一人の思想は、
一人の幅で 迎えられることを 欲する。
不特定多数への 語りかけは、すでに 思想ではない。
一人の幅で 迎えられることを 欲する。
不特定多数への 語りかけは、すでに 思想ではない。
2022年 戦後77度目の 夏
ひとり 私は 異郷の地で
コロナ禍前は
盆休み代わりの夏期休暇を よく広島で過ごした。
容赦ない 苛烈な 真夏の
かく地に沈む 姿なき 阿鼻叫喚のケを 召喚するのか
ふいに 昏い
(私)の輪郭を見失う畏日は 嫌いだ。
多くのみたまが 苦しんでいる。
生きているひと同様
死んだひとも チの呪縛に 苛まれつづけている。
耐えるとは、
〈なにかあるものに〉耐えることではない。
〈なにもないものに〉耐えることだ。
自らの苦しみから 逃れたい
有情ならばこその 必然
無常なるものがゆえの 自然だ。
かなしい空蝉 を こいする
当たり前の性向 、 情動プログラム
生きているひと同様
死んだひとも チの呪縛に 苛まれつづけている。
耐えるとは、
〈なにかあるものに〉耐えることではない。
〈なにもないものに〉耐えることだ。
自らの苦しみから 逃れたい
有情ならばこその 必然
無常なるものがゆえの 自然だ。
かなしい
当たり前の
ワレワレが 自分自身 になるための これは 必要不可欠な 業因 だ。
まいわい「KAGOME KAGOME」
屍臭と体臭との 同在
それで いい。
それで よいのだ。
はらからよ
かなしいを
かなしいと 思えないヒトは
自らの魂を 棄てる。ひとでなくなる。
うれしい
たのしいだけでは
自分自身を しんに イきられない。
自由は、完ぺきな個人の次元で 確認すべきものである。
誰しもが ひとで アルことを棄て ひとでは ナイ
カミの如き 自由な覚醒者 で 在る 必要はないのだ。
ぬばたまの
その夜の月夜 今日までに
我れは忘れず 間なくし思へば
誰しもが ひとで アルことを棄て ひとでは ナイ
カミの如き 自由な
ぬばたまの
その夜の月夜 今日までに
我れは忘れず 間なくし思へば
日に日に 増える
空っぽのヒトガタたちに 還るうちは なく
仏壇のない
鎮魂術など もとより知る由もない
私は
大量殺戮への途が 発見されたとき、
ただ一人の人間へ至る途も 発見されたはずだ。
戦争ドキュメンタリー番組
反戦時代劇を観て 「ワかる」 ヘーワ主義者の
私は 未だ 大岡昇平「野火」の
「ある」のに
「ない」不自然が 取って代わる
体験とは、
一度 耐え切って 終わるものではない。
くりかえし 耐え直さなければならないものだ。
・・・・・・また
「ま た」 なのか・・・
われワレは ふたたび
チで チを洗う 過ち を 選んでしまったらしい。
民主主義の根元をささえるものは
人間不信 で ある。
もう 戦後では なくなった。
我々は ゲンザイ 戦時下に 身を置く因人 だ。
チで チを洗う 過ち を 選んでしまったらしい。
民主主義の根元をささえるものは
もう 戦後では なくなった。
我々は ゲンザイ 戦時下に 身を置く
Chuck Mangione「 Feels So Good 」
自らのセイを 認めず
あいの狂気 は 大変 こころよいモノ
自由は〈強制〉できない。
それは 自由の自己矛盾である。
冗文を ネット上に 重ねれば重ねるほど
愚かになっていく自分自身 に どれだけ私は 耐えきれるだろうか。
愚かになっていく
「自己実現」「神人合一」「寂滅為楽」が 成る
シンリ・シンジツ教が まだ 信じられるウチが 華 だ。
あかねさす 日は照らせれど
ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも
ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも
〈問題〉は 逃げられるだけ 逃げるがいい。
それでも 問題は 迫ってくる。
行動制限の少ない 夏休みである。
海に 山に 街に
多くの人びとが 以前と変わらない バカンスに興じる 一方
天井知らずの コロナ感染者数
医療機関は 緊急性の高い患者しか 受け入れられない。
人間は ほとんど無造作に死ぬ。
無造作に死ぬことが ほとんど 信じられない人間の目の前で。
それが、ほとんど確かな事実なのだ。
金融市場 貨幣価値が
じわじわ 富める者と 貧しい者とに 二分 していく
もてる者の 光明 が 強まれば 強まるほど
もたざる者の 無明は くろぐろ その 闇 を 深めてゆこう
ひとと共同で ささえあう思想、
ひとりの肩で ついに ささえ切れぬ思想、
そして 一人が ついに脱落しても、
なにごともなく ささえつづけられて行く思想。
おおよそ そのような思想が 私に、なんのかかわりがあるか。
じわじわ 富める者と 貧しい者とに 二分 していく
もてる者の 光明 が 強まれば 強まるほど
もたざる者の 無明は くろぐろ その 闇 を 深めてゆこう
ひとと共同で ささえあう思想、
ひとりの肩で ついに ささえ切れぬ思想、
そして 一人が ついに脱落しても、
なにごともなく ささえつづけられて行く思想。
おおよそ そのような思想が 私に、なんのかかわりがあるか。
「光あれ」と 喜び勇んで 劫火へ 身を投じる。
Minder Licht!
形而下 ヨイ世界宇宙の
ロシアによる侵攻は 落としどころなく
偏向が 偏向を呼ぶ 悲劇に ひとは 更なる 茶番 を
神話伝承、思想理論などに 都合のヨイ
ザンシンな 創世記を掲げ
ワガ・チに引き寄せし 数多の 信徒フォロワーのセイを喰う
日々 増殖する
日常は 本来 脱出不可能なものである。
といって、腰を据えるには 到底 耐えうるものではない。
パワーバランスを失った
由々しき ココのひずみを 相殺するには
自然の 猛威か、
核による地球人類の 消滅か。
思ふらむ その人なれや
ぬばたまの 夜ごとに君が 夢にし見ゆる
ココの われわれは いずれ
ちぢの 落日を 各々のぞむことになろう。
ちぢの 落日を 各々のぞむことになろう。
事 実
そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすわらいさえしている
見たものは
見たといえ
けたたましく
コップを踏みつぶし
ドアをおしあけては
足ばやに消えて行く 無数の
屈辱の背なかのうえへ
ぴったりおかれた
厚い手のひら
どこへ逃げて行くのだ
やつらが ひとりのこらず
消えてなくなっても
そこにある
そこにそうしてある
罪を忘れられた罪人のように
見ろ
足がある
手がある
そうしてうすわらいまでしている
そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすわらいさえしている
見たものは
見たといえ
けたたましく
コップを踏みつぶし
ドアをおしあけては
足ばやに消えて行く 無数の
屈辱の背なかのうえへ
ぴったりおかれた
厚い手のひら
どこへ逃げて行くのだ
やつらが ひとりのこらず
消えてなくなっても
そこにある
そこにそうしてある
罪を忘れられた罪人のように
見ろ
足がある
手がある
そうしてうすわらいまでしている
宇多田ヒカル「Beautiful World」Piano & String Ver.
それが どんなに滑稽な姿なのか、本人は自覚が 全くない。
こうなってしまうと、もはや 救いはありません。
「意識的で ありなさい」というのは、そういうことです。
自己観照をしていなければ、
簡単な事実さえも 見えなくなってしまうのです。
当然、業にも流され、魂から 離れることになってしまう。
ああ、事実だ。
「事実は 事実」として
ひとりひとりが 認めるほかない。
ちからづよい 孤独の意識。
世界が 荒廃した直後に、しっかりと 一人で立てる思想。
私が求めるものはまさにそれだ。
ひとりひとりが 認めるほかない。
ちからづよい 孤独の意識。
世界が 荒廃した直後に、しっかりと 一人で立てる思想。
私が求めるものはまさにそれだ。
私は 今だ ここにいる。
わたしは まだ ここにいるよ。
わたしは まだ ここにいるよ。
絶対永劫不可解の問いを 捉えてしまった
真性の人間の宿命だ
私は 自分のイチに 立つ。
私には 私の使命がある。
真の懺悔とは、
自分を 明け渡すことである。
大いなる存在に対して・・・。つまり 無私。
エゴがなければ カルマや罪も 存在できない。
存在自体が 不可能になる以上、
解消の必要もない。過去も未来もなくなる。
師匠は 言った。
「真の懺悔は 半端なものではない。命懸けだ」 と・・・。
自分を 明け渡すことである。
大いなる存在に対して・・・。つまり 無私。
エゴがなければ カルマや罪も 存在できない。
存在自体が 不可能になる以上、
解消の必要もない。過去も未来もなくなる。
師匠は 言った。
「真の懺悔は 半端なものではない。命懸けだ」 と・・・。
わたしは まだ ここに存在している。
私が 今 ここにいるよ。
私が 今 ここにいるよ。
まず連帯とは、
〈すでに失われたもの〉であるという認識から
出発しなければならない。
そして、失われたものの回復は、
一人の人間から 始まり、一人の人間で 終わる。
〈すでに失われたもの〉であるという認識から
出発しなければならない。
そして、失われたものの回復は、
一人の人間から 始まり、一人の人間で 終わる。
私が 求めるシソウは
「祈りを 拒否する」祈り に 通じる
天地の「精妙な高次元エネルギーの流れ」を 感知していた
何時 ぞやの しじんさん
RK 貴方の言葉 に われわれの命運を 賭けてみよう。
「祈りを 拒否する」祈り に 通じる
天地の「精妙な高次元エネルギーの流れ」を 感知していた
RK 貴方の
Rachmaninoff「 Piano Concerto No.2 in C minor Op.18 」
うつつには 逢ふよしもなし
ぬばたまの夜の夢にを 継ぎて見えこそ
ぬばたまの夜の夢にを 継ぎて見えこそ
赤字文は
石原吉郎詩文集「1963年以後のノートから」と
詩集「サンチョ・パンサの帰郷」(講談社)からデス♨