占星術への道-誕生史、星見の作法

・占星術の基礎-星見の作法とは?
・今も多くの人を魅了する占星術
・いつ、どこで、どのように生まれたのか?

<24> 付録-占星術起源年代記

2021-03-15 20:55:41 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

占星術起源年代記


紀元前4000年~前2000年=シュメール/アッカド期


 

神々、天、大地、水、太陽、月、金星の女神/初期の暦作りの試み

 

前3300年

文字の発明、星、神、空の絵文字入り/最初のジグラット

 

前3000年

アッカド人がシュメールに移住/愛の女神イナンナが描かれている円筒印章

 

前2300年

太陽神シャマシュ、イシュタルおよび水の神Eaを示している円筒印章/最初の金星オーメン


前2000年~前1300年=古代バビロニア時代


 

前1900年~前1600年

オーメン粘土板

 

前1700年

ハンムラビ

 

前1500年代

金星オーメン(予言)

 

前1200年

ヒッタイトの粘土板ー誕生月による予測


前1300~前600=アッシリア時代


 

前1100年

星々のリスト(アストロラーベ)

 

前1000年

天の予言(エヌマ アヌ エンリル)

 

前600年代

正確な暦の発明/天文学の粘土板(mul.APIN)

 

前650年

アッシュルバニパル

 

前600年代後期

黄道帯の星座が全てマッピングされた


紀元前600年~紀元前300年=新バビロニア時代


 

前400年代

各30°の黄道帯のサインの発明


バビロニアのホロスコープ(合計16のホロスコープが存在)


 

前410年

知られている最も古いホロスコープ

 

前68年

最後のバビロニアのホロスコープ


ギリシア(ヘレニズム文化)のホロスコープ(合計180存在)


 

前71

ギリシャの最古のホロスコープ

 

紀元510頃

ギリシャの最後のホロスコープ

紀元100~170頃

プトレマイオス

紀元150年頃

『テトラビブロス』(四元の書)が書かれた

紀元160年頃

ベッティウス・バレンス

紀元520年頃


最古のアラビアのホロスコープ


 


<23> 5章 プトレマイオスとテトラビブロス-2/業績、誤り、評価、その後

2021-03-15 11:05:17 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

左:占星術はやがて医学メロテシヤや、化学と結びついて錬金術へと関係を深め、深化していった


テトラビブロス-2

 サインはお互いにとって望ましくもあり、望ましくもない。「サインのアスペクトについて」のセクションで、プトレマイオスは次のようにコメントしている:

音楽の中で最も重要とされる2つの分数と、2つの隣接数比をとるならば、そして、もし分数の2分の1と3分の1を、2つの直角から成っている衝(反対側)に適用すれば、その半分はカータイル(四分位)に、3分の1はセクスタイルに、そしてトラインとなる。隣接数比については、もしセスキアルターとセスキターティアンを1直角のカータイルに適用すると、セスキアルターはセクスタイルに対するカータイルの比で、セスキターティアンはカータイルに対するトラインの比となる。このアスペクトのうちトラインとセクスタイルは、調和的、と呼ばれている:同種のサインで構成されていて、完全に女性サインか、完全に男性サインになっているからである;

 星座と昼夜平分時(サイデリアル対従来の占星術)に関して、プトレマイオスは次のように指摘している:

しかし、以下は熟考する価値があるので、それをやり過ごしたりしないでおこう:すなわち、サインの始まりを分点と至点として数えるのが妥当だということである:なぜなら、一つには作者がこれを非常に明確にしているからで、特に、それらの性質、力、および同族が、分点と至点の出発点から発していて、他からではないことを、以前に示したことから我々は見ているからである。

 第2巻は予測(予言)と各国の占星術のサインを検討している。国々や民族の占星術から見たできごとが個人よりも上位であるとコメントしている。

 天文学的手段による予測は、2つの主要部分に分けられている。一つ目はより普遍的なもので、人類、国々および都市に関係するものであるので、そして2つめはより特殊なもの、個人的なものなので、それは出生時占星術genethilialogicalと呼ばれる。

さて、天文学的な手段によってなされる予測は2つの大きな部分に分かれている:最初の、より一般的なものは、人種や国、都市などの全体に関わるもので、全般的(占星術)と言い、二番目のやや特別な方は個々人に関するもので、出生時占星術と言っている:だから、最初に全般的なものを扱うのがふさわしいと思う:なぜなら、そのような全般的な事柄は個別・特有のできごと以上に、より大きな、より強力な原因によって必然的に左右されるからである。そして、性質について見ると、弱い性質は常に強い性質に屈し、特定のものは常に全般的なものの下に置かれるので、一個人についての調査を目的とする方々ににとっては、それ以前に、より全般的な考慮事項をなんとしてでも理解しなければならないだろう。

 様々な国々を支配するサインと惑星が調査されている。例に挙がっているのは、

これらの同じ国のうち、ブリテン、<アルプスの向こうの>ガリア、ドイツ、バスタルニアは、おひつじ座や火星ととても近い同族関係にある。

しかし、ヘラス、アカイア、クレタの住民はおとめ座と水星と同族であるため、論理的思考が得意で、学習を好み、身体よりも精神を鍛えている。

 日月食が分析されている。人間のサインであるふたご座、おおめ座、てんびん座、みずがめ座、そしていて座の一部は、主に人間の身に降りかかるできごとの原因であり、一方、四足のサイン、つまりおひつじ座、おうし座、しし座、そしていて座の半分は、四足動物に対して起こるできごとの原因となる。例えば、

特に、黄道帯の内外両方にある人間の形をした星座は、動きが調和し、均整のとれた体を生み出す;しかし、人間以外の形のものは、自分の特性に対応するように身体の比率を変え、一応、対応する部分を大きくしたり小さくしたり、強くしたり弱くしたり、多少優雅にする。たとえば、しし座、おとめ座、いて座は彼らを大きくする;うお座、かに座、やぎ座などのようなその他のものは、小さくする。また、おひつじ座、おうし座、しし座の場合と同様に、上方と前方の部分は彼らをより頑健にし、下方で後ろの部分は弱くする。

 惑星が地球に与える影響を調べている。土星は寒さ、洪水、貧窮、投獄や死を起こす。火星は、乾燥による破壊、火事や戦争を引き起こす。また、彗星と流星が天候に与える影響が分析されている。

 第3巻は個人に関するもので、懐妊と誕生が検討されている。懐胎時間が優先され、誕生は偶然だとされている。懐妊時間は、できれば天体観察によって知るべきであって:

懐妊のまさにその時刻が天体観察や何らかの方法で分かっている場合には、身体と魂の特性を決定する際にその時刻を使って追求するのが望ましい。

 上昇サイン、月の相、そしてミットヘブンが調べられている。父親の影響は太陽と土星で、そして母親の影響は月と金星によって示される。肉体の形と気質(上昇サイン)、怪我、疾病は、肉体のある部分を支配する惑星が吉アスペクトにあるのか凶のアスペクトにあるのかによる。例えば;

体の最も重要な部分については、土星が右耳、脾臓、膀胱、粘液、骨の支配者である;木星は、触覚、肺、動脈、精液の支配者である;

 惑星の動きとそれが出生にどのように影響を与えるかが検討されている。例えば、

 土星は火星と共同し、名誉ある場所にあって、その対象者を良くでもなく、悪くでもなく、また、勤勉で、率直で、厄介で、卑劣な自慢をし、不快な行為をし、無情で、軽蔑的で、荒々しく、論争的で、無謀で、無秩序で、欺瞞的で、奇襲を重ね、怒りが消えずに、断固とした弁解をし、大衆に取り入り、暴虐で、欲深く、みんなを憎み、争いが好きで、悪意に満ち、悪に徹底し、積極的で、せっかちで、怒りに狂い、下品で、自慢屋で、不礼で、不公平で、軽蔑されることなく、人を憎み、柔軟性に欠け、変化のできない、忙しい身であると同時に、巧妙で実際的で、ライバルに負けず、一般にその目的を首尾よく達成する、そんな人になる。その反対の位置では、対象者を盗人で、海賊で、通貨偽造者で、恥ずべき扱いに従順で、基本的な利益を取る人、無神で、愛情がなく、侮辱的で、狡猾で、他人のものを盗み、詐欺師で、殺人者で、禁断の物を食べ、悪い行いをし、人殺しで、毒殺者で、不信心で、神殿や墓を荒らす盗賊で、完全に堕落した、そんな人にさせる。

同様に、火星や金星もまた、そのいずれかまたは両方が男性的になった場合、男性は自然な性交に夢中になり、浮気性で、飽くことなく、性的情熱の卑劣で無法な行為にいつでも臨む用意ができているが、一方、女性は不自然な性交に貪欲で、誘うような流し目を投げかける:彼女らを我々はトリバデと呼んでいる;彼女らは女性にあい対し、男性の機能を果たすからである。

 第4巻は職業、物質運、結婚、子ども、友達、敵、外国旅行、死および黄道帯の「ハウス」を扱っている。プトレマイオスはこれらを惑星の角度と関連づけていて、例えば、

 もし水星と火星が共に活動の指導権を引き継ぐならば、2つは彫刻家、武具士、神聖な記念碑の製作者、塑像製作者、レスラー、医師、外科医、告発者、姦淫者、悪人、偽造者を生み出す。


『テトラビブロス』の評価

 『テトラビブロス』(四元の書)は他の占星術の本を歴史上の単なる興味のみに落としめてしまった。つまり、ノイゲバウアが指摘しているように「著書の重要性は、読む必要が無くなる前の出版部数によって測定することができる」からである。プトレマイオスの後に、いくつか修正がなされたが、西洋占星術の中核は『テトラビブロス』に書かれている。

 『テトラビブロス』は骨の折れる文を用いた長い文章で構成されていて、一般に退屈で、無味乾燥なものだ。しかし、中には思わず笑ってしまうものもある。奇妙な概念に加えて、未完成で、考えが矛盾しているところが見られる点は大問題で、例えば:

 (1) それぞれのサインの力および特性を星座内の恒星から引き出している(サイデリアル占星術)。しかしながら、プトレマイオスは次のように言っている。「サインの始めは、昼夜平分点・至点から取るべきで、他のところから始めてはいけない。」

 プトレマイオスの時代には、サインと星座間には少しオーバーラップしているところがある。しかし今日では、歳差運動のために、各サインはそれぞれ、前の星座に向かって、つまり後方に移動している。例えば、おひつじ座の人は、おひつじ座ではなくうお座が実際には頭上にあるというように、黄道帯を後方に移動している。

 プトレマイオスは、300年も前に歳差運動について説明をしているヒッパルコスの追随者だったので、これに気づいていたが、我々にはそのことを明らかにしていない。ヒッパルコスの時代には、春分点のおひつじ座の9度にあったが、300年後、つまりプトレマイオスの時代には春分点は約5度移動していた。星座の星の力を知らなければならないと言われているのに、黄道帯のサインは歳差に合わせて変えることができないのだ。一体どうすればできるのか? 間違いなく、それは無理だ。

 だからプトレマイオスは、そのことを星座とサインの間で宙ぶらりん状態にし、決定しないままにしている。これが『テトラビブロス』の大きな欠点で、そして『アルマゲスト』内の天文学の間違いとも関係があると思う。[このようにスチュワートは書いているが、具体にどこを指しているのか不明。アルマゲストの「間違い」を正しく見抜くのは容易ではない。]

 (2)二番目の問題は季節に関するものだ。季節(夏至・冬至・春分・秋分の出発点)は緯度によって変わる。プトレマイオスやメソポタミアの書物に記述されたものは、約6度のベルト内に位置している:つまり北緯30°1/2にあたるペルシャ湾の先端にある古代都市バルサから、その少し上、イラク領土内の北緯36°1/2にあって現在では存在しない都市ニネヴェまでである。これらの緯度の北と南では、季節は、少しではあるが、変化する。勿論、春分点と秋分点、夏至と冬至点の両側でも変化するので、もはや季節は星占いの季節のサインに一致していない。世界中の多くの地域で一致しない。

 (3)三番目の問題は、ホロスコープ作成には誕生時間よりも懐妊時が優先される点だ。懐妊時間については、懐妊後4-5日間は懐妊を知ることができない(この事実はプトレマイオスの時代には正しく理解されていない)[スチュワートはこう言うが、テトラビブロスには、その時刻を求めるのは困難と書いている。だから、誕生時でやっても良いとしていたと思う]上昇サインは一時間半毎に変るので、ホロスコープの意味が十分ではなくなるだろう。

 (4)もう一つ別の間違いは、同種の種類のサインと異種のサインに関するものだ。プトレマイオスはそれを次のように指摘している。「スクエア(90度)とオポジット(180度)は、違う種類のサイン(男性・女性)から成り立っているので、不調和である。」これは衝オポジションに関しては正しくない。衝オポジションの場合は常に同じ種類である。例えば、ふたご座はいて座と衝オポジットになっているが、2つとも男性サインである;おとめ座はうお座と対面しているが、2つとも女性サインだ。等等

 (5)最後の奇妙なコメントは、「全般」のホロスコープ(国や人種のホロスコープ)が、個人の出生より優先されていることだ。これは、占星術の約95パーセントを否定することになってしまう。[これはスチュワートの言。当時もそうだし、ケプラーの時代でも占星術は王侯貴族のもので、何と言っても戦いでの勝利を占うのが最大の仕事だった。その次に彼らや家族の個人的なできごとが続いていた。]


プトレマイオスへの評価

 前に言ったように、プトレマイオスについてほとんど知られていない;また、彼の動機を適切に見極めることは不可能ではないにしても、困難だ。彼は、かなり、我を持っていたように見える。彼の指導のもとに、彼の主義を記入した祈願の石碑がカノープスの寺院に建設されていた。彼が占星術をやったという証拠はなく、ホロスコープを作成した形跡はない。

 『テトラビブロス』にはある不安が付き纏っている。オニールはプトレマイオスが考え出したのではなくて「報告している」のだと評している:つまり、「逸話の類の証拠さえ提示しようとしない受け入れ知識だ」と。ブリタニカ大百科事典の1973年版の占星術セクションを書いたファリントンは「プトレマイオスは熱心にこのシステムを擁護しているが、現代の読者ならその文献証拠に当惑、いや悪意さえ感じるかもしれない。また紀元1世紀と2世紀のローマ帝国によって占星術が受け入れられたことに言及して、この時代は占星術的な見方に抵抗しづらかった」と指摘している。

 問題はプトレマイオスの天文データからも起こった。数世紀もの間、天文学史を研究する人たちはアルマゲスト中のデータについて心配していた。しかし、プトレマイオスが偉大なゆえに顔を背けていた(ソクラテスなら誰に対してだろうと、真実のためには叱っていただろうが)。時が経つとともに数字が細工されたのではないかという疑いが生じてきた。最近の分析によって、仮説に合うように数字が実際に歪められた(ちょっとした間違いではなくて重罪に近い)と結論されている。1977年には、プトレマイオスのデータを調査した地球物理学者が、の彼の資料のほとんどが詐欺であると結論を下した。地球物理学者がノーカット本『クラウディウス・プトレマイオスの犯罪』を書いたことが大きな不安をもたらした。

 しかし、理論に適合するようにいくつかの数字を歪めた古代の天文学者/占星術者、そして数学者にどうしてそんなに憤慨するのかと、思う人たちもいることだろう。答えは、「ソクラテスが忠告したように、彼が真実を追求し、正確な数字を与えていたならば、コペルニクスが1400年後に太陽を中心とした太陽系を明らかにするまでに、1人か2人の同学者が太陽を中心にした太陽系を明確にすることができたかもしれない」ということだ。

 道具はすぐ手の届くところにあった。アリスタルコスは太陽中心説を示唆していたし、ヒッパルコスは歳差について記述していた。道具は利用可能だった。しかし、プトレマイオスはそうしなかった。なぜか? それは分からない。我々は、彼がヒッパルコスの熱心な支持者だったことを知っている。実際、ヒッパルコスの原稿はプトレマイオスだけが残してくれた。また、恐らく、彼は政治的な影響を受けたのだろう。地球中心説を否定し、そして太陽中心説を主張することは政治上危険だったかもしれない。

 改ざんされた天文学のデータが占星術にどのような影響を与えたか?占星術者たちが使用している天体の運行学はプトレマイオスのデータをベースにしてしているが、そのデータの多くは正しくない。(例えば、歳差を扱わなかったことで、サイデリアル(実際の星座に基づく)占星術者と従来の占星術者間に争いを生み、今も続いている。)さらに、不正行為がなされたのは、他の動機があったのではと疑わせる。プトレマイオスはなぜカルデア人の莫大占星術データを収集したのだろうか?本当に占星術に感心があったのだろうか?たぶん、そうではなかったのだろう。


■福島:コメント

 ここにはスチュワート独特の見解が披歴されていて、相当手厳しく評価している。しかし、誤解もあるようだ。第一に、プトレマイオスはテトラビブロスを全部自分が考えて、考えたとは書いていないし、あれこれの文献を参照したことは歴然としている。アレクサンドリア図書館のパピルス文書を漁って材料を集めたのだろうというのが現在の大方の見解だ。

 アルマゲストの中の星のカタログでは、約1000星の観測を自分で行ったかのように書いているのは確かに奇妙。その仕事だけで一生を費やすほどの量だから、そうおいそれとはできなかった筈だ。そこで、これはヒッパルコスのデータを300年分移動させて(歳差分)、プトレマイオスの時代に合わせたというのが、現在の大方の見解のようで、こうしたことを持って剽窃という人たちがいる。プトレマイオスはヒッパルコスやチモカリスらのデータと位置の比較などを行ったとし、参照したことを明記しているし、全部の観測を自分が行ったとは、書いていない。だが、この一件で評価を落としたことは確かだ。

 プトレマイオスがアルマゲストに用いた基礎データは紀元前700年ほどからの約1000年分で、自分の観測も多少加えている。正確な暦作成には大昔の観測データが必要で、それを古いバビロニアのデータに頼らざるを得なかった。大した観測器具も時計もない時代のデータである。また、タイプミスもあったろう。不正確なことは夥しい。しかし、それは細工されたデータとは違う。この面での調査結果を寡聞にして知らないが、データの細工が皆無だったとは言い切れないとは思う。ただ、データを細工したとしても、そもそもが信頼性に乏しいデータなのだ。それで作ったプトレマイオスの天体運行論だから不正確で、やがて批判されることになったわけで、データを細工したから立派な理論ができたわけではない。

 テトラビブロスでほとんど歳差に言及されていないことはその通りである。プトレマイオスは歳差自体は良く知っていたから、意図的に落としたのだろう。占星術ではそれで良いと思ったのだろうが、明示しなかったことで混乱を招くことになったのは確かだ。

 本文にもちらっとあるが、当時の政治情勢や社会情勢も見なければ、適切な評価はできないのではないかと思う。


プトレマイオスの業績

  1. ギリシアの数理天文学について最初の、最も包括的な論文(アルマゲスト)を書いた。
  2. その時代までにあった占星術の知識をすべて収集した(『テトラビブロス』(四元の書))。
  3. またヒッパルコスの仕事を継続し、(ヒッパルコスの850の星に加えて)178の星の位置をマッピングし、また(ヒッパルコスのものをベースにして)48の星座をリストアップした。
  4. 天体観測に使用された道具を記述した。
  5. ヒッパルコスが計算した月までの正確な距離を受け入れた。
  6. 『光学』の中で、光の屈折について議論した。
  7. 彼の本『地理学』で、当時の名高いローマ軍の行軍に基づいて地図、緯度、および経度を作成した。
  8. 和声学について革新的な本を書いた。

プトレマイオスの間違い

  1. 周転円に関する正しくない理論およびアポロニオスヒッパルコスの理論に基づいて、地球を中心にした宇宙説を永続させた。
  2. アリスタルコスの正しい太陽中心説を無視した。
  3. 春分点歳差運動を適切に利用しなかった。(福島:テトラビブロスには明確な言及がないだけ)
  4. データを操作、歪曲し、かくして14世紀もの間天文学を混乱させた。(?)
  5. 地球の大きさに関して、エラトステネスが推定したより正しいサイズ(25,000マイル)ではなく、ポシドニオスの(18,000マイル)を受け入れたことで、地図上の緯度、経度で大きな間違いを犯し、それが長きに渡って続いた。(そしてコロンブスがアジアへ航海した時、正確には11,000マイルだったが、3000マイルの航海と思った。もしそれが11,000マイルだったなら、彼は試みていなかっただろうと言う人もいる。)
  6. 『テトラビブロス』に説明されている星座とサインと季節の関係のような基本的特徴は不適切。

プトレマイオス以降

 プトレマイオスヴァレンスの後に、占星家および哲学者/占星家が多数現われている。ポルフュリオス(232-305)はギリシアの新プラトン主義者だった。アレキサンドリアのパウル(378年頃)は、アレキサンドリアの衰退期に占星術の講義で使用するポピュラーな教科書を書いた。あまり知られていないその他の人物では:テーベのヘファイスティオン(380年頃)、パルカスPalchus(500年頃、おそらくエジプト人);レトリウスRhetorius(紀元500年頃);そしてジョン・リダスLydus(550年頃)(この人はユスティニアヌス1世の下で実際に占っていた)。プトレマイオスの著書は持続、維持され、アレクサンドリアの数学者パップスPappus(260)やアレキサンドリアの数学者で天文学者であるテオン(364)が言及している。またギリシアの数学者プルクロス(460)は『テトラビブロス』を分かりやすく書き換えている。

 西暦5世紀以降占星術占いは衰退し、ヘレニズム文化の占星術がイスラム教によって継承された8世紀に復活した。イスラムの知識人アルブマザールAlbumasar(787-886)は占星いの哲学的・歴史的正当性について詳細に述べ、また西洋にその知識の紹介する上で貢献した。

福島憲人・有吉かおり


<22> 5章 プトレマイオスとテトラビブロス-1

2021-03-15 09:58:53 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図40:プトレマイオス。©Corbis-ベットマン。


 

プトレマイオス

 プトレマイオストレミー、アレキサンドリアのプトレマイオスとも。クラウディウス・プトレマイオス、100年-170年頃)は、厳密に言えば、ギリシア人ではなかったし、プトレマイオス家の人間でもなかった(図40を参照)。すなわち、彼は、元々のマケドニアの将軍とは関係がなかったし、またエジプトのプトレマイオス王とも関係がなかった。彼はアレキサンドリア近辺に住んでいたエジプトの天文学者であり、地理学者であり、そして数学者であった。

 彼がアレキサンドリアの博物館や図書館に関係していたとか、いなかったと言うことも含めて、彼の生涯についてはほとんど知られてない。その人となりについては、著書の中の短かいコメントや同時代の人たちから出た話をつなぎ合わせて得られたものだ。彼の生地は、おそらく、エジプト北部にあるギリシアの都市プトレマイス・ヘルミである。ローマの市民権は、彼の先祖が得ていたようだ。彼が図書館長あるいは博物館の最高責任者だったと書いている人もいるが、これは確認することができない。彼は、多分、博物館で研究職に任命されたのだろうという点では見解が一致している。アシュマンドAshmandは、ホエーリーのテトラビブロスの翻訳本で、「彼は非常に質素で、よく馬に乗っていた」とアラビア人が伝えている、と述べ、更に、「装いは小ぎれいだった」が、彼の息は心地良い匂いではなかったとも付け加えている。

 プトレマイオスは、ヒッパルコスが導き出したデータを使って1,028星の位置(ヒッパルコスの星図に172の星を加えて)を星図に描き、また48の星座を記載し、およその地球の経度および緯度の線についても記述し、そして地球中心の太陽系という間違った考えを発展させた。

 プトレマイオスの最も有名な著書は、13巻からなる数理天文学書のアルマゲストあるいはマセマティケ・シンタクシス(数学大集成)である。ヒッパルコスプトレマイオスは、地球は宇宙中心に静止していて、すべての物がそれを中心に回っている、と信じていた。でも、諸惑星(太陽と月は違う)が、短い期間ではあるが、軌道上で後ろに移動し、その後また前進し続けるように見えることを知っていた。この後向きの運動(逆行)を説明するため、巧妙で複雑な機構を考案した。つまり、惑星は地球を中心とする大きな軌道(大円)上を回転するが、各惑星は、その中心がより大円上にあるより小さく、より速く回る円(周転円)の上でも回転している、と考えた。さらに、ずっと外に球があって、それに星々がついていて私たちのまわりを動くとされた。これがプトレマイオス体系で、お世辞でもないが、14世紀もの間生き続けたプトレマイオスのメリーゴーランドであった。

 バートキーは「中心に立ち、惑星が回転する様子を見られるなら、プトレマイオス体系を理解することができる。また、天球同士がぶつかるから、神々と敬虔な人々だけの特権である「天球の音楽」も聞くことができるだろう」と言っている。現代科学は、この考えが全く正しくないので、この奇妙な考えを占星術の衰退の始まりを示すものとしてとらえている。問題は、それが正しかろうと間違っていようと、天宮図(ホロスコープ)の体系には違いが生じないことだ。われわれが地球上にいる限り、天体間の「アスペクト(ホロスコープ上の天体と天体が作り出す角度のこと)」も同じである。

 プトレマイオスの他の著作としては、『地理学』、『光学』、音楽を扱った『ハーモニカ』、それから占星術についての4巻の大作「数学大全4巻」、別名「Syrusシーラスに捧げられた予言書」がある(シーラスは占星術に熟練していた医者だったと思われる。アルマゲストもシーラスに献呈されている)。その後、その著作は「テトラビブロス」と呼ばれるようになり、その名が今日でも使用されている。驚くべきことは、現代の西洋占星術がプトレマイオスがテトラビブロスの中で述べていることや議論していることをほとんどそのままその基礎としていることである。

 プトレマイオスは、ベッティウス・バレンスやその時代にアレキサンドリアの医学校にいたあの有名なギリシアの内科医ガレノス(130年-200年頃)のような同時代の人については全く言及していない。ガレノスは、プトレマイオスを「天の原動力に生気説の基本概念を当てはめようとする活力説信奉者」と評している。プトレマイオスがテトラビブロスで駆使している知見をどのようにして得たかは知られていない。でも、2世紀のアレキサンドリアでは、占いに関するカルデア人等の考えについての粘土板やパピルスが図書館にあった。確かめられているわけではないが、プトレマイオスはバレンスから占星術の情報を得ていたのかも知れない。


テトラビブロス-1

 パピルスの巻物に書かれたプトレマイオスの原著は存在していない。実際のところ、古代の原典はどれも失われててしまい、すべては写し取られたものと翻訳である。テトラビブロスの最も古い翻訳は9世紀のアラビア語版である。後のラテン語の翻訳によってヨーロッパ人はテトラビブロスを知ったのであった(図41を参照)。本書で引用している英語版はF. E. ロバンズがギリシア語から1940年に翻訳したものである(図42を参照。ケンブリッジ、マサチューセッツ: ハーバード大学出版社(1964年)から、出版社およびローブ古典図書館の許可による)。

 第1巻で、プトレマイオスは、天文学を補足するものとして占星術を追究する理由として自論を次のように述べている。

予測は偶然性に依拠しているという考えを言う者がいるが、それは間違いである。そうかと思えば、当然前もって知ることができないようなことも含め、様々なことを予言することで評価されていることを傘に来て、無知な大衆を惑わすやからもいる。しかし、それは哲学でも同じだ。哲学者を装っているものの中に似非者がいるという理由で、哲学を捨て去る必要はないのである。

図41:テトラビブロス、16世紀の原稿の一部分。©大英図書館。


 

 プトレマイオスは、火星と土星は好ましからぬできごとを引き起こし、木星と金星及は好ましいできごとを、そして水星はそのどちらかを引き起こすと言う。サン・サイン(太陽星座、太陽宮sun signは個人の出生時に太陽があったサイン)は特に大きな特徴が付与されている。惑星間の角度を調べ、これがトレイン(太陽、月あるいは惑星が120度離れている)やセキスタイル(60度離れている)であれば好ましく、スクエア(90度離れている)とオポジション(衝、180度離れている)は良くない。コンジャンクション(合、同じ角度±数度)はそのどちらか、とされる。

 5惑星は、その年の各季節と直接の関係があって、ある決まった時に太陽が位置するサイン(12宮)を支配する役目を持っている。

 しし座というサインは、一年の最も暑い時期(晩夏)と関連している。太陽がその支配星として割り当てられている。それは男性のサインであり、定着を表すサインである。真夏は女性の暖かさを象徴して、かに座と関連づけられている。こうしたサインの反対にあるのがみずがめ座とやぎ座で、冬の数か月に及ぶ寒さと関係している。土星がこれらのサインの支配星として割り当てられている。その理由はこの惑星が太陽から最も遠く離れていて、明らかにより冷たいからだ。

 春の火のような酷暑はおひつじ座によって表され、そして乾燥し、朽ち果て、焼けつくような季節はさそり座によって象徴的に表されている。火星は赤みがかった炎のような色調を放っているので、この星はおひつじ座とさそり座の2つのサインの支配者とされている。いて座とうお座という温和な季節を支配する星は最大の惑星木星とされている。秋および春の暖かさは、てんびん座とおうし座の季節にあたり、金星によってうまく代表されるように感じたようだ。

 最後に、最も速く動く惑星、水星は太陽のまわりを回転するその速度のために、乾いているかもしれないし湿っているかもしれない。一般に天候が変わりやすいと考えられる季節(ふたご座およびおと座)と関係している。

 夏至と冬至がかに座とやぎ座のサインに入るので、これらは至点のサインである。昼夜平分時に始まるおひつじ座とてんびん座は、昼夜平分時のサインである。(これらの用語が後になってカーディナルという用語に置き換えられた。それらは四つの季節の始まりを意味している。)ソリッド(不動、その後フィックスドと呼ばれている)サインはしし座、おうし座、さそり座およびみずがめ座。双体サイン(後に、ミュータブルと呼ばれるようになった)がふたご座、おとめ座、いて座およびうお座。

 カーディナルサインは、春、夏、秋および冬の季節の始まりである。不動ソリッドと呼ばれた理由は「太陽がそれらのサインにあると、前の季節にそこはかとなく感じられた湿気、熱、乾燥および寒さなどがりっかり分かるようになる季節だからだ。

<テトラビブロス-2に続く>


テトラビブロス 目次

1巻

  1. はじめに。
  2. 天文学的な手段によって得られる知識、その範囲。
  3. それは有用である。
  4. 惑星の力について。
  5. 吉惑星と凶惑星について。
  6. 男性惑星と女性惑星について。
  7. 昼間惑星と夜間惑星について。
  8. 太陽に対するアスペクトの力について。
  9. 恒星の力について。
  10. 四季と4つのアングルの影響力について。
  11. 至点サイン、分点サイン、不動サイン、および双体サインについて。
  12. 男性サインと女性サインについて。
  13. サインのアスペクトについて。
  14. 命令と服従のサインについて。
  15. 互いに注視するサインと同等の力のサインについて。
  16. 分離サインについて。
  17. いくつかの惑星のハウスについて。
  18. トライアングルについて。
  19. 高揚について。
  20. 区界の性質について。
  21. カルデア人によれば。
  22. 場所と度数について。
  23. フェース、チャリオット、その他について。
  24. 接近、離反、その他の力について。

2巻

  1. はじめに。
  2. 地域全般の住民の特徴について。
  3. 国々とトリプリシティおよび星々の間の同族関係について。
  4. 個別の予測を行う方法。
  5. 影響を受ける国々の調査について。
  6. 予測されたできごとの時刻について。
  7. 影響を受けるもののクラスについて。
  8. 予測されたできごとの性質について。
  9. 日月食、彗星などの色について。
  10. 一年の中の新月に関して。
  11. 部分ごとのサインの性質、および天候に与える影響について。
  12. 天候の詳細な調査について。
  13. 大気の示す兆候の意味について。

3

  1. はじめに。
  2. ホロスコープ点の度数について。
  3. 出生時天宮図の科学の細分化。
  4. 両親について。
  5. 兄弟姉妹について。
  6. 男性と女性について。
  7. 双子について。
  8. 奇形児について。
  9. 育たない子について。
  10. 寿命について。
  11. 体形と気質について。
  12. けがと病気について。
  13. 精神の性質について。
  14. 精神の病について。

4巻

  1. はじめに。
  2. 物質フォーチュンについて。
  3. 品格フォーチュンについて。
  4. 活動の性質について
  5. 結婚について。
  6. 子どもについて。
  7. 友人と敵について。
  8. 外国への旅について。
  9. 死の性質について
  10. 年代・年齢の区分について

図42:テトラビブロスの内容。F.E.ロビンズ訳、プトレマイオス、テトラビブロス(ハーバード大学出版社、1964年)から。

福島憲人・有吉かおり

 


<21> 4章 ギリシャ、ローマおよびヘレニズム文化期エジプトにおける占星術/エジプト

2021-03-15 09:27:55 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

ヘレニズム文化のエジプト

 アレキサンドリアは地中海に面したエジプト随一の港町で、紀元前331年、アレクサンドロス大王がペルシア帝国から奪い取って開港した。アレクサンドロス大王のマケドニアの将軍であったプトレマイオス(プトレマイオス1世、あるいはプトレマイオス・ソテルSoter)の下で、アレキサンドリアはヘレニズム風の都市の中では名の知れた成功した町となった。大きな大学と図書館が置かれ、その大学は古代世界で最も有名な学術機関になった。ミュージアム(ムセイオン)という名の文芸センターが文芸や芸術の神であるミューズに捧げられた。アリストテレスが興したリュケイオンの精神は徐々にアテネからアレキサンドリアへ移って行った。

 アレキサンドリアでは有名な学者が次々と現われた。紀元前300年のストラトStratoとユークリッドから始まり、その後、アルキメデス(紀元前250年頃)、エラトステネス(紀元前250年頃)、サモスのアリスタルコス(紀元前240年頃)、アポロニオス(紀元前200年頃)、サモスラスのアリスタルコス(紀元前170年頃)、ヒッパルコス(およそ紀元前150)と続いた。ユダヤの旧約聖書をギリシャ語へ翻訳した最古の版である七十人訳聖書(セプトゥアギンタ、紀元前250年頃)はアレキサンドリアで書かれている。ヘレニズム文化圏の多くの国々から学者たちが図書館やミュージアムに招聘された。

 アレキサンドリアのミュージアムには200,000~700,000冊の本が収蔵されていた。それは木製のダボにパピルスを巻いたもので、長さは約10インチ、直径が数インチから1フィート、そして巻物を広げると約20~35フィートほどあった。

 アレキサンドリアの住民、宗教、文化はそれぞれエジプト、マケドニア、ペルシャ、シリア、ユダヤ、カルデア、ギリシャおよびローマのものが混在していた。共通語はコイネーというギリシャの方言だった。約30の宗派があった。キリスト教とゾロアスターの考えが混合したグノーシス主義は、精神上の概念を知ることと自己観照の重要性を強調した。セラピスはギリシャ市民の守護神を祭った寺院であった。イシスは、紀元前4世紀に国外追放されたエジプト人によってギリシャに持ち込まれたエジプトの女神だった。ミトラ教はインド-ペルシアの太陽神ミトラを崇拝する宗派で、紀元前二世紀、ヘレニズム文化圏に紹介された。ヤハウェ教徒は唯一の神としてヤハウェを信じていたユダヤ人であった。

 ヘロデ大王の死(紀元前4年)の直前に、アレキサンドリアから300マイル離れたエルサレム近くの小さな村で、ナザレのイエスは生まれた。東方の三博士(マギ)が明るい星をたよりにベスレヘムにやって来た、と語り伝えられている。その話が真実なら、彼らは多分ペルシアの占星術師だったのだろう。アレキサンドリアがローマの属国となった西暦30年に、イエスはローマ人によって磔にされた。西暦100年、アレキサンドリアではキリスト教はまだ目立たないものの、明らかに大きくなっていった。

 ローマ帝国が徐々に衰退して行く中で、アレキサンドリアは文化的活動の中心としてその立場を堅持していた。キリスト教はストア派の人たちの支援を受け、3世紀なると繁栄を迎えた。アレキサンドリアは衰退し始め、そして紀元646年、アラビア人に征服された。アラビア人は、ユークリッド、アリストテレス、プトレマイオス等々の多くの著作を保存し、それらをアラビア語に翻訳していった。数世紀の間、世界最先端の科学資料を所有していたのはアラビア人だけであった。

 アレキサンドリアが紀元1世紀後半に衰退を始めるとともに、2世紀もの間栄えていた科学革命の時代も(たとえばユークリッド、ヒッパルコス・アルキメデスなど)終焉を迎えた。テトラビブロス『Tetrabiblos』を翻訳したロビンズは、「紀元2世紀になると、占星術の勝利は完全なものとなった。ほとんど例外なく、皇帝から最も身分の低い奴隷まで、全てが占星術を信じ、そしてニューアカデミーの批判精神は風化してしまい、占星術は強大なストア派によって保護された」と指摘する。プトレマイオスベッティウス・バレンスが出現したのはこの時期だった。


ベッティウス・バレンス

 ベッティウス・バレンス(西暦160年頃)は最も著名なギリシャの占星術師のうちの1人であり、プトレマイオスと同時代の人だった。プトレマイオス同様、彼の一生についてはほとんど何もわかっていない。彼が占星術師養成のための学校を経営していたことは間違いない。ほとんどの仕事はアレキサンドリアで行なわれていた(ホロスコープの時間と場所で確認されているし、また過去に遡って確認されているものもある)。

 バレンスによれば、各惑星には魂における役割が割り当てられているとされる。彼は著作「アンソロジー」の中で、西暦140年から170年にわたるホロスコープを引き合いに出して占星術の理論を説明している。「アンソロジー」は「敵対する場所と星々について」、「クリトデムスCritodemusの第1表による危険な場所について」、「非業の死について、事例つき」、「有名で優れた出生の例と不遇で身分の低い出生の例」、「厄年について、クリトデムスによる月から始める方法とは異って」など、9巻から成っている。

 バレンスは、プトレマイオスの影響を受けていないと言っている。「私は、太陽にはヒッパルコスを、月にはスデネスヒッパルコスそしてキデナスを、さらに太陽と月の両方にアポロニオスの手法を使うことにした。」(アポロニオスというのは、おそらく1世紀頃の天文学者/占星術師であったアポリナリウスのことと思われる。キデナスキッディヌまたはシデナスの別名である。図37、38および39を参照のこと。)

 今日、ギリシャあるいはヘレニズム期のホロスコープは全部で180残っているが、そのうちの130はバレンスが書いたもので、「アンソロジー」の中に入っている。ノイゲバウアは次のように述べている。「ベッティウス・バァレンスの著作がなかったら、西暦380年以前のホロスコープとしてはわずか5例しか手に入らなかったはずだ」と。バレンスと同時代の占星術師としては、バレンスより50歳年上のニカイアのアンティゴナス(西暦138年頃)とクリトデムスがおり、バレンスは「アンソロジー」中でしばしば彼らのことに言及している。しかし、クリトデムスの人となりについては何もわかっていない。


 

敵対する場所と星々について

 敵対する場所と星々を調査するに当たっては、諸惑星に関してだけではなく、ホロスコープ点や太陽や月についても調査する必要がある。それゆえに、また、それらが運行中に対蹠点diameterに入って来る時刻は危機と死を暗示している。だから、土星の場合ならば、表に示されているように、どの神がその支配宮termに属しているか、対蹠点diameterでの角度を調べなければならない。そして、土星がその場所に来た時、もしくはホロスコープ点とスクエア(90度、矩)にある時、あるいは上昇時刻が同じ場所にある時、ホロスコープ点とスクエア(90度)にある時刻と上昇時刻が同じ場所のその時刻の組み合わせによっては、その人は死ぬだろう。これと同じことをさらに他の星に対してもしなければならない。なぜなら、全く正反対のdecreesの支配宮terms の支配星rulersは敵対しているからだ。もし、惑星がその場所(対蹠点-支配宮diameter-terms にある 支配星rulers の)へ来るか、あるいは上昇時間が同じ場所にあれば、それは破壊を意味している。

 ここで、土星が巨蟹宮21度、金星の支配宮、にあるとしよう。対蹠点は白羊宮(21度)で、それは火星の支配宮であり、火星は金牛宮の27度にあった。この時、土星がそこにあれば、彼は死ぬだろう。土星が処女宮にあった時、角度を見るとそこはスクエア(90度)になるから、彼は死んだ。

 木星が天蠍宮の14度、土星の支配宮にある。金牛宮の14度は土星の支配宮に入っている。しかし、それは自分に敵対することはない。今、獅子宮は天蠍宮と上昇時間が同じで、獅子宮の14度は太陽の支配宮に入っている。したがって、木星が太陽の場所に来たら自滅する。

 火星が金牛宮の27度、太陽の支配宮にある。天蠍宮の同じ角度の場所は太陽の支配宮である。しかし、それは自分に敵対することはない。したがって、獅子宮27度か、同じ上昇時刻の(星座、サイン)の27度、それは時刻の差によって宝瓶宮になるが、これを調べなければならない。しかし、宝瓶宮の27(度)は金星の支配宮である。したがって、火星が天蠍宮、あるいは双魚宮にある時、彼は死ぬだろう。それは上昇時刻が同じか、スクエアの関係にあるからだ。獅子宮27度を見てみれば、土星の支配宮であることがわかるだろう。土星は巨蟹宮にあった。だから、火星が巨蟹宮あるいは人馬宮、またはスクエアになった時、彼は死ぬであろう。

 天蠍宮27度、太陽の支配宮に金星がある。対蹠点にある金牛宮の27度は太陽の支配宮である。しかし、それは自分に敵対することはない。したがって、私は、天蠍宮、27(度)と、同じ上昇時刻の(星座、サイン)を調べる。すると、それらは水星の支配宮にある。水星があった処女宮に金星があったら、あるいはスクエアになっていたら、彼は死ぬだろう。同じことを水星についてもやるべきである。

 さらに、病気については、真反対の場所と、どんな惑星が敵対する場所にあるか、そして毎月、毎日、そして毎時間の危機を引き起こしているのはどの星か、それを月に向いている星から月までの角度によって調べることが必要だ。

 その後、出生時の星座(サイン)と角度によって偶然居合わせた他の(星)に従って、太陽、月、そしてホロスコープ点から始点(スタータ)が決定されるだろうし、さもなくば、ホロスコープ点などの後に見つかる星から決定されるだろう。そして、10年9か月の周期ごとに決定するようにするのである。


図37:Vettiusヴァレンス(西暦紀元150年頃)による占星術の資料。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーセン、 「ギリシャの星占い」アメリカ哲学協会(1959年))から。

 


 太陽と土星は白羊宮に、月は天蠍宮に、木星は獅子宮に、火星は双魚宮に、金星(と)水星は宝瓶宮に、ホロスコープ点Horoscoposは処女宮に、ロット・オブ・フォーチュン運勢点the Lot of Fortuneは天蠍宮に、霊魂点(ダエモンthe Daimon) は巨蟹宮にある。そこで、知的で精神的なものを予言する霊魂点に対蹠するように真反対の位置にあるのが土星で、(マーク巨蟹宮中の)(前)満月ならびにその時の位相に対して支配的なアスペクト(星相)の位置にあった。そして、運勢点the Lot of Fortuneの支配星(火星のマーク)はホロスコープ点に対して対蹠する真反対の位置にあった。こうして、この人物は運命で定められた場所において、傷つき、足を痛め、とりわけ精神に異常をきたした。


図38:ベッティウス・バレンスのホロスコープ(紀元106年)。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーセン(ギリシャの星占い)から。アメリカ哲学協会(1959年)。

 


 太陽が宝瓶宮に、月が処女宮に、土星が金牛宮に、木星(と)ホロスコープ点が双児宮にあった。火星は巨蟹宮に、金星は双魚宮に、水星は白羊宮に、運勢点は白羊宮に、霊魂点ダエモンは天蠍宮にあった。これらに対し、害悪をもたらす(星の火星の記号と土星の記号)は対蹠点にあった。この人物は軟弱で、口にできない欠陥を持っていた。それは、白羊宮は淫らで、支配星(土星)が金牛宮にあり、そのサイン(宮)は虚弱であることを示し、天蠍宮は淫乱の相を示しているからである。


図39: ベッティウス・バレンスのホロスコープ(紀元116年)。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーセン(ギリシャの星占い)から。アメリカ哲学協会(1959年)。

    福島憲人・有吉かおり


<20> 4章 ギリシャ、ローマおよびヘレニズム文化期エジプトにおける占星術/ローマ

2021-03-15 08:58:07 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

ローマの占星術

 紀元前250年頃になると、ローマの人々は、特に平民たちを中心に占星術に惹かれるようになった。謝礼金の額について、占星術師は、人々が「天を出し抜く」ことを許そうとした。しかし、ローマの保守層は、バッカス神話やキリスト教やカルデアの占星術などの東方の信仰がローマ社会に入ってくるのを押しとどめようとした。ローマの詩人エンニウス(紀元前239年-169年)は「星を眺めている人たち」を次のようにからかった:

迷信深い放浪詩人の予言するいかさま師は働くことを嫌い、分別を欠き、欲望の虜となって、他者にはいかに歩むべきかを垂れても、自らの歩むべき道を知らずして、彼らが富を約束した者に金を乞う。当然のごとく謝礼金を取り、収支を合わそうとする。

動物の名前がついた星座は面白おかしく「木星の動物たち」と呼ばれていた。

彼は天でどんなことが起っているか、占星術的な兆候を見つめている。いつ、ヤギやサソリや他の木星の動物たちが上昇してくるかと。しかし、自らの足下にどんなものがあるか、だれも気をつけようとしない。彼らは、恍惚として、天を眺める。

 紀元前170年~140年頃、ギリシャの哲学者が何人か、ローマを訪れている。ロードスのパネティウスPanaetiusや天文学者シラックスScylaxが占星術に異議を唱えていたが、彼らは未来を予言するというカルデア人の方法に反対した。カルネアデス(紀元前214-129年)は能弁家としての才能故に反占星術の集団に熱狂的に受け入れられていたが、彼もカルデア人の占星術に次の点を指摘してこれを否定した。

(1) 誕生(あるいは受胎)時に天を正確に観察することは不可能。

(2) 同じ星座の下に同じ時刻に生まれた人でも運命が異なる。

(3) 誕生した星座も時刻も違うのに、同じ時刻に死ぬ人がいる。

(4) 動物もまた、同じ時刻に生まれた人間と同じ運命に支配されてしかるべきだ。

(5) 同じ星座で同じ時刻に生まれたかどうかによらず、人種や習慣や信条は多岐にわたっている。これは占星術の教義と相いれない。

 ローマへ占い師が流入してきて様々な問題が発生したため、占星術師を追放する布告(紀元前139年のプラエトルの布告)が出された。その国外退去命令の布告には、次のような2つの大きな害悪が書かれていた。

(1)占いの手段としての占星術の虚偽性、および

(2)この似非科学を信奉する者がだまされやすい人々から金を搾取すること。

 その布告はきちんと執行されたわけではなく、紀元前100年頃まで、占星術師は貧困な自由民や奴隷を訪ねていた。ポシドニウスPoseidoniusには協力者がいて、この人は紀元前87年にローマへ行った。もう一人の支持者はプブリウス・ニギディウス・フィグルスPublius Nigidius Figulus(紀元前99-44)で、彼は元老院議員であり、占星術師であった。それとは対照的に、雄弁家であり、弁護士、ローマ共和国の領事、そして著作家でもあったマルカス・トゥリウス・キケロ(紀元前106-43)は占星術をひどく嫌った。キケロの作品に「占いについて」という本がある。「私が言いたいのは、先を読むことなどできないということだ」という概説から始め、そしてカルネアデスから借りて、次のように述べた。

(1)同じ星座に生まれても、双子の運命は異なる。

(2)天体を観察するには星占い師に目視能力が必要とされるが、これは誤りを起こし易い。

(3)宿命論の占星術の教義とは違い、同じ星座に生まれた人がみな同じ運命を持っているとは限らない。

(4)星々が赤子に影響を与えるなら、風や天候だって影響を及ぼすはずだ。つまり、星だけではないはずだ。

(5)「親の種」も長じてからの容姿や癖、才能、子どもの見かけに重要な要因である。つまり、星だけでそのような特性を決定することはできない。

(6)その人自身の努力や医学の力によって、生まれ持った「自然の欠陥」が治ることがある。

(7)環境や地域の伝統によって、同じ星座に生まれたかどうかに関わらず、人は違ってくる。

(8)占星術の主張を科学的に立証しようと昔の観測が持ち出されるが、その日付は信用できない。


ローマにおける占星術の受容

 紀元14年から37年までのローマ皇帝であったティベリウスに、友人であり、アレキサンドリアの学者であり、相談相手である占星術師スラシルスThrasyllusがいた。彼は紀元2年にローマにやって来て、その後ロードスに移り住んだ。古代ローマの詩人マルカス・マニリウス(紀元10年ごろ)は、ペンネームで呼ばれていたようだが、このスラシルスThrasyllusの影響を受けた。マニリウスが書いた「アストロノミカ」Astronomicaは未完に終わった占星術の詩で、そのうち5巻が残存している。1936年、英国の古典学者A.ハウスマンが翻訳したが、どうも彼にはほとんど判読できなかったようだ。それは私(スチュワートのこと)も同じだった。シドンのドロテウスDorotheus(西暦20年頃)はエジプト人だった可能性がある人で、アラビア占星術の権威者である。ペンタテウフPentateuch((Πεντετεύχως)(五書)と呼ばれる作品の断片が時々見つかっている。

 紀元前33年に続いて西暦11年、占星術師はローマから追放された。紀元前44年にユリウス・カエサルが死んでから西暦180年にマルクス・アウレリウスが即位するまでの間に、そのような国外退去命令が何件か記録されている。

 宮廷に占星術師が登場した。バビルスBabillusはローマ皇帝ネロ(西暦37年-68年)の占星術を使う顧問役だった。ローマ皇帝オト(西暦69年)のひいきの占星術師はプトレマイオス・セレウコスだった。もう一人は西暦1世紀のバビロニアのテウクルスTeucrusで、この人はデカン(後期エジプトに起源があり、占星術で使う30度幅の宮を3分割したもの。それぞれ10度に区切られたこのデカンはホロスコープ占星術では大きな役割を果たすと考えられていた)を重要視し、アラビアの占星術に影響を与えた。

 117年から138年までのローマ皇帝であったハドリアヌスは自分自身も星占いをやっていた。彼のホロスコープ占いはテーベの占星術師ヘファイスティオンHephaestionによって取り上げられた。この人は4世紀に他の人たちと協力して、ニカイアNicaeの占星術師であり医師であるアンティゴノスによってまとめられたコレクションの中からこれを見つけた。アレキサンドリアの大学にプトレマイオスを招聘したのはハドリアヌスの計らいだったと多くの人々が考えている。

 2世紀後半になると、ローマの散文家セクストゥス・エンピリクス(200年頃)が占星術に対する総合的な論文を書いた。その一説を紹介しておこう。

もし神がいなければ、占いは存在しない。それは、これが神から人間に与えられたしるしを観察し、解釈する術(すべ)だからである。神聖なお告げによる予言や星による予言などありえなし、内臓の見ての、あるいは夢から導かれる予言などもありえない。

 最後の重要な古代ローマの占星術の著作はマテシス『Mathesis』で、法律家フィルミカス・マテルナスFirmicus Maternus(西暦337年頃)が書いた占星術のハンドブックだった。伝統に反して、彼は次のように書いている。

また、占星術師は皇帝の運命に関して真実を何一つ見い出すことができなかった。皇帝だけは星の運行に影響されないからで、皇帝に対してだけは星が運命を決定できる力が及ばない。


ローマの占星術まとめ

 ローマ人は外国人をしばしば放逐したことからはっきり分かるように、カルデア人やギリシャ人の文化や、後になればキリスト教のような外部からの影響に対して最初は用心深かった。だが、ヘレニズム文化に対する崇敬の念があったから、徐々にそうした外国の思想が足場を得ていった。プトレマイオスの時代(150年頃)、エジプトは1世紀以上ローマの属国となっていた。ローマが占星術を受け入れたのはエジプトで(特にアレキサンドリアで)ヘレニズム的な占星術が行われていた影響が及んだからであった。

福島憲人・有吉かおり