チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「第62回伊勢神宮内宮遷宮、遷御の儀/持統天皇と朔旦冬至」

2013年10月02日 15時06分09秒 | 歴史ーランド・邪図
[なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる]
出家したくらいだから仏教徒だったであろうはずの、
"心なき"身の西行でさえもつい落涙してしまったほどの厳かさである。
キリスト教徒だった故丹下健三は、
「日本建築のその後の展開は、
すべて伊勢に発しているといってもよいだろう」
と記し、ブルーノ・タウトは、
「伊勢神宮こそ全世界で最も偉大な独創的建築である」
と絶賛し、おブスでもモテモテ多淫なアルマ・シントラー=マーラーの間男で
"公団住宅の設計者"ヴァルター・グロピウスは、
「建物の外部においてさえも、
我々が最上の室内工事で行うような洗練度である」
と感じ入った。

両宮の正殿の建築様式は、
「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」
と呼ばれてる。これは、
(高床式の)穀倉がルーツだとされてる。
皇大神宮(内宮)が祀るのが、太陽でありかつ天皇家の祖とされる
天照坐皇大御神(天照大御神。あまてらすおおみかみ)であり、
豊受大神宮(外宮)が祀るのが、食の神である
豊受大御神(とようけのおおみかみ)であることと関連してる。
日本は稲作で成り立ってきた。ちなみに、
「神技」とされてる「相撲」であるが、
大相撲の土俵の屋根も、この「神明造」そのものなのである。ちなみに、
豊受の受(ウケ)のウは得(ウ)→集まる、合わさる→大きくなる
→たいそうな。ウケのケのほうは穀物の意味である。現在でも、
朝餉(あさゲ)・夕餉(ゆうゲ)という言葉が意味を変えて残ってる。ともあれ、
五穀の中でもメインの稲は、春に田植えして秋に刈り入れる。
温暖な地域では二期作もあったが、いずれにしても、
旧暦9月には収穫が終わり、冬からは備蓄米を食すことになる。ちなみに、
旧暦10月が「神無月」というのは、収穫がすべて終わった各地の田から
田の神が去って出雲に集結するからである。

さて、
天皇陛下が執り行われる神事に、
「神嘗祭(かんなめさい)」「新嘗祭(にいなめさい)」というものがある。
「神嘗祭(かんなめさい)」は、天皇(の勅使)が初穂を
皇祖である天照大神に奉納し、神恩に感謝される儀式である。
旧暦9月17日に執りおこなわれてた。明治以降は、
現行暦10月17日に行われてる。
「新嘗祭(にいなめさい)」は、天皇が五穀の新穀を
天神地祇(てんじんちぎ。八百万の神々)にお勧めして
オ・モ・テ・ナ・シして、かつ、そのままそっくり捨てるのではなく
御自らも召しあがって、その年の収穫に感謝されるものである。
この新嘗祭は現在、11月23日になってしまったが、元来は、
旧暦11月の中卯日(2回目の卯の日)に行われてた。ちなみに、
旧暦では新月の日(朔)を各月の1日とし、
冬至がある月を11月としてた。ともあれ、
旧暦11月の中卯日というのは、
現行暦の12月21日前後にあたる。
およそ「冬至」である。このように、
冬至は1年のサイクルがリセットされる日である。だから、
当時は冬至を1年の始まりとしてたのである。ともあれ、
なぜ新嘗祭が「卯の日」に行われてたのかといえば、
「卯」の方位が「東」であることから、
日照時間がもっとも短い時期においても
日が昇る方角に頼んで、
五穀豊穣、国家安康、子孫繁栄、を願ったからなのである。
神宮の木材も「ひ」のきである。

で、
なぜ、伊勢神宮が"20年"で遷宮するのか、
ということは現在では定かには判ってないことになってる。
実は「きっちり20年ではない」のである。ともあれ、
"20年式年"の諸説中で、おそらく妥当だと思われるのが、
上記、旧暦の冬至が11月の朔日(ついたち)になるのが
「19年(+7閏月)周期」だったから、という理由である。これを、
「朔旦冬至(さくたんとうじ)」という。ちなみに、
来年2014年の12月22日がまた
「朔旦冬至」である(旧暦では11月1日にあたる)。
ケルト族も同様に11月1日を冬至とする暦を用い、それが
後発キリスト教の万聖節となった。トリック・オー・トリート!?
六本木交差点から東京タワーに向かってく
飯倉片町に「朔旦冬至」という名の和食の店があるが、
「飯倉」に店を構えるという教養の深さである。それはともかく、
神宮の遷宮が制定されたのは、
天武天皇の代(天武14年、西暦およそ685年)である。が、
天武帝はその翌年に崩御してしまった。で、
称制(しょうせい。皇位継承者が即位せず政務を執ること)を経て
西暦およそ690年に即位した后の持統天皇が
その年に第1回遷宮(内宮のみ)を行った。ちなみに、
この年はまた、中国史上唯一の女帝である
則天武后が即位した年でもある。ともあれ、
持統天皇4年(西暦およそ690年)もしくは
持統天皇6年(西暦およそ692年)から、朝廷はそれまでの
元嘉暦(げんかれき)と並用して
儀鳳暦(ぎほうれき)を使用し始めた。そして、
文武元年(西暦およそ697年)から
儀鳳暦単独に切り替えたのである。このことも、
神宮遷宮に関係があるかもしれない。
ギョウカイ用語でジトーをトージと言ってたからでないことは確かである。
この第1回内宮遷宮のとき、外宮はともには遷宮されず、
その2年後に遷された。つまり、
第1回内宮遷宮は持統4年(西暦およそ690年)、
第1回外宮遷宮は持統6年(西暦およそ692年)、
にそれぞれ執りおこなわれたのである。そして、
第2回内宮遷宮は和銅2年(西暦およそ709年)、
第2回外宮遷宮は和銅4年(西暦およそ711年)、
というように、それぞれ19年後に次の遷宮が行われた。

ちなみに、
五十鈴川に渡されてる宇治橋は
徳川時代(秀忠)に架けられたものだそうである。が、
この橋は五十鈴川が南北に垂直ではなく
28度斜めってる箇所をわざわざ"選んで"
架橋されてるのである。そうすると橋は、
西詰から東詰に向かって真東ではなく
東西方向にも28度傾く。そして、この角度は、
冬至の日の出の方位でもあるのである。だから、
冬至の朝には宇治橋西詰にいると、東詰の鳥居の中に
太陽が昇ってくるのである。

[19年+7閏月]=[1章]
というスパンでおよそ遷宮は続けられたが、室町時代、
南北朝、応仁の乱を経て戦国の世となった。
朝廷はそのあおりをくって困窮状態となった。そうして、
式年遷宮も乱れ、さらには約100年間、行われなかった。
毛利元就からの資金援助で即位の儀式を執りおこなうことができた
正親町天皇の時代に外宮の遷宮も129年ぶりに行われた。さらに、
秀吉の援助で天正13年(西暦およそ1585年)に
内宮・外宮揃って第41回の遷宮が執りおこなわれたのである。そして、
慶長14年(西暦およそ1609年)の第42回遷宮以降、
内宮・外宮同時かつ20年周期の遷宮となったのである。ただし、
昭和4年の第58回遷宮の次回予定昭和24年(1949年)の第59回は、
日米戦争敗戦で延期されて昭和28年(1953年)に執りおこなわれた。
そこからまた20年ごとが続いて今回の
第62回遷宮と相成ったのである。今夜、
遷御の儀で遷宮のクライマックスを迎える。そして、
内宮の遷御の儀は5日夜に執りおこなわれる。
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