占星術への道-誕生史、星見の作法

・占星術の基礎-星見の作法とは?
・今も多くの人を魅了する占星術
・いつ、どこで、どのように生まれたのか?

<2>夕陽のこころ / 測角器 / 夕陽を測る

2021-03-17 21:32:34 | 星読みの作法-占星術のための-

■なぜ、夕陽を見るか-夕陽のこころ

 前回は星見の出発は夕陽を見ることと申し上げました。その心は「黄道星座」、ゾディアックを天に描けるようになること、でした。

 でも、それには1年かかります。毎日ではなし、意欲のある皆さんですし、それほど負担ではないでしょう。

 で、その間に、いやその後でも良いので、1回で結構ですから、1回だけ、ぜひ、測角器を使って夕陽を測って下さい。

 「測角器?」、知りませんよね。そりゃあ、そうでしょう。私の造語ですから。発明したわけではありません。これ、皆さんのお家にあるものですから。


■測角器とはこれ!

 「バカにするな!」と叱られそうですが、測角器とはこれです。モノサシと言う方がおられますが、それは測りたいものに当てて使う場合ですよね。でも、ここで測るのは角度-ものに当てるのではなく、はるか遠方に離れたものの見かけの角度を測るのです。ですから、測角器! 

 そう、これがこ私たちのアストロラーベ、トランシット!です。ちょっとばかり精度が悪いだけ。でも、これで良いのです。

 占星術は2000年前に誕生し、完成した技法ですから、当時の精度があれば十分。もちろん、中には立派な計測器を持っていた人もいましたが、それは例外。これだって、あるのとないのとでは大違い! 安上がりの割には実に強力な助っ人です。

 30cm長が平均的ですが、もう少し長い方が使い勝手が良いので、100円ショップに走って下さい。

 使い方は簡単です。が、少しだけコツがあります。それは目から57cm離して見ること。別に測る必要はありません。目いっぱい腕を伸ばせばそれ位になります。多少長かろうが、短かかろうが、気にすることはありません。ただ、いつも同じ長さになるよう努めて戴ければ最高です。

 これで太陽や満月を見ると、5mmです。まあ、太陽は見ない方が無難だと思いますが、自信のある方はどうぞ、本当に5mmか、確かめてみて下さい。

 「長さを測るんじゃないと言いながら、長さじゃないか!」と仰るかも知れませんが、実はこれはプトレマイオスの大著「アルマゲスト」の最初の方にある「弦の表」を実践しているのです。円周に張った弦の長さから角度を求める表が「弦の表」。これを使いこなせるようになる。これが当時の占星術師の第一歩でした。

 測角器をバカにした方はどうぞ「アルマゲスト」を開いて下さい。第一巻第九章です。現代のことばではサイン関数ということになるので、これが私たちの三角関数表か電卓代わりというわけです。

 いかがですか? 測角器、バカにできませんね。


■夕陽の何を測る?

 太陽の縦と横の長さです。

 は地平線から太陽までの長さ。地平線なんて見えませんから、こんなもんだろうというところで結構です。測角器を上に向け、下端を地平線に当て、太陽の見えた場所を片手の指で押さえて、ハイ、目盛りを読みましょう。15cm、20cm、結構でしょう。

 は遠方の山頂やら木、建物の角など、目立つものを基準にします。斜めにしてはいけません。基準点から水平にしたまま上げて、太陽位置を押さえます。

 横方向は適当な基準点を見つけるのがポイント。これが悪いと測角器の目盛りから外れてしまいます。太陽は右下に動いて行くことから見当をつけましょう。

 測り終えたらメモします。「4:45、27、83」、時刻、縦、横です。

 測定は日の入り2時間前にスタンバイ! 適当な基準点を見つけ、地平線の見当がついたら準備オーケーです。日の入り時刻が分からない? 春3月や秋9月は6時頃でしょう? 夏は7時15分、冬は4時45分あたりですから、だいたい分かりますね。

 さあ、測りましょう。測定日は4月20日としましょう。4時30分から、15分ごとで、1時間半で7回です。これだけあれば結構です。

 いかがですか、こんなに真剣に夕陽を見たことがありましたか? これでまた後輩に水を空け、専門家=エキスパートにまた一歩近づきました。

福島 憲人(2021.3.18.)


<25> 付録-占星術の歴史-まとめ (最終ページ)

2021-03-17 13:26:02 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

占星術の歴史-まとめ

 星占いの概念は紀元前2300年頃にシュメールで誕生した。最初が金星に関する予言書(オーメン)で、この種の予言書は紀元前1500年頃に繁栄した。オーメンが非常に複雑になったのは、単に数理天文学が発展したからに他ならない。第1章で述べたように、紀元前1200年頃に作られた、誕生月による簡単な2つの予測・予言が記された粘土板が一枚発見されている。黄道帯が考え出されたのは紀元前418~前410年の間で、最も早い時期のホロスコープには紀元前410年の日付がつけられている。

 現代西洋占星術(ホロスコープ、天宮図占星術)は紀元前400年代にギリシャ人(ヘレニズム文化の占星術)がカルデア人の知識と数理天文学を統合して発展させたものである。プトレマイオスとベッティウス・バレンスが2世紀にこれに磨きをかけた。

 見つかっている16のバビロニアのホロスコープは紀元前410年から紀元前68年に及び、9つのエジプトのホロスコープは紀元前37年~西暦93年年で、180のギリシャのホロスコープは紀元前61年~西暦600年頃に及ぶ。粘土板は、初期バビロニア時代から後期バビロニア時代、エジプト時代、そしてギリシャ時代にかけてのものが何十万と発見され、修復されているが、占星術に関する粘土板はわずかで、黄道帯の占星術が新しく、実験的な考えだったことを示しているように思われる。バビロニアでは、ホロスコープを使った予測はほんのわずかしかない。西暦1、2世紀になってから、ベッティウス・バレンスが描写したように、長い予言が含まれるようになった。


占星術家から知られる歴史

 占星家が言う占星術の歴史については疑うべきだ。『The Story of Astrology』でマンリーホールは次のように言っている。

 キケロは、占いについての処女作の中で、カルデア人が370,000年間の星々の記録を持っていたことに気づいた;ディオドラス・シクルスは、彼らが473,000年間にわたり観察していたことが分かったと言っている。ユリウス・フィルミカス・マテルナスに関する注釈の中で、トマス・テーラーはエピゲネス、ベロスス、そしてシトデメスがバビロニア人による天体観測の期間を490,000~720,000年と確定したと言っている。キケロは更に、バビロニア人は何千年もの期間にわたり彼らの子供たちの出生ホロスコープを保持していて、そしてこの膨大なデータから惑星と黄道帯のサインの影響を計算した、と主張する。現代の科学と豪語するものが確たる基礎の上に立っていると言えるのだろうか?

 カルデア人が占星術を行っていた期間については古代以来ずっと誇張されてきた。ベロスス(紀元前275年頃)は468,000年間の編集物について伝えているが、これはキケロが言及した470,000年に近い。ギリシャの歴史家ディオドロス(紀元前50年頃)は473,000年という数字を報告している(ディオドロスは、歴史は雄弁術の付属品であり、いろいろ飾る必要があると思っていたので、歴史をいじることは容認されると思っていた)。ビザンティウムの占星家エピゲネス(紀元前220年ごろ)は、バビロニア人は730,000年間に及ぶ天体観測を記した粘土板を持っていると書いた。占星家クリトデムス(紀元前250頃)は490,000年という数字を書いている。

 ホールがその間違いを長引かせたのは間違いない。さらに、ホールの本に書かれていることを注意してよく見れば、つまり、ホール、テーラー、キケロ、そしてカルデア人を介して、孫引き、ひ孫引きの情報を受け取っていることが分かるだろう。ホールの計算に従ったら、とんでもない所に行ってしまう。この時代のメソポタミアの住民は後期ホモエレクトス、すなわち近代人の先駆けか初期のヒトに属していたはずだ。このヒト科は背が5フィートを少し超えるぐらいで、頭が大きく、鼻は広がり、前額部が斜めになっていて、額の眉の辺りが飛び出ていて、あごは小さい。脳の大きさは現代人の4分の3で、前頭葉が未発達で、言葉もそれほど豊かではなかった。手斧やその他原始的な石器や骨角器を作ったり、また上手に火を使って食物を料理したり、カモシカや雄豚を捕らえ、サイを沢に追い込むというような知能は持っていた。

 ルース・ヘール・オリヴァー(アメリカ占星術者連盟の元議長)は、次のように示唆する。

大昔に遡って資料を適用しようとやってみたところ、我々がかに座の時代と呼ぶ時代に黄道帯が誕生したという仮説に達した;それは、およそ紀元前8000~6000の間にあたる。

 

遊牧民が紀元前8000年にジャルモに、そして紀元前7000年にジェリコにやっと定着したという時代である。だが、この期間の天体の記録は発見されてない。

 ジョアンナ・ウルフォークは、『役立つ唯一の占星術書』の中で、次のように述べている;

太陽、月、恒星、食、日中、夜に関する研究は歴史が記録されるようになるよりかなり前に始まった。

氷河期からトナカイの骨やマンモスの牙が発見されているし、氷河期のノッチ曲線上にはいろいろな月相が描かれている。

これらの骨や牙は紀元前25,000~10,000年の間とされている。また、紀元前32,000年ぐらい前だという科学者もいる!

 

...キリストが生まれる6000年も前に、星々の通り道が記録された。紀元前2767年という大昔に、エジプトのイムホテプ(サッカラの大階段ピラミッドの建築家)がホロスコープを描いていて、それが現存している!

 

...紀元前4200年にエジプトの占星家たちが作ったチャートを今でも読むことができる・・・・。

 

...ヒンズーの宗教的知識は、リシ(紀元前5000年)という7人の古代の賢人までさかのぼる。

 

...中国の占星術の始まりを皇帝フシが支配していた紀元前2800 年ごろとしている歴史家たちもいる。

 科学作家アレグサンダー・マルシャクはスペインとウクライナの間に散在している紀元前33500年に遡るとされている岩壁や骨や石に書かれた記録を研究した。彼はそれらを月の相だとしているが、ほとんどの研究者は原始的な算法だと思っている。一例は、骨の飾り版だ。これには丸のみで彫られた穴が幾列かあって、グループごとにまとめられている。天のできごとについての最初の記録は絵文字で、紀元前3300年のもの。初期の粘土板(およそ紀元前1100年)は、「月の通り道内にある星々」を語っている。イムホテプは紀元前2670年頃に生きていたが、この時代のホロスコープは見つかっていない。

 バビロニア人の星の知識は紀元前600年ごろにエジプトに入ってきた。エジプト人はそれ以前に星についての知識を持っていたという言う人もいるが、この主張に対する証拠は見つかっていない。占星術/天文学は、近東からインドや極東へと伝えられた(木)紀元前450年ごろ)。中国で発見された占星術の予言は、アッシュルバニパル王(紀元前669-626年)の図書館からコピーされたもののように見える。


黄道帯のハウス

 黄道帯の「ハウス」は何時頃できたのか? すなわち、地球が毎日一自転することに基づいて黄道を30度ずつに分けたものがハウスだ。誕生時に太陽が上昇しているサインから始まり(第一ハウス)、愛とか死、結婚、自我などなどを意味するハウス・システムはホロスコープに何時頃から現われ始めたのか。

 大半の占星術の歴史家たちは、アラビア人のアルバタンAl-BattanかアルバテグヌスAlbategnius(紀元850-929)だとしているが、実際はギリシャ人が追加したもので、テトラビブロスに記載されており、黄道帯のサイン上に重ねられた「軌跡」としてギリシャのホロスコープで使われている。


他の文明

 メソポタミアのジグラットやエジプト人のピラミッド、インカ、アステカおよびマヤの古代太陽寺院など、良く似たものが見られる。これらは、現在では消滅した、以前の文明の一部であったのかも知れない。だが、この見解は2つの理由で否定されている。

 1つ目の理由は、最初のアメリカの寺院は紀元前500年頃にアステカ人によってオアハカに建造されたという事実である。また、テオティワカンの最初の太陽寺院が建造されたのは、西暦100年頃以降だ。最初のピラミッドは紀元前2900年にエジプトで造られた。また最初のジグラットは紀元前3000年頃に築造されている。放浪のエジプト人やメソポタミア人が交流し、次に南北アメリカへ移動し、寺院構築術に影響を及ぼすことはできない相談ではなかったかも知れないが、どうもそれはなかったようだ。

 もっと説得力のある理由は、これらの構造物が別々の理由で建造されたという事実だ。シュメール人の場合、それは神々が地球に降りてくるのを助けるためであり、また惑星の動きを記録し、予測(オーメン)を報告するためだった。エジプト人の場合は、死者の魂が速く、容易に天に到ることができるようにというものだった。第一王朝前のエジプトでは、死者は砂漠の端の浅い墓穴に埋葬され、その墓穴の上に砂を積んで長方形の塚が造られた。その時以来、塚のサイズはほとんど変っていない。ピラミッドの造りは太陽光線を表しており、それによって王は自分の意志で太陽神ラーと交流できた。その目的は王のミイラ化した死体を永遠に保存するためだった。

 初期のアメリカ文明では、寺院は太陽と親しく語るために建造された。アステカ人、インカ人、そしてマヤ人も太陽を崇拝したが、月を崇拝した時代も幾度かあった。アステカ人やその前のトルテカ人は、太陽が毎日現われることで、生命をもたらすと思っていた。ピラミッドの最上部には、寺院が複数設けられることもあった。テノチティトランには2つの寺院があった。1つは国の神である魔法使いのハチドリのためだった。ハチドリは太陽の象徴で、もう一つの寺院は雨の神のためだった。

 エジプトまたはメソポタミア以外では、古いピラミッド型の構造物は、海中の発掘をも含めて、世界中のどこにも見つかっていない。


まとめ

 あまり厳密に言わなければ、星占いは紀元前2000年代に始まり、黄道帯に依拠した占星術は紀元前5世紀に起こり、天宮図占星術(ホロスコープ)は、プトレマイオスとベッティウス・バレンスによって西暦200年頃に洗練された形になった。他のホロスコープもこの時期に作られたことは疑う余地がないが、さほど古いわけではない。なぜなら黄道帯の発明は紀元前418年のことだし、また、30度幅の黄道帯のサインを導くのに必要な数学の起源もその数年前のことだからだ。各段階はそれぞれ依存関係にあった。ホロスコープどころか黄道帯についてでさえ、紀元前5世紀よりずっと前にあったなどと言えば、無意味な戯言と片付けられるに違いない。

福島憲人・有吉かおり