チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「盗んだバイクの車輪の下で自由になれた気がした15の夜/ヘルマン・ヘッセ没後50年」

2012年08月09日 23時49分43秒 | 事実は小説より日記なりや?
福島千里選手と香川慎司選手の顔を判別できない拙脳なる私は
幼稚舎を落ち、
今般のロンドン五輪の新築のアクワティック・センターの競泳のコース順が
なぜ通常と逆だったのか知らない拙脳なる私は
普通部と中等部に受からず、
タグ・ホイヤーと出てこいやーを聞き分けれない拙脳なる私は
塾高にも志木校にも女子高にも進めず、
ジンマシンを人の形をした機械(ロボット)だと思いこんでた拙脳なる私は
慶大医学部へも行かず、
PKOとTKOの違いを説明できない拙脳なる私は
ついぞ詩人になることはできなかった。そんなわけで、
某公立中に通ってたわけであるが、クラスの中で男子でも女子でも
読書好きな者の間では、ドイツ人作家
Hermann Hesse(ヘアマン・ヘッセ、いわゆるヘルマン・ヘッセ、1877-1962)は
よく読まれてた。わけても、
今から100年あまり前の1906年に発表された
"Unterm Rad(ウンターム・ラート=車輪の下に)"
は、そうした者たちのほとんどが読んでた。
自由が丘は魚菜学園、田園調布は琥珀、
という置き換えでしか覚えれなかった拙脳なる私も、
ドイツ語が解らないので新潮文庫(高橋健二訳)で読んだ。
この小説の主人公Hans Giebenrath(ハンス・ギーベンラート)には
ヘッセ自身が投影されてる。ハンスは結局、
土左衛門となって発見されるいっぽう、
結果的に小説の主人公の10代での死とハンスる
85歳という長寿をまっとうすることになるヘッセもまた
10代で自殺をはかったことがある。
立派な牧師となるべく神学校に入れられた秀才ながら、
まったく不向きだったのである。そして、
周囲の期待と自己の希望に押しつぶされる。
ヘッセは詩人になりたかった。詩人である。
なりたいと思う者は多いかもしれないが、
名を残すほどの詩人になれた者は古今東西で数える程度である。

小説の主人公ハンスは誰にも救いを求めれなかった。対して、
ヘッセ自身には「母」という存在があった。
自分が死んだら母親がどんなにか悲しむか、
と考えれる、あるいは、そうした母のことを思うほどの子なら、
そもそもはじめから自殺などしようとは思わないのである。
ドイツ語で「車輪」を意味する"Rad(ラート)"は、
「放射状」を表す語幹rad-そのものである。つまり、
spokeが放射状になった輪である。いっぽう、
主人公のサーネイムであるGiebenrathには
"rath"という文字が入ってる。これも発音は
"Rad"と同じく「ラート」である。ちなみに、
"Rat"という名詞もドイツ語にはある。こちらは、
「助言」という意味である。つまり、
ヘッセはこの主人公のサーネイムを、
"Geben-Rat(ギーベン・ラート=助言を与える=raten)"
のモジリとして名づけたのだと思う。
ハンスに誰か手を差し伸べてれば、
この少年に誰か相談相手になってあげてれば、
あるいは溺死体となることはなかったかもしれない、
ヘッセ自身が救われたように。
勉強ができる子として神学校に見事入れたものの、
ハンスは落ちこぼれてくのである。
退学したハンスに父親は機械工になるかと言う。
ハンスはもうとうそんな職に就きたいなどというはずもない。
いやなことである。が、
落伍者のハンスにはそうも言ってれない。で、
神学校に入る前の学校のクラスメイトが
機械工の見習となってるのを思い出したハンスは
「助言」を求めにいく。その旧友の名をヘッセは
"August"とした。
「助言を仰ぐひと→助言をあおぐすと」である。
"August"は「威厳ある」「立派な」「尊敬に値する」
という意味合いである。本来、
詩作などにうつつを抜かす"文化人気取り"などより、
こうした手に職を持ち、地道に生きる者こそ
「認められる」者なのである。ちなみに、
ハンスとはドイツ語としてはヨハネスの縮小型である。
ヨハネ、イヨアンである。これは
「ヤハウェは慈悲深い」という意味を表す。ともあれ、
工場に勤めだしたもののどうしても性に合わないハンスは、
仕事帰りにビールを一杯ひっかける、
という"職人"の、"庶民"のささやかな楽しみに同行する。
それまで酒など飲んだことなどなかったハンスは
ノリでかなり飲んでしまう。そして、仲間の心配をよそに
一人で帰ると言って酒場をあとにする。
酩酊してたハンスはどう歩いたか覚えてないが、
村の道に出ていた。そして、
これから帰らなければならない「父の家」、そして、
また明日も気の進まない工場勤めが待ってる。
そんなハンスの頭に歌が浮かんだ。
"Oh, du lieber Augustin(オー、ドゥ・リーバー・アオグスティン)"
いわゆる「可愛いオーガスティン」である。
♪ソー・ー<ラ・>ソ>ファ│>ミー・>ドー・ドー│
<レー・>ソー・ソー│<ミー・>ドー・ドー♪
"O, du lieber Augustin,
Augustin, Augustin,
O, du lieber Augustin,
Alles ist hin!"
最後の「アレス・イスト・ヒン!」は直訳的には
「すべては去ってしまった」
である。
「覆水盆に帰らず」
「もう取り返しがつかない」
という意味である。この
"Augustin"は実在の人物のサーネイムであるが、
"August"の指小形である。
この歌(のAlles ist hin)と結びつけるために、
ヘッセは地道に自分の進むべき道を歩んでる旧友を
"August"と命名したのである。

タイトルの「車輪の下」という言葉は、
"運命の車輪の下で苦悩する"などという意味ではない。
ツルゲーネフの「父と子」でも触れたが、
四肢を馬車の「車輪に曳かれて八つ裂きにされる」という
キリスト教の反逆者への残酷極まりない処刑のことである。
神学校の勉強から脱落したハンスに下されたものなのであり、
極めて不名誉なことなのである。だから、
ハンスには自分を殺すこと以外にもう
選択肢は残されてなかったのである。
秋葉原で健気に生きてる無関係の人たちを無差別に殺した
加藤智大のような害虫にも、
「他所さまに迷惑をかけないで自分だけひっそりと死になさい」
という助言を与える者が欠如してたことと、
こういう害虫を産み、育んだ愚かで邪悪な親が何もしなかった、
というのが悲劇である。
葬儀が終わり、"不肖の倅"に死なれた父に
"普通の生活"に戻ることが示唆されて、
この小説は静かに閉じられる。
死ぬ者貧乏、とはよく言ったものである。
涙なくしては読めない小説である。とはいえ、
ヘッセ自身は結局ノーベル賞まで受ける凡人通俗作家として
85歳まで長らえた。所詮、
3流作家の2流小説である。
私は好きな小説であるが……。
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