占星術への道-誕生史、星見の作法

・占星術の基礎-星見の作法とは?
・今も多くの人を魅了する占星術
・いつ、どこで、どのように生まれたのか?

<1> まず星を見なけりゃ! / ■夕陽を見よう-本当の最初はね

2021-03-14 10:11:04 | 星読みの作法-占星術のための-

■星を見よう!

 当たり前ですが、占星術は日・月・5惑星と星の配列から占うこと。ですから、これらを知らないことには話が始まりません。こうした天体は自然界を構成する主要メンバーですから、占星術とは自然と深く交わり、自然からいろいろ教わることに他なりません。まず、星と親しみ、星からの声を聴き、自然界とのつながりを強く意識することが大事です。

 2020年から2021年と世界的に猛威を振るったコロナウイルスですが、目に見えない自然物のウイルスとも共存していかなければならないことを、私たちは、深く学んだのではないでしょうか? そして、東日本大震災を引き起こした大地震と津波の凄まじさにただ愕然とするばかりでなく、これとて自然のなせる業、これとも人間はつき合っていかなければならないと思ったのではないでしょうか? 人間は間違いなく自然界の一員、この認識こそ占星術の基礎、成立基盤、哲学と言えるでしょう。

 ですから、占星術は単なる占いではないのです。人間が自然界の一員であることを否定できる人がいるでしょうか? 人間が自然界の影響を受けないと否定できる人がいるでしょうか? このように、占星術は揺るぎない自然界という基盤の上に立つ占いであり、単なる作り物ではありません。

 あなたはどれが北極星か、指し示すことができますか? 今夜の月はどんな形でしょうか? 今、太陽はどの星座にあるでしょうか? 常に天に意識を向けていれば、すぐに回答できる筈です。もし即答できなければ経験不足と認識し、早速、今から天を仰ぎ、太陽を、月を、星を探しましょう。方角を指し示すことはできますか? こうした経験と知識がなければ、あなたの占星術は偽物と言われても仕方がありません。

 しかし、初めから経験と知識を持ち合わせている人はいません。誰もが意識を傾け、時間をかけて会得してきたのです。早速、外へ出て天を仰ぎ、意識して星を見ることから始めましょう。


■夕陽を見よう-本当の最初はね

 でも、本当のことを言えば、星見は決して簡単ではありません。ですから、それより夕陽を見る方が機会も多く、楽だろうと思いますから、まず、これからにしましょう。

 この写真、桜に夕陽です。こうした行楽の折にだって見ることができます。わざわざでなくても良いのです。

 季節によって夕陽が沈む時刻や沈む方角が違うことはご存知でしょう。でも、それは実際に見て得た知識でしょうか? 学校のお勉強はそれでも良いでしょうが、占星術をと言う方なら、これはダメです。ちゃんと見なけれりゃ!

 できれば見る場所を決め、1年間、継続です。1年と言っても、もちろん、毎日ではありません。1ケ月に1回なら言うことなしで、2ケ月に1回で良いでしょう。ただ、ぼんやりと「ああ、きれいだな」ではいけません。しっかり、意識するのです。

 時計を見て、方角を確認、です。沈んだのはあの山のそことか、あの建物のあそことか、そんな程度で結構です。夕陽を見ようと思って見る、しっかり意識して見ることが大事なのです。

 やってみると、時刻と沈んで行く場所だけですから、大したことはありません。見終わったら、意識して見た証拠を残しましょう。それは、


①記録すること-年月日、時刻、場所

この3点を記録します。これを1年続ければ、あなたは後輩より1年先に進んでいるだけではなく、世間の人たちが容易に経験できない世界に足を踏み入れたことになります。専門家の世界の一員です。なぜなら、世間の人たちは1年間も意識して夕陽を見るなんて、ないのですから。

 少し欲が出て、記録に止まらず進歩したいと思うなら、

黄道と12星座(12宮、12サインではない!) ©(株)浜島書店


②スターチャートへ記入

することです。やり方は簡単。上の図のように太陽位置があらかじめ記されているスターチャートを用意し、そこに見た日付の場所を、この図のように、マークするだけ。ここでは4月20日の位置を赤●でマークしてみました。これを1年続ければ、黄道上を移動する太陽を意識して見たことになります。記録済みのスターチャートは1年の成果の証です。大切に保存しておきましょう。

 これをやれば背景の星座もわかるでしょうし、占星術で使っている星座と合わないこともわかることでしょう。「あれっ?」と思ったら、あなたは占星術をちゃんと理解するための入り口に辿り着いたことになります。

 次回はさらに夕陽の観察を深化させてみましょう。

福島 憲人(2021.3.14.)


<19> 4章 ギリシャ、ローマおよびヘレニズム文化期エジプトにおける占星術/ギリシャ天文学・占星術

2021-03-14 10:11:04 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図33:ギリシャのパピルス・ホロスコープ(西暦138年) ©大英図書館


 

ギリシャのホロスコープ

 ギリシャ/ヘレニズム流ホロスコープ占星術は紀元前62年から7世紀まで続いた(図33を参照)。

 最古のギリシャのホロスコープは、紀元前62年、コンマゲネ王朝のアンティオコスⅠ世ポンペイの戴冠式に関するものである。ギリシャの約180に及ぶホロスコープの大半は、初めの西暦5世紀に集中している。130はヴェッティウス・ヴァレンスが作成したものだ。エジプトの9つのホロスコープは紀元前37年から西暦93年の間のものである。一般的に言えば、ホロスコープはほとんど意味のあること語っていない。後になると(西暦紀元1年以降)、粘土に代わり、ホロスコープはパピルスや陶磁器片や壁に書かれた(図34、35および36を参照)。


 

ギリシャの天文学/占星術についてのまとめ

 アリスタルコスピュテアスをはじめとしてギリシャ人は基本となるような多くの天文学上の事実を世界に紹介することができたが、悲しくも、それは14世紀も認められず、コペルニクスの再発見を待たねばならなかった。占星術の分野では、バビロニア後期・初期のギリシャの数学および天文学の産物である星占いのホロスコープが出現した。

 昔のギリシャの天文学者が占星術を信じたのか、あるいは星による占いのパワーを信じたのかどうか、そして、もし信じていたとするとそれは何故か、という問題が時々持ち出されるが、占いを強く支持した者もいたし、またそうでなかった人たちもいたというのがその答えだ。初めの頃、天文学者であることと「天文学の預言者」であることは矛盾しているわけではなかった。数学者で天文学者であるピタゴラスポシドニウスPoseidoniusは占いを支持していたが、エウドクソスはそうではなかった。


カエサル(アウグストゥス)の27年

アウグスツス暦のファオフィ月の5日

その日のおよそ3時間目

太陽はてんびん座に

月はうお座に

土星はおうし座に

木星はかに座に

火星はおとめ座に

[金星はさそり座に]

[水星はおとめ座に]

[さそり座が昇っている]

[しし座は中天にあり]

[そこでおうし座は]沈む。

中天から下にみずがめ座があり

危険が迫る。

火星がある故に

40日間気をつけよ


図34: ギリシャのホロスコープ(紀元前4年)。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーゼン、「ギリシャのホロスコープ」アメリカ哲学協会(1959年))から。

 


ディデュモスDidymos。土星はてんびん座に

木星(と)月はやぎ座に

おひつじ座中の金星

おうし座中の太陽

ふたご座中の水星(と)火星

しし座の中にホロスコープ


図35:ギリシャの星占い(西暦紀元217年)。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーセン、「ギリシャの星占い」アメリカ哲学協会(1959年))から。

 


てんびん座(?)中に

幸運がある。E[----]の誕生

61年、エベイフEpiphi月3日、その日の8時

ホロスコープと木星がてんびん座に

月はさそり座に

土星はみずがめ座に

水星(と)金星は双子座に

太陽(と)火星はかに座に。

火星は(太陽)に7度と接近し、

2倍の力を得て、異常なことを

引き起こすであろう。もし、(他の惑星が)そこに無ければ、

沈んでいる(惑星は)(力を)持たないから、

悪い影響を全く与えないだろう。

しかし、金星が

それを遮れば、それは父親に更なる援助と

成功の両方をもたらすであろう。


図36:ギリシャのホロスコープ(紀元345 年)。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーセン、 「ギリシャの星占い」アメリカ哲学協会(1959年))から。

福島憲人・有吉かおり


<18> 4章 ギリシャ、ローマおよびヘレニズム文化期エジプトにおける占星術 (紀元前600-紀元200 年頃)/ギリシャ

2021-03-14 08:46:01 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

ギリシャ人

 紀元前6世紀、多数の有名な哲学者であり科学者でもある人たちが現れるとともに、ギリシャ「哲学」(知恵への愛)が興った。ターレス(紀元前625年-547年)とアナクシマンドロス(紀元前610年-547年)はともにミレトスの出身で、ピタゴラス(紀元前580年-500年)のように天文学と論理学を研究し始めた。有名な哲学者としては、ソクラテス(紀元前469年-399年)、プラトン(紀元前427年-347年)、アリストテレス(紀元前384年-322年)がいた。コス島のヒポクラテス(紀元前460年-380年)は医学の父であり、ユークリッド(およそ紀元前295年頃)は偉大な数学者でした。紀元前5世紀と4世紀はギリシャの黄金時代で、アテネがその中心であった。

 だが、紀元前350年頃には、ギリシャの諸都市は衰退してしまった。アレクサンドロス大王は、アレキサンドリアやアンティオキアのような都市にギリシャ文化を広げることに成功した。ギリシャ人の居留地と周辺地域とのネットワークによって共通の文化が発達したことで、ギリシャ的な外観や生活様式を持つヘレニズム文化が作られた。ヘレニズム文化の時代はアレグサンダー大王の死(前323年)から、紀元前2世紀にローマが台頭してきて、ギリシャの自治が終わりを迎えた頃までである。だが、ギリシャのスコラ哲学は途絶えることはなく、ギリシャ人たちがバビロニア文化を同化したのと同じように、ローマ帝国に受け継がれていった。

 

ギリシャ神話

 惑星がギリシャ神話のなかに組み込まれていった。マイアの息子ヘルメスは神々の使者であると同時に、商売、悪知恵および発明の神だった。その家は、軌道速度が最も速い惑星の水星とされた。ゼウスとタイタン・ディオーネーの娘であるアフロディテは美と愛の女神だった。彼女の住処は金星であった。ゼウスとヘラの息子、アレスは戦争の神であり、彼の住処は火星であった。ギリシャ人は5番目の惑星(木星、ジュピター)にゼウスにちなんだ名前をつけた。6番目の惑星の土星はクロノスと結びつけられ、年老いた神として象徴的に表されていた(この惑星は遠方にあるので、ゆっくりと動き、冷たく見えたから)。セレネは月の女神であった。アポロは太陽、詩、音楽および美の神であった。ギリシャ人は数多くの神々や女神の冒険に関する無数の物語と詩を持ち込んだ。物語は、時代や都市、さらに作者の想像によって、修正が加えられたり、生き生きとしたものとなった。

 

ギリシャの哲学者兼科学者

 紀元前6世紀くらいの昔に、地球は丸いと考えられていた。ピタゴラス(紀元前580年-500年)は、地球は丸く、しかも地球も惑星も静止している太陽のまわりを回転している、と言った。ピタゴラスはイタリア南部のクロトンで宗教、神秘学、哲学を扱う学派(学校?)を立ちあげた。この学派は次の世紀も生き残り、数学と天文学に関し革新的な考えを打ち出していた。その中に入っていたのがピタゴラスの定理であった。地球は球体とされた。それは宇宙の中心ではなく、他の天体同様、円軌道を動く天体と考えられていた。「天球のハーモニー」が存在していた。そのためのエネルギーはゼウスがもたらしてくれた。この神性はプラトンも認めていたし、ある意味ではアリストテレスも、またプトレマイオスを始めとする後世の科学者たちも認めていた。

 シチリア島の町アクラガスに生まれたエンペドクレス(紀元前493年-433年)は、シュメール人が考え出した地、水、火、風という「要素・エレメント」を改めて取り入れた。アナクサゴラスAnaxagorus(紀元前500年-428年)は、エンペドクレスとは対照的に、エレメントは火、地、風、水ではなく、小さな粒子の集合体とし、太陽の大きさはペロポンネソス(南ギリシャ)より少し大きな火のような岩だ、と言った。この話がもとで彼は訴追され、アテネから放逐された。

 プラトンは、対話集ティマイオスで、宇宙についてティマイオスに論議させ、火・地・風・水の4つの基本的なエレメントというエンペドクレスの考えをくりかえし述べさせている。諸天体には生きている知的な魂が付与されていて、様々な円上をあるものは速く、またあるものはゆっくりと移動する。宇宙には4種類の生き物が住んでおり、これらは宇宙の中で認識されている4つの基本要素に対応している。つまり、火に相当する天界の神聖なある種のもの、空気に相当する翼のあるもの、水に相当する水の種、そして地に相当する砂漠の創造物である。

 初期のギリシャには、この考えとは違って、原子論派とも言うべき学派があった。この学派は紀元前5世紀にレウキッポスによって始めたもので、その後デモクリトス(紀元前460年)に引き継がれた。それは現代の原子論の先駆をなすものであるが、プラトン等は徹底的にこれを嫌った。話によると、プラトンは入手できたデモクリトスの著作をすべて焼き払おうとしたが、二人のピタゴラス派学者がとどめた、ということだ。

 アリストテレス(紀元前384年-322年)はアテネにあった学派から分れて、リュケイオンLyceumという新しい学派を打ち立てた。彼はエンペドクレスの4つの「エケメント」を受け入れ、天を作っているという5つ目のエレメント「エーテル」をこれに加えたが、原子論は否定した。リュケイオンの概念や考えの多くは、その後ヘレニズム文化の終末期にアレキサンドリアの博物館へもたらされた。そして、アリストテレスはプラトンが唱えた天体の神性説を補強した。

 プラトンの学園のメンバーであるクニドスのエウドクソス(紀元前400-347)は数理天文学を形あるものにした最初のギリシャの天文学者だった。彼は、ギリシャとバビロニアの天文学を統合した最初の天文学者のうちの1人だった。キケロはエウドクソスについて、「誕生日に基づくいて人の人生について予測したり、断言したりしているカルデア人の占星術師を信じるべきではない」と書いたのはエウドクソスだ、と言っている。

 サモスのアリスタルコス(紀元前310-230)は、一時、アレキサンドリアに住んでいたが、地球から月や太陽までの距離を計算し、太陽は地球より何倍も大きいという結果を得た。こうして、太陽が地球のまわりを回っているのではなく、地球と惑星が太陽を巡っていると考える方が合理的だとわかった。この異端的な学説に対して、ストア派のクレアンテスは「彼は不信仰罪で起訴されるべきだ」と言明した。

 ヒッパルコス(紀元前190-126)は星々を明るさで分類し、最初の大規模な星(850星)のカタログを作成し、太陽と月の大きさと距離を決定するための実用的方法を初めて考案した。さらに、彼は春分点が移動していくという歳差運動があることを明らかにした。ヒッパルコスは、また、太陽を含む諸天体がすべて地球のまわりを回転しているという天動説を構築し、プトレマイオスのために舞台を整えた。この間違いは長いこと糾されることはなかった。ヒッパルコスの著作は初期の論文「エウドクソスとアラートスの自然についての注釈」以外ほとんど何も残っておらず、ヒッパルコスについて私たちが知っていることのほとんどはプトレマイオスによるものである。

 

ギリシャの占星術師

 およそ紀元前5世紀からプトレマイオス(西暦紀元150年頃)の時代にかけて、占星術の内容はバビロニア人からギリシャ人に伝えられ、ホロスコープ占星術は拡張し、改良された。残念ながら、現在まで残っている記録は粘土板やパピルス、そしてプリニウスとかプルタルコスのような歴史家が書いたコメントなどの断片的なものだけである。

 前に述べたキディヌKiddinu、ベロッソスBerossus、スディネスSudinesなどのカルデア人に加え、ヘレニズム時代の占星術の革新者としてはクリトデムスCritodemus(紀元前250年頃)、ミンダスMyndusのアポロニウス(紀元前220年頃)やビザンティウムのエピゲネスEpigenes (紀元前220年頃)などがいる。「ペトシリスPetosiris/ネケプソNechepso」(紀元前150前頃)という名前は、おそらく架空の王/聖職者のことで、文書によく出てくる(星占い師は文献では陰の人物として現われることが多く、その時代は多くの場合あまり信頼できない)。よく現われるもう一つの名前はヘルメス・トリスメギストスで、時にはヘルメティカHermeticaと呼ばれることもあるが、おそらく実在しないギリシャ人であろう(その実際の意味は「3倍偉大な水星」)。その両方とも、哲学や宗教が、紀元1世紀から3世紀にかけて、あちこちに拡散した結果を示しているように思われる。

 ポシドニウスPoseidonius(紀元前135-51)はギリシャの哲学者であり科学者であり、散文家でもあって、正確に太陽の大きさを計算し、星占いの普及を図った。作家としての才能があり、ローマの指導者たちと親しかったため、古代ローマ時代とその後の占星術の伝播や普及に大きな働きをした。

福島憲人・有吉かおり

 


<17> 3章 新バビロニア時代/黄道十二宮の登場(続)/サイン(十二宮)と惑星の特質

2021-03-14 08:22:25 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図29:バビロニアのホロスコープ、バビロン(前258)から。©大英博物館

 


表面

(おそらく1行欠けている)

月(?)ニサン(?)、夜(?)14番目の(?)....

シュマ・ウススの息子、シュマ・イッディナの息子、デケの子孫が生まれた。

その時に、月はさそり座の「角」の下にあった。

木星はうお座に、金星は

おうし座に、土星はかに座に、

火星は双子座に。水星は、(最後に)沈んで、(まだ)

[まだ見えて]いた。

(月)ニサン、一日目(前の月の30日目の後に

続く日)、

(三日月は)28(日目に見えていて)、14日(?)[の日の出後に月が見えていた

期間は] 4,40(?)であった。

月が最後に現われたのは27番目の日だった。

 

裏面

(出だしは記されていない)。

(状況?)はあなたにとって良くなるだろう(?)。

デュウズDu'uzの月、12の年、

8の年(?)...

 [----]

(裏面の残りの部分は、多分、何行か消失している)


図28:最古のホロスコープ、バビロン(紀元前410)から。オックスフォード アシュモリアン博物館見学者提供写真。

(くさび形文字研究ジャーナル6(1952)、「バビロニアのホロスコープ」)Aザックスのテキストから:54-57.


 

サイン(十二宮)と惑星の特質

 バビロニア人がどのようにしてその考えを発展させていったか、それを明らかにしている粘土板が全て見つかっているわけではないので推測の域に留まっているが、星座をさまよう惑星の特質がどのようにして引き出され、やがてサイン黄道12宮に結実したか、興味深い問題である。プトレマイオスが強調するところによれば、サインのはっきりした特性は惑星のそれと相関があるという。たとえば、7月ー8月という最も暑い夏の星座であるライオンの獅子宮は最も熱い星、つまり太陽とうまく合う、という。また、冬の星土星は冬の宮である白羊(おひつじ)宮や宝瓶(みずがめ)宮と合う、などという次第である。

 

まとめ

 結論をまとめると、バビロニアにおける天文学や占星術が発達するにつれて、ギリシャの天文学や占星術も進化していった。それは最初の千年紀の初めに始まり、エジプトの天文学/占星術も同様に成長した。最初、ギリシャ人とバビロニア人の間では交流があったが、エジプトでは、アレグサンダー大王以前は、他国との情報交換はあまりなかったようである。そこで、占星術がバビロニア起源であると言う場合、紀元前6世紀にまでしか遡れないというのは本当なのだ。その後、旅の形態が発達し、当然のように交易が始まった。だから、ホロスコープはバビロニア発祥であると言う場合、他の地域よりはむしろバビロニアらしい、と言うべきである。バビロニアのホロスコープ占いも後になれば、ヘレニズム文化やギリシャの考えがますます浸透してきて、変質してしまった。この伝承知識という富を実体あるものにしたのはプトレマイオスであった。

 


表面

(セレウコス王朝時代の)53年、(閏のアダル月、政暦6月,教暦12月の月)が入り、最初の

夜に、月が

バリエティス星Barietisの下 2と1/2キュビットのところを(通り過ぎた)。

12日目:(春)分時。

1日目:月..うお座。

裏面

(セレウコス王朝の時代の)54年、キスリムKislim月、

(先月の30日に続く)1日目、

8番目の夜に。

空が暗くなり始めた頃、月はうお座の星(?)の

下1と1/2キュビットにあり、

月は東方に1/2キュビット(すでに通り)過ぎていた。

20日目:(冬)至。

13日目:月のナnaは11。

上部端

その時、木星はやぎ座に、金星はさそり座にあって、

- 9番目の(日)に、水星は(ついに)いて座の東に

消えた。土星と

火星はてんびん座に。

注釈(ザックス、52):

子どもの誕生について通常述べられているような明確な説明に欠けていたが、この粘土板が受胎と誕生を結びつけたホロスコープであることをクグラーはみごとに見抜いた。


図29:バビロニアのホロスコープ、バビロン(前258)から。©大英博物館。

A.ザックスのテキストより、「バビロニアのホロスコープ」、くさび形文字の研究ジャーナル6(1952):58-60.

 


表面

77年(セレウコス王朝の)シマンSiman(の月)、4番目の(日から?)、

5番目(の日)の夜明け前(のある時刻までの間に?)、

アリストクラテスは生まれた。

その日、月はしし座に。太陽はふたご座の12;30度に。

月がその面を真ん中から上に向けていた。(これに対応する

オーメンは次のとおり)「もし、真ん中から

上に方に、それ(すなわち、月)がその面を向けていれば、(間違いなく)

破壊をもたらす(であろう)。」 木星

...いて座の18度。

木星の場所は(意味する):(彼の人生は?)安定し、良くなるだろう。彼は

裕福になり、彼は

長生きし、彼の時代は多年に(文学的表現では長く)なるだろう。金星は

おうし座の4度にある。

金星のある場所は(意味する):彼がどこに行こうとも、それは彼に幸せを

もたらすだろう。

彼は息子と娘に恵まれるであろう。ふたご座に水星、

(約4行が不明瞭)

裏面

太陽とともに。水星のある場所は(意味する):勇敢なものは最高位と

されるだろう。

彼は彼の兄弟以上に重要な人になるだろう。

土星:かに座6度。火星:かに座24度。..

毎月の22番目と23番目

(残り部分には記載がない。)


図30:バビロン(紀元前235)のバビロニアのホロスコープ。

A.ザックス「バビロニアの星占い」から。くさび形文字の研究ジャーナル6(1952):60-61.

 


表の面

[1]69[年](セレウコス王朝の)、デメトリオスDemetriosが(王である時に)、アダル

の月、(その1日目は

前の月の)第30番目の日に(合致しているはず)、

6番目の夜、

暮れ行く頃、月は

1キュビット進んでいた(つまり、おうし座B星の西―)

6番目の日、朝に、子どもが生まれた。

その時、月はふたご座の初めの所にあり、

太陽はうお座に、木星はてんびん座に、金星と火星はやぎ座に、

土星はしし座にあった。

その月は、(月は)14番目の日の日の出後の

早朝に初めて見えた。

端部

月が最後に見えたのは第27番目の日

裏面

170年(セレウコス王朝の)、ニサンの月、4日目。(春)分。

その子は、木星の光り輝く(?)棲家で生まれた。

(残りの部分は記述されていないか、破損した。)


上および左:

図31:ウルク(紀元前142)時代のバビロニアのホロスコープ。

写真©:大英博物館。

A.ザックス「バビロニアのホロスコープ」からのテキスト。くさび形文字の研究ジャーナル6(1952):62-63.

 

図32:ホロスコープが出現した時代の年代記

オットー・ノイゲバウアー、ファン・ホウゼン著「ギリシャのホロスコープ」、アメリカ哲学協会、1959、から改作

福島憲人・有吉かおり