は作り出せなかった。
耳障りのいい音楽ではあるものの、
人が心の底から感動するほどの"味"が欠落してた。つまり、
フィガロの編集長だった父フランスィスの庇護のもとに音楽の素養を身につけた、
ごくごく平凡な(しかも裕福な)一市民にすぎなかったのである。
また、幼少期に普仏戦争があり、
パリをドイツ人によって陥落されるという屈辱的な心傷を負った。
これが対独好戦的な人格を形成した。そうした意味では、
その最期はあっぱれな討ち死にざまである。
1894年に偉い父親が57歳で死んだとき、その追悼として、
"Chant funebre(ション・フーネブル=葬送歌)"(op.9)
を作曲した(完成は翌1895年)。冗長感あふれる音楽で、
この程度の作品で音楽史に名を残してるのは逆にすごいと思う。が、
アイスバケツをかぶるレディ・ガガ女史と富士真奈美女史を見間違えてしまうような
拙脳なる私が聴く耳を持たないだけなのだろう。
(この「葬送歌」の冒頭をSibelius Firstで作ってこちらにアップしました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/magnard-chant-funebre-beginning )
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