昨日、高校の同級生の訃報が入ってきました。
今日はその子の思い出話として書くので、興味ない方は無視してください。
2年生の時に同じクラスになった、バレー部の男子。
私の高校時代は暗黒だった、という事は何度か書きましたが、2年生の時のクラスは楽しかった。
男子たちとも普通に仲良くして、その中でも特に仲の良かった男子ふたりのうちの一人でした。
私がとろくさかったので、「とろこ」と親しみを込めて呼んでくれていました。
バレー部ではセッターをしていて、スポーツマン。
顔も爽やか系で、女子にもてました。
友達にも彼を好きな女子は何人かいましたが、私は純粋に友達として好きでした。
その子は、東京の体育大学に進み、その時にも他の同級生数人と集まって飲むこともありました。
卒業後、地元の県の女子高の体育の先生になり、バレー部の顧問になりました。
昔から好きだったバレーを、そのような形で続けられた彼でした。
私が帰省した折には、高校の時の仲良しグループで集まることもしばしばありました。
教え子と結婚して冷やかされていましたが、年月が過ぎて、校長先生になったと聞きました。
しかし、その後会った時に、校長をやめたっていうんです。
校長になると生徒と関われないから、というのが理由で、彼らしいなと感心しました。
最後にみんなと一緒に会ったのは、私が手術をする何年か前ですから、もう10年以上前でしょう。
そんな彼からは、毎年印刷しただけの年賀状が来ていました。
教え子やら教員関係やら・・・とてもたくさんの年賀状をやりとりしていたと思います。
そのうち、私がすべての年賀状のやり取りをやめさせていただくという選択をして、年賀状も来なくなって久しかったのですが、なぜか今年、彼から手書きの年賀状が来ました。
主夫をやっていると、ほのぼの幸せそうな文面でした。
喪中だったこともあり、普通のはがきに近況などを書いて返信したのですが、それが最後でした。
今にして思えば、体調が悪くて家にいることが多かったのかもしれません。
思い出す爽やかな笑顔。
たまに神経質そうな表情を垣間見ることもありましたが、大体は一歩引いてみんなを見ているような人でした。
でも、卒業してから数年後、私が人生に迷っていた時期に、夢を語って、彼に説教されたことがありました。
説教といっても、厳しいものではなくて、言葉を選んで最小限の言葉で、想いを伝えてくれた記憶があります。
今年は、もう一人の同級生の訃報を聞いたのですが、私はその彼にも説教をされたことがありました。
苦笑
文句を言われることはあっても、私に説教してくれる人はもういない。
善き人が行く。。。その言葉をかみしめた昨日でした。
どんな葬儀を出されるのかわかりませんが、先生だった彼を悼む人は何百人、それ以上かもしれません。
亡くなった時にその人の人生がわかると思ったことがあります。
何年も前ですが、息子の少年野球のコーチをしてくださっていた方が事故で亡くなった時、葬儀に保護者などの行列ができて、ユニフォームを着たこどもたちが、斎場の外で脱帽して「ありがとうございました!」と、叫んでいたのを見たときに、初めてそう思いました。
私が死んだら、葬式はしないで、お墓もいらないから、と遺言は残していますが、私の人生はそういう人生だったってことでしょうね。
友達、と呼ばせてもらえるのかわからないので、敢えて「仲間」と書きました。
後付けになってしまうのですが、実は数日前に、彼のことを思い出していました。
私は短大卒業してすでに働いていましたが、まだ学生だったもう一人の仲間の男子が海外旅行に行って帰国した日に合わせ、三人で会って飲んだことがあったのです。
お土産をもらいがてら。
あれってこの時期?海外旅行に行くくらいだから、夏休みの時期だったかなあ、と漠然と思い出したばかりでした。
亡くなる前、彼は何を思っていたのでしょうか。
聞いた話によると、腎臓が悪かったようです。
高校卒業してからも、何度も会った仲間の一人だったので、ショックは大きいです。
年齢とは関係ないとも思うけど、親が老いて逝き、同級生が病気で亡くなることも増えてくる年頃です。
しみじみします。
昨日は猛禽の絵を描きました。
クマタカの若鳥さんです。アクリルと少しパステルも使いました。邪道ですけど。
先日は、広島原爆の日に合わせて絵を描きましたが、今日はこの絵を長崎原爆の日に合わせて載せておきます。
逝った命に哀悼と、そして少しの希望もこめて。
今日の長崎での式典は、台風の影響で60年ぶりに屋内開催だそうです。
広島長崎、そして終戦の日、身近な人の訃報。。
命について思う夏です。
ご訪問頂きありがとうございます。
どうぞ命を大切に。
感謝をこめて
つる姫