去る6月23日は、ダービー、安田記念と
2週連続負けてたのを絶対取りもどさんと、
力が入ってた宝塚記念で忙しかったので
先送りにしてしまってたが、
荻野吟子(おぎの・ぎんこ、西暦およそ1851-1913)女史の
没後100年にあたる日だった。
同女史は江戸時代の生まれであるので
大江戸探検隊の探検対象である。
没後100年の命日の前日である6月22日の土曜に、
探検隊例会では東京における同女史ゆかりの地を巡ってきた。
荻野吟子女史は、武蔵国幡羅郡俵瀬村、
現在の埼玉県熊谷市の利根川沿いに、名主の娘として生まれた。
少女時代からその利発さは際立ってたが、数え18歳のとき、
近郊の名主の家に嫁いだ。ちなみに、
夫の稲村貫一郎を"のちの足利銀行初代頭取"などと
虚偽の記載をしてるものが散見される。
足利銀行初代頭取は荻野万太郎である。ともあれ、
結婚後2年、夫から淋病を移される。そして翌年、
それが原因で離婚した。
本日は「海の日」であるが、
淋病の膿に苦しんだ吟子女史は実家が裕福だったので
東京で治療に専念することになった。
近所の塾の師であり医師でもあった松本万年に
佐藤尚中を紹介され、下谷練塀町(現在の秋葉原駅附近)の
「順天堂」に入院した。そのときの
医療的セクハラの体験が吟子女史を
"女医になる"という意思に方向づけた。
漢方医のもとで学び、
東京女子師範学校(のちのお茶の水女子大)一期生として卒業し、
さらには元来女人禁制だった私設医学校で
ただ独りの女生徒として西洋医術を修めた。が、
女性に対して医術開業試験の門は閉ざされてた。
東京府、埼玉県、内務省に受験を誓願したものの
すべて却下。このとき吟子女史はすでに32歳だった。
それから2年を無駄にした吟子だったが、やっと
内務省衛生局長が受験許可を与えてくれた。
明治17年(1884年)9月、
医術開業前期試験を他の3人の女子ともども受験し、
吟子女史は女子で唯一パスした。そして、
翌年3月の後期試験も一発合格し、
日本初の公認された女医が誕生したのである。
このとき吟子女史は34歳になってた。
産婦人科荻野医院を本郷三組町に開業した。
そこは開業と同時に噂をききつけた患者が殺到した。
医院は繁盛しすぎたため手狭になり、
下谷西黒門町に移転した。
ちなみに、
吟子女史とともに女子の受験を誓願してた
生沢クノ女史はこの年の試験を体調不良で受験できなかった。
翌年に受験して一発合格し、日本で2番めの女医となった。
同女史も現在の埼玉県出身である。
3人めは士族の高橋瑞子女史である。
同女史は産婆をしてたのだが、荻野女史が
女性で前期試験に合格したという新聞記事を見て一念発起。
吟子女史同様に門前払いの私立医学校の前に三日間立ちつくし、
校長に直談判してやっと入学を許された。実地研修を積み、
明治20年に後期試験に合格した。瑞子女史は
現在の東京女子医大設立者吉岡弥生に自分が死んだら
献体すると遺してた。昭和2年(1927年)に死んだ瑞子女史は
東京女子医大の前身東京女子医学専門学校で解剖され、
現在でもその骨格標本は同大に保存されてる。ちなみに、
瑞子女史の姉は荻野忍に嫁いだ。荻野吟子女史とは関係ない。
その荻野忍の養子が荻野式の荻野久作である。
久作は養子の弱みで養父母
(瑞穗女史の姉は早くに他界。すでに後妻が入ってた)
の期待に逆らえなかった。
当時の産婦人科は儲かるので、せっかく
東京帝大医学部に入った久作だったが、
花形であった内科や外科に行きたいとは言えず、
産婦人科医となったのである。ともあれ、
吟子女史の試験合格が、医学をめざしてたが
門が閉ざされてたがために諦めてた全国の女性たちを鼓舞した。
明治35年には女性合格者は89人にも達したのである。
この当時の"自立をめざす女子""女性運動家"の特徴として、
"キリスト教入信"と"再婚"いうパターンが多かった。
荻野吟子女史も同様である。キリスト教を通じて知り合った
14歳年下男性と40歳の吟子女史は再婚した。が、
夫はキリスト者としての生活が第一だった。
理想郷作りをめざして北海道に渡る。
そうした理想に共感した吟子女史は
東京で築いた地位をなげうって夫のもとに向かうのである。
夫のためならシカタない、どころか進んで地位を捨てた。
数年をそこで過ごすが、なかなか夢を実現できない現実から
夫は同志社大に再入学してしまう。吟子女史は
札幌で単身開業するも、すでにその医療レヴェルは
時代遅れとなってしまってた。そのことを
初めて知った吟子女史は自分の浦島ぶりに愕然としたという。
そのショックもたたって体調を崩した吟子女史は実家に帰る。
やがて同志社を卒業した夫はまた北海道に向かい、
吟子女史も従うのだった。が、
それもつかのま、夫は42歳の若さで病死してしまう。
その後も3年を北海道で過ごしたものの
すでに58歳の吟子女史は東京に戻る。
本所区新小梅町(現在の墨田区向島1丁目、
源森橋北詰あたり。東京スカイツリーのすぐそば)で開業した。
そこで最後の5年間を過ごしたのである。
最初に東京で開業したときの盛況とは違って、
女医はめずらしくもない時代になってた。しかも、
医学はどんどん進歩してたのである。
年取った吟子女史のもとにはその名だけを頼って
受診しに来る者はほとんどなかった。
大正2年(1913年)3月22日、吟子女史は
日比谷公園内の松本楼で開かれた
「日本女医会春期例会」に出席した。その帰宅後、
体調を崩して病床についままとなった。3か月後の
6月23日に波乱に富んだ63年の生涯を閉じた。
おそらくは肺癌だったのだろう。
遺骸は夫が埋葬された北海道の理想郷ではなく、
実家の親族によって雑司ヶ谷墓地に埋葬されたのである。
2週連続負けてたのを絶対取りもどさんと、
力が入ってた宝塚記念で忙しかったので
先送りにしてしまってたが、
荻野吟子(おぎの・ぎんこ、西暦およそ1851-1913)女史の
没後100年にあたる日だった。
同女史は江戸時代の生まれであるので
大江戸探検隊の探検対象である。
没後100年の命日の前日である6月22日の土曜に、
探検隊例会では東京における同女史ゆかりの地を巡ってきた。
荻野吟子女史は、武蔵国幡羅郡俵瀬村、
現在の埼玉県熊谷市の利根川沿いに、名主の娘として生まれた。
少女時代からその利発さは際立ってたが、数え18歳のとき、
近郊の名主の家に嫁いだ。ちなみに、
夫の稲村貫一郎を"のちの足利銀行初代頭取"などと
虚偽の記載をしてるものが散見される。
足利銀行初代頭取は荻野万太郎である。ともあれ、
結婚後2年、夫から淋病を移される。そして翌年、
それが原因で離婚した。
本日は「海の日」であるが、
淋病の膿に苦しんだ吟子女史は実家が裕福だったので
東京で治療に専念することになった。
近所の塾の師であり医師でもあった松本万年に
佐藤尚中を紹介され、下谷練塀町(現在の秋葉原駅附近)の
「順天堂」に入院した。そのときの
医療的セクハラの体験が吟子女史を
"女医になる"という意思に方向づけた。
漢方医のもとで学び、
東京女子師範学校(のちのお茶の水女子大)一期生として卒業し、
さらには元来女人禁制だった私設医学校で
ただ独りの女生徒として西洋医術を修めた。が、
女性に対して医術開業試験の門は閉ざされてた。
東京府、埼玉県、内務省に受験を誓願したものの
すべて却下。このとき吟子女史はすでに32歳だった。
それから2年を無駄にした吟子だったが、やっと
内務省衛生局長が受験許可を与えてくれた。
明治17年(1884年)9月、
医術開業前期試験を他の3人の女子ともども受験し、
吟子女史は女子で唯一パスした。そして、
翌年3月の後期試験も一発合格し、
日本初の公認された女医が誕生したのである。
このとき吟子女史は34歳になってた。
産婦人科荻野医院を本郷三組町に開業した。
そこは開業と同時に噂をききつけた患者が殺到した。
医院は繁盛しすぎたため手狭になり、
下谷西黒門町に移転した。
ちなみに、
吟子女史とともに女子の受験を誓願してた
生沢クノ女史はこの年の試験を体調不良で受験できなかった。
翌年に受験して一発合格し、日本で2番めの女医となった。
同女史も現在の埼玉県出身である。
3人めは士族の高橋瑞子女史である。
同女史は産婆をしてたのだが、荻野女史が
女性で前期試験に合格したという新聞記事を見て一念発起。
吟子女史同様に門前払いの私立医学校の前に三日間立ちつくし、
校長に直談判してやっと入学を許された。実地研修を積み、
明治20年に後期試験に合格した。瑞子女史は
現在の東京女子医大設立者吉岡弥生に自分が死んだら
献体すると遺してた。昭和2年(1927年)に死んだ瑞子女史は
東京女子医大の前身東京女子医学専門学校で解剖され、
現在でもその骨格標本は同大に保存されてる。ちなみに、
瑞子女史の姉は荻野忍に嫁いだ。荻野吟子女史とは関係ない。
その荻野忍の養子が荻野式の荻野久作である。
久作は養子の弱みで養父母
(瑞穗女史の姉は早くに他界。すでに後妻が入ってた)
の期待に逆らえなかった。
当時の産婦人科は儲かるので、せっかく
東京帝大医学部に入った久作だったが、
花形であった内科や外科に行きたいとは言えず、
産婦人科医となったのである。ともあれ、
吟子女史の試験合格が、医学をめざしてたが
門が閉ざされてたがために諦めてた全国の女性たちを鼓舞した。
明治35年には女性合格者は89人にも達したのである。
この当時の"自立をめざす女子""女性運動家"の特徴として、
"キリスト教入信"と"再婚"いうパターンが多かった。
荻野吟子女史も同様である。キリスト教を通じて知り合った
14歳年下男性と40歳の吟子女史は再婚した。が、
夫はキリスト者としての生活が第一だった。
理想郷作りをめざして北海道に渡る。
そうした理想に共感した吟子女史は
東京で築いた地位をなげうって夫のもとに向かうのである。
夫のためならシカタない、どころか進んで地位を捨てた。
数年をそこで過ごすが、なかなか夢を実現できない現実から
夫は同志社大に再入学してしまう。吟子女史は
札幌で単身開業するも、すでにその医療レヴェルは
時代遅れとなってしまってた。そのことを
初めて知った吟子女史は自分の浦島ぶりに愕然としたという。
そのショックもたたって体調を崩した吟子女史は実家に帰る。
やがて同志社を卒業した夫はまた北海道に向かい、
吟子女史も従うのだった。が、
それもつかのま、夫は42歳の若さで病死してしまう。
その後も3年を北海道で過ごしたものの
すでに58歳の吟子女史は東京に戻る。
本所区新小梅町(現在の墨田区向島1丁目、
源森橋北詰あたり。東京スカイツリーのすぐそば)で開業した。
そこで最後の5年間を過ごしたのである。
最初に東京で開業したときの盛況とは違って、
女医はめずらしくもない時代になってた。しかも、
医学はどんどん進歩してたのである。
年取った吟子女史のもとにはその名だけを頼って
受診しに来る者はほとんどなかった。
大正2年(1913年)3月22日、吟子女史は
日比谷公園内の松本楼で開かれた
「日本女医会春期例会」に出席した。その帰宅後、
体調を崩して病床についままとなった。3か月後の
6月23日に波乱に富んだ63年の生涯を閉じた。
おそらくは肺癌だったのだろう。
遺骸は夫が埋葬された北海道の理想郷ではなく、
実家の親族によって雑司ヶ谷墓地に埋葬されたのである。
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