昨日、宮中歌会始で天皇陛下は
皇太子妃の母方の江頭家(2:50エガチャンの親戚でもある)が
水銀を垂れ流したチッソ害による水俣を詠まれた。
[慰霊碑の 先に広がる 水俣の 海青くして 静かなりけり]
昨年末に、
落ちこぼれ若者の心情のダイベン者といった芸風のカリスマで
全裸で死んでたイケメン・ヤク中歌手(私はけっこう好きだが)や
"教授"などと呼ばれ呼ばせ悦に入ってる
反日左翼ながら金儲けだけはしっかりやってる
"作曲家"(私はかなり嫌いだが)などと同性関係があったり、
なるほど・ザ・チョコレイトよりもM男を苛め抜いてその褒美としてプレイの最後に
聖水を飲ませるのが好きな元アナ・タレント女史のM奴隷だったことで知られる人物が
異母兄弟同士不仲で有名だった大手版元から独立して成功した出版社から、
トンでもない新書が発売された。そのタイトルからして異様だが、内容たるや、
驚きももの木21世紀、である。
一般人以下にみうけられがちな誤認、
学者とは思えない無知、
美容整形依存症族と見紛うばかりの日本人離れした曲解・虚偽・陥穽・悪意。
<歴代八人一〇代の女帝が存在する。
にもかかわらず(男系固執派)が「皇室の危機」といいながら女性天皇を否定するのは、
明治以来の皇室典範に底流する単なる男尊女卑思想によるものではないか>
だと。
誰も女性天皇がいらっしゃったことを否定などしてない。ただ、
女性天皇は当座しのぎ措置である。
すべて未亡人の皇后もしくは皇太子妃または独身である。
自身の後続者に女性皇族を考えてた女性天皇は一人もいない。
この著者は学者だというのに
女系天皇(そんなものはありもしないが)と女性天皇の違いも区別しないらしい。
こんなトンデモ本を買って鵜呑みにしてしまう
オツムの足りないのがウジャウジャ出てきてしまったら、また、
園遊会でこんな本を陛下にケンジョウするような不届き者がでてきてしまったら、
いったいどう責任をとるのだろう。
かつて、
天武天皇とその后だった持統天皇は、二人の子の系統を
代々天皇につけていくことを夢見た。が、
抗争を繰り広げてるうちに聖武天皇で男系が途絶えてしまったのである。
そのときに当座しのぎ措置で皇太子となった聖武の娘が孝謙天皇であり
(cf;「春の苑、紅にほふ。桃の花、下照る道に、出で立つをとめ(大伴家持)/モモの語源と桃太郎」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/ca1b1f3715d89b03feaec22ed2a484e2 )、
淳仁天皇のワンポイントを経て重祚し、称徳天皇となった。そのとき、
道鏡が中国人みたいに皇位簒奪を図ったのである。そして、
その悪巧みを阻止した功労者が和気清麻呂なのであり、現在、
皇居大手門近くの気象庁前に銅像が建てられてその功績を称えられてる。で、
称徳天皇は後継者を置かないまま(道鏡との関係はともかく)生涯独身のまま崩御した。
皇統を汚さんとしたこの女性天皇に対し、
周囲は病の手当をさせず放置するという仕打ちをしたという。その死後に、
政争の蚊帳の外だった天智天皇の孫白壁王が62歳で光仁天皇として即位したのである。
その光仁天皇の父が、
[采女の、袖吹きかへす。明日香風、都を遠み、いたずらに吹く]
(持統帝時に飛鳥浄御原宮から藤原宮に遷都したのだが、その旧都の
寂れぶりを懐古した歌である)
でも知られる"万葉歌人"志貴皇子である。同皇子は天智天皇の子ながら、
すでに天武持統系となってた皇位には無縁だった。
采女(うねめ)とは、地方豪族の容姿端麗な女子で、
天皇皇后の身の回りを仕切る女官のことである。ちなみに、
ウネメという呼称は「うなゐめ(unawime→unaime)」の二重母音aiがeに詰まったものである。
だから、万葉集でも「うねめ」としたのでは字足らずになるので
「うないめ」と読んだほうが自然である。ともあれ、
「うなゐ」とは「うなじ」の位置で髪をザンバラにすることを「うなう」と言った。
その連体形「うなゐ」に女(め)が接続したものである。うない髪は通常は
幼い女子の髪型であるが、天皇皇后の側近であるゆえ、
髪を長くしてまとめて危険物を隠したりできないように
そうした髪型にしてたのである。
万葉集には「采女」が詠み人とされてるものは少ない。はっきりしてるのは、
駿河采女と豊島采女の各2首である。が、
豊島采女の歌はともに"死後"別人によって紹介された形をとってるのが
異様である。
(万葉集巻06-1026)
[百敷(ももしき)の 大宮人は、今日もかも 暇(いとま)を無みと 里に出でざらむ]
(拙大意)「たくさんの石や木でできた宮中に勤める、殿上人(上級貴族)は、
今日もやっぱり、仕事が忙しくて暇がないから、
自宅に帰ろうと宮中から出ないようですね(里=自宅)」
(同-1027)
[橘の 本(もと)に道踏む。八衢(やちまた)に 物をぞ思ふ。人に知らえず]
(拙大意)「橘の木のもとで足踏みしてるみたいなことですよ。
橘の幹が枝分かれしてるように道がいくつも分岐してるその場所で、
どちらの道に進む決断もできずにね思い悩んでるっていうことなんです。
立ち話し(橘氏)はおろか誰にも相談できずにね」
1026番は、
[右一首右大臣(=橘諸兄)傳云 故豊嶋采女歌]
天平10年(西暦およそ738)に、
橘諸兄が自宅の宴席で故人豊島采女作として披露した歌であり、
1027番は、
[右一首右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女之作也]
高橋安麻呂がやはり故豊島采女が詠った歌だと紹介してる体である。
この2首、ともに「故豊嶋采女」の作というだけでなく、
天平10年(西暦およそ738)という共通点があるのである。なぜなら、
高橋安麻呂当人の「続日本紀」における既述は、
大宰大弐に任じられた(赴任はしてないと推定されてる)
天平10年(西暦およそ738)が最後だからである。
この高橋安麻呂は、
阿倍帯麻呂(あの仲麻呂の実弟)一味が
天平7年に起こした4人殺害事件の"裁判官"の一人(右中弁)だった。が、
その【裁判を放置するという職務怠慢】によって
被害者遺族から提訴されて処罰されたのである。
ともあれ、
橘諸兄と高橋安麻呂は「故豊嶋采女作」という体で
互いの立場を応答してるのである。
高橋安麻呂は橘諸兄に相談したいんだが、と問い、
橘諸兄は殿上人としての仕事で家にも帰れないくらい忙しくて時間とれへんで悪いね、と返した。
天平10年(西暦およそ738)という年はまた、
その9年前に起きた「長屋王の変」にも関係してる。
血筋がいい長屋王を疎ましく思ってた聖武天皇と藤原4兄妹は
策謀を巡らした。
中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)に、
「長屋王は密かに左道(=悪事)を学びて国家を傾けんと欲す」
と誣告させた。追い詰められた長屋王は自害して果てたのである。
その9年後の天平10年(西暦およそ738)、
右兵庫頭となってた中臣宮処東人は
長屋王の臣であった大伴子虫(左兵庫少属)と、
【政務の間に囲碁に興じるという職務怠慢】を犯してた。そのさなか、
かねて敵討ちを狙ってた大伴子虫は長屋王の話題を持ちだし、
罵倒して抜刀し、中臣宮処東人を斬り殺したのである。
この中臣宮処東人は、その"呼称"からも判るように、
讃岐国山田郡宮処(現在の香川県高松市前田(東および西)町)を領地とする
中臣氏である。中臣氏ということはつまりは
中臣→藤原となった鎌足の子孫藤原4兄妹と縁戚である。で、
その宮処という地はその名のとおり、宮中に関係する土地である。
長屋王を計略で亡き者にした藤原4兄妹が
天平9年に天然痘などで相次いで死んだ。長屋王の祟りを畏れ、
聖武天皇が音頭を取って建立した「東大寺」の領地でもあった。
いっぽう、
上記の万葉集の2首の作者とされてる采女は、
豊島采女という名からその出身地が「豊島」であると推定されてる。が、
どこだかは判然とはしてない。私見では、
現在の香川県豊島(てしま)諸島という符牒だったと考える。そして、
上記万葉集の"故豊島采女作"の2首は、
高橋安麻呂と橘諸兄の"長屋王の変への関わり度"、つまり、
安麻呂は立場を決めかね(結局は加担した?)、諸兄は多忙をたてに関わらなかった、
という立場を表してるのだ、と。
皇太子妃の母方の江頭家(2:50エガチャンの親戚でもある)が
水銀を垂れ流したチッソ害による水俣を詠まれた。
[慰霊碑の 先に広がる 水俣の 海青くして 静かなりけり]
昨年末に、
落ちこぼれ若者の心情のダイベン者といった芸風のカリスマで
全裸で死んでたイケメン・ヤク中歌手(私はけっこう好きだが)や
"教授"などと呼ばれ呼ばせ悦に入ってる
反日左翼ながら金儲けだけはしっかりやってる
"作曲家"(私はかなり嫌いだが)などと同性関係があったり、
なるほど・ザ・チョコレイトよりもM男を苛め抜いてその褒美としてプレイの最後に
聖水を飲ませるのが好きな元アナ・タレント女史のM奴隷だったことで知られる人物が
異母兄弟同士不仲で有名だった大手版元から独立して成功した出版社から、
トンでもない新書が発売された。そのタイトルからして異様だが、内容たるや、
驚きももの木21世紀、である。
一般人以下にみうけられがちな誤認、
学者とは思えない無知、
美容整形依存症族と見紛うばかりの日本人離れした曲解・虚偽・陥穽・悪意。
<歴代八人一〇代の女帝が存在する。
にもかかわらず(男系固執派)が「皇室の危機」といいながら女性天皇を否定するのは、
明治以来の皇室典範に底流する単なる男尊女卑思想によるものではないか>
だと。
誰も女性天皇がいらっしゃったことを否定などしてない。ただ、
女性天皇は当座しのぎ措置である。
すべて未亡人の皇后もしくは皇太子妃または独身である。
自身の後続者に女性皇族を考えてた女性天皇は一人もいない。
この著者は学者だというのに
女系天皇(そんなものはありもしないが)と女性天皇の違いも区別しないらしい。
こんなトンデモ本を買って鵜呑みにしてしまう
オツムの足りないのがウジャウジャ出てきてしまったら、また、
園遊会でこんな本を陛下にケンジョウするような不届き者がでてきてしまったら、
いったいどう責任をとるのだろう。
かつて、
天武天皇とその后だった持統天皇は、二人の子の系統を
代々天皇につけていくことを夢見た。が、
抗争を繰り広げてるうちに聖武天皇で男系が途絶えてしまったのである。
そのときに当座しのぎ措置で皇太子となった聖武の娘が孝謙天皇であり
(cf;「春の苑、紅にほふ。桃の花、下照る道に、出で立つをとめ(大伴家持)/モモの語源と桃太郎」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/ca1b1f3715d89b03feaec22ed2a484e2 )、
淳仁天皇のワンポイントを経て重祚し、称徳天皇となった。そのとき、
道鏡が中国人みたいに皇位簒奪を図ったのである。そして、
その悪巧みを阻止した功労者が和気清麻呂なのであり、現在、
皇居大手門近くの気象庁前に銅像が建てられてその功績を称えられてる。で、
称徳天皇は後継者を置かないまま(道鏡との関係はともかく)生涯独身のまま崩御した。
皇統を汚さんとしたこの女性天皇に対し、
周囲は病の手当をさせず放置するという仕打ちをしたという。その死後に、
政争の蚊帳の外だった天智天皇の孫白壁王が62歳で光仁天皇として即位したのである。
その光仁天皇の父が、
[采女の、袖吹きかへす。明日香風、都を遠み、いたずらに吹く]
(持統帝時に飛鳥浄御原宮から藤原宮に遷都したのだが、その旧都の
寂れぶりを懐古した歌である)
でも知られる"万葉歌人"志貴皇子である。同皇子は天智天皇の子ながら、
すでに天武持統系となってた皇位には無縁だった。
采女(うねめ)とは、地方豪族の容姿端麗な女子で、
天皇皇后の身の回りを仕切る女官のことである。ちなみに、
ウネメという呼称は「うなゐめ(unawime→unaime)」の二重母音aiがeに詰まったものである。
だから、万葉集でも「うねめ」としたのでは字足らずになるので
「うないめ」と読んだほうが自然である。ともあれ、
「うなゐ」とは「うなじ」の位置で髪をザンバラにすることを「うなう」と言った。
その連体形「うなゐ」に女(め)が接続したものである。うない髪は通常は
幼い女子の髪型であるが、天皇皇后の側近であるゆえ、
髪を長くしてまとめて危険物を隠したりできないように
そうした髪型にしてたのである。
万葉集には「采女」が詠み人とされてるものは少ない。はっきりしてるのは、
駿河采女と豊島采女の各2首である。が、
豊島采女の歌はともに"死後"別人によって紹介された形をとってるのが
異様である。
(万葉集巻06-1026)
[百敷(ももしき)の 大宮人は、今日もかも 暇(いとま)を無みと 里に出でざらむ]
(拙大意)「たくさんの石や木でできた宮中に勤める、殿上人(上級貴族)は、
今日もやっぱり、仕事が忙しくて暇がないから、
自宅に帰ろうと宮中から出ないようですね(里=自宅)」
(同-1027)
[橘の 本(もと)に道踏む。八衢(やちまた)に 物をぞ思ふ。人に知らえず]
(拙大意)「橘の木のもとで足踏みしてるみたいなことですよ。
橘の幹が枝分かれしてるように道がいくつも分岐してるその場所で、
どちらの道に進む決断もできずにね思い悩んでるっていうことなんです。
立ち話し(橘氏)はおろか誰にも相談できずにね」
1026番は、
[右一首右大臣(=橘諸兄)傳云 故豊嶋采女歌]
天平10年(西暦およそ738)に、
橘諸兄が自宅の宴席で故人豊島采女作として披露した歌であり、
1027番は、
[右一首右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女之作也]
高橋安麻呂がやはり故豊島采女が詠った歌だと紹介してる体である。
この2首、ともに「故豊嶋采女」の作というだけでなく、
天平10年(西暦およそ738)という共通点があるのである。なぜなら、
高橋安麻呂当人の「続日本紀」における既述は、
大宰大弐に任じられた(赴任はしてないと推定されてる)
天平10年(西暦およそ738)が最後だからである。
この高橋安麻呂は、
阿倍帯麻呂(あの仲麻呂の実弟)一味が
天平7年に起こした4人殺害事件の"裁判官"の一人(右中弁)だった。が、
その【裁判を放置するという職務怠慢】によって
被害者遺族から提訴されて処罰されたのである。
ともあれ、
橘諸兄と高橋安麻呂は「故豊嶋采女作」という体で
互いの立場を応答してるのである。
高橋安麻呂は橘諸兄に相談したいんだが、と問い、
橘諸兄は殿上人としての仕事で家にも帰れないくらい忙しくて時間とれへんで悪いね、と返した。
天平10年(西暦およそ738)という年はまた、
その9年前に起きた「長屋王の変」にも関係してる。
血筋がいい長屋王を疎ましく思ってた聖武天皇と藤原4兄妹は
策謀を巡らした。
中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)に、
「長屋王は密かに左道(=悪事)を学びて国家を傾けんと欲す」
と誣告させた。追い詰められた長屋王は自害して果てたのである。
その9年後の天平10年(西暦およそ738)、
右兵庫頭となってた中臣宮処東人は
長屋王の臣であった大伴子虫(左兵庫少属)と、
【政務の間に囲碁に興じるという職務怠慢】を犯してた。そのさなか、
かねて敵討ちを狙ってた大伴子虫は長屋王の話題を持ちだし、
罵倒して抜刀し、中臣宮処東人を斬り殺したのである。
この中臣宮処東人は、その"呼称"からも判るように、
讃岐国山田郡宮処(現在の香川県高松市前田(東および西)町)を領地とする
中臣氏である。中臣氏ということはつまりは
中臣→藤原となった鎌足の子孫藤原4兄妹と縁戚である。で、
その宮処という地はその名のとおり、宮中に関係する土地である。
長屋王を計略で亡き者にした藤原4兄妹が
天平9年に天然痘などで相次いで死んだ。長屋王の祟りを畏れ、
聖武天皇が音頭を取って建立した「東大寺」の領地でもあった。
いっぽう、
上記の万葉集の2首の作者とされてる采女は、
豊島采女という名からその出身地が「豊島」であると推定されてる。が、
どこだかは判然とはしてない。私見では、
現在の香川県豊島(てしま)諸島という符牒だったと考える。そして、
上記万葉集の"故豊島采女作"の2首は、
高橋安麻呂と橘諸兄の"長屋王の変への関わり度"、つまり、
安麻呂は立場を決めかね(結局は加担した?)、諸兄は多忙をたてに関わらなかった、
という立場を表してるのだ、と。
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