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まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

岩手旅 キャンパスの建物たち

2021-04-20 22:18:33 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。

広々した岩手大学のキャンパスの中に、美しい姿の木造建築が2つ並んで建っている。
大きい方は、元盛岡高等農林学校の本館だった建物。
岩手大学は、盛岡師範学校、盛岡高等農林学校、岩手県立実業補習学校教員養成所、盛岡高等工業学校が
統合されて1949(昭和24)年に設置された。


竣工は1912(大正元)年だがほぼ明治建築と言える。修復はされているものの建築当時の姿をよくとどめて
いることから、重要文化財に指定されている。1階に事務室、校長室、会議室、2階には大講堂があった。


現在は岩手大学農学部附属農業教育資料館として公開されているが、まだ冬期だったからか開いていなかった。


窓から中を覗くのみ。。。


床下の通気口のグリルがまたいい!農林学校らしい「鋤」を象ったデザインだな。基壇部のレンガも滑らかで
覆輪目地で丁寧に仕上げてあるのがやはり国立の教育施設らしい。


側面。


そして隣に建つ少し小さめの建物は、同窓会が1928(昭和3)年に盛岡高等農林学校創立25周年
記念事業として建てた同窓会事務室である。


農学部創立百周年を機に全面改修され「百年記念館」と名付けられた。現在も農学部同窓会「北水会」の
事務室として使用されている。


ゆったりとした北国のキャンパスの一角にこういう建物が静かに残っていて、100年の歴史を語り継いで
いるのは、岩手大学の同窓生にとって本当に誇らしくうれしいことだろう。
大学は古い建物を大事にしてほしいなぁ。


おや、あの守衛室らしき小さな建物も古そうだな。近寄ってみると、「門番所」との説明板が。
1903(明治36)年築。へぇ~これも重要文化財だとか!
八角形の小屋の後ろに四角い部屋がくっついた、前方後円墳のような形の建物である。赤い屋根がかわいい。


盛岡高等農林学校当時、ここが正門だったのだ。
建物をぐるっとひと回りしてみる。後ろや横、どこから見てもカワイイ!
後方の矩形の部分にはドアや出窓がついていて小さな家のようだ。休憩室だったのだろう。


床下の通気口も三角形でおしゃれ~~


閉まっていたのでガラス窓に顔をつけて中を覗いてみると、八角形の部分は土間で、何と真ん中に
囲炉裏があるじゃないの!?縦長窓の並ぶ洋室の中に、暖炉じゃなく囲炉裏って!!
・・・確かにこの薄い壁の小さな部屋は寒いだろう。囲炉裏があれば温まりそうだ。


そして後ろの部屋との間が障子戸で仕切られているとは、これまた驚いた!
いやぁ~、小さな建物だがとても特徴的で面白い建物だった。


続く
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岩手旅 茶廊車門

2021-04-19 23:56:16 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。

南昌荘を見たあと盛岡の市街地へ戻り、これまた昨日チェックしておいた純喫茶、車門でお茶しよう。
商店街の横丁に面した堂々たるなまこ壁の蔵を丸ごとお店にした、老舗喫茶である。


「茶廊車門」の細い文字がおしゃれ。このサインに吸い寄せられる人は多いだろう。


右側にある勝手口のような門が入口で、蔵へは側面から入るようになっている。


棚状のショーケースはなく、このようなテーブル型のケースにいくつかのサンプルが飾られているのみだが
メニューの幅と価格帯が分かればOK!軽食、ドリンク、スイーツ、と幅広い品揃え。




おぉ・・・期待にたがわぬ魅惑的な空間。階段が吹抜けになっていて開放的だ。
席は1階と2階とにあるが、やはり人気らしく1階は満席だったので、階段を上って2階へ。




窓にはまったモールガラスが素敵~


クラシックな大人の雰囲気。柱や鴨居をあらわにした真壁造り、頭上には梁がわたっている。




2階は1階よりも明るい。こちら側の窓はあとから増設したのだろうな。
席に着いたときは2階も割とお客が多かったが、ちょっと落ち着いてきたので、お店の方に許可ををいただき
少し店内を撮影させてもらう。1階はお客がずっと多かったので撮らず。


休憩がてら建物もゆっくり楽しむことができた。今回はお茶だけにしたが、他の人が頼んでいたスイーツも
おいしそう!機会があったらまた来よう~~


そのあとはまた少し郊外の建物を見に車を走らせる。こちらは1908(明治41)年に建てられた旧南部家別邸。
元盛岡藩主だった南部家は明治維新後華族となった。この建物は、旧盛岡銀行本店本館などを手掛けた盛岡出身の建築家、
葛西萬司の設計である。辰野金吾と同時代に活躍し、辰野葛西設計事務所を共同経営した人。


現在は盛岡市中央公民館の別館として使用されている。
玄関に大きく張り出した入母屋破風が目立つが、右半分は下見板張りに縦長窓、アーチ窓に扇形のファンライトも
見え洋風意匠を併せ持つ建物だ。この日は休日だったので(改修のため休館中だったのか?)敷地の入口が
閉まっていて、もちろん建物の中へは入れなかった。内部も洋風なのか、気になるな。


またここには、南部藩下小路御屋敷時代にはじまる、大名庭園の雰囲気を残した大規模な池泉式庭園があり、
国登録記念物(名勝地)となっている。
桜やモミジ、アジサイなど多くの種類の樹木が植えられ、四季折々親しまれているが、こちらも入れず。。


敷地内には、国指定重要文化財の旧中村家住宅もある。
中村家は「糸屋」「糸治」と呼ばれた呉服商で、盛岡藩の特産であった紫根染を独占的に商い豪商となった。
主屋は江戸時代末期、1861(文久元)年の築で、元はまちなかに建っていたものを、所有者より寄贈を受け移築復元。建築当初の形をとどめている例は貴重であることから、国指定重要文化財となっている。


近くにあった洋館付きっぽい住宅。


続く
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岩手旅 南昌荘

2021-04-14 22:20:45 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。



鉈屋町から移動し、南昌荘へやってきた。昨日の午後遅く立ち寄ったがもう閉館時間を過ぎていたのだった。
・・・よかった、今は開いている。


「南昌荘」という巨大な看板が掲げられている。お屋敷というより道場のような雰囲気だな。


南昌荘は、盛岡出身の実業家、瀬川安五郎が1885(明治18)年に邸宅として建てたものである。
瀬川安五郎は、生糸売買で得た金をもとに事業家としての手腕を発揮、払い下げを受けた秋田県の
荒川鉱山を産出量全国5位となるまでに開発し、「みちのくの鉱山王」と呼ばれた。
また日本画家の平福穂庵を支援するなど文化的貢献も行った。

内部はおもしろい造りになっていて、玄関を入ると廊下があちこちへと伸びている。奥へ歩いていくと
階段を数段上ったところに「南昌の間」があった。スキップフロアみたいだな。左の廊下の奥にも階段がある。
特に傾斜地に建っているわけでもなく、この下に部屋があるわけでもないのに、なんか不思議な感じ・・・


30畳もある板張りの大広間はやっぱり道場のようだ!


南昌荘のお庭は、京都の庭園を模して盛岡の庭師が数年かけて築いたものという。
この部屋は、庭園の中央に張り出すように造られており、お庭鑑賞の一等地だ。
建築当初から板張りだったのかはわからないが、こんないい場所をわざわざ道場にはしないだろう(笑)
しかし、ここで宴会をするとか考えると寒そうだ・・・ちゃんと床の間もあるし元は畳敷きだったのかも。


部屋の周囲には広縁が設けられていて、ここからもお庭を鑑賞できる。
今は冬枯れだが、新緑や花の季節、紅葉の季節など色とりどりのパノラマが視界いっぱいに広がることだろう。




お庭を楽しめるのは南昌の間だけではない。この建物では離れのように棟がそれぞれお庭に張り出して
造られていて、それらが廊下で繋がれた格好になっている。


こちらの「松鶴の間」は3部屋続き間で、10畳が二間と一番奥が12.5畳の座敷。


床の間、書院付き。




こちらは「水月の間」の書院の欄間(だったと思う)。10畳と12.5畳の2間続き。
南昌荘では部屋貸しも行っている。


建物の中央にあり四方を廊下に囲まれた「香葉の間」。ここにはビルトインの大きな金庫があった!
商家ならともかく私邸にこんな大きな金庫とは、よっぽど多くの「タンス貯金」があったのだろう(笑)


人間が立って入れそうなくらい大きい。


天井は格天井だった。南昌の間でさえも格天井ではないのに、この茶の間っぽい部屋だけが格天井とは・・・
意外な気がするが、金庫もあるしやはり重要な部屋だったのだろう。


この襖紙の模様、遠目で見るとモヤモヤした迷彩柄のようだが、、、


近くで見ると全然印象が違う。七宝と花菱を組み合わせた模様で、とってもカワイイ!青色がきれいだな。


香葉の間と廊下に面した建具に使われていた。


この南昌荘、瀬川安五郎が手放したあとは、盛岡市長や県会議員などを務めた大矢馬太郎の別荘となり、
その後盛岡の名だたる実業家や豪商の手に所有が移り変わり、その時々で華やかな社交の場として使用された。
そして1969(昭和44)年、この歴史的な建物と庭園をマンション開発から守るために、盛岡市民生活
協同組合が買い取ったのだとか。あっぱれ!!

大切に維持管理され、2000(平成12)年から一般公開されている。あぁありがたいことだなぁ!
ボランティアガイドさんは熱心に案内してくれる。入館料300円とは別に少しでも寄付して維持に協力したい。

南昌荘は旧石井県令私邸のすぐ近くだったのに、前回は気づいていなかったな(苦笑)。
こちらも再訪しておこう。




2階建てに見えるがこちらから見ると3階建てだ。いや、これは地下室になるのかな?
窓が小さくて壁が多く、住まいとしての快適性はちょっと疑問だが・・・
いや、むしろ厚い壁で外気から遮断された建物は暖かくて快適だったのかも?


続く
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岩手旅 大慈寺界隈

2021-04-10 22:25:53 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。

鉈屋町界隈を歩く。


一本裏手の寺町を歩いていくと、旧料亭川鉄の建物が見えてきた。


その手前に、さっきの大慈清水とそっくりの「青龍水」があった。ともに平成の名水百選に選ばれている。


4つに区切られたマスは上流から、飲み水、米磨ぎ水、洗い物、、と用途が決まっている。
伝統的なルールが守られ長年にわたり維持されているこういう共同井戸がまちなかにあるのは、景観としても
美しいし、地域のコミュニティが生きていて健全なまちだということが一見して分かる。


さて川鉄だが、塀越しにお庭の木や二階家が見えるもののやはり今は使われていないようで、閉まっている。


玄関はどこだ?ぐるっと回ってみると、「時環」という看板が出ていた。建物の一部でカフェをやっているのか。


店名の読みは「ときたま」、その名の通り時たま店を開けているらしい。残念ながらこの日は営業して
いなかったが、料亭の浴室をリノベーションして作られお庭を眺められるとか。また旧料亭本体の方も
時々公開日があって、座敷でうなぎなどを食べられるらしい。しかし、ネット検索では2019年までは
出てくるが、やはりコロナ以降はストップしているのだろうな・・・


川鉄から少し進んでいくと少し高みになったところに特徴的な楼門が見えてくる。
大慈寺は宇治の万福寺を本山とする黄檗宗のお寺で、原敬の菩提寺としても知られている。
1884(明治17)年の大火で消失後1905(明治38)年に再建されたこの山門は、竜宮門と呼ばれる
形式で、盛岡市の景観重要建造物に指定されている。ちょっと見て行こう。


おや、これは・・・山門の床は石畳でなく敷瓦が敷かれている!
測っていないが18cm角ぐらいだろうか、対角線上に溝が彫られている。黒っぽいものから赤っぽいものまで。


しかしこれ、つい最近見たことあるぞ。紺屋町近くのなまこ壁に使われていたのと同じじゃないの!?
中央に釘穴はないが、質感も同じ感じだな。




よく見ると溝の中に赤っぽい釉薬が溜まっている。これがオリジナルの色だろうか。


硬そうに見えてもろい感じ。明治38年の建造時のものだが製造地は不明という。

天井に龍が二匹描かれているというが、下ばかり見ていて天井を見なかったな(汗)

山門と本堂は正対しておらず斜めに通路が伸びている。
本堂も大火後の再建で、丸窓付き、裳階など、黄檗宗特有の形態を踏襲している。


反り返った入母屋屋根。こちらにもてっぺんにしゃちが載っている。


開いていた入口から中を覗くと、ここにも敷瓦が。万福寺と同じく真っ黒な大判の敷瓦が四半貼りされている。
きめ細かそうで、山門の床にあったものとは明らかに違うな。
中国風の建築様式を取り入れている禅宗寺院では敷瓦が使われているところが多い。


チューリップのようなかわいい雨水受け。「大正八年七月」の文字が見える。


境内の片隅に古いしゃちほこが置かれていた。本堂の上に載っていたものだろうか。それとも山門の?
しかし、さわったらケガしそうなイガイガ!!龍のような顔、パイナップルの葉のような体に大きなヒレ。
しゃちってこんなんだったか。


そして目を引いた、六角形の建物。日本離れしたデザイン、中国風なのか、洋風が入っているのか??
このサイズの建物というと、宝物殿とか、経蔵か何かだろうか。


ネット検索してみると、盛岡市先人記念館で2013年に開催された企画展「葛西萬司」の図録、「建築で
近代都市を描く 葛西萬司と盛岡の建築」という本の中に、葛西萬司が設計した大慈寺宝物庫が大慈寺境内に
現存する、という内容の記述があるのを見つけたのだが、それがこれなのだろうか。→こちら
もしそうだとすると、大正14年設計、昭和2年3月竣工、鉄筋コンクリート造。
葛西萬司は盛岡出身で辰野金吾に師事し、盛岡銀行や盛岡貯蓄銀行など盛岡の名だたる近代建築を設計している。


しかしこの建物の周りにはロープが張られており、危ないので近寄らないでください、と。
確かに、軒先のコンクリートが崩れ落ちていた。縁に巻かれていた薄い銅板も一緒に落ちており、細かく
切り込みを入れて曲げられているのが分かる。丁寧な細工、職人の技を予期せず目にすることができた。



「寺ノ下寺院群」には他にも立派なお寺があるが、このくらいにしておこう。

右文字のたばこタイル発見。横一列でなく少しずつずらして並べてあるのがイカスねぇ~~
白タイルをわざわざ細く切り欠いてはめ込んである。


「叶」の文字のレリーフ。


ぐるっと回って消防新番屋に戻ってきた。町家物語館でお土産を物色してから、ちょっと移動しよう。


続く
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岩手旅 鉈屋町のまち歩き

2021-04-07 23:40:08 | 建物・まちなみ
最近書き始めるとすぐに眠くなって一向に進まない・・・(汗)

2020年3月の岩手旅の続き。

鶯宿温泉の石塚旅館を後にして一路盛岡へ戻ろう。途中の御所湖から見えた優美な岩手山の姿に目を奪われ
しばし車を停めて休憩。。


仙北町駅の木造駅舎を見に立ち寄る。盛岡駅から東北本線で南へひと駅。主要駅の隣には木造駅舎が残っている・・・
というよくあるパターン。


ちょっとホームを覗く。向こうに見えるのは貨物ホームかな。


さて今度は昨日歩いた紺屋町あたりからちょっと離れたところにある、鉈屋町へ。ここにも古い町並みが残っている。


これはだんじり庫かな。看板建築みたいな壁が立ち上がっている。


江戸時代には湧水池だった場所にある大慈清水は、共同の水場として今も用水組合により維持されている。


飲用水としての最上流から足洗い用としての最下流まで、用途で使い分けるルールが設けられている。


並びの町家は皆妻入り。内部を見学できる町家があったので入ってみよう。


天井が高くとても立派な神棚があった。


吹抜けに明り取りの天窓。部屋の真ん中に階段があり空中通路が架けられている。梁は細い替わりに
縦横に何本も渡っている。




スクラッチタイル貼りのビルディングは、旧鎌田薬店


ここには文字タイルがはまっていた雰囲気。「タバコ」かな?


鉈屋町の端まで歩いてくると大きな建物が目に入る。奥行き方向にすごく長く続いている。


こんなレンガ積みの建物もあった。


これは木津屋池野籐兵衛家住宅。現在も木津屋本店総務部として使われている。
この建物は1834(天保5)年の大火で焼けたあとに入念な防火対策を施して建てられたもの。
火消用具も完備され、おかげで以降の大火でも焼失を免れたという。


木津屋本店は、池野籐兵衛が筆や紙・炭・薬・雑貨などを販売する店として1638(寛永15)年に創業。
現在も、オフィス家具・文房具・紙製品・OA機器の総合商社として営業されている。
初代の元々のルーツは京都の山城国の木津村で、屋号の木津屋の名はそこからつけたようだ。


バス通りに面したこの店舗と、さっきのレンガの蔵など一連の建物も木津屋のものだろうな。


明治橋の方へ歩いていく。この大きな蔵は江戸時代後期に建てられた米蔵で「明治橋際の御蔵」と呼ばれる。
盛岡藩では度々大飢饉に見舞われたため備穀が奨励され、ここに保管された。深い軒、高床で、断熱や
防湿の工夫がされている。


すぐ前には北上川が流れていて、かつては北上川舟運の要衝として栄えた「新山河岸」という場所であった。


旧奥州街道筋には御番所や船宿や蔵が建ち並んでいたという。この立派な町家は商店か、旅館か?
今はすでにしもたやになっているが、御蔵とともに当時の趣を感じさせる街並みが残っている。


少し裏手にはこんな蔵も。こうじ屋、との文字が見える。


その名の通り糀屋さんだが、細重酒店という立ち飲みできる酒屋も営業されているようだ。


周辺を歩くと他にも古い建物が目に付く。間口の広い町家の美しい格子、飾り金物。


こんな町家がぎっしり隙間なく並んでいたのだ。


こちらは前庭のある邸宅風の建物。さぁここは何だったのか。医者や旅館でもなさそうだし・・・
インテリの住まいといった感じだな。




まちなかにぽつぽつ散在する古い建物の凝った造りからは、当時の街の繁栄ぶりが伝わってくる。


続く
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岩手旅 まちなかの人魚

2021-03-29 23:32:31 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。

この通りには旧岩手銀行本店本館旧第九十銀行本店の他に、現役の金融機関である盛岡信用金庫本店の建物もある。

旧盛岡貯蓄銀行ととして建てられたもので、巨大な円柱を並べたギリシャ神殿風のファサードが古風に見えるが、
先の2つの建物より新しく1927(昭和2)年の築である。鉄筋コンクリート造。


裏から見るとモダニズムな雰囲気が感じられる。
ここは現役の店舗なので土日は閉まっていて内部は見れていないが、今も実用されているというのは貴重だな。


付近には小さくてもおしゃれな意匠が施された商店建築がちょこちょこ残っていて、眺めて歩くだけでも楽しい。
看板建築みたいだがアシンメトリーなファサードは台湾の鹿港の老街で見かけた建物などと似ているな。
同じ頃の建物なのだろう。






かわいいリンゴの看板。リンゴといえば青森だが、お隣の岩手県もまたリンゴの産地なのだな。


唐たけし写場の建物もアシンメトリー。入口の上にロンバルディアバンドのような装飾が入っていたり
入口脇に細いアーチの小ドアがあったり、文字のフォントもちょっとメルヘンチックな雰囲気の建物だ。
この建物も前回も見たのだが、おや、灯りが点いている。お店になっているのか?
「お茶とてつびん engawa」。へぇ~~、入ってみよう。


建物が活用されたんだな!奥の和室にセンス良く並べられた南部鉄瓶は、小さな急須サイズでシンプルな形や
カラフルな色付きなど、かわいらしくお手軽に使えそうな製品。思わずほしくなったが、やはりちょっと
衝動買いというわけにはいかないな(苦笑)


さて観光スポットのつらなるエリアを歩いてきたが、ここからちょっと繁華街の中へ入っていく。
お目当てはこちら。角地に建つ小さな建物だが、壁面に巨大な人魚のレリーフがあるのだ!


うひゃ~~~!すごい!!
人魚は両手で何かを持ち上げているような格好をしているが、どうも店名の看板があったらしい。


1階から2階までを貫く銀色のレリーフ。これは鋳物だろうか。背景全体にも波のような模様が入っている。


店先にショーケースか屋台のようなものがあるので、喫茶店か?それとも夜の店か!?と思うが、建物の
角部分に「小原写真」の文字が。元はこの下に「館」の文字もあったのだろう。
写真館もインパクトで競い合う商売だったのだな。


こちらの窓の上の花模様は何でできているのだろう。風変りな意匠。この建物はいったいいつのものかなど
詳細はネットでも出て来ないが、戦後、昭和3~40年代ぐらいなのかなぁ・・・


近くにあった喫茶店、「茶廊車門」。蔵をリノベーションしてあるようで、ちょっと覗き込んだらとっても
いい感じ!しかし今日はゆっくりお茶している時間はないなぁ。明日盛岡に戻ってきたときに来れたら・・・


夕方から車で宿へ移動する予定なので、前回見た建物たちを眺めながら駅の方へ向かう。








あぁ、この美しい医院建築、船山内科クリニックも無事だった。




マップに載っていた「南昌館」というのが気になってちょっと見に立ち寄ったら、なんかすごいお屋敷じゃないの。
しかしもう閉館らしい。ま、どちらにしろ今は時間がないので、明日戻ってきたらもう一度来よう。




どんどん歩いてずいぶん遠くまで来ていたので、戻りが遠くてちょっと疲れた・・・


続く
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岩手旅 岩手銀行旧本店2

2021-03-25 23:44:10 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。

2階も1階に劣らずゴージャス!こちらの部屋は現在多目的ホール(小)として使われている。
円形の天井の割付がインパクトあるな!天井の同心円部分は、放射状に板を張ってある。


玄関戸のように豪華な装飾を載せたドアが並び、迷路に入り込んだようだ・・・


換気口も美しくデザインされている。


2階の回廊から、営業室、エントランス方面を見下ろす。


旧支店長室と旧第一応接室にはお揃いの蛇紋岩の暖炉がある。白い大理石で円形にかたどられた中央部から、
貼り合わせられた蛇紋岩の目地が放射状に広がっている。


蛇紋岩を彫刻してあるのは珍しい。石自体の模様が派手だし、硬くて彫刻には向いていないと思われる。


これらの部屋では岩手の産業史や金融史について展示されている。
本州最北エリアに位置する岩手だが、北上山系で採れた良質の砂鉄や木炭により古くからたたら製鉄が行われ、
江戸末期に早くも洋式高炉が建設された。1874(明治7)年に官営釜石製鉄所が設立、河蒸気船「岩手丸」
の航路や鉄道も開業し、インフラが発達した。


第一次世界大戦後の不況に1923(大正12)年の関東大震災が追い打ちをかけ、日本は恐慌に陥る。
金融の安定化をはかるため「銀行法」が制定され、資本金100万円以上でないと銀行と認められなくなった。
さらに1931(昭和6)年の凶作で不況に拍車がかかり盛岡銀行や既存の銀行が次々と休業。そのような
状況の中で、金融機能を回復させるために新たな銀行「岩手殖産銀行(現岩手銀行)」が誕生したのである。
1936(昭和11)年、元盛岡銀行本店だったこの建物に本社を移した。

岩手銀行のマスコット、がんちゃん。こういう人形の貯金箱、昔あったなぁ。三和銀行のワンサくんとか。

全ての部屋で天井のデザインが異なる。これは旧第一応接室だったか。


照明の台座の円形装飾も全部違う。


客溜まりの上の吹抜けには2階の床が張られ部屋として使われていたが、保存修理工事で吹き抜けに戻された。
回廊の華麗なスチールの手すりは古い写真を元に復原されたもの。


こちらは行員用の階段。とは言っても2階の応接室や支店長室へつながる階段、やはり美しく作りこまれている。
球体にビーズが埋め込まれたような親柱の柱頭。地球儀のように思える。


おや、さっきのと同じ写真!?いえ違います。これは旧第二応接室だったかな。


1階の旧重役室と旧第二応接室でお揃いの暖炉。




ドアの上の装飾も部屋ごとにデザインが異なっている。




こちらは支配人室への入口。奥には金庫室がある。


営業室との仕切り用の衝立にはクジャクの透かし彫りが。素敵なデザイン。


金庫室のドアの上には小さなドアがついていた。閉じ込められたときに脱出するためだとか!?




あぁ、さすが重要文化財。全館すべてが優美で華麗な装飾に覆われ抜かりない。こんな建物が町の中心に
建ち並んだ、当時の岩手の産業の隆盛ぶりがうかがえる。


続く。
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岩手旅 岩手銀行旧本店1

2021-03-22 22:06:59 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。

盛岡の近代建築の筆頭であり紺屋町のランドマークでもある、岩手銀行赤レンガ館。前回は入らなかったが
今回はゆっくり時間があるので内部も見学しよう。人がいたので後でを正面を撮ろうと思っていたら忘れてた・・・
前回の写真を(汗)




1911(明治44)年に盛岡銀行の本店として建てられた。盛岡銀行の初代頭取はあの村井弥兵衛である。
その後盛岡銀行は破綻、1936(昭和11)年から岩手殖産銀行本店として使われ、その後行名が岩手銀行に
変更。本店の移転のあとは中ノ橋支店として2012(平成24)年まで使われた。
現役であるうちに国の重要文化財に指定されている。


典型的な「辰野式」の白ボーダー入赤レンガ壁は華やかなルネッサンス様式で、紺屋町に面したコーナーに
そびえる八角形の塔に入口がある。


入口上の半円形のらんま部分の優美な面格子。


さあ入ろう。


ドアを入ると八角形のエントランスホール。広さはないが2階まですこーんと吹抜けた縦長の空間。
見上げれば、天井には八芒星が!!うぉ~~っ


3つのアーチがお出迎え。中央と左右にも接客用カウンターが続く。エントランスホールは岩手殖産銀行時代に
2階の床を張って使われていたが、保存修理工事で元の吹抜けに戻された。


客溜まりも吹抜けで2階には回廊が回っている。回廊の手すりは元は金属製だったが、戦時中の金属回収令に
より供出されたという。


蛇紋岩はそれ自体模様がはっきりして派手な印象があるが、ここの接客カウンターは蛇紋岩に白大理石を
組み合わせてあるのが珍しいな。カウンターの上には当時上げ下げ式のスクリーンが立てられていた。


カウンターの両端には「カップルドコラム」と呼ばれる二本組の長い長い柱が、客溜まりと営業室を分ける
梁を支える形であしらわれている。リボンを巻き付けたような意匠が刻まれている。




そしてこちらが営業室の大空間!現在はギャラリーとしてやイベント会場として利用されている。
中央奥は支配人室。


天井の漆喰レリーフは分銅型だ!分銅は銀行を表す地図記号にもなっている。しゃれてるね~~


そのままダンスホールにもなりそうな優雅さ。。。


通路や各部屋の入口部には、それぞれにアーチ型の装飾や木製の重厚な装飾が凝らされている。






客溜まりの奥にある緩い勾配の曲がり階段。手すりの楕円形の装飾はアールデコかアールヌーボーか。
優美な装飾からこれはお客も使う階段だったと見える。商談の客を二階へ案内したのだろうか。




階段の親柱の柱頭はアザミのつぼみっぽいな。


壁沿いに3回屈曲するドラマチック階段。わくわくする~~


階段ホールの天井は、井桁状の桟が・・・と思ったら、よく見ると松皮菱のようになっているな!


続く。
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岩手旅 紺屋町歩き

2021-03-17 23:30:13 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。


旧井弥商店の前から紺屋町を下る。こんなレンガの大壁に出くわす。防火壁だろうか。




色むらが大きく一つ一つの形もかなりバラバラだが味わいのあるレンガ壁。
やっぱりあのなまこ壁の貼り瓦と同じ感じだな。


菊の司酒造の蔵。
川沿いのこの通りは紺屋町といい染物屋が多かったのだろう。古い商店が今もぽつぽつと残っている。


洋風のやぐらがアイキャッチとなっている紺屋町番屋。1913(大正2)年築の、元盛岡消防団分団の建物。
あぁここは前にも見たな。前回は紺屋町を北上してきてここでタイムアップとなったんだっけ。


この商店のファサード素敵だな!2階の窓まわりは5ブロックに分割され、スリットのようなたて格子が
はめられているので垂直線が強調されモダンな感じ。窓の下の格子状の部分はガラスブロックかな?


あっ、ガラスブロックではなく、タイルじゃないの!中央部の少し凹んだ部分に溜まった紫色の釉薬の
グラデーションが美しい。紫色と言っても、少し赤紫っぽくて赤しそのような、桑の実のような色だ。
なになに、「紫と茜 草紫堂」、ここは染物屋さんか。


紫根染めというのはムラサキという稀少な草の根で染める、日本に古くから伝わる草木染。茜染めも同様、
アカネという草の根を染料とする。あぁなるほど、このタイルは紫根染のイメージか。ほんとにぴったりだな!!
南部地方では「岩手根紫」として鎌倉時代以前から紫根染が生産され、藩政時代には南部藩の重要産物として
藩の手厚い保護を受けていたという。しかし明治に入り保護もなくなり安い化学染料が入ってくると廃れてしまった。
それを復興しようと、県の提唱により1918(大正7)年に「南部紫根染研究所」が設立され、主任技師と
して赴任した初代藤田謙氏が、1933(昭和8)年に独立して創業したのがこの草紫堂だ。
ムラサキは絶滅危惧種となっているため、現在では化学的方法も取り入れているそうだが、それは仕方ない。。

草紫堂の公式サイト →こちら

こちらはとても間口が広い、ござ九・森九商店。町家だが1階の壁には小口タイルが貼られている。
2階はここも黒漆喰だな。


ござ九は、その名の通りござなど、わら工品や灯明芯などを扱った商家。いわゆる荒物屋で豪商になれるとは
よっぽど手広く商売していたのだろうな。今もここに小さな店があって、たわしやほうきなどが売られている。




別の店の前に積まれていたこれは何だ?たこ壷か?


ござ九は川側から見るとまたその大きさがよく分かる。もともとは堤防がなく直接浜だったと思われる。
舟運で材料や製品を直接運び込めた有利なロケーション。


堤防の道を歩いてみよう。柳の若芽が風にそよいで気持ちいい。


塀越しに見えるこの蔵はちょっと変わっている。屋根のけらばの部分にも瓦が張られているのだ。・・・たぶん瓦。
屋根の勾配に合わせた平行四辺形をしており、垂直方向の出っ張りがある。継ぎ目はわからないが、出っ張りの
部分で重ねているのだろう。そしてそれが上下二段になっている。


また切妻屋根の場合、普通妻側には屋根瓦の側面が見えるだけだが、軒先瓦のような丸い文様が妻側にも
表れているのは、いったいどんな瓦なのか!?不思議・・・


中津川沿いの景観にこのござ九が大きく貢献しているな!




川沿いには植物に埋もれた喫茶店もあった。


やっているのかどうか不明・・・


続く。
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岩手旅 盛岡のまち歩き

2021-03-14 23:57:26 | 建物・まちなみ
2020年3月の岩手旅の続き。

歩いていると重厚な蔵や古そうな住宅などが出てきて寄り道しながら歩く。






アンバランスなほど大きな鬼瓦。ちょっと見たことないタイプだな・・・


急勾配の屋根は元藁葺き屋根だなと思って近づいたら、石川啄木の新婚の家だった。
このあたりからちょっとバスでショートカットしようと思って最寄りのバス停で時刻を見ると、次のバスまで
10分ぐらいあるので、石川啄木の家をダッシュで見学しよう。


小さく見えるが意外と広くて、大小10部屋ぐらいあるのには驚いた!内部は特に目立った意匠もない。
石川啄木は1905(明治38)年に結婚してこの家に住んだが、わずか3週間で転居したとか。
だから「石川啄木旧居」とか「旧石川啄木邸」とかでなく「新婚の家」なのだな(苦笑)。
それでもここが石川啄木の盛岡での唯一の遺跡(?)だということで、大切にされている。


バスの時刻の1分前ぐらいに大通りへ出てバス停に向かって歩いていたら、バスが目の前を通り過ぎて行った。
おや、あれは別のバスかな・・・?ちょっと嫌な予感がしながら、バス停に着いて待っていたけど、5分過ぎても
10分すぎても目的のバスは来ない。やっぱり、あれが乗ろうと思っていたバスだったんだ。定刻前なのに
客がいないと思って通過したんだな(苦)。これだから旅先の路線バスは当てにならない。。。

仕方ないのでぶらぶら歩き始め、途中でやって来た次のバスに乗り岩手県公会堂へ。まぁここは前回も見たのだが。


激しいスクラッチタイル。白い土と赤い土が混ざったようなまだらスクラッチは伊賀上野の旧桑町温泉などにも
使われていて、関西圏ではたまに見かける。伊賀焼なのかなと思ったりしたけど、違うか・・・


スクラッチの役物を惜しげもなく使ったこの段々が素敵だね!


公会堂のホールの入口は反対側にあり、こちらのエントランスホールは学校建築のようだ。
前回夜に訪れたとき、親切にあちこち案内して下さり、ホールも見せて頂いた。→前回の記事



地下のフランス料理店「公会堂多賀」は別の店に変わっていた。
後から検索してみると、2017(平成29)年3月に、90年の歴史に終止符を打ったとか・・・
あぁそうだったのか・・・入ってみたかった。残念(涙)

ガマの穂みたいなかわいいカットの植え込み。


北ホテル。ここには最初に訪れた光原社の支店「北の光原社」が入っていて、タイル貼りのファサードがいい感じ。




こじんまりかわいい近代建築ビル。1階は新しくなっているようだが2階は濃い色のモルタル壁に三連アーチ窓、
端の方には公会堂と同じまだらスクラッチタイルが使われているようだ。


ビルの側面にタイルモザイク発見。何を表しているのかはちょっと不明・・・


さて、ここから中津川を渡って、前回行かなかったエリアへ。
橋のたもとに建つこの建物、丸窓やひし形の窓があって目を引く。なんの建物だろうか?


妻壁に小さな丸窓が6つも並んでいるなんて、しかもガラスがはまっていて木製の桟までついている。
面白いなぁ!


近づいてみると二戸一の建物で、片方は古本屋だった。店内へ入って本棚を見てみるとなかなか興味を惹かれる
ラインナップ。まぁ今はあまり本を集めないことにしているのでさらっと流して・・・と。
お店の方にちょっと建物のことを尋ねてみると、1936(昭和11)年の建物で、元々は借家だったのを
払い下げてもらったのだとか。蕎麦屋だったか何だったかの店をやっていた時代もあったらしい。


向かいのお肉屋さんの壁に赤い皿型タイルが使われていた。


このタイルは他でも見たことがあるのだが、角の部分が面白い!半分サイズの長方形にあわせて凹みも楕円形に
なっていて、それがL字型につながって出隅の役物になっている。・・・なかなかやるな(笑)
三方の出隅もあるのだろうか!?


続く
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浮田家住宅

2021-02-22 23:34:34 | 建物・まちなみ
2019年秋の上越からの続き。

上越妙高から飛び乗ったはくたかで富山までやって来た。久々に降り立った富山駅は高架駅になって、
駅前に大きな広場ができていた。富山は10年ほど前に何度か来て富山地鉄の駅めぐりをしたのだ。
とてもしみじみと趣深い駅が多く、また行きたい行きたいと思いながら10年も経ってしまったのだな・・・(汗)
この時は急いでいたのであまりじっくり観察する時間がなかったのだが、市内電車の駅が新しいJR駅の高架下に
垂直におさまっていて驚いた!JRと駅構内で乗り換えできるようになったのだ。
尚、2020年の3月からは何とJRの北側にあった富山ライトレールと市内電車が合併し、直通運転をする
ようになった。あぁ、富山地鉄の進化はすごいな!!

さて、カーシェアの車で到着したのは、浮田家住宅。堂々たる門構え!オレンジ色の土壁が目を引く。


屋敷の周りには長谷川邸貞観園などと同じように石組の水路がめぐっている。


浮田家は宇喜多秀家と縁のある家で、宇喜多→浮田の名を使っているという。
1693(元禄6)年に加賀藩より奥山廻役を命じられ、立山・黒部一帯の山林の保護や国境警備を行った。
明治に入り職制が廃止されるまで代々その職を務め、後には代官職も兼ねた家である。
材木、治水、鉱山の経営なども手がけていたとか。


主屋は1828(文政11)年、表門は天保年間(1830~1843)の築造で、主屋、表門、土蔵が
重要文化財に指定されている。
長谷川邸とよく似た雰囲気だな。やはり近い地方なので建築様式も似ているのだろう。


1階の屋根は板葺きで上に石が置かれている。大屋根は茅葺のようだが、長谷川邸ほどの厚みはない。




中へ入ると長谷川邸とはずいぶん違っていた。土間の玄関も上がり框がある独立した玄関となっている。


玄関を上がったところの板の間が玄関ホールである。作業用の広い土間に接し台所や広間へもつながる。
土間へは建物の横の側にある別の入口から入るようになっていた。

ここでは敷瓦を見るのがメインの目的なのだが、他のお客がいるので先に他の部屋を見学しよう。

台所との間の漆塗りの建具。これは無双窓になっているのだな!


この裏側に広い板の間の台所、隣接して茶の間がある。使用人が多かったことが想像される。
屋根裏はいぶされて真っ黒になっている。ガイドの方いわく、煙がいかない部分は茅が抜けやすいのだとか。
今も週2回囲炉裏に火を入れていぶしているといい、このときも煙のにおいが立ち込めていた。


石造りのかまど。




来客用玄関を上がったところの24畳敷のひろま。


代官も務めた浮田家には人の出入りも多かっただろう。
こちらの本座敷は上役である奉行などが入る部屋だった。


2間の床の間には床柱がない。床框は縞模様の美しい黒柿材が使われ、座った時の目線の高さがガラスになっている
「ねこま障子」が嵌っている。


可憐な水仙の釘隠し。細い茎と葉で釘が隠れるのかとちょっと心配になる(笑い)


透かし彫りの欄間。




こちらは「隠しの間」と呼ばれる部屋で、この部屋と隣の「奥控の間」は1897(明治30)年に
増築された部分。軽やかで洒落た近代和風建築の特徴がみられる。
床柱は輸入もののタイサンボクと言われていたような・・・


驚くのは、天井の押し縁や、建具にまで黒柿が使われているのだ!!え~~すごい!


美しい漆塗りの襖の枠。


引き手もいろんなデザインのものがあり見ていくと楽しい。




小さな部屋があちこちにあったのは家人のプライベートスペースだったのだろうか。


立山のお札がカワイイ(笑)
富山は浄土真宗が多いが浮田家は真言宗だそうで、仏間に置かれた仏壇も真言宗スタイルなのだとか。


続く
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大棟山美術博物館(旧村山家)再訪

2021-02-21 17:30:13 | 建物・まちなみ
2019年秋の長岡からの続き。


十日町駅前で泊まった翌日、朝から上越妙高駅へ移動して車を返し、新幹線に乗る予定をしていたのだが、昨日の
夕方に訪問するはずだった大棟山美術博物館(村山家住宅)に行けなかったので、朝イチ見学するために向かう。
レンタカーは丸24時間なので9時までだったが、電話して2時間延長してもらった。


おぉ、またやって来たぞ~
ここは2017年のGWに来ており、バックヤードに眠っていた大量の古い本業敷瓦と珉平焼の流れをくむ
淡陶の湿式マジョリカタイルを発見をしたのだ。
→以前の記事 「GW新潟 大棟山美術博物館」「GW新潟 大棟山でタイル発見!


今回どうしても再訪したかったのは、その時興奮しすぎて敷瓦の裏側を見ていなかったので、確認したかったから(笑)


9時の開館と同時に入館。
朝イチいきなり入って敷瓦を見せてくれというのも何なので(笑)、建物をもう一度見学しよう。


主屋は、1755(宝暦5)年の火災後に建てられたものだが、現在の状態は大正時代に改築されたところに
よるのが大きいのではないか。
1948(昭和23)年、1988(昭和63)年にも改築しているらしい。昭和63年は博物館として一般公開する
準備としての工事だろう。


ケヤキの一枚板が使われた廊下。随所に良材が使われ、建具や造作は凝った細工が見られる。


こちらの天井も1列ごとに長さのある板が用いられている。


障子の下部に描かれた菖蒲の絵は木道も描かれていて三次元的なデザイン。








この引き手は七宝焼きだろうか。


二階へ。




白菊が描かれた物入の板戸。しかし貞観堂の白菊と比べてみるとちょっと稚拙な感じがするな。。


こういった数寄屋っぽい意匠が取り入れられているのは、近代和風の特徴だろう。


すごく太い竹の床柱。


この部屋の格天井の鏡板もまた大きい!屋久杉だろうか。




そして、この色ガラス!鮮やかな色ガラスは明治建築に多いと思っていたが、改修工事が行われた大正時代にも
まだ使われたのか。それとも記録にない小規模な改修が明治期に行われ色ガラスの建具が嵌められたのだろうか。




近代和風の主屋と表門は、近代和風建築の粋を集めた建造物として、十日町市の有形文化財に指定されている。
江戸時代の建造当初の建物の姿はわからないが、外観も含めてかなりの規模の増改築が行われたのではないだろうか。




さて、そろそろタイルを・・・


前回の発見を兵庫県立考古博物館の深井さんに報告し、後日調査に行かれ記録して下さったことは聞いていた。
しかしその後もこの大棟山美術博物館で特に展示されることもなく、敷瓦はバックヤードの片隅で積み上げられていた。。。


明治表面をウェットティッシュで拭いたらこの通りぴかぴかに♪裏側は無地なのを確認できてすっきりした!


しかし松之山から上越妙高駅まで1時間はかかるので、10時には出ないといけない。お礼を言い慌ただしく出発。


途中の道では先行車が結構おり、また工事のため交互通行区間で10分ぐらい待たされたりと焦る焦る・・・・
レンタカーの返却だけでなく、新幹線の時間もあるからだ。予定のはくたかに乗らなければまた1時間ほど遅れるし
自由席のない便になってしまうので(汗)
給油所も寄れずレンタカー屋で精算、、、もう絶体絶命!!と思ったけど、駆け込みで間に合った!!汗だく・・・

続く
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貞観園と貞観堂 続き

2021-02-19 22:28:18 | 建物・まちなみ
2019年秋の長岡からの続き。



こちら、貞観堂の貴賓用の入口「真之玄関」。


そのすぐ目の前にある二之間が「容斎之間」と呼ばれるのは、襖に描かれた「洛外嵐山」の作者、菊池容斎の名から。
孝明天皇より日本画士の号を賜り、歴史画の大家と言われた画家である。




そして二之間の奥にある「上段の間」は貴賓客を通すための、この建物の中で最上位の部屋である。
岸駒とその弟子によって描かれた「涛華」の襖絵。


この鷹の絵は菊池容斎作。彼はこの家に多くの作品を残しているという。




付書院の透かし彫りの欄間。


そしてこの上段の間は「望陽台」と呼ばれ、お庭はここから一番美しく見えるように作られているとか。
さすがに素晴らしい眺め!


新潟の庭園でよく見られるように、赤玉と呼ばれる佐渡で採れる真っ赤な石がポイントとして使われている。
針葉樹や苔の緑一色の庭園で差し色として重宝されたのだろう。


この石はオレンジ色も混ざっている。本当に不思議な、宝石のような石。


部屋を囲む形で配された畳廊下は、庭を楽しむために畳敷にしてあるのだろう。廊下のどこでも気に入った場所に
座り込んで眺めることができる。


畳廊下からさらに外側に張り出した濡れ縁に立てば、180度の視界にお庭の緑が広がる。あぁ、気持ちいいなぁ。
残念ながら、お庭に降り立つことはできない。




この庭は数百種類もの苔が生える「苔の庭」。深みと風格を醸し出している。

やっぱり貞観堂は庭を眺めるために作られた、大きなあずまやなのかもしれない。

このあとは、大棟山美術博物館に再訪する予定にしていた。スケジュールが押してきているので念のため電話したら
4時で閉めるという。えぇ~~っ、5時までじゃないの!?
なんだか管理人のおばちゃんが個人的な用事があるような雰囲気で、粘ってみたがまた明日来て、とつれない(苦笑)
車は明日の9時に上越妙高駅で返却する予定なのに・・・


とにかく今日はもう間に合わないので、ここでゆっくりすることにしよう。そもそもこの貞観園を駆け足で去って
しまうのはもったいないから、まぁちょうどよかったかもしれない。


一部二階もあり、上って見ることができた。2階はだいたい女中部屋とか使用人の部屋として粗末な仕上げに
なっていることが多いが、ここでは天井は低いもののちゃんと畳が敷かれていた。


廊下をぐるっと回って、こちらは広間と背中合わせになっている茶の間。さっきの緑の松の絵が描かれた欄間の裏側に
貼られているのは、更紗だろうか。暗くて写真がブレブレだった(涙)


あぁ、素晴らしい貞観園と貞観堂を堪能した。


向かいの敷地で何やら工事していたので覗き込むと、凝った石組の水路や茶室が見えた。
「名勝貞観園南苑内 玄隆斎・円角庵 保存修理工事」と書かれている。ここも貞観園の一部だったのだ。
さっきの展示されていた年表を見るに、初代が松之山から移ってきてまず住んだのはこちら側で、3代目のときに
「里道を隔てた前方の屋敷より現在の宅地に移動」したようだ。修復工事が終わったらこちらも公開されるのだろう。
楽しみだな!


少し走って十日町市へ。藤巻医院も健在。




今宵の宿は十日市町駅前のまちなかの小さな旅館。今回まちなかで泊まったのは、山あいの旅館だとこの季節
カメムシが出そうだから(汗)。それが正解!ゆっくりできた。
食後にちょろっとまちなかを散歩したら、斬新な木造ドームの建物があった。何だこのおしゃれな建物は!?
有名な建築家の作品だろうか。
「十日町産業文化発信館 いこて」という、多目的スペースと飲食店の複合施設らしい。手塚貴晴+手塚由比/
手塚建築研究所が設計。雪に埋もれることを想定した建物だとか。ドームの両端は雪よけの軒下空間、雁木が再現されている。


敷地の片隅に立つ石碑にふと気づいた。「ここに 深雪観音堂 ありき」と書かれた下に細かい文字で彫られた文章を、
近づいて読んでみた。かつてここに旬街座という映画館があり、1938(昭和13)年の元旦の夜、映画を上映中に
2m以上積もった雪の重みに耐えきれず屋根が崩落し、死者69名、負傷者92名という大惨事が起こったというのだ。
多くは晴れ着を着た織物工場の女工たち。お正月休みに皆華やいだ気分で出かけたことだろう。。。
その犠牲者の慰霊のために、遺族会により跡地に深雪観音堂が建てられた。
そして、堂内の献額の奉納句、として書かれていたこの句。
「雪地獄 父祖の地なれば 住み継げ里」
これを読んだとき、全身に鳥肌が立った。家族が雪に埋もれて亡くなるというまさに地獄のような出来事があっても
なお、雪と共にこの地で生きていく。ここに生まれた運命というか、使命というか、すべてを受け入れて、先祖から
受け継いだ土地を守って住み続ける、たくましい覚悟に、胸を突かれた。。

深雪観音堂は老朽化したため2000(平成12)年にやむなく解体され、代わりにこの碑が建てられたのだった。
そして新しいコミュニティ施設「いこて」は、絶対に屋根が落ちない構造で作られたのだ。

続く。
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貞観園と貞観堂

2021-02-18 23:46:39 | 建物・まちなみ
2019年秋の長岡からの続き。



長谷川邸を出て、貞観園を目指しナビの言うとおり走るが、途中から何か道が細くなってきた。
ほんとにここでいいの!?と思うようなあんまりメンテナンスされてなさそうな細いくねくね道。。。
ガードレールもないし、対向車が来たら正面衝突を免れなさそう・・早くこんな山道抜けてしまいたい一心で走る。
峠を越え、ようやく人里に下りてきたときの安心感・・・長岡から行くのは本当にこの道しかなかったのか??(汗)

ここでも屋敷は水路と石垣に隔てられている。自然の林の中のような、静謐な雰囲気。


粗末な感じの建物が水路脇に建っており、小さな橋が渡っていた。えっ、これが貞観園の入口?


入口のひさしを支える柱には四角い穴が空いており、何かの古材を集めて作ったように見える。


格子戸を開けて入ると、これは蔵なのか?お堂なのか??ちょっと不思議な建物だ。




そして針葉樹の林の奥に貞観堂と呼ばれる建物の屋根が見えた。おや、屋根は鉄板葺きか。
ここも北方文化博物館(豪農の館)を建てた伊藤氏が庭を造るときに参考にしたと聞いていたので、見てみたいと
思っていたのだ。しかしこのあともう1軒行こうと思っているのであんまり時間がない。。。(汗)


車寄せのように張り出し入母屋屋根の載った玄関と、その向こうにももう1つ玄関がある。
そして見学の入口はもう一つ手前の土間の入口で、合計3ヶ所の入口がある。


建物内に入ると、土間は屋根裏まで吹抜けの大空間である。しかし土間は奥へ抜けていない。
この「貞観園」は庭園が国指定名勝になっているが、建物「貞観堂」は特に文化財になっておらずあくまで
庭園の一部なのだという。ええっ、そうなの!?こんなに古くて立派な建物なのに?
しかしこの家はどういう人の家だったのだろう?受付の年配の男性に聞いてみると、なんと、ここは松之山の
大棟山美術博物館になっているあの村山家らしい。ほほ~~~ぅ、ここも村山家だったのか!!


1673(延宝元)年に善右衛門正信が松之山の地を弟に譲りこの岡野町に移った。どういういきさつで兄が
居を移したのかわからないが、分家というのともまた違うのだろうか。
そしてこの方が第13代のご当主で、自ら来客の対応をされていたのだ!ありがたや~~。現在もここの裏手にある
建物にお住まいなのだという。



年表によると、貞観堂は1784(天明4)年に建てられたので、築235年ということになる。
こちらの村山家もやはり大庄屋を務めた豪農だったというが、この建物は生活感がなくもっぱらもてなしの場として
使われたと思われる。そして非公開の居住部分が「母屋」なのだろう、さらに古く260年もの歴史を経た建物と言う。
そこに今も住まわれているというのだからすごい!!
維持の負担を減らすため、2006~2009(平成17~20)年の修復工事で貞観堂の屋根を鉄板葺きにされた。
名勝庭園の附属建物に対する補助金が出ているのかどうかはわからないが、茅葺のやりかえは莫大な費用がかかると聞く。
将来にわたってのメンテナンスを考えると仕方あるまい。。。

上り口に鶴の絵の板戸絵が飾られていた。鶴の生き生きとしたしぐさ、松の古木の木肌の質感など見事だ。
保存状態もよい。


この家も近世の建物だが、さっきの長谷川邸よりも装飾的要素が多い。特に建具に素晴らしいものがたくさんある。
広間では鮮やかな緑色の葉をつけた松の枝が描かれた欄間に目を惹かれる。


欄間は透かし彫りや組子など木製で精緻を競っているのがほとんどだが、これはまるで天袋の襖のようだな。
繊細な筆致は高名な画家が描いたと思わせる。


座敷の方を見ていくと、部屋の中へは立ち入れないがどの部屋もとても立派で格式高い感じ。
こちらの三之間は仏間。ケヤキ材の仏壇が置かれ、家人が日々お勤めをされていた部屋である。
古紫檀の大卓は明治天皇が北陸御巡幸のときに使用されたものだとか。


二之間との境にある金色地の襖がゴージャス!!これは京都のお寺から明治時代に譲り受けたもので、中国の伝記
「列仙伝」を画題とし西王母と東方朔という仙人が描かれためでたい絵。狩野派の作品かと言われている。


床の間には、園名「貞観」の命名者、藍澤南城による808字の貞観堂号記が飾られている。
「貞観」の名は中国南宋の詩人謝康楽の詩句に由来し、「贅沢をしようという心を忘れて、そこで初めて丘や谷の
美しさを正しく見ることができる」という意味なのだとか。


その隣の「二之間」の廊下に面した襖は、強烈なインパクトでギョッとする。黒地に金色で描かれた龍が
ぐねぐねと体をくねらせ舞い踊るさまは、躍動感にあふれ迫力満点!春慶塗の赤い木部が黒と金色を際立たせる。
この「雲龍図」の西陣織は、5代当主が菩提寺である廣済寺に「柱隠し」として寄進したが、長年の使用で傷んだため
11代当主が新しいものを寄進して古いものを引き取り、襖に仕立て直したのだという。
古い布が目を瞠るインパクトのあるインテリアに生まれ変わったわけで、うまく再利用したものだな!!


この上にはまた可憐な白菊が描かれた板絵が嵌っている。


白菊はあちこちに描かれており、花びらは胡粉を盛り上げて立体的に描かれている。
大棟山にも同様の白菊の板絵があったし、村山家に何か謂れがあるのだろうか。




引き手も鳳凰が彫られた凝ったデザインのものが使われていた。



上段の間から畳廊下を挟んだこの小さな部屋は玄関の間で、右側の障子を開けると玄関である。
建物からここだけ張り出した形になっている。
貞観堂の玄関は「真之玄関」「行之玄関」「草之玄関」の3ヶ所があり、ここは一番格式の高い「真之玄関」。
式台にはケヤキの一枚板が使われ、お武家様、お寺の和尚様等の貴賓の出入用として使われた。


そしてこの玄関から入ると目の前にあの雲龍図の襖が見えるわけだ!


尚、さっき入ってきた土間の入口が「草之玄関」で出入り業者などが使用、板の間に上がる入口が「行之玄関」で
当主やお客が使用した。

続く
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長谷川邸

2021-02-17 23:15:12 | 建物・まちなみ
2019年秋の長岡の続き。

今回の旅は、燕三条で借りたレンタカーを上越で返却する予定の一方通行旅。
楽山苑でゆっくりしてしまったので、行こうか迷っていた目黒邸はパスし、貞観園へ向かうことにする。
広がる田んぼの真ん中を走るドライブは快適だが、昨夜は夜行バスの車中泊、1時間続けて走るのはちょっと疲れそう
なので、途中で休憩したいなぁと思っていたところ、沿道に「重要文化財 長谷川邸」と書かれた看板が目に入った。
重要文化財?チェックしていなかったけど、見るべきかな?検索してみると近世の古民家のようだ。
ちょうど通る道の途中だしちょろっと立ち寄ることにしよう。


堀と石垣に囲まれた敷地はまるでお城のよう!歩いていくと、茅葺屋根の豪壮な門が現れた。
家紋の入った幕が箔を増している。


長谷川家は戦国武士の流れをくむ名門旧家。代々庄屋を務めた豪農であり、近代には山村地主として栄えた。
現在の主屋は1716(享保元)年頃に完成したものと伝えられ、新潟県下の木造民家としては最古級だという。
来客用の新座敷は、1793(寛政5)年に建てられた。


門を入ると幅の広い通路がまっすぐ伸び、その正面に茅葺の大屋根を持つ主屋がどんと控えていた。


通路は途中で左へ分かれており、そちらへ行くと式台付きの立派な主玄関がある。近世の建物らしい、装飾控えめで
シンプルな玄関であるが、正面に立てられた衝立の墨書き文字のせいだろうか、身が引き締まるような風格が漂う。






左手にはこれまた重厚な杮葺きの中門があり、その向こうは庭園が広がる。


長屋門からまっすぐ進んだ正面は土間の入口である。


土間はとても広く奥まで続いている。庄屋の家では米を運び込む農民に対応するスペースとして土間が広い。




頭上を見上げると小屋組がすごい!梁は比較的細いが、縦横に何重にも組まれている。屋根裏までもう梁だらけ!


まるで五右衛門風呂のような巨大なかまど!大勢の使用人が住み込んでいたのだろう。


さて部屋の方へ上がろう。上り口から春慶塗で、この家の贅沢さをうかがわせる。


ガラスケースに展示されていた釘隠しが面白い!鶴のデザインでも、いろんな格好をしたものがあって、おそらく
部屋ごとに違うものが取り付けられていたのだろう。ここにあるのがオリジナルで、現在柱についているのは複製品だとか。






板の間には古いストーブが置かれていた。近世の古民家にストーブとは珍しい気がしたが、考えてみれば当然だ。
雪深く寒い地域の古い民家で暮らすのに囲炉裏や火鉢だけでは厳しい。近代になってストーブをいち早く導入したのだろう。しかしそれでも天井が高く気密性の低い部屋はなかなか暖まらないんじゃないかな。。。


「MITSUKOSHI」ロゴが入った氷冷式の冷蔵庫もあった。




さっき外から見た主玄関。


上段の間は、この主玄関から入った上級役人が通された部屋で、床柱はエンジュ、違い棚や付書院の棚板には
春慶塗の施されたケヤキ材が使われている。

仏間に鎮座する仏壇は1801(寛政8)年に作られた立派なもの。薬師如来が納められており、今も毎年
薬師講が行われているとか。


上段の間、玄関の間、仏間の天井は竿縁が床の間に垂直になっている「床差し」である。
床差しは縁起が悪い、というのは近代以降に言われだしたのであり、この建物が建てられた時代にはそのような
迷信(?)はまだなかったのだ。


トイレは、木製漆塗りのこんな殿様用のような便器だった。




近代和風のような華やかさはないが、良材をふんだんに使い、日本の素晴らしい建築技術を集めて精緻に作られた
民家は見ごたえがあり、ここでも米どころ越後の豪農のスケールの大きさが実感された。
休憩もできたし、さぁ一路貞観園へ向かおう。


続く。
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