コトありで考えたこと

日々の生活の中で考えたことを書き綴った共同作成ブログです。

暇と退屈の倫理学(4)

2024-02-19 17:27:12 | ベルク

前回の記事で紹介したハイデッガーの退屈の
三形式の復習から。

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ハイデッガーの退屈の三形式

第一形式:何かによって退屈させられること
第二形式:何かに際して退屈させられること
第三形式:なんとなく退屈だ
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ハイデッガーの考えでは第三形式が一番奥深い退屈。
なぜなら、第三形式には、退屈の原因となるモノ
(第一形式)も場(第二形式)もないので。

その代わり、退屈の原因となるモノも場もないと
いうことは「とらわれること」がないので、
人間は自由であると言える。

自由だけれど「なんとなく退屈だ」という状態から
抜け出したければ「決断せよ!」というのが
ハイデッガーの答え。

これに対して、筆者の國分さんの考え方は
・決断すると人間は何かを始める
・するとそのうち、その何かにとらわれて
 人間は退屈する。

すなわち、決断すると第三形式から第一形式に
戻ってしまうということなんだよね。

よって、國分さんの考えでは、
・気晴らしと退屈が混ざり合った第二形式が
 人生にとって一番望ましい状態
になるんだけど、この考えには納得できたなぁ。

この本は新潮文庫の100冊の中にも入っているので、
一読する価値はあると思うよ。

最近よく聞いているけど名曲だよね~

https://www.youtube.com/@bilalbenamo2324

 

(2月18日 ベルク記)


災い転じて福となすか

2024-02-17 18:00:00 | 紫乃

昨年は公私ともに比較的穏やかで良い年だった。

今年も穏やかに過ごしたいと願っていたが、
元日からの能登半島の大地震。

翌日の飛行機事故。暗い気持ちでスタートした2024年。

これ以上悪いことは起こってほしくない、と思っていたが、
私的にも1月、2月と良くないことが続いた。

家族が次々とコロナウィルスに感染し、高熱で寝込んだ。

コロナが5類に移行してから、あまり報道されなくなっているが、
密かに第10波が来ているらしい。

そんな時期にアメリカから40年来の知人が来訪することになっていたので、
コロナに罹患中の家人がいる家には招待できなくなり、
予定は狂ったが、なんとか5日間京都などを案内することができた。

 

 

が、途中、警察に違反切符を切られたり、その後ほかの家族と私もダウン。

QUEENのコンサートに行く予定だったが、泣く泣く断念した。

最後にコロナに感染した父の症状が一番きつく、長引いた。

極めつけに、父に食料を運んだあと夜道を運転していて、
横断歩道も信号もないT字路の停止線で止まって左右を確認し、
車が来ていないことを目視したあと、
アクセルをそろそろ踏んだところに突然人が現れ、急ブレーキ。
間一髪で接触を避けることができた。

私が停止線で止まっていたので、自分を認識して止まったのだろう、と
その人は思ったのだろうが、ちょうどサイドミラーとフロントガラスの
窓枠で死角になっていて、暗いこともありこちらからは見えていなかった。

あともう少し気が付くのが遅ければ、私はこうして呑気に
パソコンを打っていることもなかった。ぞっとして、冷や汗が出た。

良くないことが続くとき、人はこれは何か自分が過去に犯した過ちの罰なのか、

それとも何かの警告なのか、更に言うと、何かの呪いなのか、とまで考えてしまう。

私の不運など、地震で家や家族を失った方々の不運に比べたら、
なんということもないのかもしれないが、
どうしてこんなことが自分に起こるのだと神様に問いたくなることは
程度の差さえあれ、誰にでも起こる。

そして、打ちのめされてしばらくは動けなくなっても、
だんだんそこに何か意味があるはずだと思いたくなる。

『夜と霧』を書いたフランクルが、自身の経験した強制収容所生活で
「生きる目的を見出せず、自分が存在することの意味も、
がんばり抜く意味も見失った人は崩れていった」と書いているが、
理不尽なことや不運なことに見舞われても、
なんとか自分が生きている意味を肯定できたら、
人は頑張れるのかもしれない、と思った。

私の場合はちょっと不運が重なっただけで何を大げさな、
という気もするが、何かの警告かもしれないし、今は控えめに
できることをし、意味を探ってみようと思う。

災い転じて福となすことができるか、
答えはずっと先まで出ないかもしれない。

(2月17日 紫乃 記)


サギの巣

2024-02-14 18:00:00 | 冬雨

今住んでいる家に引っ越してきて二年近くが経とうとしている。

これまで住んでいた地域は山を切り開いた団地で、歩いてどこかに
買い物にいくのは不可能といっていいような場所だったが、
引っ越し先はそこに比べるとずいぶん街中に近づいた。

そのためこれまで習慣になかった「歩く」という選択肢が加わり、
散歩もするようになった。移動は車が当たり前だったので、
歩くと今まで気付かなかったものに気付けて楽しい。

住み始めてからしばらくして気付いたのは、サギの巣の存在である。

何気なく散歩していたとき、はじめは偶然かと思ったが、意図的に
サギたちが一本の大木に集合していることに気が付いた。

それもかなりの数のサギが、その大きな木にぎゅっと凝縮されたように
とまっている。そのシュールさとかわいらしさに、気が付いたときは
笑ってしまった。

 

 

それからは散歩でそこを通るたびに大まかな数をチェックする。
今日は多いな、あれ、なんか今日は少ない?心のなかでサギに話しかける。

当然サギはじっとして動かない。こちらに見向きもせず、それぞれの枝に
絶妙なバランスでしがみついている。一度雷が落ちたとき、一斉に飛び立ち
方々に逃げていくのをみて、こちらがそれ以上に驚いてしまった。

サギたちがなぜその木に集合しているのかはわからないが、きっとサギ界では
優良物件なのであろう。餌が豊富な水辺が近い場所にある大木は、
確かにこの地域には多くない。ふたつめの優良物件を見つけられたら、
条件や個体数を比較できて楽しいかもしれないが、いまだ発見には至っていない。

(2月13日 冬雨 記)


暇と退屈の倫理学(3)

2024-02-13 17:53:57 | ベルク

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ハイデッガーの退屈の三形式

第一形式:何かによって退屈させられること
第二形式:何かに際して退屈させられること
第三形式:なんとなく退屈だ
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意味がわかるかな?

例えば、駅で電車を待っている時に電車がなかなか
来ないので時計を何度もみたりするのは、第一形式
なんだよね。駅に着いたら電車がすぐに来て欲しいのに、
なかなか来ないと駅によって退屈させられるんだよね。

レストランで料理を待っている時に早く来ないかなぁと
思ったらレストランによって退屈させられているんだよね。

「人間は退屈すると気晴らしを求める」

なので、料理を待っている間にスマホを眺めたりするよね。

こんな風に説明すると第一形式はわかりやすいでしょ。

難しいのは次の第二形式なんだよね~

例えば、仲のいい友だちと一緒に喫茶店でおしゃべりして
いるところを想像してくれる? 

おしゃべりは楽しんだけど、途中でふと会話とは
関係がないことを考えてしまったとすると、それが
退屈なんだよね。

よって、この場合は、
「友だちとのおしゃべりに際して退屈させられている」んだよね。

おしゃべりは楽しいので気晴らしになっている。
だから、第二形式では気晴らしと退屈が混ざり合っているんだよね。

映画を観ている時に、映画は面白いんだけど途中でふと他のことを
考えることがあるよね。この場合も映画が面白くなくて退屈する
訳じゃないので第二形式なんだよね。

つまり、第一形式の退屈は自分の外から来る。これに対して、
第二形式の退屈は自分の中から立ち昇ってくる。その意味で
第二形式の方が「深い」んだよね。

最後の第三形式はなんとなくわからない?

例えば、やりたいことがたくさんあるけどやらなくても
いい。そんな時に何もせずにいるのが第三形式じゃないかと
思うけどね。

だから、やらざるを得ないことがないと困るということ
なんじゃないかなぁ。

結構長くなってしまったけど、最後まで読んでもらえたかなぁ(笑)

 

(2月12日 ベルク記)


息子が赤ちゃんだった頃

2024-02-11 18:00:00 | Sora

先日保育園で乳児が亡くなるニュースを
目にして胸が痛くなりました。

同時に昔の記憶が蘇りました。

私の息子もうつ伏せで眠るのが好きで、
赤ちゃんの頃はよく私の上によじ登ってきては
うつ伏せで眠っていました。

なので熟睡してから仰向けに寝かせるか、
上から下ろせない時は首を少し横にして
気道を確保するように気を付けていたのですが。

ある夏の暑い夜、いつものように私の上で
眠った息子は鼻が少し詰まっていました。

首を少し横にしてそのまま私も少しうとうと
していたのですが、しばらくして寒さに
ハッと目覚めました。

なんと、眠った息子の口から出た大量のよだれにより
私のTシャツの半分がびちゃびちゃに湿っていたのです。

もしこれで口や鼻が塞がる状態で寝ていたらと思うとゾッとします。

赤ちゃんの口から出るよだれの量を侮ってはいけないと
強く感じた瞬間でした。

今後、痛ましい事故が再発しないことを祈るばかりです。

 

(2月11日 Sora記)