健康に関するリスクを客観的にとらえて賢く選択する態度が奨励されていますが、私達が発電所事故でもたらされたリスクを客観的に過剰だ、過小だとする適切な指標がまだ存在しないのになぜそう簡単に言えるのか、いまいちよく理解できていません。
不確実な未来の選択において、結果が、死と病含む悪いことも選択の彼方にある場合、かなり安全よりの選択をしたいのはごく普通だと思うのですが、事故の被災者であるのにその気持ちさえ認めてもらえない状態は少し不気味です。
諸説ある中でWHOがチェルノブイリ事故について途中経過を出した結果を標準と考えると、科学者から科学的な指標で判断できるクレバーな人間と認定されるみたいです。
反対に彼等の価値観に逆らうと、非科学的で頭が悪いヒステリーのワーワー教放射脳患者とネット上で揶揄される状態です。
もし40年後まだ生きていたら、彼等の墓石に何を添えている私がいるのか、それは今のところまだわかりません。墓前で彼等の子孫にあったら、私は彼等になんて挨拶するようになるのでしょうか?