チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「モンローのシャネルN°5のイワクニ関シテ(Joe Dimaggio's Uniform Number)/マリリン・モンロー没後50年」

2012年08月05日 21時03分26秒 | 歴史ーランド・邪図
ロンドン五輪女子バスケットボールの最終予選での日本に対する韓国の
ものすごい暴力プレイの数々にはそのお国柄がよく現れてた。
報道されないからほとんどの日本人は知らないだろうが。
すごいといえば、まったく正反対のすごさだが、
ティルネシュ・ディババ選手の1万mのスパートは今回もすごかった。
残り3周あたりで、それまで4番手につけてたところ、
先頭のケニアの選手に近づいてった。そのとき、
ティルネシュ・ディババ選手はケニアの選手の息づかいをうかがったのである。
そこでまた待機し、最後の1周で満を持してスパートした。
前回の五輪で優勝後に結婚してから怪我もあり、
本調子ではなかったティルネシュ・ディババ選手は、そうして
相手の余力がないことを確認したのだった。
本調子ではないとはいえ、また最後のひとまわりを
60秒程度で仕上げたのである。ときに、
ひとまわりといえば、
今年は我が国のタクシー事業開始から100年の年である。
明治天皇が崩御された6日後の大正元年(1912年)8月5日、
現在の有楽町マリオンのあたりに設立された
「タクシー自働車株式会社」がT型フォード6台で営業を開始した、
ということである。それから、日米戦争を経て42年後の
昭和29年(1954年)の2月に、その有楽町マリオンからほど近い帝国ホテルに、
夫Joe Dimaggio(ジョウ・ディマッジョ)とその師匠レフティ・オドゥールを従えて
ハニムーンにやってきたのが、
Marilyn Monroe(メララン・モンロウ、1926-1962)である。
一行は一週間後に福岡の西戸崎米軍キャンプに慰問に訪れた。そして、
岩国基地を経て大阪に向かい、そのあと、
モンロウは夫と別行動に移った。すなわち、
朝鮮戦争が前年に停戦となったあとも残留してた国連軍の
慰問へと向かったのである。
モンロウはおそらく音楽の専門教育も受けたことはなかっただろうし、
楽譜も読めなかっただろうが、その歌唱と歌声は
絶妙である。兵士が大喜びしたことは間違いないし、
モンロウはその自分の行いに満足だったが、
ディマッジョは不服極まりなかった。そして、
羽田からSFに帰った夫妻はその年、
「(邦題)7年目の浮気」でのスカート捲れ上がりスィーンに
堪忍袋の緒が切れたディマッジョとの夫婦の価値観はついに
「一致」せず、たった10か月で離婚を向かえた。たった、といえば、
黒田有彩女史らとともにミスFLASHとして活躍し、
ブログ「まりりんにあいた~い」も開いてた、
現役学習院大生グラヴィア・タレント斎藤眞利奈女史が
芸能活動から退いてしまったのは残念である。

マリリン・モンロウ没後50年に合わせて、
"My Week with Marilyn(邦題=マリリン 7日間の恋)"
のDVDが発売された。主演のミシェル・ウィリアムズ女史が
この演技で今年のアカデミー賞の主演女優賞にノミネイトされた。
日本公開の今年2月にはモンロウゆかりの帝国ホテルで会見した。が、
モンロウがディマッジョと離婚後にアーサー・ミラーと再々婚したあとの
1957年にローレンス・オリヴィエと共演した
"The Prince and the Showgirl(大公と踊り子)"の
撮影時の裏話を描いたこの映画は、凡作だった。それはともかく、
日本でのハニムーンの最中の会見でモンロウは、
「新婚旅行では何を着て寝るのか?」
と質問されたという。それに答えてモンロウは、
"What do I wear in bed ? Why, Chanel No. 5, of course"
「ベッドでは何を着てるかですって?
 それは、シャネルの5番に決まってるわよ、もちろん」
と言ったとされてる(この"why"は間投詞である)。あるいは、
ただ"Chanel No. 5"とだけではなく、
"Five drops of Chanel No. 5"
「シャネルの5番を5滴」
と言ったともされてる。ちなみに、
"Gentlemen Prefer Blondes(邦題=紳士は金髪がお好き)"で、
ジェイン・ラッセルとともにパリに着くやタクシーで高級店を回り、
ブランド品を買い漁るスィーンがあるが、その中に
シャネルはなかった。それはともかく、
モンロウの"Chanel No. 5"という発言が何を表すかといえば、
もちろん、表向きには、
「何も身につけない(フレグランス以外は)」
という意味であり、モンロウの機転の利いたお色気も含ませた
サーヴィス精神旺盛なjokeである。そして、
そのフレグランスに選ばれたのは、ココ・シャネルのパルファン、
「シャネルの5番」だった。この
「5番」というのはシャネルの香水開発部門の試作品の番号だが、
「5」という数字はココ・シャネルのラッキー・ナンバーだったという。が、
モンロウがそう答えたのにはまた別の意味があったと私は推測する。
夫ディマッジョのNYヤンキーズ時代の栄えあるユニフォーム・ナンバー(背番号)が、
「5」だったのである。その番号を球団が与えたのは、
"Dimaggio"という名が"di+maggio"
というイタリア語の成り立ちだったからである。
"di(ディ)"は"所属を意味する前置詞、
"maggio(マッジョ)"はエリザベス・モンゴメリではなく
"五月"を表す名詞、なのである。すなわち、
Chanel N°5=Dimaggio
要するに、この会見の質問と答えは、
日本での人気が自分だけに向かってるのを気にした新婦の
老新郎への気づかいから仕組まれたものだったのだと思う。
意味はかなりシモネタではあるがじつに粋な愛情表現である。
"I wear only uniform number 5 Joe in bed, of course"
「私がベッドで身にまとってるのはヤンキーズの背番号5よ、もちろん」
♪パディドゥリディドゥリディドゥリダーム、ププッビ・ドゥー♪
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