チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ツルゲーネフ 父と子 出版から150年(前篇)/ニヒリスト・バザーロフでござーる」

2012年02月20日 00時10分17秒 | 事実は小説より日記なりや?

ツルゲーネフ 父と子


["Отцы и Дети" Ивана Сергеевича Тургенева]
「父と子」(Отцы и дети アッツィー・イ・ヂェーチ)は1862年に発表されたイワン・ツルゲーネフの長編小説である。
1859年5月から始まる設定の、農奴解放令発布前の帝政ロシアの古い世代と新しい世代の一面を描いている。
主人公のひとりバザーロフは「ニヒリスト」の代名詞ともなった。
バザーロフの友人アルカージー(キルサーノフ)とその家族、
バザーロフが心惹かれたオジンツォーヴァなど、
ツルゲーネフお得意の「後日談」に、登場人物の「その後」が語られる。
とりわけ、ラストシーンを飾るバザーロフの両親の描写に
ツルゲーネフ文学の真骨頂が詰め込まれている。
ここでは死の床のバザーロフをオヂンツォーヴァが見舞いにきた場面と、
そのすぐあとにバザーロフが息をひきとり、
父親が息子をこんなにも早く召した神を罵る場面を、
ロシア語の原文、そのカタカナ発音、そして、私の日本語訳を、
並べて詳しくみてみることにする。

今年は、現在ではほとんど読まれることがないロシア人作家、
いわゆるツルゲーネフの小説"Отцы и Дети"
(アッツィー・イ・ヂェーチ=父(の複数形)と子(の複数形))、
邦題=「父と子」が出版されて150年めである。この小説は、
主人公のいわゆるエヴゲーニー・ヴァシーリイチ・バザーロフが
"nihilist(ニヒリスト=虚無主義者)"として描かれたことが
発表当時はたいそう話題になり、
物議を醸し出したということである。
虚無僧とコム・デ・ギャルソンの着こなしの違いも見分けれない
拙脳なる私には小難しいことは解らないし、
ところかまわずプップ・プップとオナラをしてしまう
屁ヒリストであり、キリストとニヒリストを聞き分けれない
拙脳なる私には正確な説明ができないが、ごく簡単にいえば、
ニヒリストは「キリスト教の神(の権威)」を認めない。つまり、
のちのコミュニスト(共産主義者)の思想に繋がる。現在でこそ、
欧米でも「キリスト教の神」を本気で信心してる者は
ずいぶんと減ってきてるようではある。が、
それでも底にはキリスト教の「唯一神」の思想が根づいてる。
大航海(植民地)時代のカトリックのスペイン以来、
どんなに布教活動をしても総人口の1パーセントほどしか
キリスト教徒にならなかった日本は、開国後50年ほどを経た
20世紀になってから、植民地戦争の勝者である米英蘭に
目の敵にされ、孤軍戦うはめになった。ニーチェが、
1885年に出版した「ツァラトゥストラはこう語った」で
「神は死んだ」とことさら"宣言"しなくてはならないほど、
現在の世界はキリスト教の「唯一神思想」、つまり、
「白人が世界を支配する」という選民思想で形成されてる。
まして、
19世紀の欧州で「神をないがしろ」にするなど、
狂気の沙汰だった。実際、
ツルゲーネフはその小説のタイトルを、
「父と子」として、
「聖霊」は除いたのである。大変なことである。私も
「カルビ丼」は嫌いだが、これでは
「カルケドン信条」を戴く主流派が黙ってはいない。
東方教会ではあっても、「三位一体」と同等の
"Святая Троица(スヴィャターヤ・トローイツァ=至聖三者)"
を戴くロシア正教も、カルケドン派であることに違いはない。
ともあれ、
「父と子と聖霊」であって、「父と子と母」ではなく、
キリスト教というのは女性蔑視の思想に裏打ちされてるのである。
それを糊塗するための方策が、昨今の流行りを演出した
「男女共同参画社会」運動なのである。その
「参画」という「3」が動かぬ証拠である(※)。
「三方一両損」である(どこが?)。
エチゼン食わぬは男の恥。ハマグリ桑名は女の味。
トリニテ、一件、らくちゃーーーくっ! である。

「初恋」でも考察したが、
(「ツルゲーネフ『初恋』出版150年記念/女王様ゲームと私」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/3310dbfa7cc41e740456166daa5dc98c )
この小説の登場人物の名にもツルゲーネフはそれぞれ
ヴァーグナーの音楽劇の中のライトモチーフのような
意味・性格を持たせてると私は考える。まず、
主人公のバザーラフ(いわゆるバザーロフ)である。この
Базаров(ラテン文字ではBazarovに相当)とは、
базар(バザール=市場)という普通名詞をもとに
ツルゲーネフが主人公のニヒリストに与えたサーネイムである。
「バザール」の原義は、「ペルシャ」の
♪ドー・ドー│ドー・>ラ>ソ│<ラ>ソ・>ミー│ミーー・ーー♪
「市場」にて「商品の取引価格が決まる場所」、
というものだった。市=バザールでは
民が集まり、そこに喧噪が生じる。そして、
базарという名詞には「(群衆の)騒ぎ」という意味が
生じた(これは英語のbazarも同様である)。そこから、
「論議」「口論」「喧嘩」「乱暴」
などの意味がさらに加えられてった。
喧嘩が大きくなればそれは
まあ決闘にもなろうというものである。ともあれ、
Базаров(いわゆるバザーロフ)という男は、
キリスト教の旧態依然とした迷信・固定観念に縛られた
旧世代というマジョリティの中で、
それを否定して喧嘩を売る者、がしかし結局、
敗残者、というマイノリティとしてキャラクターづけされてるのである。
ツルゲーネフの小説にオキマリな余計者ということである。いっぽう、
バザーロフを信奉し、その思想にかぶれてたが、結局は
オヤジの農奴と農場を引き継いで大領主となる
アルカーヂー……ツルゲーネフは1883年に死ぬので、祖国
ロシア帝国の末路を知らない……と、その父と伯父のサーネイムである
キルサーナフ(いわゆるキルサーノフ)は、
Кирсанов(ラテン文字ではKirsanovに相当)。これは、
スコットランドや北欧などに現在も残る
KirstinあるいはKirstenという女性名が意味する
Christのことであり、キリスト教(ロシア正教)の思想に凝り固まった
旧体制派を示すものである。他方、
バザーラフがその魅力に惹かれ、思わぬ恋心を抱いてしまった相手、
Анна Сергеевна Одинцова
(アンナ・セルギェーェヴナ・アヂンツォーヴァ)の
Одинцова(アヂンツォーヴァ、いわゆるオジンツォーヴァ)は、
数詞の1を表すодин(アヂーン)から作られてる。
один(アヂーン)は形容詞としては「唯一の」という意味であり、
バザーラフにとって「かけがえのないただ一人の女性」だった
ことを暗示してるのである。

さて、
全28章のこの小説の第27章の終わり近く、このようなスィーンがある。
(以下、""内=原文、()内=拙カタカナ発音、「」内=拙大意)

"---Евгений Васильич, я надеюсь..."
(イェヴギェーニィ・ヴァスィーリイチ、ヤー・ナヂェーユシ……。)
「エヴゲーニー・ヴァシーリイチ、わたくし、望みを……。」
"---Эх, Анна Сергеевна,
станемте говорить правду."
(エフ、アンナ・セルギェーィヴナ、スターニェムチェ・ガヴァリーチ・プラーヴドゥ。)
「ああ、アンナ・セルキゲーエヴナ、忌憚なくいきましょう。」
"Со мной кончено. "
(サ・ムノィ・コーンチェナ。)
「私はもうお終いです。」
"Попал под колесо."
(パパール・パト・カリソー。)
「車輪に轢かれてしまったんですよ。」
"И выходит,
что нечего было думать о будущем."
(イ・ヴィハヂーチ、
シトー・ニチヴォー・ブィラ・ドゥーマチ・ア・ブードゥシシェム。)
「つまり、
これから先のことなど考えたって意味がない、ってことです。」

チフスで死んだ村人の遺体解剖に立ち会ったバザーロフが
誤ってメスで指を切り、感染して死の床にいる、という状況での場面である。
ここでいう「車輪に轢かれた状態」とは、ロシア語で
"колесование(カリサヴァーニエ)"、ドイツ語で
"Raedern(レダーン)"と言われる
「車輪刑(八つ裂きの刑)」のことであり、
キリスト教への反逆者に対して執行された凄惨極まりない死刑である。
20世紀のハーマン・ヘッセの小説
"Unterm Rad(ウンターム・ラート=車輪の下に)"
のタイトルにも採られてる。キリスト教に楯突いたバザーロフは、
自らのミスでその命を絶ちきられることになる。が、
最期をその「極刑」に処せられた反逆者として喩えてるのである。

バザーロフは恋心を抱いたオヂンツォーヴァが見舞いにきてくれたすぐあとに
意識がなくなり、翌日に息を引き取る。

"Когда же, наконец,
он испустил последний вздох
и в доме поднялось всеобщее стенание,
Василием Ивановичем обуяло
внезапное исступление.
---Я говорил, что я возропщу,
...хрипло кричал он,
с пылающим, перекошенным лицом,
потрясая в воздухе кулаком,
как бы грозя кому-то,
...и возропщу, возропщу!---
Но Арина Власьевна, вся в слезах,
повисла у него на шее,
и оба вместе пали ниц."

(カグダー・ジェ、ナカニェーツ、
オーン・イスプスチール・パスリェードニィ・ヴズドーフ・
イ・ヴ・ドーミェ・パドニャーラシ・フシオープシシェー・スチェナーニエ、
ヴァスィリーェム・イヴァーナヴィチェム・アブヤーラ
ヴニザープナエ・イストゥプリェーニエ。
ヤー・ガヴァリール、シトー・ヤー・ヴァズラプシュー、
...プリープラ・クリチャール・オーン、ス・プィラーユシシム、ペレコーシェンヌィム・リーツォム、
パトリサーヤ・ヴ・ヴーズドゥヘ・クラーカム、
カーク・ブィ・グラジャー・カムータ、
イ・ヴァズラプシュー、ヴァズラプシュー!
ノ・アリーナ・ヴラーシエヴナ、フシャー・フ・スリザーフ、
パヴィースラ・ウ・ニヴォー・ナ・シェェ、
イ・オーバ・ヴミェースチェ・パーリ・ニーツ。)

「ついに、
彼(エヴゲーニー・バザーロフ)が最後の息を吐いて
家じゅうにすすり泣きの声があがったまさにそのとき、
ヴァシリー・イヴァーノヴィチ(バザーロフの父)の胸中に
不意に怒りの感情が込み上げ爆発した。
『私は言ったぞ、私は許さんぞ、と』
……しゃがれた声で、彼は怒鳴り散らした。
顔を紅潮させ、 大きく歪め、
威嚇するように空に向かって拳を振り、
あたかも何者かを脅すかのように、
『許さん、許さん!』と。
すると、アリーナ・ヴラーシエヴナ(バザーロフの母)は、顔じゅう涙だらけにして、
夫の首にすがりついた。
そして、二人は供に前のめりに崩れ落ちた。」

キリスト教の否定は、無神論というよりはむしろ、
若くして死んだ倅のまやかしを見抜く目を
その父が逆に受け継いだ形である。
善良なる町医者である父親は、かけがえのない息子を
理不尽にも召した「神」に対して
拳を振り上げて憤りをぶちまけ、
キリスト者なら絶対に許されないはずの
「神への口答え」をして、罵ったのである。
仮に神などというものがもしも存在するとしたら、
そんなやつはこの私がぶち殺してくれる! という勢いである。
神=キリストなど我々善良な者に何の恩恵もあたえるどころか、
こんな酷い仕打ちをして平気でいるのだ、
と、まさに倅が息を引き取った瞬間に、
父親は悟ったのである。が、
覆水盆に返らず。死んでしまった者は
キリストの嘘話のようには生き返らない。
時間の流れは不可逆なのである。

(「息子の墓参をする老夫婦の哀れな姿/ツルゲーネフ『父と子』出版から150年(後篇)」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/f4c686dd1c9725a302025eb74bf2a7e9
に続きます)
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