コトありで考えたこと

日々の生活の中で考えたことを書き綴った共同作成ブログです。

災い転じて福となすか

2024-02-17 18:00:00 | 紫乃

昨年は公私ともに比較的穏やかで良い年だった。

今年も穏やかに過ごしたいと願っていたが、
元日からの能登半島の大地震。

翌日の飛行機事故。暗い気持ちでスタートした2024年。

これ以上悪いことは起こってほしくない、と思っていたが、
私的にも1月、2月と良くないことが続いた。

家族が次々とコロナウィルスに感染し、高熱で寝込んだ。

コロナが5類に移行してから、あまり報道されなくなっているが、
密かに第10波が来ているらしい。

そんな時期にアメリカから40年来の知人が来訪することになっていたので、
コロナに罹患中の家人がいる家には招待できなくなり、
予定は狂ったが、なんとか5日間京都などを案内することができた。

 

 

が、途中、警察に違反切符を切られたり、その後ほかの家族と私もダウン。

QUEENのコンサートに行く予定だったが、泣く泣く断念した。

最後にコロナに感染した父の症状が一番きつく、長引いた。

極めつけに、父に食料を運んだあと夜道を運転していて、
横断歩道も信号もないT字路の停止線で止まって左右を確認し、
車が来ていないことを目視したあと、
アクセルをそろそろ踏んだところに突然人が現れ、急ブレーキ。
間一髪で接触を避けることができた。

私が停止線で止まっていたので、自分を認識して止まったのだろう、と
その人は思ったのだろうが、ちょうどサイドミラーとフロントガラスの
窓枠で死角になっていて、暗いこともありこちらからは見えていなかった。

あともう少し気が付くのが遅ければ、私はこうして呑気に
パソコンを打っていることもなかった。ぞっとして、冷や汗が出た。

良くないことが続くとき、人はこれは何か自分が過去に犯した過ちの罰なのか、

それとも何かの警告なのか、更に言うと、何かの呪いなのか、とまで考えてしまう。

私の不運など、地震で家や家族を失った方々の不運に比べたら、
なんということもないのかもしれないが、
どうしてこんなことが自分に起こるのだと神様に問いたくなることは
程度の差さえあれ、誰にでも起こる。

そして、打ちのめされてしばらくは動けなくなっても、
だんだんそこに何か意味があるはずだと思いたくなる。

『夜と霧』を書いたフランクルが、自身の経験した強制収容所生活で
「生きる目的を見出せず、自分が存在することの意味も、
がんばり抜く意味も見失った人は崩れていった」と書いているが、
理不尽なことや不運なことに見舞われても、
なんとか自分が生きている意味を肯定できたら、
人は頑張れるのかもしれない、と思った。

私の場合はちょっと不運が重なっただけで何を大げさな、
という気もするが、何かの警告かもしれないし、今は控えめに
できることをし、意味を探ってみようと思う。

災い転じて福となすことができるか、
答えはずっと先まで出ないかもしれない。

(2月17日 紫乃 記)


能登を想う

2024-01-13 18:00:04 | 紫乃

元日に能登半島を襲った大地震。

元旦から眩暈を起こして寝ていた私も、400kmほど離れているのに、
長い不気味な横揺れを感じて飛び起きたくらいだったので、
現地での揺れは想像を超えるものだったと思う。

富山の友人は津波警報を受けて、最初の夜は高台の学校の駐車場で
車中泊をしたらしい。

金沢の友人はここ何年か音信不通になっていたが、
崖崩れで家がひっくり返った地域に近いので、心配していた。

メールアドレスが変わっていないことを願ってメールしてみたら、
すぐに返信が来て、無事ということがわかってホッとした。

余震が続いているので、落ち着かないけれど、
とりあえずライフラインと物流は大丈夫とのこと。

こういう時、遠方にいると本当に何もできない自分が歯がゆい。

足りないものがあればこちらから送るよ、と言いつつ、
電信柱が倒れたり、家が崩れたりしている地域では、
物資も陸路では届きにくいだろうし、配達をする人手も足りないと聞く。

テレビの前で悲しいニュースを見ながら涙したり、呆然としたり、
南海トラフ地震も必ず来ると言われているから、備えておかなければと
必要なものをチェックしたりしながら日が過ぎていく。

そして日が過ぎるにつれて、悲しいことに犠牲者数が増えていく。

北陸が好きで、昨年の春に北陸の山代温泉と金沢に行った。
秋には白山と勝山にも行った。
何年か前には能登半島も旅した。

能登半島は想像以上に長細く、金沢から車で行けども行けども、
なかなか輪島にたどり着かなかったこと、輪島で車を降りたら、
トンビがピーヒョロロと鳴いていたことなどを思い出して、
今その平和な景色が一変してしまっている現実に心が痛む。

門前町で泊まったお料理のおいしいホテルもよく覚えている。
あのホテルは海が近かった。
津波の被害はなかっただろうか、心配になる。

何をしていても、心は能登に飛んでいる。
今日も能登を想う。

 

(1月12日 紫乃 記)


寛容でありたい

2023-12-30 18:00:00 | 紫乃

クリスマスイヴが命日の大切な人がいて、
世の中が華やかな楽しい雰囲気に包まれていても、
クリスマスイヴにはしんみりした気分で
彼女のためにお花を買い、
ご家族に届けることにしている。

今年も複数のお花屋さんを巡って、
すでに花束になっているものを
見つけて買い求めた。

プリクラで細工したかのようなキラキラの瞳の
若い店員さんに「ご自宅用ですか?」と訊かれ
「いえ、贈答用です」と答えると、
彼女はピンクの不織布っぽいふんわりした
ラッピングで更に素敵な花束にしてくれた。

ただ、茎の根元の部分は湿したティッシュが
巻かれているだけで、手渡されて、
「あれ、いつもこんなだったかな?」と感じたが、
まあ、すぐに届けるのだし「いっか~」
という気持ちで受け取った。

 

 

お金を払ってお店を出ようとしたら、
別の店員さんが焦った様子で追いかけてきた。

「すみません、それではいけませんので、
もう一度店内へどうぞ」と言われる。

先ほどの若い店員さんとは別のベテラン風の
店員さんが謝りながら、あっという間に
無造作にピンクのラッピングを剥がして、
根元の部分から処理を始めた。

そしてまた別のラッピングを施された花束を
渡された私は、ピンクのラッピングが無駄になったな、
と思い、かえってこちらが申し訳なくなる。

元々のラッピングをしてくれた店員さんの気持ちを考えたら、
複雑な気分になる。

あとであの若い店員さんは、ベテラン風の店員さんに
何か小言を言われるのかもしれない。

イライラしたようなベテラン風の店員さんの表情を気にしながら、
すっきりしない気持ちでお店をあとにした。

ネットのニュースで某百貨店のクリスマスケーキが
顧客に届けられた時には崩れていて、
百貨店側が謝罪したとか、
また別の百貨店がフランスから輸入したケーキに
幼虫が混入していたとかいう話を聞くと、
その製品を購入した側にとっては
気持ちの良いものではないだろうし、
多分十人中十人が「こんなケーキ食べられるか!」と
憤慨するだろうけど、長年生きてくると
「そういうこともあら~な」と思ってしまう。

気忙しい年の瀬に、ささくれだってしまいがちな心だけど、
そんな時だからこそ寛容でありたい。

(12月28日 紫乃 記)


運命を変えた坂道

2023-12-21 18:00:00 | 紫乃

冬至が近づき、午後5時にはもう暗い。

日もとっぷり暮れた時刻に
慌ててスーパーに走ることもしばしば。

スーパーまでの暗い坂道を駆け下りていく途中、
下からゆっくり坂道を上ってくる人影が見えた。

すれ違いざまにちらりと見ると、
重そうな荷物を両腕に持った年配の女性で、
その姿が母と重なった。

結構な上り坂をあの荷物を持って
上っていくのは辛そうだ、と感じ、
何か手助けをしようか、
という思いがよぎった。

と同時に、もう80年近く前に今は亡き伯母が
同じように坂道で荷物を持った年配の女性とすれ違い
「荷物を運びましょうか?」と声をかけたら、
いたく感動されて、
その女性の知り合いの男性と結婚しないか、
と縁談を持ちかけられて、
伯母は良縁に恵まれた、
という話を思い出した。

その坂道でその女性に声をかけて荷物を
運んでいなければ、伯母は伯父と結婚することも
なかったのだと思うと、
その坂道で運命が変わったのだ、
縁とは異なものだとつくづく感じる。

私が今この坂道を上っていく年配の女性に
声を掛けて荷物を運んでも運命は変わらないだろうが、

「そうだ、私がスーパーでさっと買い物をして
戻ってきて、この坂を上って帰る時に
まだこの女性がいたら、声を掛けよう」と決めて、
スーパーに走り、5分で買い物を済ませて出てきたが、
坂道にその女性の姿はもうなかった。

坂道を上りきったところの三差路で左右を見ても、
どこにもいなかった。

私はまるで幻でも見たような気になって、
少し後悔の混ざった複雑な気持ちで
坂道の上で佇んでいた。

やっぱりあのすれ違った時に声を掛ければよかった。

私の運命はもちろん、この坂道では変わるはずもなかった。

 

(12月20日 紫乃 記)

 

 


残らない記憶、消えていく記憶

2023-12-13 18:03:51 | 紫乃

認知症の母のサポートをするようになって、もう5年ほど経つ。
今は何年何月何日の何曜日なのかもわからなくて、
自分の年齢すらはっきりわからなくなっている。

毎日「今日は何日?」「今日は何曜日?」と繰り返し聞いてくる。

毎日が休日のような母の生活では、その日が何曜日であっても、
あるいは何曜日か把握していなくても、なんの支障もないわけだが、
それでも一日に何十回と同じことを聞いてくるので、
そのたびに「今日は12月8日の金曜日よ」というふうに答える。

でも1分後にはもう私にその質問をしたことすら忘れてしまうので、
ひどい時には5分に1回、同じ質問を繰り返している。
要するに一番近い過去に起こったこと、
話したことが記憶に残らないのだ。

 

 

他にも自分が今何をしていたのか、どういう状況にいるのかが
突然わからなくなり、パニックになって電話してくる。

特に父の姿が見えないと、
父が出かける時はきちんとメモにどこへ出かけて
何時に帰ってくるか書いていても、
母はそのメモを読んだ10秒後にはメモの存在すら忘れてしまうので、
パニックになる。

父は何時に帰ってくるから、
父が帰ってくるまで私が一緒にいるからね、と
言って、すぐに実家に駆けつける。

誰かそばにいて、あれこれ話していると安心する。

ただその会話も、会話にならないような堂々巡りになるので、
こちらは同じ質問に同じ答えをすることにだんだん疲れてくる。

新しい出来事はもう母の記憶には全く残らない。

それなら、
母がまだ覚えている母が子どもだった頃の話をすればいい、と思い、
故意に昔の話題を出すようにしているが、
その過去のことも近い順から、記憶から消えていきつつある。

60年前までのことなら鮮明に記憶に残っているらしい。

だが、5~50年前の記憶がだんだん薄れていっている。

自分が何者であるかは、記憶によって認識できるものなのに、
今それが薄れて壊れつつあるのが、そばで見ていて悲しい。

そのうち、私が誰なのかもわからなくなる時が来るのかもしれない。
それでも一番近い存在として、母に寄り添っていきたいと思っている。

(12月11日 紫乃記)