コトありで考えたこと

日々の生活の中で考えたことを書き綴った共同作成ブログです。

懐かしい方からの電話

2024-02-09 18:00:00 | Sora

とてもタイミングの良い出来事がありました。

年賀はがきを見返していたら懐かしくなって、
と十年以上前のアルバイト先の代表の方から
お電話を頂いたのですが。

その際にリンゴを送りましたからと、
後日美味しそうなリンゴが届いたので
帰宅した娘も見るなりとても喜んで
「食べる!」と言っていたのですが。

夕飯を食べたら娘が激しく嘔吐し、
学校で流行っている胃腸炎に感染していたのでした。

何も食べられない中「リンゴなら食べれそう」と
言うのですりおろしリンゴを与えたら、
これだけは食べることができたので
せっせとすりおろして食べさせました。

胃腸炎で他のものは受け付けない中、
頂いたリンゴのお陰で窮地を乗り越えることが
できて本当に助かったのでした。

夫の転勤が続いていた時期で、ほんの数ヶ月働いて
あっという間にまた引っ越してしまった私のことを
懐かしく思い出して下さる方がいることに改めて感謝です。

 

(2月8日 Sora記)


聞くということ

2024-02-05 18:00:00 | オーレオリン

私は『色彩カラーセラピー』というぬりえを用いて
自分発見をしていただくグループに所属している。

よく勘違いされて占いの感覚で受ける方がいるけど
そのようなものではない。

クライアントが使用した色などで言葉がけをして、
心の奥に眠る自分の気持ちを導くカウンセラーです。

つまり 聞き役。

クライアントから話を引き出す、こちらがベラベラ話すことはNG、
断定的なことも言ってはいけない!

気付きが見つかってスッキリされる方。
思ってもみない色を使う自分に驚くひとそれぞれだ。

最近、傾聴ボランティア、スピーチライターという
両方とも人の話を聞くというお仕事を知った。

何を言おうとしているのか、希望は何か、話の要点はどこか、
当人の気持ちに寄り添い気持ちを汲むところは
カラーセラピーのカウンセリングによく似ている。

話し過ぎずに、話を聞く。難しいことではあるけど
とてもやりがいのあるお仕事です。

 

(2月4日 オーレオリン記)


暇と退屈の倫理学(2)

2024-02-04 18:10:27 | ベルク

まず前回の記事の復習から(笑)

*****
暇と退屈の違いは?

暇:何もすることのない、する必要のない時間。
  暇の中にいる人のあり方とか感じ方とは
  無関係に存在する客観的な条件である。

退屈:何かをしたいのにできないという感情や気分を指す。
   人のあり方や感じ方に関係し、主観的な状態のことである。
*****

なので、
「やいたいことがたくさんあるのに時間が足りない」とか、
「やりたいことがたくさんあるけど、どれから手を
つけたらいいかわからない」とか、
悩んでいる時は、「時間が足りない」と思っているので、
「暇ではない」ということだよね。

では、退屈についてはどう?

やりたいことがたくさんあるから退屈していないと思うでしょ。

でも、違うんだよね~(笑)

退屈の意味を復習してもらうとわかると思うけど、
「何かをしたいのにできない」状態にいる時は、
退屈していることになるんだよね。

退屈の反対語は何か知ってる?

快楽でなくて、興奮なんだよね。

何かをやった時に生まれる感情や気分が興奮なので、
何かをやらないと退屈から抜けだせないんだよね。

バートランド・ラッセル(イギリスの哲学者)の
退屈の定義は、

退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。

事件とは、「今日を昨日から区別してくれるもの」のこと

本に書かれた説明を抜き書きしてみると、

*****
人は毎日同じことが繰り返されることに耐えられない。

「同じことが繰り返されていくのだろう」と考えてしまうことにも
耐えられない。

だから、今日を昨日から区別してくれるものを求める。

もしも今日何か事件が起きれば、今日は昨日とは違った日になる。
つまり、事件が起きれば同じ日々の反復が断ち切られる。

だから人は事件を望む。しかし、そうした事件はなかなか起きはしない。
こうして人は退屈する。

これが、「事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの」という
退屈の定義の意味するところである。
*****

余談だけど、大学受験のために英語の長文読解の問題を解いた時に、
長文の作者名にBertrand Russellがよく出てきたことを思い出して
懐かしい感じがしたなぁ。

 

(2月4日 ベルク記)


相手への伝え方

2024-02-03 18:00:00 | Sora

相手への伝え方について、息子の去年の担任の先生が
考えさせられることを言っていたなとふと思い出しました。

それは自分の主張が正論だからといって、どんな言い方で
相手にぶつけても良い訳ではないということ。

あるとき1人の子が騒いだらそれを複数人の子が注意して
集中攻撃になってしまった出来事があったのですが。

この場合、授業中に騒いだその子が悪くて注意した子たちは
正しいことをしたと思っていた訳ですが。

その伝え方は適切だったのかどうか、担任の先生は授業を
中断して子どもたちに考える時間を設けたそうです。

言葉遣いによっては相手に対する注意ではなく
それ以上の苦痛を与える武器にもなってしまうということ。

このことは、口から発する言葉のみならず我々が何気なく
発信したり投稿したりする文章にも当て嵌まるものだったりする訳ですが。

考える機会を子どもたちに与えてくれた先生に感謝すると同時に、
言葉を武器にして人を追い詰めてしまうものだけにはしないように、
そうではなく言葉は誰かを救うものでありたいと
親子共に心に刻む出来事となったのでした。

 

(2月2日 Sora記)