本日は、米国第35第大統領、
John Fitzgerald Kennedy(ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ、
いわゆるJFK、1917-1963)がダラスをパレード中に
狙撃されて死んでから50年の日にあたる。
大統領選挙で勝って大統領になった者としては
米国史上最年少で就任したケネディ大統領は当時、
現在のオバマなど比べものにならないほど、
問題の山積み状態だった。
これほどマスコミ操作が巧みで、かつ、
見栄えも一般的にはよく、大衆に人気があった、
そして現在もある大統領はいない。がしかし、
政治的には、信長やリンカーンの比でないほど、
これほどあらゆる方面から
疎まれ憎まれ蔑まされてた大統領はいなかった。
四面楚歌、というよりは、350度楚歌だった。
英国王室が虐げてきたアイリッシュの子孫であり、
英国王室が目の敵にしてきたカトリックであり、
CIAをコケにし、FBIをオチョクり、
自国の軍とその関係各所に煮湯を飲ませ、
ソ連との核戦争の一歩手前までの危機を招きだし、
マフィアからの恩を仇で返し裏切って怒りを買い、
自分の副大統領に指名して恥をかかしたリンドン・ジョンソンと
その地元テキサス人たちから憎まれ、
ケネディ陣営の汚い不正選挙に負けたニクソンから恨まれてた。
親が金融と違法な酒類販売で儲けた裕福な家に育ち
ほとんど親のコネで地元ボストンのハーヴァードに行けたケネディと、
きちんと学力と資質で合格してたハーヴァードを
家族の治療費のために東海岸に行くことを諦め
まわり道を余儀なくされたニクソンに、
「神」は理不尽な勝敗をつけたのである。
大統領選の負け犬ニクソンは、それでも再起をかけて、
大統領選で選挙人を獲得したカリフォルニア州の
1962年の知事選に打って出た。が、
そこでも無惨に敗れ去った。ところが、
ニクソンはしぶとかった。1968年の大統領選を前に、
共和党の候補指名争いに戻ってきたのである。が、
またしてもニクソンをいらだたせる動きがあった。
民主党の指名候補にケネディの弟のロバートが参加してきたのである。
そしてなぜかまたしてもケネディ家の"当主"は、LAで、
「疑惑の銃弾」によって消されたのである。
JFKが抹殺されたダラスには、そのケネディがやってくる
直前までニクソンがいたことは、あまり知られてない。
政治の世界で惨敗を喫したニクソンは弁護士業に戻って
ペプシコの仕事を再開させてた。そしてなぜか、
JFKが嫌われてるテキサスに来る時期に、
全米清涼飲料水業者の大会が開かれてたのである。
テキサスに足を踏み入れたJFKは空港の歓迎の席で、地元有力者から
贈られた"カウボイ・ハット"を、かぶることを拒否した。
月曜にホワイトハウスでかぶると言って。ダラスに着いてからも、
うわべに騙されやすい大衆からは歓迎された。が、
有力者たちは違ってたのである。
ダウンタウンからスピーチ会場までにハイウェイを利用するためには、
直線のエルム通りではなく右の道に入るしかない、という理由で、
ルートが変更された。エルム通り手前で右折し、
教科書倉庫ビル前で左折する、という、
みょうりくりんなルートが採られたのである。そして、
果たせるかな、3発とも5発とも聞こえたらしい銃声が
数秒間にわたって鳴り響いた。
Lee Harvey Oswald(リー・ハーヴィー・オズウォルド、1939-1963)が
撃ったとされる教科書倉庫ビル6階の隅の窓からは、
大統領のパレード車はほぼ後ろになる。が、
6階と高いために、木が邪魔になって、
狙撃チャンスは相当に限定される。
事件後、しつらえたように教科書倉庫ビル6階に
3発の空の薬莢とともに置かれてたライフル銃カルカーノと、
それに付けられてた2年前に創業したばかりの
タスコ・ジャパンの4倍率のライフル・スコウプでは、
必殺を期してたとは到底思われない。
さまざまな証拠や証言などから、
大統領は3方向から2発ずつ撃たれた可能性が高い。
あるいは致命傷を負わせた弾の射手だけは一発勝負で、
計5発だったかもしれない。いずれにしても、
広場のようになってる場所で、日中、
公然と頭を撃ち抜かれたのである。これは、
マフィアの世界では"公開処刑""裏切り者への制裁"を意味してる。
そんな事案かーなとも思われるのである。
裏切り者といえば、本日は、
江戸の町人を戦火にみまうのがしのびないから
家臣団を取り残して捨てて単身大阪から船で逃げ帰った
徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、西暦およそ1837-1913)が
死んでから100年の日にあたる。また、
「青少年のための管弦楽入門」とオペラ「ピーター・グライムズ」で
わずかばかり知られてる英国の作曲家、
Benjamin Britten (ベンジャミン・ブリトゥン、1913-1976)の
生後100年にあたる日でもある。
いまもってJFK暗殺の真相は明らかにはなってないが、
誰が殺してもおかしくないほど同人は
多くの方面を無駄に敵に回したのである。
リー・ハーヴィー・オズワルドとベンジャミン・ブリテンの顔を
判別できない拙脳なる私には、
真犯人が誰なのか判るよしもない。いずれにせよ、
1963年は今年と曜日が同じ年だったので、
暗殺された日も今年と同じく金曜日だった。が、
オズワルドは電気椅子でfryになる前に消されたのである。
John Fitzgerald Kennedy(ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ、
いわゆるJFK、1917-1963)がダラスをパレード中に
狙撃されて死んでから50年の日にあたる。
大統領選挙で勝って大統領になった者としては
米国史上最年少で就任したケネディ大統領は当時、
現在のオバマなど比べものにならないほど、
問題の山積み状態だった。
これほどマスコミ操作が巧みで、かつ、
見栄えも一般的にはよく、大衆に人気があった、
そして現在もある大統領はいない。がしかし、
政治的には、信長やリンカーンの比でないほど、
これほどあらゆる方面から
疎まれ憎まれ蔑まされてた大統領はいなかった。
四面楚歌、というよりは、350度楚歌だった。
英国王室が虐げてきたアイリッシュの子孫であり、
英国王室が目の敵にしてきたカトリックであり、
CIAをコケにし、FBIをオチョクり、
自国の軍とその関係各所に煮湯を飲ませ、
ソ連との核戦争の一歩手前までの危機を招きだし、
マフィアからの恩を仇で返し裏切って怒りを買い、
自分の副大統領に指名して恥をかかしたリンドン・ジョンソンと
その地元テキサス人たちから憎まれ、
ケネディ陣営の汚い不正選挙に負けたニクソンから恨まれてた。
親が金融と違法な酒類販売で儲けた裕福な家に育ち
ほとんど親のコネで地元ボストンのハーヴァードに行けたケネディと、
きちんと学力と資質で合格してたハーヴァードを
家族の治療費のために東海岸に行くことを諦め
まわり道を余儀なくされたニクソンに、
「神」は理不尽な勝敗をつけたのである。
大統領選の負け犬ニクソンは、それでも再起をかけて、
大統領選で選挙人を獲得したカリフォルニア州の
1962年の知事選に打って出た。が、
そこでも無惨に敗れ去った。ところが、
ニクソンはしぶとかった。1968年の大統領選を前に、
共和党の候補指名争いに戻ってきたのである。が、
またしてもニクソンをいらだたせる動きがあった。
民主党の指名候補にケネディの弟のロバートが参加してきたのである。
そしてなぜかまたしてもケネディ家の"当主"は、LAで、
「疑惑の銃弾」によって消されたのである。
JFKが抹殺されたダラスには、そのケネディがやってくる
直前までニクソンがいたことは、あまり知られてない。
政治の世界で惨敗を喫したニクソンは弁護士業に戻って
ペプシコの仕事を再開させてた。そしてなぜか、
JFKが嫌われてるテキサスに来る時期に、
全米清涼飲料水業者の大会が開かれてたのである。
テキサスに足を踏み入れたJFKは空港の歓迎の席で、地元有力者から
贈られた"カウボイ・ハット"を、かぶることを拒否した。
月曜にホワイトハウスでかぶると言って。ダラスに着いてからも、
うわべに騙されやすい大衆からは歓迎された。が、
有力者たちは違ってたのである。
ダウンタウンからスピーチ会場までにハイウェイを利用するためには、
直線のエルム通りではなく右の道に入るしかない、という理由で、
ルートが変更された。エルム通り手前で右折し、
教科書倉庫ビル前で左折する、という、
みょうりくりんなルートが採られたのである。そして、
果たせるかな、3発とも5発とも聞こえたらしい銃声が
数秒間にわたって鳴り響いた。
Lee Harvey Oswald(リー・ハーヴィー・オズウォルド、1939-1963)が
撃ったとされる教科書倉庫ビル6階の隅の窓からは、
大統領のパレード車はほぼ後ろになる。が、
6階と高いために、木が邪魔になって、
狙撃チャンスは相当に限定される。
事件後、しつらえたように教科書倉庫ビル6階に
3発の空の薬莢とともに置かれてたライフル銃カルカーノと、
それに付けられてた2年前に創業したばかりの
タスコ・ジャパンの4倍率のライフル・スコウプでは、
必殺を期してたとは到底思われない。
さまざまな証拠や証言などから、
大統領は3方向から2発ずつ撃たれた可能性が高い。
あるいは致命傷を負わせた弾の射手だけは一発勝負で、
計5発だったかもしれない。いずれにしても、
広場のようになってる場所で、日中、
公然と頭を撃ち抜かれたのである。これは、
マフィアの世界では"公開処刑""裏切り者への制裁"を意味してる。
そんな事案かーなとも思われるのである。
裏切り者といえば、本日は、
江戸の町人を戦火にみまうのがしのびないから
家臣団を取り残して捨てて単身大阪から船で逃げ帰った
徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、西暦およそ1837-1913)が
死んでから100年の日にあたる。また、
「青少年のための管弦楽入門」とオペラ「ピーター・グライムズ」で
わずかばかり知られてる英国の作曲家、
Benjamin Britten (ベンジャミン・ブリトゥン、1913-1976)の
生後100年にあたる日でもある。
いまもってJFK暗殺の真相は明らかにはなってないが、
誰が殺してもおかしくないほど同人は
多くの方面を無駄に敵に回したのである。
リー・ハーヴィー・オズワルドとベンジャミン・ブリテンの顔を
判別できない拙脳なる私には、
真犯人が誰なのか判るよしもない。いずれにせよ、
1963年は今年と曜日が同じ年だったので、
暗殺された日も今年と同じく金曜日だった。が、
オズワルドは電気椅子でfryになる前に消されたのである。
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