I am NOBODY! Who are YOU? ~ ぽーぽー的ACIMブログ『エセー』 ~

“ひとのフリ見て我が(ego)フリ直せ” ナマケモノ系acimerの
『NO』奇跡のコース×奇跡講座×奇跡の道なエセー

ロウバイと コジキのこころと

2024-01-26 | homeworks
The world will end in an illusion, as it began.
Yet will its ending be an illusion of mercy.
(M-14.1:2-3)




ああ なんということだ。


日曜の朝 
新聞を開いて ことばを失った。

生々しい くだり を 読み進めるうち

どす黒い血の憎悪と
なすすべのないものの 深い悲しみが 私のうちに広がっていく。

 

・・・・・・厭わしいこの思いは 「ない」 のだと 

  いつものように 全てを 委ね  
  祈ろうとした そのとき はたと気づく。


   な に か ち が う 。






     すまない。


この惨劇を
幻想だと見たいが為・・・・・・・・・ に あなたに委ねるのは

手を血で染めるひとたちと
同じ ある種の暴力をふるうのに 等しい・・・


       ・・・・・・

私が見ているものを 幻想だと 判じるのは
断じて この私ではない


     断 じ て 。



I beg you Cover. Yo1ko2



He brings the ending of the world with Him.(M-14.2:6)


武器を握る黒ずくめのひと
オレンジの上っ張りを着せられたひとにも

彼らを見遣る あなた が いる


この 「ヒ」

私は手を差し伸べ 見出そう

こころに広がる この憎悪 
あなたのかなしみを しかとこころ得る。





 梅の花
 それとも 見えず 降る雪の
 いちしろけむな 間使い遣らば

                 よみ人知らず


夕方 
いつもの宅配便の野菜と一緒に
小さなつぼみの ついた 蝋梅ろうばい が 一枝 添えられていた。


それが 私に望む
あなたの「こたえ」なのだろう。

わたしは 私のなすべきことを 為さねばならない。





「私」と 「私」たちを見守る あなた を わたしは 信じたい。


きれいな
きれいな
雪だこと
畑も
屋根も
まつ白だ
きれいでなくつて
     どうしませう
天からふつてきた雪だもの

         「雪」 山村暮鳥


真にのぞむものが 見出されるように


2015年次 My ACIM homeworks 1月前半:
レポート「ありふれた日常(前)」(2017-02-28公開:現在クローズ)を 加筆編集。






今から9年前 2015年 年初

私は 慣れ親しんできたACIMに
「さようなら」を する為に 一年をかけて 24篇のレポートを書いた。


このブログは その当時の
レポートをあらためて 公開するために立ち上げた。

おおよそ馬鹿馬鹿しい この 「よい」振舞いを公開する
おのれの愚行を 承知している

私は まだ 完全に ACIMに「さようなら」出来ていない。


ひとつのみちを しん に 求めると 否が応でも自覚する。

   神や 神の愛 今ここにある
   「よい」現実というものこそが 最大の 障 害 に なる。

   絶対性に対する 未練がましい愛着を
   ひとつ残らず 全て 始末しなければならない

       これは 無明 のみちでもあるから。



うつくしきあがなにものみこと、みまししかしたまわば、
あれはやひとひにちにちいほうぶやたててな



今でも よく思い返す事がある。

ACIMの著名講師によるセミナーで
ある受講者が言った。

「 こういうスピリチュアルな会に参加しているのを
 家族に内緒にしてる自分が 心苦しいんです。」



大勢のひとの注目を浴び 
緊張のあまり つっかえながらも
じぶんのことを せつせつと語った 線の細い面立ちのひとに

満面の笑みをたたえた聖母の如き講師は ゆったり 諭した。


「 そんなふうに思う必要は 全くないのよ。
 それは 貴女のオソレなの。 ユルシて スナオになって 
 家族に話せるようになれるといいわね 」


   揺るぎない この彼女の ジアイの言葉で 
      私は ACIMを辞める 決意 を 固めた。



I beg you Cover. LOLUET


   こうである必要はない。

  涙が止まらなかった。

人でなしの次元まで 堕ちていた
自分の 愚かさ に 愕然とした。


自分が見ているものに 意味は無い。

   私の見ているもの、かんじる思いに 何の意味が無いなら
   何も通じない。わかりあえない。わかり得ない。

   あるしかない
   あるだけでいい あればいい・・・・・「自分」でよい


「よい」教え「よく」学ぶ必要などない ない「自分」だ。





The world will end when its thought system
has been completely reversed.
(M-14.4:1)



それ故に 神の御子である 聖なる者たちが 渇望してイル

オソレに満ち ユルせない スナオになれない 許し難い 自分エゴ を 
私は レポートにしたため 差し出した。

    貴方の かんじる通り・・・・・・・・ いう通り・・・・

こうである必要のない
ここに生きる意味も 価値もない オイシイ 生贄ワタシ を 貴方に贈った。


       左 様 な ら・ ・ ・ ・ 

ACIMの神、神の教師生徒よ 私は 貴方たちの要らない みちコース を 行く。

      「さようなら」




地球社会の 残酷な現状を目にして、
真理だとか システムだとか 慈悲だとか、簡単に断じる者がいる。

その人は きっと 全てを 悟った聖者なのだろう。
だが 真理というものを 自分の頭 だけ、体験 だけで 悟った人間であろう。

人の苦しみや 悲しみに対面したとき、自分の頭だけ 体験だけの悟り故に、
「これも 慈悲です」という言葉を 平然と吐く。「そうではない」と 過剰に反応する。

生の息吹に対して、
自分の知識や体験知を 機械的に当てはめ、彼らは 結論を下す。決めつける。

私は そんな 聖者にんげん には なりたくない。

                         R K





昨年 しじんさんと 師を同じくする ある内科医のエセーを かいた。
患者から「生き神様 、生き仏様」と 評されるほどの 人物らしい。
 

彼は 病に苦しむ人を
「助けてあげたい」「救ってあげたい」の一心で 医師の仕事を続けていた。

だが 彼自身は いつも 心にズシンと重いものを 感じていた。

現代医学は対症療法が多い。
本当に 救っているわけではない。ある意味、誤魔化している。

患者は ただ 薬と注射だけを欲しがった。
苦痛が消えることだけを 求めていた。

真に 自分自身の人生を 大切にする人が 一人もいなかった。

彼は その現実 に 耐えられなかったのである。




東洋医学や 民間伝承医学
霊的・スピリチュアル系のヒーリングも 実践した彼だが
期待したほどの結果があげられず 師に相談した。
 
師は 言ったそうだ。
  「 貴方には 愛が無い」
  「 神は 貴方のことを 許していません」
と。


・・・・・・ああ。

私にも 愛は無いだろう。
真に 自分自身をいきていない人間を 神は 許さないだろう。

 人は エゴを肥やすために 綺麗事を言いたがる。
 人々は 自己陶酔するために 偽りの正義に狂う。


      ナルほど・・・・


カラノア - 阿弥陀籤



「よい」人間だけに キョウされる 
スピリチュアルであり  精神世界の教えが 「よく」ツカえる 

ここは 聖者カミ御猟場 のようだ。


イエスや 仏陀、数多の賢者の文言を 自在に解され
聖書だか 仏典経典、哲学思想書を 根拠サカナ に 形而下のシモジモを イのままに 従えんとす

クリシュナムルティ 和尚ラジニーシ出口王仁三郎ラマナ・マハルシ諸々 
名高い スピリチュアルの指導者、精神世界覚者に ナリたがりミセたがる 

大悟覚醒に 愛着ヨクする聖者カミ

   知より 恥を知れ。

         ヤニ下がった ソチの Me-ism にも 程がある。





「神に語られた」だの 神に「言わされる
 「させられる」「生かされる」 受動態の うまいイイ訳に逃げ

気持ちヨイ 自身の 条件反応マスターベーション に ヨク浸られる
ヨイ体験に 耽溺し続けなければ イケない デキない 良い好い酔い

愛染ヨクまみれの 聖者カミ

  神 よ り 自 身 を 糺 せ。

   しみったれた おカミの ナルシシズムなんぞ 愚の骨頂。

私は 「いい」衆人環視おナカマありきの
ひとの「よい」振舞いなんぞ 評価しない。 評価以前 の話である。


     


うつくしきあがなせのみこと、かくしたまわくは、
みましのくにのひとくさ、ひとひにちにちかしらをくびりころさな



「どの身」「どの口」で
 「何の意」を 表する 主体じぶん で あるか?


言語活動じたい 身口意 ひとの 価値観カルマ に 基づき 為されていよう。

スピリチュアル・精神世界に 蔓延る 
     「よい」 国体主義ナショナリズム
     「よく」ある 選民思想ワンネス的 愛のイイとは

      一体 どういう 必要ヨク・トク あっての 自分であろう?


  自身のイイが 此処に 何を招いたか・・・ ・・・・・・、まだ わからないのだろうか。




修行とは
ある意味、執着を落とす道 である。

だが皮肉にも、その過程で 執着を強めてしまう者が多い。

金や女や酒など 世俗的な欲望は断ち切ったかもしれないが、
代わりに「宗教」や「信仰」に 執着してしまった。

執着する対象が 問題だったわけではない。
聖なるものが対象だったとしても、執着は 執着だ

本質は 何も変わらない。



   「さようなら」 よい聖者カミ殿 

 よいカミに 執着し続ける 貴方たちと 私は くみすることはない。



タイムライン_クラムボン_2017


9年前の あの日と同じように
今年も 野菜の宅配に 蝋梅が 添えられて届いた。

7年前から ずっと 私は
ここで 徒然なるものごとを したため続けている。


「 わかってもらおうと思うは 乞食の心 」 というひとの言葉が よぎる。

   何かに 執着しなければ
   ここにいることも いきることもかなわない 

   私は ここの自分を 看ている人間だろうか・・・・・・



This is my letter to the World 
That never wrote to Me- 
The simple News that Nature told- 
With tender Majesty


Her Message is committed
To Hands I cannot see-
For love of Her-Sweet-countrymen-
Judge tenderly-of Me

            (E.Dickinson ‘This is my letter to the World' )



 「慈愛」
 「先導」
 「先見」
の意を持つ 「ゆかしい」 蝋梅花よ


もの乞うが如き 
愚詠を かきつづける 私に 「し」

この願いが 果たせるまでは どうか わたしを 此処にいさせて欲しい。






蠟梅や 雪うち透かす 枝の丈   芥川龍之介