ホーソーン没後150年
我が頭髪の後退ぶりはHAGE and WAZKAであり、
その中身の脳は、藤波辰巳と左とん平の顔を
瞬時には判別できないほどの拙脳であり、
ヤクも嗜めないたちなので芸術的才能も皆無である。
一昨日、日本の歌謡界でヒットを飛ばしてきた
歌謡歌手が覚醒剤所持容疑で逮捕された。
相方やファンはけしからん、がっかりだよ、
みたいなことを言ってるようである。が、
歌謡歌手や歌謡曲作家も"アーティスト"のはしくれである。
音楽のおの字も解さない一般大衆に
本当の鮨を知らない人々にも代用魚で
"すし"を垣間見せてくれる
回転寿司屋のようなものなのである。が、
凡人が作る歌謡曲を聴いてもありがたみは稀薄である。
メンヘラだから、ヤク中だから、社会不適合人格だから、
常識とは無縁な人物が他には自己表現できない手段だからこそ、
そういった"楽曲"に価値があるのであって、
週一のゴミ出しをせっせと行うご近所ウケもいい
イクメンの男が作ったきわめて常識的な"楽曲"に
何のありがたみがあるというのか。
クスリで命を削ってまでも大衆の心をとらえる、
いわば"魂を売った"外道が"楽曲"を産み出すからこそ
一般常識人の大衆にとっては奇特な存在なのである。
回転寿司屋でもごくまれにでも
大間のマグロを一皿100円で出してくれる
非常識な男だからこそ価値があるのである。
身銭を削ったにせよ、強奪してきたものにせよ。
本日は、米国の作家、
Nathaniel Hawthorne(ナタニエル・ホーソーン、1804-1864)
の没後150年の日にあたる。10代のガキの頃、
積極的に読んだ作家の一人である。といっても、
好きだというわけではない。
幼稚園と小1まで給食に脱脂粉乳を飲まされた敗戦国のガキ心に、
戦勝国アメリカを知るよすがとして選んだ作家なのである。
レコンキスタを終えたスペインおよびポルトガルによる、
イエズス会を先鋒とするカトリックによる世界制覇の野望は、その途上に、
プロテスタントのオランダ、そして、英国、さらには米国と、
覇者は変われども、キリスト教民が成し遂げた。現在、
世界をリードしてるのは、民族や宗派は異なれども、
キリスト教国家なのである。
政教分離・三権分立という建前があるにも関わらず、
英国王の即位、米国大統領の就任において、また、
一般民の裁判でも、キリスト教の聖書のもとに誓いをたてる。
たしかに、建国当時はまだ
宗教(キリスト教)によって国を統治することが
もっとも効率的だったかもしれない。が、
いずれはその"効力"も途切れるときが来る。ことに、
ネット時代になった現在、
宗教を隠れ蓑にした非科学やオーラは
一気に通用しなくなってしまってる。
"あの世"などないことは、
まともな神経をしてれば幼稚園児にでも解る。が、
そうした反面、もともとキリスト教のまやかしに乗せられない
日本人は現代ではかえって、疑似科学に対する警戒心も薄い。
みのもんたの番組で何々がいいと放送すれば、
たちまちスーパーからそれが品薄になった時代とさほど違わず、
"放射能が除去できる○○"
の類を信じて買いこむむきが未だに少なくない。
ABO式血液型で人格を区分する愚はおそろしく深く浸透してる。
ホーソーンは自らの出自をメイフラワー号時代に遡る、
アメリカ建国を担ったと自負するピュアリタンである。さらに、
ホーソーンは4歳のときに父を亡くしてる。
幼少期に親が欠如すると、
片親の価値観漬けにされ、あるいは、
祖父母のような隔世世代の価値観を押しつけられるため、
きわめて偏狭な価値観の持ち主になることがある。また、
片親もしくは両親がいないことでその成長過程において
艱難辛苦を味わうと、反社会性の精神が植えつけられる、
という場合もままある。が、
両親が揃ってても、その二人の価値観が、
宗教や政治信条で結ばれてるものだったりすると同じことである。
ケチの子はケチになり、反権力思想の子は反権力思想の持ち主になる、
といったことは往々にしてある。
ホーソーンの代表作である
"The Scarlet Letter(邦題=緋文字)"(1850年)
は、現在でも米国の一般的教養人の間では知らぬ者がないほど、
"スタンダード"となってる古典文学である。
女主人公Hester Prynne(ヘスター・プリン)は、
親の借金のためにヒヒジジイと結婚させられた。そして、
その男の行方が知れなくなって死んだと思われた時期に、
ヘスターは生物の本能によって欲した男と情交をもった。そして、
女の子を出産し、Pearl(パール)と名づけた。
リメンバー・パールちゃん、である。
キリスト教プロテスタント清教徒が支配するボストンの社会はそれを許さなかった。
ヘスターを裁判にかけ、死罪を要求した。が、
"特段のご慈悲"によって数時間の"晒し"と、
一生涯、胸にA文字を縫いつけた衣装を身につけて暮らす、
という裁定が下された。"A"とは、
"adultery(アダルテリ=姦通女)"
という意味である。江戸時代の日本でも、
"姦通"した者への処罰はおおむねそんなものだった。ちなみに、
キリスト教信者と日本人の倫理観の肝の差異は、
前者が罪悪への神からの赦しの可否にあるのに対して、
後者は当事者または"ご近所"もしくは"世間さまの目"
による禊ぎの可否にある。
それはさておき、
ヘクターは夫が死んでるという認識の上で他の男と交わったのであり、
一般的な不義密通とは性質が異なる。それでも、
"法"はヘクターの行為を罪として処罰するのである。
法律は守らなければならないものであるいっぽう、
法律が正義になじまないことも少なくない。また、
真実は第三者には知る由がない。そこで、
陪審員制度が敷かれるのである。が、
現実には真実よりも"いかに陪審員が真実と信じるに足るか"
が重要となるのである。よって、
判断の決め手となる"信じるに足る"証拠が揃ってるほうに人は傾く。
だから、英米の刑事裁判の場合、
"Guilty"(有罪)あるいは"Not Guilty"(非有罪)であって、
「有罪」あるいは「無罪」ではないのである。
ホーソーンの"The Scarlet Letter(邦題=緋文字)"の終いは、
こう結ばれてる。
(ヘスターの墓碑にはこう刻まれてる、という前振りに続いて)
"ON A FIELD, SABLE, THE LETTER A, GULES"
(オンナ・フィールド、セイブル、ダ・レター・エイ、ギュールズ)
「(拙大意)紋章の地は黒色、そこにAの文字が紅色で」
(field=紋章の地、sable=紋章の黒色、gules=紋章の紅色)
このgulesという紋章における色は一般的な色の呼びかたでは
scarlet(スカーレット)である。だから、
この小説のタイトルは「ザ・スカーレット・レター」なのである。では、
"scarlet"の原義は何かといえば、
言語学的にはペルシャ語由来だろうということで
それ以上は定かでないらしい。が、私見では、
西欧キリスト教社会では、そのペルシャの邪教の拝火教における
「炎の色」であることから蔑まれることになったと推察する。
それがまた、
コロンブス一行が西インド諸島から持ち帰った梅毒の
「瘡」と重なった。梅毒に感染すると、その第二期に
ジベル薔薇色粃糠疹のような赤い発疹症状を呈する。さらに、
第三期には皮膚の腫瘍で赤い瘡だらけになる。
こうしたことから、
性病に罹患しやすい売春婦、淫売女のような
ふしだらな女という意味で、
身持ちの軽い女性を"scarlet"という符牒で蔑んだのである。ちなみに、
色としてのscarletは日本でいう緋色とはまったく異なるので
実際には「緋文字」という邦題は正しさを伝えてないことになる。
さて、
米国映画"Gone with the Wind(風と共に去りぬ)"
は史上最高の映画とみなされてる。主人公Scarlett O'haraが、
希望を失わず一人の女性として未来に向かって立ち上がる姿を描いた、
という美談としてとらえられてる嫌いがある。が、
その実態は、"火病"ともいえるスカーレットのアシュリーへの偏執的恋慕と自己中な性根、
そして、それにも関わらず思いどおりにならない世の中、しかし、
そんな自分には関係なく世界は立ちゆくのだ、という、
マーガレット・ミッチェル女史の自尊心に満ちた人格と
負け犬としての実体験で屈折した諦観が表出した、
一般読者が本来共感などしない類の自伝的小説なのである。
ミッチェル女史はフェミニズム活動家の母親の顔色を常に窺って少女時代を送った。
弁護士業で多忙な父親の存在は稀薄となる。片親の子と同じである。
子供のときの落馬体験が、自信過剰が引きおこす失敗にとらわれ、
小説の中でもスカーレットの父の落馬死だけで事足りず、4歳の娘までも
同じく落馬で死ぬというプロットを採らせた。そして実際に、
ミッチェル女史は不注意で道を横切って車にはねられて
48歳の生涯を終える。
ともあれ、
ミッチェル女史がそのやや短めな生涯に唯一書いた小説の主人公の名を
"Scarlett"としたのは、ホーソーンの
"The Scarlet Letter"を意識してのものだと私は感じる。
スカーレット・オハラは(少なくとも小説の終わりの時点では)3度結婚した。が、
そのいずれもスカーレットが生物の本能として惹かれた相手ではなかった。
アシュリーへの当てつけや打算である。そういった意味において、
自己中多淫症なスカーレット・オハラの身持ちは"scarlet(ふしだらな)"なのである。
17世紀前半の、まだできたばかりの町だったボストンの
ピュアリタンらによって断罪されたヘスターには、
胸に姦通女を意味する"A"の文字を縫いつけた服を着ることが義務づけられたが、
20世紀、そして21世紀のボストンでは、
紺地に白縁附きの赤い文字"B"が貼りつけられたキャップの
レッドソックスが、市民のアイデンティティを確認する小道具となってる。
その"B"は"Boston"の頭文字であって、
"Bitch"を表してるわけではないらしい。
コメントありがとうございました。
私は文学者ではありませんので特段勉強してるわけではありません。
僧院内の男色は単に性欲を満たす異性がいないので代替であるだけのことも多いでしょうし、
男の子を買う類のキリスト教白人男性小児性愛者は男女同権のプレッシャーや性差からもたらされるものではなく、
親とくに父親からの何らかの辛苦から生じた憎悪・復讐心が満たされずにキリスト教(権威)への反抗心が助長されて成長したか、あるいは、
先天的な脳の機能欠落によるものがほとんどだと思われます。
THE SCALET LETTERが日本の緋文字ではない。中学で緋とならッ田の二。又GONE WITHのSCALEETTE O’HARA が関連しているyとは。ただ僧院の男色は。オランダ人やスエーデン人がふぃるいぴんへ男の子を買いに来る。それを目当てに母親が男のの子を着飾って歩く。これは男女同権からの逃避と思っていましたが。