占星術への道-誕生史、星見の作法

・占星術の基礎-星見の作法とは?
・今も多くの人を魅了する占星術
・いつ、どこで、どのように生まれたのか?

<10> 2章 アッシリア時代/オーメン(予兆)占星術

2021-03-09 11:09:01 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

 最初の千年紀になると、オーメン(予兆)はアッシリアの最も重要な関心事となった。天文学者であり、占星術師でもある聖職者によって報告書が作成され、宮廷や王に提出された。国家のために良いことを、それは敵にとっての大惨事や災害であるが、それを予言することができたことで、天文学者兼占星術師兼聖職者は一身に尊敬の念を集めた。

 この莫大なオーメン資料の多くは大英博物館のR.C.トンプソンによって19世紀に編纂されたものだ。それは、月からのオーメン(予兆)であり、太陽からのオーメン、惑星と星からのオーメン、雷からのーメン、月の消失からのオーメン、嵐からのオーメン、地震からのオーメン、食からのオーメン、また誕生日からのオーメンなどである。トムプソンが編纂したオーメン録を書いたのは、情報収集のために王国のあちこちに派遣された天文学者であり占星家である書記であった。つまり、王は国内でのできごとの成り行きをかなり詳しく知っていたのである。

 アッシュルバニパル図書館の何千ものオーメン粘土板は大きく5種類に分かれている。国全体に関すること、作物、洪水、王室、反乱と敵に関するものである。5番目を除いて個人に関する事項は含まれていない。大部分が紀元前1000年頃か、その少し後に書かれたと思われる。その中心となるオーメンとしては5種類ある。すなわち、

 

(1)エヌマ・アヌ・エンリル、すなわち天界オーメン(月、太陽、惑星と星)。

(2)シュンマ・イズブ、すなわち怪物の誕生からのオーメン。

(3)生贄にされた羊の内臓からのオーメン 。

(4)シュンマ・アル・イナ・メレ・シャキン、すなわち動物の振舞い、鳥、昆虫、井戸掘、都市のある場所に関するいろいろなオーメン。

(5)人相学のオーメン。

 

 ここではエヌマ・アヌ・エンリル、つまり天界オーメンを特にとり上げてみよう。エヌマ・アヌ・エンリルには、地震、雷、稲妻等に関係している不吉な天のできごとや収穫、洪水、王室、貴族、反乱、敵など、国全体に与える影響について記録されている。(図19~24を参照)。

 こうした例から、アッシリアの書記がどんな考えをしていたがわかる。大多数のオーメンは王、作物、そして天気現象に関するもので、たとえ王や王子についてでさえ、個人の誕生日に関する言及はない。

 


月が見えなくなれば、大地は邪悪に包まれるだろう。

月が時期でもないのに隠されるなら、食が起るだろう。そして、月は24日目に見えなくなった。

月が見えなくなった日に、太陽が光輪(ハロー)で囲まれているなら、エラムの食が起るだろう。

キスレウ(IX)では、食が見られるだろう。太陽を囲んだ光輪と消えた月が、キスレウでの食の観測のために現われた。王はそれを知るべし。閣下たる王に幸せあれ。

王の下僕なる年寄りラシールRasilから、

図19: キスレウの月食からのオーメン。 写真©大英博物館

H.ハンガーの「アッシリアの王たちへの星占い報告書」から。 ヘルシンキ大学出版局、1992年。


 

[月]は光輪に包まれ、その中にかに座があった。これがその解釈である。

[もしも月が]光輪に包まれ、かに座がそこにあれば、アッカドの王の寿命は伸びることだろう。

[もしも月が]光輪に包まれ、北風が吹けば、神々は奮い立ち、そして地に幸いをもたらすであろう。

[もしも月が][光輪に]包まれ、それが見え続けるならば、王に統治権が与えられるだろう。

[地に霧が出ていれば]、人々は豊かになるだろう。

その地がずっと霧に覆われているならば、その地の王朝が世界を支配することだろう。

毎日、絶え間なく霧が出ているなら、商売が繁盛するだろう。

スマヤSumaya[から]。

図20: 月の光輪の中のかに座からのオーメン。写真©大英博物館。

H.ハンガー、「アッシリア王への占星術の報告書」から。ヘルシンキ大学出版局、1992年。


 

月が見えなくなったその日にアダド(雷)が鳴れば、収穫は豊かで、商売は安定するだろう。

月が見えなくなったその日に雨が降れば、収穫が得られ、商売は安定するだろう。

君主なる王よ、永遠に!

アサレドゥAsareduから。

 

 

図21: 月末に鳴る雷からのオーメン。写真©大英博物館。

H.ハンガー、「アッシリアの王たちへの星占い報告書」から。ヘルシンキ大学出版局、1992年。


マルデュックの星が年の初めに目に見えるようになれば、その年は、マルデュークの耕作は上出来となろう。水星がニサン(1)で見えるようになる。

アルデバラン星に接近して来る惑星があれば、エラムの王は死ぬだろう。

見知らぬ星がエンメサッラEnmesarraに近づいてくるならば、人々はあちこちに広がり、地は幸せになるだろう。

水星がおうし座で見えるようになり、その老いたる者のもとに着いた。

[ある惑星が---の中]で目に見えるようになれば、[雨が]降り、洪水となるだろう。

[-----]から

図22: 水星がおうし座で見られるようになった初めての日の夕方からのオーメン。写真©大英博物館

H.ハンガー、「アッシリアの王への占星術の報告書」から、ヘルシンキ大学出版局、1992年。


 

ニサンの月(一番目の月)に地震が起これば、王は土地を失うであろう。

夜に地震が起これば、土地が見捨てられないか、心を配るべし。

アプラヤAplayaから。

 

 

図23: 地震からのオーメン。写真©大英博物館。

H.ハンガー、「アッシリアの王への占星術の報告書」から、ヘルシンキ大学出版局、1992年。


 

月を光輪が包み、その中にレグルスがあれば、女どもは男の子を生むことだろう。

ニルガル・イターから。

火星がさそり座に近づけば、王子はサソリの毒針にかかって死に、彼の息子が後を継いで王座に就くことだろう。しかし、その土地の住処には……また別の君主が……土地の境界線は定まらなであろう。

無名。

胎児に8本の脚と2つの尻尾がついているなら、その王国の王子が権力を奪うであろう。ウッダヌという名前のある肉屋が言った。「うちの豚が出産したが、8本の脚と2本の尻尾がついていたから、塩水につけて、家の中に置いておいた」と。

ニルガル・イターから。

...火星がふたご座に近づけば、王は死に、戦乱となろう。

日の出に水星がおとめ座の領域に見えている。それを解釈したのがこれである。水星がスピカに近づいたなら、作物は豊作となり、家畜は殖え、王は強くなり、敵を打ち負かす(?)であろう。ごまとナツメヤシは豊作となろう...

スピカが火星に接触すれば、雨が降るだろう.

...金星がおとめ座に見えたなら、天は雨となり、地は洪水となり、アハッルは豊作となるだろう。そして、廃墟に人が住むようになるだろう。

無名。

図24: 7つのオーメン録。

R.C.トムプソン「ニネヴェとバビロンの魔術師と星占い師の報告書」、Luzac社(1900年)から。


福島憲人・有吉かおり


<9> 2章 アッシリア時代 (紀元前1300-600頃)/小史/占星術の発達

2021-03-09 10:50:46 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図18: シッパル出土の太陽神の粘土板(紀元前860年)。 著作権:大英博物館。レプリカは大阪市立科学館で見ることができる。

小史

 紀元前13世紀、アッシリアは拡大し始めた。紀元前729年、アッシリアはバビロンへ侵攻し、マルデュックに代わって、アッシュールを神々の中の神とした。サルゴン2世が王位につき、紀元前717年、ニネヴェの北にサルゴン砦を築き、ここに大寺院、ジグラッットと多数の粘土板を納めた書庫を作った。アッシュールバニパル(紀元前669-630)はニネヴェに大図書館を建設し、そこにシュメール語とアッカド語で書かれたあらゆる楔形文字文献を系統的に蓄積し始めた。古代の天文学と占星術の発達についての私たちの知識は、ほとんど、この大コレクションから得たものである。

 

占星術の発達

 アッシリアの神殿は、基本的にバビロニアのものと同じで、違っていたのはそれまでバビロニアの神々の長であったマルデュックに代わって、チグリス川の西の土手沿の都市アッシュールの神、アッシュールが、最高神になったことだった。イシュタルがその次に重要な神となった。マルデュックはエンリル、すなわちベルの力を吸い取った(その後、神はベル-マルデュックと呼ばれ、そして最終的には、接頭辞「ベル」が脱け落ち、結局、マルデュックとなった)。

 シッパル出土の粘土板(図18を参照)には、神の権威をシンボル化したロッド(棒)と輪を手にし、天幕の下で座っているシャマシュ(太陽神)が描かれている。シャマシュが座っている腰かけを支えているのが雄牛人である。その上方には、太陽と月と金星のシンボルが見えるし、神の従者に支えられたもう一つ別の太陽のシンボルも描かれている。

 最初の頃、星占いによる予言は月の位相と関係していた。アッシリア人のもとで、オーメンはとても重要なものとなり、天候や地震やいろいろな大災害と関連づけられた。そのエレメントは都市国家の作物のでき不できに影響した。オーメンは、戦況が国家にとって好ましいか、不利かも教えてくれた。

 正確で矛盾のない暦という、かつての悩ましき問題は、紀元前8世紀、ついに克服された。(後のセクションを参照)。星図は正確に描かれ、また、最終的に黄道帯の星座(占星術で言う黄道十二宮ではない)が天の規則性を示すものとして作れた。正確な惑星運行表が作られるようになったことに加え、これら2つの要因が先にあって、紀元前5世紀、ホロスコープが発明された。

 神とされていた惑星には周期的で、すさまじい、決定的なパワーが与えられ、特別に明るい星には神々と同じように他にはない能力が付与されていた。天体を擬人化する傾向はおさまっていなかったし、ローマ時代になってもおさまる気配はなかった。

福島憲人・有吉かおり


<8> 1章メソポタミア/占星学の発達

2021-03-09 10:32:57 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

 筆や木や骨や金属などを柔い湿った粘土に押しつけて絵やシンボルを記し、これを無限とも言えるほど長期間に渡って保存することができた。その文字はキュニフォーム(楔形文字。ラテン語でcuneiform)と呼ばれていた。粘土板は手の大きさぐらいで、天日乾燥したり焼いたりしたので、まず壊れることはなかった。しかし、粘土はすぐに乾燥するので、一気に書かなければならなかった。これは約3000年にわたって使い続けられた。粘土板の大きさは1×1/2インチから15×9インチだった。(紀元前5世紀以降は、アラム語が文字板に筆で印字された。西暦紀元になって楔形文字に代わった。最後の楔形文字板は西暦75年のものである。パピルスは西暦10世紀頃まで引き続き使われたが、徐々に、動物の皮で作った羊皮紙がパピルスに代わっていった。)

 最も古い星占い文書(図12を参照)は古代バビロニア時代のものである。

 バビロニア人の主な関心事は国の安寧だったから(王は別として個人のそれではない)、天候、収穫、干ばつ、飢饉、戦争、平和および王の運命などについて予言がなされた。毎日くりかえして起こるできごとや、月々、季節あるいは年々の規則的なできごと、あるいは農耕生活がバビロニア人にとって重要で、それらは強大な月や太陽の神々が支配するものとされた。イシュタル(金星と愛の女神)は、シン(月)とシャマシュ(太陽)とで三位一体となっていた。

 紀元前3000年代の終りから紀元前2000年代の初期の頃、オーメン録が目だって増えた。シッパル出土の粘土板は羊の肝臓を模したものである(たぶん弟子たちに教えるために使われた)。(図13を参照。)

 


年始め、夜空が暗ければ、凶の年。

新月が現れ、それを喜びで迎える時、空が明るければ、その年は良き年となろう。

新月の前、北風が天の顔前を吹き渡れば、トウモロコシがたくさん実るだろう。

三日月の日に月の神が天からすばやく姿を消さなければ、「地震」が来るだろう。


図12: オーメン録(紀元前1830年頃)

V.Sileiko「Mondlaufprognosen aus der Zeit der ersten babylonischen Dynastie」、Comptes Rendus de L'academle des Sciences de l'Union des、Republlques Sovietlques Socialistes(1927)から:125.

 

 数世紀にわたって書き継がれたエヌマ・アヌ・エンリルという記録がニネヴェのアッシュルバニパル王(紀元前669-630)の書庫でたくさん発見された。神官は日出および日没の正確な時間や金星の出ている時間や見えない時期を正確に記述し、さらに適切な予言をつけ加えている。これがエヌマ・アヌ・エンリルの63番目の粘土板にある「金星オーメン」(図14を参照)である。大部分が20年以上にわたって書かれている。最初の記録は紀元前2300年頃のもので、他の3つは紀元前1581-1561の間に書かれているようだ。

 境界石はカッシートの時代(紀元前1530-1275年)に見られるようになったもので、3つの重要な天体が記されていることが多い。境界石、すなわち「クドゥル」は公有地あるいは私有地の境界を示すもので、約1.5フィートの高さの丸い石碑である。それには領地へ侵入する者に対する呪いの絵やシンボルや文字がよく彫られていた。ステラのような死者などを記念するための石碑も同じような方法で彫刻されていた(図16および17を参照)。

 最も古い境界石は紀元前14世紀のもので、(1)シンの三日月、(2)シャマシュ、(3)8芒星のイシュタル、があしらわれている。さらに、サソリ、雄羊の頭とヒメジ(魚)がついた神殿、対になったライオンの頭、ハゲタカの頭がついた矛、柱に止まった鳥、うずくまる雄牛の背中の上の光るフォーク、ヘビなどが現わされている。

図13: 羊の肝臓を模した粘土板(紀元前1800年頃)。シッパルから。 著作権:大英博物館

 


 アイヌ月、金星が東にあって、大小の双子星がその周りを取り囲み、この4つの星すべてと金星が暗ければ、エラムの王は病み、生をまっとうすることはない。(紀元前230O年頃)

 

シャバツ月の15日に金星が西に消え、3日間見えないままでシャバツ月の18日目に東に現われたら、王に災難が及び、アダドは雨をもたらし、エアは地下水をもたらし、王は王へ挨拶を送ることだろう。(紀元前1581-1561年)

 

アラサムナの10日目に金星が東に消え、2ヶ月と6日間天に現われず、テベツの16日目に西の空に見えたなら、そこでは大収穫となるだろう。(紀元前1581-1561年)

 

ニサンヌの2日目に金星が東に現われたなら、疫災に襲われる。キスリムの6日目まで金星が東にあり、キスリムの7番目の日にその姿を消し、約3ヶ月の間消えたままで、アダルの8番目の日に金星が西空に輝き始めれば、王は王に宣戦を布告することになろう。(紀元前1581-1561)


図14: 金星オーメン。 写真著作権:大英博物館。 B.L.ファン・デル・ブエルデン「Science Awaking II. The Birth of Astronomy」、オックスフォード大学出版局、1974、から。


 

 紀元前13世紀は出生占星学(個人の誕生ホロスコープに基づく占星学)の先駆けとなった。誕生月によってその子どもについて予言を行ったというバビロニアのオーメン文書をヒッタイト人が翻訳したのであった(図15を参照)。

 読者は、3つの天体が大きな意味を持つようになったことに気がついたことだろう。特に興味を惹かれるのは、愛の女神イシュタルが惑星である金星によって表わされていることである。これについてはいくつかの説がある。天文学者のジャストローは、金星が8か月と5日の間、日の出に地平線上にあり(明けの明星)、次に、3か月後に日没後の地平線上にあるので(宵の明星)、これは金星の季節的な二重性を示し、ひいては愛と肥沃の神であり、かつ戦いの神という2つの属性となったのではないか、と言う。

 太陽と月を除けば、金星は最も明るい天体で、常に太陽の近くに見える。太陽と月は共に男性神である。この「さまよう星」が小さくて、明るく光ることから、バビロニア人はこの星を整然と光輝を放つ愛の女神としたのであった。

 


9番目の月に生まれた子どもは死ぬだろう。

12番目の月に生まれた子供は、長生きするだろう。


図15: 誕生月について述べているヒッタイト人の文書(紀元前13世紀)。Meissner、「Ueber Genethlialogie bei den Babyloniern」(KLIO 19(1925)):432-34.


 

図16: 境界石(紀元前1100年)。 著作権:大英博物館。


図17: 境界石に描かれた種々の生物。W.J.Hinkeから、ネブカドネザルの新しい境界石1、Nlppurから、ペンシルバニア大学、1907年。ファーガソン・フォトグラフィックスによる写真。


福島憲人(2007.1.30.)