I am NOBODY! Who are YOU? ~ ぽーぽー的ACIMブログ『エセー』 ~

“ひとのフリ見て我が(ego)フリ直せ” ナマケモノ系acimerの
『NO』奇跡のコース×奇跡講座×奇跡の道なエセー

飛べなくなったピオニエへ

2024-03-26 | つれづれに よしなしコト
  「 絶対的作品を やり直し 」


心待ちにしていた
或るクリエイターさんの 作品集デザインズ を 発売日早々に 手に入れました。

その日から 暇を見つけては
時間を忘れて そればかり 眺めております。

 一ページ 
  一ページ 彼の いろかたちを

ゆらゆら なぞるように 観ていますと

ふつふつと 久しくなかった
少女のような 高揚感に 胸が 踊る

それが なんとも 春めかしくて 心地がいいものです。


 

   彼の 繊細で緻密な線画を
   私は とても 好ましく 感じるのですが 
   どうも 当人は そうではないと知り、意外に思いました。

   思い通りに描ける カラーイラストとは 違い

    「 才能がない 」
    「 マジ糞な自分 」
と 思いながら ペン入れしているという。

   作品を創り始めて 35年間
   ずっと 満足できないまま 描き続ける

   彼の苛立ちや 悔しさが 今までになく リアル に 感じました。



Art Unda Dance Project 댄스필름



「 おしゃかさま + 小便器 体育の授業 」


公けに 何かしら 発言するようになって 10年に なります。

彼の人の ペン入れ同様、
自分の思い描く イメージ通りのものを 書いたためしがない

私は 相変わらず 文章を書くのが 苦手です。

自己表現という 大義名分 のモト
しなを 作った 金言名句が 良しとされる ここは 仮想現実空間バーチャル・リアリティ


悲しいかな

私人の文言は 
やはり 私人のモノに 堕してしまう

動物的自己顕示欲が 際限なく肥大し イかされてイくところですから。


      


ACIMに 出合っていなければ 私は 此処には おりません。

LINE や メールは
仕事や 通販以外  殆どいたしません。
(旧ツイッター)、インスタグラム tiktok など SNS自体 興味ない。

youtubeを 視聴しますが 
ブログで使う 楽曲探しか、待ち時間の 時間ヒマつぶし。


出来る事なら スマホも パソコンも 持ちたくありません。

  テレビは 観ないし、 ネットがなくても 平気な
     私は 存外 しあわせ な 人間 なのかもしれません。

仮想現実バーチャル・リアリティ に イ続けると 
精魂を吸い取られた 肉のカタマリの如く、
自分が キカイ人形「ゴーレム」のように まだ 感じられますから・・ ・・・・・・・・


       

  「 水がない 川 橋 魚 」


     人が 人として 
     自分が この自分として いきられる 

     奇跡のような この而今 は もう

     殆どの 人間に 与えられないらしい。
     それは 人間に 縁深い神仏も 同様のようです。


ネットに 長く 留まり イ続ければ「この先は ない」と、痛感する。

  何かしらの「次元上昇アセンション」を 説く方が 多いです

      でも、ソ レ 「 違う 」

   現在、 ここの世界/宇宙は 急速に 「次元降下ディセンション」している。

  私たちに 残された時間 : probation は もう「許されない」



Vaslav Nijinski L'Après-midi d'un faune


それ故に 

多くの人が 仮想現実の よい方たちと 四六時中
  数多く密に 繋がろうとするのではないでしょうか。


ソコには 「 寄らば大樹のカゲ 」
     「 長い物には巻かれろ 」
的 ニッポン人特有の 資質カルマ

責任回避の「逃避」指向 も ヨク働いておりますね。

      いいこと以外 見なくていい。
      何でも 教えてくれる。よくしてくれる。

      みな「同じ」大丈夫だと思える。安心する。






「 横断歩道にもかかわらず死んだ男 」


ネットを 見ていると 知らず知らず 
時間を忘れ 我を忘れて ずっと此処に いるでしょう

   自由 で 満ち足りた
   夢のような世界 に いきられる 

   いい自分の  望みのママ
 
よくなれる  この仮想現実世界は 貴方に やさしい、
どんな貴方も 「全て」愛してくれる よいカミ様 が「必ず」 おりますよ

此処は 「よい自分」で あれば アル程
ヨク 受け入れてくれる キ・ヨイ 極楽 ですから。


  


「 自我と世界が未分化 」


  「よい」スピリチュアル、
  「よい」精神世界に 傾倒なさるのも

  要は 通常のもの 以上 に よくなれる モノ・コトだからでしょう

  「絶対」真実アンゼン が ある
  「至上」神仏アンシン が いるからでは アリませんか?


「 くらげの絵 
 ベッドを 海底に沈んだピアノのように
 オナニー 死 孤独 自閉 喪失 母体回帰 」


「全き」ものを イイ続けなければ イけない、
「全き」事象に ヨク酩酊、ヨク忘我しなければならない

   そのヨイ貴方、イイ 自分ゲスよね。





「 オウム真理教に対する人のリアクションを 
 この際、少し考えてみようと思う。 」


グロテスク な 非現実、
       非人間的な 常 識コモンセンス すら 許されてしまう

仮想現実の自分 は 実のところ ある 試金石 に なっている。


先週の お休みの日 
ブログの原稿を 放って のんびり 家近くをお散歩しました。

小ぬか雨の降る 少し肌寒い朝のうち

人通りのない 高架橋下を歩いていると
アスファルトの割れ目に 芽吹いた ホトケノザスミレ を 見つけました。

足を止め そのちいさな草花に 触れる。

時に 踏みつけられ、
車に 引かれ 押しつぶされようと 天に 向い 時節の花 を かわらず 咲かせる。




 
  風さそふ
  花のゆくへは 知らねども
  惜しむ心は 身にとまりけり


誰にも 省みられることなく ひっそりと 
生きて死んでいく いきものが この世界、いかに 多いか。

名もない 声なき 路傍の草花のような
ちいさな いのちを 私は 見失いたくなくて この道に入った。



   散る花を 惜しむ心や とどまりて
  また来ん春の たねになるべき



     悟らなくていい。
     目覚める必要はない。
     見神、見仏、見性など のぞんでおらぬ。

   わたしは ただの「人間」として 生きて ゆきたいだけ。




「 日本人の心理的な特長として
〈 わかり合える日本人 〉というのが ないだろうか。
  日本人であれば 全てのことは 大声で言わなくても わかると 思っている。」


ここのところの エセーで 再掲しております
2015年次 ACIMの「homework」レポートは 

当時、ある制約 を 自らに 課して 書かれたものです。


 ACIMの概念、用語、
 教義理論を そのまま 使用しない。 
 「自分」の言葉のみで ACIMの教えを 「体現」する。

 ACIMの テキスト・ワークブック・マニュアル及び
 関連本の 精読、関連サイトの訪問も含めて その年 一年間、
 一切 行なわない。

    ただし、ACIMのワークと関連付ける為
    レポート脱稿後、2,3分に限った ワークブックの目次ページのみ
    閲覧は 許しました。(実際のところ数十秒で事足りましたが)


(Uchida) ショパン 練習曲 Op.10,No.2

 「半音階」の愛称で 呼ばれることがある曲。
 右手の より弱い指を鍛える練習。親指と人差し指は 内声を、中指、薬指、小指で 旋律を奏でる。(中略)
 半音階を この3本の指で ほぼすべてを 奏で上げるという 異色の構成となっており、熟練したピアニストでも 相当の訓練を
 必要とすると 言われる。親指と人差し指によって奏でられる和音は、実はこの曲の主旋律とも 解釈できる。
 この和音の音が 弱まらないように 人差し指に神経を 集中させつつ 、かつ 半音階をミスなく弾きこなすのは 至難の業である。(出典: Wikipedia)


すべての退路を断ち  権威ACIM の 後ろ盾なしに
9年前の私は 「ひとり」書くことだけに 集中する 必要があった。


そのときの 「志」 は 今も 変っておりません。

  他の ACIM学習者や教師
  他の スピリチュアル・精神世界、他人と コトなる

  「ひとつ」のみち 
  「ひとつ」のコースを トかない

「ひらかれた自分」で あることを 望んでおります。





上祐が しょうげき的だったのは、
「わかり合えない日本人」と いうものを みな知ってしまったからだ。
 言語の構造、発想も 全く理解できない日本人
 :あ・うんの 呼吸が 伝わらない日本人。


このブログは 当時のレポートを 再び
公開しなければならない事態を 観じ  2017年 2月末に 開設しました。

・・・・・・その年の 年末でしたか、

レポート「 蒼空を翔けたいんです、蒼空を。」(現在クローズ中)を 読んだ
あるACIM学習者の方から コメントをいただきました。

  拙いレポートにも関わらず
  聖霊、イエスが 語っている様に その方は かんじたらしい。

   「嬉しい」と 思う反面、
    非常に「悲しい」「痛ましい」事だと 思いました。




      私は イエスでも 
     神でも 仏でも ありません。
     私は 私で あって、私は 貴方と「同じ」ではない。


わたしは いま かけがえのない

   唯一無二 「私」 という 個のいのち を 生きております。

   未来永劫 今しかない この私が 誰かと「同じ」ものでしょうか。
 

神人合一ワンネス、よきものと 何故 一体化しなければいけない「自分」ですか?

    その自分の「まこと」が わかる、共有できるのは 
    その相手と「同じ」ひとつの 因縁マ・コト に 現存するが故
 


 「同じ」ミカタと 一体化した、「同じ」真 我ワンネス は 既に ヨク叶っているでしょ

   ソの貴方? もう イイ 因果ジブン に 成ってイるじゃない!



椎名林檎 「 神様、仏様 」


  何なんだろう、アイデア
  パロディだろうか、アニメ、物があふれすぎてる。
  ぬくもりをかんじさせる、または感じさせないもの
  さみしいもの、冷たくて、泣き出しそうなもの
  どんな作品 駅で死んだ人


不都合、不具合 不足 の ある

いきものは   何か かならず  行為「 To DO 」を 要します。


 お腹が空く から ご飯を食べる。
 病気で辛い から、お医者さんに診てもらう、お薬を飲む でしょう。

 誰かに わかって貰いたい、わかって欲しい から
 
 貴方は こうしろ、ああしろ、こう思うと おっしゃる のでは。
    こうしろ、ああしろ、こう思うよと 言って欲しい 貴方もいるよね。





都合の良い「何か」 
いい具合 で イられる 「イ場所」 
不足 を 満たしてくれる よい「誰か」が イなければ 生きられない 

無価値な自分 ならば イジョウに よい行為「執着」 イたします。 


よい行為 を しなければ イけない自分が イヤなら
よい行為をする 必要のない 「To BE」の自分 に ならなくては イけない

イられなくなった自分は、故に 「シ」に ゆく。 レイの 道理コトワリの 「繰り返し」です。

   絵もかけなくなった、気分が低い。
   広告だとか、デザインだとかに 気を奪われている内に、
   一番大切な絵や 物語のことなど、すっかり忘れていた。
   気付いてみると 絵がかけない。




 ヒーリング であれ、
 祈りであれ、冥想であれ  「よい」とされている行為を 

誰彼なく 勧める のは   万人に 「よい」行為 だからでしょう。

ですが それは 裏を返せば 相手を 
「不都合、不具合 不足ある」 モノと 見做したが故の 「ヨイ」所業

その全能神の如き 絶対的・・・ 価値基準は 
 イイ加減 な 主観・価値観に基づく ジシンの 「ヨイ」認識


「全て」同じだから、相手の諸事情は どうでもイイ  
全て「同じ」いいカタに 嵌め得る そのイイ言動は 「ヨイ」洗脳 に 等しい

     ヨクある 超越シンコウ宗教、
          国スイ選民思想 の イイなり 御成りの

「全て」ゴイセンセイ、「全て」オオモト 「全て」貴方のイイ通り 

数多の凡夫を 己が御光に シタがわせる 「その自分」

えんえん イイ続ける イジョウの カミ に 何故 シタてる「自分」であるか。


millennium parade - Philip-


今日、小さいが絵をかいた。随分 久しぶりだ。
ベティ・ブルーのベティの絵だ。
今まで 何をやって来たんだろうと思った。
絵は変わっていないし、下手になっているし、結構苦しい。
最近 スポイルという言葉をよく聞く。
たしかな意味は わからないが、
いつのまにか 僕は スポイルされていたんだ。


  学生の頃 いろんな デッサンを しました。

  描いても描いても
  そのものに 近づかない。 遠ざかっていくように 思えました。

  見ているものを
  見ている通り かくのは 至難の業 です。




歪んだ線、
いびつなバランス、不自然な陰翳が
なまなまと 紙面に表れる。いまの自分が 露わになる。

  自信を持とう。
  自信を持つということは、欠点を認めることから始まる。
  デザインが下手だ。暗い、コンプレックス。
  もうそれはそれでいいじゃないか。
  風景の絵を 再び描いている。

「ある」だけ でいいなら 
 行為「 To DO 」する 必要はない 何もしないで「よい」自分です。

 「よい」世界宇宙 「よい」時空間 「よい」次元 
  自他のない「よい」境地に「ある」ものに

 「よい」自分を 創る必要は 「ない」 でしょう。



「ところで これって、なんで 下半身脱いでるの?」
「・・・・・・万引きで 捕まったら こういうふうに 出したくなりそうだよね 」


此処で 私が しているコトは

この「よい」行為を 必要とする 自他の詳細な経緯、
  ソの自分のあり様を 「せいかく」に 捉える

  「Re」creation

コの過程を 「そのまま」具現するための いとなみです。

「普遍」だとか「絶対」「全一性」だとか いう 必要 は ない
「神」も「仏」も「愛」も 「全て」 どうでもヨイ「私」 の イイです。


ROSY ARANGO - La Bruja -

結局 絵って見る人によるんです。どんな風にでも。
その人の 生きてきた時間とか、その時の感情とかで、絵は 絵じゃなくなるんですよ。
僕の絵を見て、笑っている、怒ってる、悲しがってる・・・そういう人が同時にいるのが理想。


たくさんのひとに 受け入れられる必要は 少ない方がいい。

たくさんのひとに 必要とされるのは 「よろしくない」 コトがあるから
     たくさんのひとの必要は 「よろしくない」 何か が ある 証 拠ナリ・ゆき


たくさんのひとに 「受け入れられたい」「必要とされたい」人間は 

       「受け入れてくれる」人が たくさん 欲しい
       「必要としてくれる」人が たくさん いなければ イきられない  

        とても 不しあわせ な ヨイ人間です。




のほほん人間革命 帰ってこない人
電信柱の上にいておりてこない
かくれんぼしててでてこれない
大きすぎてうごけない。


不しあわせなひとは 自分と「同じ」不しあわせなひとが いっぱいいると 

 だから しあわせ。 とても しあわせ。

 自分と「同じ」たくさんのひとと 
 ずっと一緒 ずっと イられる 仮想現実空間は 
 だから 何処も しあわせそうな「ヨイ」不しあわせのひと ばかり。


たくさんのひとに 求められる スピリチュアル
たくさんのひとに 必要とされる 精神世界という ところは

「同じ」イジョウのひとの 不しあわせを たくさん 喰らっていきている

   とても み苦しい
   とても イジョウな 人たちの 天国ユウ・トピア に なっております。

  


二年位前から、意味をやめて イメージで 描いている。
メッセージとかあると、何か違うかなと 感じて・・・。
駅前で 拡声器で ワーワー言っているのと 変わらないのかなって 思っちゃって・・・。


ココで 私が している事は
この「よい」コトのバ から 意味と 価値を 抹消させ

必要を 不要にする「ミチ」の エンギ。


よいひと、よいものは
「いらない」よいことをする「必要はない」

よい 貴方も、 よい神仏、よいスピ・精神世界も 此処の私は のぞんでおりません。


下田逸郎「 踊り子 」 


仮想現実空間の私は  
ここにいきる 必要セイ を 自覚するための 媒体

  「私」という ただの 記 号シンボル です。

良言を弄する 良いみな様とは 縁のない
関わる必要ジタイ「ない」モノを イイ表しております故


That you do listen to the voice of your ego is
demonstrated by your attitudes, your feelings
and your behavior.
(T-4.IV.1:2)

 
ひとりでも多く 
スピリチュアル・精神世界から ご卒業され
限りある ご自身の生を 全うできるよう わたくしは 切に 願います。




 何か ずーっと描いてて、描くのが 僕だって思う。
 描かないと 僕じゃないような・・・。


 ずいぶん以前に 買い求めた 
 石田 徹也さんの画集を 久しぶりに 開きました。

   SL、飛行機、テレビ、椅子、
   学校、会社の引き出し、ネジ、便器、
   コンビニ弁当の容器、建築資材、ベッド、車・・・

日常にある 身近なモノと 一体化した 
遠くを見つめる 表情の乏しい 同じ顔をした 男のひとの絵です。

 触れると 消えてしまう
 透明な あわい やるせない

 彼の みる かなしいひとの彼岸 です。



目をつむった時に流れてくる
意味のない映像が 最近面白く感じる。
深い夢よりも 面白いとさえ思う。
全く出所がわからないのを見せてくれるし、もっと自由な気がする。


うすくれないの 春のみち先 
目に映る カミの風景に むかい 「しんせい」な 狂気 を かく

夢であって欲しい 
あのヴィジョンを 正夢にしないために 

一筆 ひと筆 
白のキャンパスを 分かち
えいえんを 手放せた  「ラス・メニーナス」を いきた ピオニエへ 



石 田 徹 也 作 品 集


聖者のような芸術家に強くひかれる。
「一筆一筆置くたびに、世界が救われていく」と 本気で信じたり、
「羊の顔の中に 全人類の痛みを聞く」ことのできる 人達のことだ。
 自分は 俗物だと思い知らされます。


石田さんは 不慮の事故で お亡くなりになりました。

 享年31歳。
 定職に就かず  彼は 絵を描きました。
 「幸せすぎて絵が描けない」からと 恋人と別れ 

 愚直に 
 ひたすらに 
 彼は 絵を 描き続けた。
 絵のために 生きたひとでした。

求道者のような 彼の安アパートには 150点近くの作品が 残されていたそうです。



体験したこと 全てが、自分にとって 必要だったのだろう。
だが取り戻せない時間がある。誰のせいでもない。
最初から分かっていた事だ。
動かなければ、どうなるか、ということを。

                         RK 2016.3


   7年前の3月 
   しじんさん 彼も 事故で 亡くなったそうです。

   筆舌しがたい 悲しい己の過去を ついぞ 語ることなく 

   彼は 多くのひとを 奮い立たせた
   あつい「ひ」の 言葉を 数多く遺して 逝ってしまわれた。


「もっと孤独の深淵を見よう」


     

あなた。 

私  かく。
   かいてみたい。

ここにはいない 貴方を わたし かきたい。

悲しみを 知りつくした人は、
ナンセンスへ向かう とても温かい

だれにもかけない わたしの絵を 
かいて かいて かき切って いきてゆきます。

「飛べなくなった人」の かなしい願いが かなえられるよう

 


※本文中の緑字は 石田 徹也さんの言葉からの引用です。