ひと月くらい前から、お散歩コースを変え、八幡様にお参りして帰るのがお気に入りとなりました。
こたろうも、本殿に上る数段の階段を、慣れた様子で駆け上がります。
今朝は、八幡様に向かう道すがら、お散歩のついで的な感覚でお参りしているような気がして、ふと、神社やお寺に願い事をする人々の気持ち、そして、その願いは叶うのだろうか、というような事を考えました。
人々は大昔から、なんらかの神とか仏さまに、五穀豊穣とか病平癒などを祈ったり願ったりしています。
病気のとうちゃんのために、足を血だらけにしてお百度参りをしたりとか。
どんな方法であれ、何かしらの神さまや仏に祈れば、願いが叶ったり、祈りが通じたりすることの確率って、高いのでしょうか。
いや、そうじゃない。大切なのはそこじゃない。
叶う叶わないの結末よりも、毎日毎日、明確な願いをもってお参りをする、その継続というか願いや意思の強さ。
それこそが、大事なのかな、と。
私の願いは、長生きする事ではなく、元気に生きられる事。
しかし、こうしてこたろうとお散歩出来ることは、すでに元気な証。
早朝から歩いて神社に来て、願い事が出来ること自体が、ありがたいことなんです。
願いや夢や目的があること自体、すでにありがたいことなのだと。
そこで、思い出したことがありました。
息子が、夢を持って野球の強豪校に入り、ベンチ入りすらできないままだった辛い日々を踏ん張っていたある日の事。
「お母さん・・頑張れば報われるんだよね・・」と、絞り出すように問いかけてきました。
幼い頃から、頑張れば報われるんだ、と教えてきた私は、言葉に詰まりました。
その時どう答えたのか、もはや覚えてはいません。
しかし、息子はすでに、頑張っても報われない事があると、気づいていたと思います。
頑張れば報われる、と教えてきたお母さんは、嘘つきだ、とは思っていなかったでしょうが、その問いかけに、即答できなかった自分のふがいなさ。
それまでに何度か、好きな野球が楽しくないなら、やめていいんだよ、とは言い続けていました。
それでも、最後の夏まで頑張ったのは、息子の意志でした。頑張っても報われない事を知った三年間。
しかしながら、その体験や葛藤があったからこそ、今の息子があるのです。
私がどんな聡明な答えを言うよりも、その時代こそが息子を育ててくれたのだと感じます。
願いが叶う事や、努力が実を結ぶ、結果が出る事が一番の結果で、しあわせとは思うけど、願いや夢に向かって努力する、頑張る事が出来る事も、しあわせな事なのだろうなって。
夢も希望もない、あるいは、他人に対する恨みやつらみばかりをつのらせて生きているより、たとえ結果は報われなくても頑張れる自分や、理解し、支えてくれる人が周りにいる人生は、辛くても素晴らしい。
諦めも肝心、潮時を知るのも生きていく術。
息子が一昨日来た時は、そういうことは思いつきませんでしたので、今度息子に会ったら、頑張れば報われるのか聞いてみようと思います。
あれから12年ほど経った今、息子は何と答えるでしょうか。
あの時私がなんて答えたか覚えているかしら。
とまあ、こたろうと歩きつつ、こんなことを考えたわけです。
お参りした後は、こたろうくんは急いで階段を駆け下り、いそいそと鳥居を出て、すぐ隣にある小さな公園へおしりを振り振り駆け込みます。
何故なら、そこはご褒美、もぐもぐタイムの場所だから。
こたろうくんは、嫌いなお散歩頑張って、最後は報われました。いいなあ。
(笑)
さて、今週は割と予定があります。
明日は、むずむず足クリニックと年金事務所、金曜は歯医者。
年寄りの予定、自爆でございます。
ハナムグリが、ハナにもぐる。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
感謝をこめて
つる姫