☆つる姫の星の燈火☆

父の手紙

 

 

今日も、ご訪問くださりありがとうございます。

今度の日曜日は父の日ですね。

 

つる姫の父は、田舎の町の写真屋さんでした。

登山、バイク、車の旅、物作りの好きなだった父も

今は難病指定の病気になって、すっかり痩れてしまいました。

そんな父が、娘の夏休みの宿題の為に書いてくれた手紙を

紹介します。

戦争の話なので、興味のない方はスルーしてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

原文のまま

 

〇ちゃんへ じィじィ~より                 

先日は、立派な贈り物ありがとう。
いつまでも大事に着たいと思います。
○ちゃんの夏休みの宿題が、戦争体験者のお話を聞いて行くとか・・


太平洋戦争が始まったのが、昭和16年12月8日。
そして、終戦が昭和20年8月15日です。
およそ3年7か月間位の戦争期間でした。
その間にじいじーは2回恐ろしい目にあいました。

最初は昭和20年6月29日です。
じいじーはまだ15歳になったばかりで
兵隊になるには年が足りなく、陸軍軍属として
岡山市にあります太刀洗飛行学校の整備工の卵として
征空道場と言ふ寮に入っておりました。

そして夜は一人1時間ずつの交替で不審番をつとめます。
じいじーの不審番が6月29日12時~1時頃だったでしょうか。

寮の外側を見てまわってふと空を見上げると
岡山駅付近の空がまっかにそまっているではありませんか。

じいじい大きな声で「空襲じゃー空襲じゃー」と
叫びまわり、着のみ着のまま、下駄をわきの下にかかえて
逃げ回りました。

アメリカのボーイングB29と言ふ爆撃機からは
焼夷弾といって、鉄パイプの中にドロドロした液体が入っており
それに飛行機で火をつけ落下させます。

家とか地上に落ちると、火のついたドロドロの物体があちこちに
飛び散り、火災が起きると言ふ具合です。

火が付いて落ちて来る焼夷弾の炎と
風を切って落ちるヒュルヒュル々々と言ふあの音は
61年たってもじいじいーの目と耳に
今でもハッキリ記憶しております。

長く感じた空襲も、夜が明けるとB29もマリアナの
基地に帰ったのでしょう。いなくなっておりました。

そして征空道場はと、行ってみますと
跡形もなく焼失してしまい、じーじーの服もお布団も
身の回り品何もかも灰となっておりました。

ウロウロ歩いているうちに、ヌルッとしたものをふみつけました。
足元を見ますと焼けて死んだ人の腹わたを踏んだのです。

じーじーその時もまだハダシだったのです。

その夜からは寝る所もないので
飛行場の倉庫の様なところで、蚊になやまされ乍ら
8月15日の終戦日まで過ごしました。

 

二回目の体験は
アメリカ空軍の戦闘機グラマンと言ふ飛行機からの攻撃でした。

飛行場の練習機目がけて一機ずつ急降下して来て
機銃でバリバリと撃ちまくります。

練習機にはタマは殆んど当たっておりませんでした。

急降下して来たパイロットの顔が
はっきり見える位の高度まで下がって来ました。

グラマンの一機が、飛行場の近くの工場目がけて
ロケット弾を一発発射しましたが
不発だったのをおぼえております。

その時はあっと言ふ間のグラマンの飛来ですので
逃げるところも見つからず
じーじー1人だけ畠の中へかけこみ
ワラを体の上にかけて
飛行機から見つからない様にじっと動かないでおりました。

地上の人間一人見つけても
グラマンのやつは旋回して来て撃ちまくるのです。

今でもその時の機闘銃の音、耳の奥に残っているようです。

又、急降下した時の、キョロキョロと顔を動かした
パイロットも思い出します。



じーじーのお話し上手で無いのでありますが
○ちゃん少しでもわかってもらえたでしょうか。
少しでも○ちゃんの宿題のお役にたてばと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

15歳の少年の怖ろしい体験です。

6月29日というのは、岡山大空襲の日だったようです。

 

 

今も世界のどこかで、戦争や暴動が起こっています。

日本は戦争はしてないけど

昨日も大阪で通り魔殺人があったし

脱法ハーブとかを吸いながら車を運転して人をひいたり

飲酒運転だって、後を絶たない。

そのために、何の落ち度もない人が命を失っています。

 

大震災の後、被災者の方はもちろん

多くの人たちが、意識を新たにしてきたことと思います。

でも、大きな流れはちっとも変ってないように思えます。

 

あっ!話しがややこしくなってしまった。

えろう、すんません。

 

お父さんの思い出はありますか?

つる姫は、幼いころ父にいろんな所に連れて行ってもらったので

母との思い出より、父との思い出の方が多い事に気づきました。

父の還暦のお祝いには、

弟と費用を出し合って、三人で東北まで車で旅をしました。

もっとも、運転は全部父。 苦笑

 

先日、父を訪ねた時に欲しがっていた電気カミソリを贈ります。

一人で、広島から北海道までもドライブしていた父の手は

電気カミソリを握る力も弱くなってしまいました。

 

ふるさとに、もうホタル飛んでるかな。

座布団投げて捕まるほどの、ホタル。

 

 

一週間が始まりました。

今の暮らしとご先祖様、親兄弟に感謝して

がんばってまいりましょう。

 

 

 

感謝をこめて                                つる姫

 

 



 


私の好きなものは笑顔。笑顔は世界を救うと信じるつる姫のブログです。

コメント一覧

つる姫
ふっきーさん
貴重なお話をありがとうございます。

ちょうど、息子のブログに
広島平和公園を訪ねた時のことが
かいてありました。
詳しくはブログを見てやってください。

>>過去を記憶しない者は、同じ過ちを繰り返す。」という言葉に出会いました。
戦争ということを繰り返すことがないように、僕たち若い人たちがそれを理解することは大事に思います。>>

一人でも多くの若い人たちに、こういう事をみて沢山の事を感じてほしいです。

ちなみに、私のおじいちゃんも
国鉄で働いていました。
27歳で、脳卒中で亡くなったけど。。



ふっきー
忘れてはいけない
私の両親も戦中派です。
父は国鉄で働いていましたが
結核を発症していて徴兵検査は丙種合格で
戦地に行かなくて良かったそうです。

母は女学校の学生でしたが
女子挺身隊で国鉄の電話交換手として
父の働く駅に配属されて知り合ったと聞いています。

大阪大空襲の話しや、戦後の進駐軍の話しなどを
聞いた覚えがあります。

私の子ども達の夏休みの宿題では
戦争の話しを母が手紙に書いて寄越してくれました。

悲惨な経験をした人ほど、多くを語れなかったんではないでしょうか。

多くの犠牲が有って今が有る・・・
戦いたくなかった多くの人たちの思いを
未来に繋いで行かないといけませんね。
つる姫
天道虫さん
私のお婆ちゃんと同じです。
お婆ちゃんは、夫を戦争で亡くし
女手一つで三男一女を育てました。
戦争がなかったら・・・
どうなっていたのでしょうか。
あの戦争があったからこその
今の日本があるとすれば
戦争で犠牲になった方たちに
感謝しなければいけないですね。
今の世の中を、なくなった方が見たら
どう思うだろう。
血を流すのが戦争とは限らないし。
モノがなくても明るい家庭。
天道虫さんのお母さまは立派な方です。
天道虫
終戦の前年に生まれたので、私は戦争はよく覚えていません。
埼玉の山奥の母親の実家に疎開していました。
家財産すべて失い、長男は死に、父親は結核に・・・
戦後は悲惨なくらしでした。病気の父親をかかえ、残った3男1女を育て上げた母親はえらかったですね。
貧乏だったけど明るい家庭でしたね。戦争がなかったら・・・と時々思いますよ。
つる姫
テバネさん
田舎の小学校では
原爆の日か、終戦記念日が夏休み中の
登校日になっていて
みんなで黙祷を捧げました。
今は、してないのかな。
一緒に逃げていた人が・・・
壮絶な体験ですね。
父は話してくれますが、母は思い出したくないと言います。
テバネ
8/1から本格的に全国が空襲されましたね。
8/8(終戦の1週間前)は福山大空襲でした。日本化薬や三菱があったからです。
その時、一緒に近所と逃げていた婆ちゃん。
ふと隣を見ると、一緒に逃げていた人に焼夷弾が当たり、内蔵が飛び出て倒れ込んだり・・・・・・
私も良く離しを聞いていました。
これって・・・今でも鮮明に覚えています。
戦争の事を伝え聞くって事は、大切な事ですね。
しかし、戦争体験者が年々少なくなり、実話を伝える事が出来なくなっている今、貴重な手紙だと思います。孫の代まで大切に・・・・・・

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