まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

楽山亭 続き

2021-02-16 22:02:13 | 建物・まちなみ
2019年秋の長岡の続き。

傾斜地に楽山亭をはじめとするいくつかの建物が点在する敷地全体が「楽山苑」と呼ばれ、名勝に指定されている。
三輪家が与板の地を出たあと、その後の所有者から与板町に寄贈、1970(昭和45)年から一般公開された。
1996~1997(平成8~9)年には楽山亭復元修理工事が行われた。


楽山亭はそれほど大きい建物ではないが、もてなしの場としてトイレの敷瓦の他にも凝った意匠が随所に見られる。
こちらが玄関。正面には丸い下地窓があって向こうの部屋が透けて見えている。


玄関の間の裏側にあたる8畳座敷は庭に向かって張り出して作られており開放的。


下地窓があったり、派手な柄の黒柿材が床の間に使われていたりするが、比較的端正なイメージだ。




床の間以外の三方にめぐる縁側には柱がなく、外側に立てた建具を取り払うと外部とひと続き!




外から見るとまるでドラマのセットのようだな(笑)。


廊下をぐるっと回りこんで進むと、左側奥に廊下が続いている。尚、右へ行くと例のトイレや、
今はバックヤードスペースとして使われている元台所がある。


左へ曲がったところのこの廊下がちょっと変わっているな!幅の1/3が丸竹のスノコになっていて、また
残りの2/3は板張りなのだが、この板の木目が浮き上がり洗いざらされた質感は、屋内にあるのにまるで長年
風雨に打たれた濡れ縁のよう。継ぎ目もあったりして、古材を持ってきて使ったのだろうな。


表にあった楽山苑の碑に刻まれた解説に、「かつて廻船に使用した船板を用いるなど・・・」と書かれていた。
ははぁ、大坂屋は信濃川の船運事業も行っていたから、所有していた船の古材をここに使ったのだろうか。


その廊下の奥には二つの茶室があった。
こちらの3.3畳の茶室は座敷と同様庭に張り出して作られているが、壁が多く適度な「こもり感」のある空間。


皮つきの材を床柱に使った床の間。利休が好んだ「竹吊り窓」から、「織部灯篭」が眺められる。


もう一つの茶室の手前には2畳の水屋がつき、その床は板と丸竹を交互に並べたもの。




こちらの6畳の茶室はちょっと変わっている。床柱が2本あり、間に花灯窓のような掘り込みがあって、その中に
「南無阿弥陀仏」の掛け軸が下がっている。これは仏壇であり、この部屋は「持仏堂」と呼ばれる。


2本の床柱の片方は黒い皮つきの荒々しい材、もう片方は皮を剥いだなめらかな質感の材と、対比的である。


天井も皮つきの丸材やすす竹、木の皮などを使った、数寄屋風の駆け込み天井。


この部屋は3畳の茶室と違い開放的で明るい。茶室としてだけでなく奥座敷としても使用したのだろう。


お風呂場は改修済みだったが、壁にもみじの葉が埋め込まれた風雅な意匠があった。


建物を見学したあと庭をうろついて外から建物を眺めたり、崖下に広がる与板のまちの景色を楽しんだり。


そして建物の裏手にあるもう1軒の茶室を見に行った。「積翠庵」と名付けられたこの建物は、越後柏崎の茶人
松村宗悦が京都表千家に伝わる有名な茶室「不審庵」を模して柏崎に建てた茶室を、三輪潤太郎がこの地に
移築したもの・・・の復元だそう。オリジナルは新潟の北方文化博物館に再移築されているとか。どこにあったかな(汗)


閉まっていて内部は見れなかった。蜂が出てきそうなので退散。。。


敷瓦と建物を満喫したあと楽山苑の入口の観光案内所ではっか糖を試食したらおばちゃんがお茶を出してくれて
ちょっとおしゃべり。
楽山苑のある与板のまちは、上杉景勝の執政、直江兼続の居城があったところで、ゆかりのスポットが多く、
歴史好きには有名な場所らしい。戦国時代の刀剣師に端を発する鍛冶は400年の伝統を誇り、また近くには
塩水の湧く温泉があって岩塩が採れるのだとか。へぇ~~


はっか糖と岩塩をお土産に購入して楽山苑を出、車で走り始めるとかなり大きな商店街が続いていることに気づく。
ちょっと散策してみようかと心惹かれたが、、、今日はかなりの距離を移動しながら何ヶ所か立ち寄る予定で
朝イチレンタカー屋で手間取ったせいで時間が押しているため、先を急ぐことに。
もう少し余裕あるスケジュールにしておくんだったな。。。

続く
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柳下邸を見に行く。

2021-02-08 22:00:20 | 建物・まちなみ
横浜の建築を眺めたあと、関内から電車に乗って根岸へ。友人がチェックしていた柳下(やぎした)邸を見に行くのだ。
駅を降りると前方に小高い丘が見えていたので、まさか丘の上じゃないだろうなと内心駅恐れながら(笑)
5分ほど歩いていくと、あぁよかった、丘のふもとだ。
住宅街の中の公園のように整備された敷地に、背の高い洋館を伴った和館が丘をバックに建っていた。




おぉ~~、カッコイイじゃないの!
ゆるやかな坂道のアプローチを上っていくにつれ建物が目の前に近づいてくると、気分は高まってくる!


背が高い!洋館は3階建てかと思うほどたっぱがあり、1部屋だけの小面積なので余計にのっぽに見える。
基壇部の石は積んでいるのではなく貼ってあるのだろうが、いろんな色、大きさの切石をランダムに混ぜて
組み合わせてありしゃれているな!ハーフティンバーの柱に見える部分は、表面に金属板(銅板か)が貼ってある。


洋館の前を通り過ぎて進んでいくと、立派な入母屋破風の玄関があるがここは閉め切り。。
入館者入口は和館の方にあるようだ。


柳下家は金属の輸入業を営み、「鴨井屋」の屋号で弁天通に店を構えていた。屋号を示す「〇加」マーク入りの
鉄製の天水桶は分厚そう。錆びないのかな!?。


中庭ごしに洋館に続く廊下が見え、この建物が複雑な平面を持っていることがわかる。そして美しい屋根の重なり。
これは期待できそうだな!


張り出した建物の角を曲がるとまた玄関があるが、ここでもなく、さらに奥の勝手口(?)が見学入口となっていた。
入館はなんと無料!しかし・・・内部は撮影NGとな!?え~~っ、残念。。


建物に上がるとすぐ左手に浴室があった。これがいきなり素敵なお風呂なのだ!
人研ぎの五右衛門風呂、壁のタイル貼り。天井は折上げ格天井でさらに中央部が湯気抜きのため一段上がっていて、
透かし模様が刻まれている。脱衣所の天井は傘天井のように丸材が放射状に広がる。装飾付きの窓枠などなど・・・
復元だろうがかわいくていきなりテンションアップ!
廊下の建具には家紋とみられる透かし彫りも見られる。




今入ってきた入口のある棟は「西館」と呼ばれ、居住空間だったようだ。
茶の間から3つの居間が雁行して配置されている。表側に張り出した部屋がやはり一番立派で、
主人の部屋だったのだろうと想像する。


そして、西館からボトルネックのような細い廊下を介して、「東館」につながる。こちらは接客の場とされ、
仏間や客間、そして洋館も付属する。仏間は茶室として使われたという。
閉め切られていた正面玄関の床には無釉の八角形タイルが敷き詰められていた。


洋室は8畳ぐらいだろうか、中は意外と広いな。季節柄クリスマスツリーが飾られていた。
残念ながら2階へは立入禁止。


客用便所は、竹や曲がった木などが使われた数寄屋風の雰囲気が残されている。


そして奥にある蔵は完全に主屋とつながっている。前室には古い金庫や氷冷式冷蔵庫などが展示されていた。


結構見ごたえのある建物で楽しめたのだが、なぜ写真撮影を禁止しているのかなぁ・・・
もっと知られて多くの人に活用される方がいいんじゃないのかな。。。

→柳下邸のサイト こちら

最後に、そこから距離的にそれほど遠くない根岸競馬場一等馬見所を見に行こうとgoogleマップを
頼りに歩いていくと、なんかえらく急な丘を上らされたあとまた下らされ、、、(苦)
根岸森林公園まではたどり着いたのだが・・・馬見所はどこだ?
ええーっ、公園の一番対角じゃないか。谷の向こう側・・・もう無理。また次の機会に。。。
バスで丘を降りて中華街で軽く食べて終了~~


楽しい一日だった!
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横浜の近代建築眺め歩き

2021-02-07 19:20:54 | 建物・まちなみ
コーヒーの大学院ルミエール・ド・パリでしばし休憩したあと、旧横浜市庁舎を設計した村野藤吾と、新しい
横浜市庁舎を設計した槇文彦氏の展示を見に、市役所の移転先である馬車道の方へ、ふらふら歩いて行く。
2年ほど前に別の友人と横浜の建築を少しめぐり、去年の夏にも少しうろついたが、馬車道の方までは
行っていなかった。

神奈川県立歴史博物館。1904(明治37)年に横浜正金銀行本店として建てられた。


妻木頼黄設計、ネオバロック様式の重厚な建物は、重要文化財に指定されている。
これはなくなることはないのでまたゆっくりと。


その向かいは、馬車道大津ビル。ちょっと足元が切れているが・・・(汗)
クリーム色のタイルに覆われ遠目にはプレーンな感じに見えるが、よく見ると窓の下や一番上の方の
タイルの貼り方は凝っていて、同色のレリーフタイルも使われているなど、実はなかなかおしゃれなのである。


その隣は石に覆われ見上げる円柱を並べた、また見るからに銀行建築。1929(昭和4)年に建てられた、
旧安田銀行横浜支店。
現在は横浜市が所有し、東京藝術大学大学院映像研究科馬車道校舎として使われているということだが、
巨大な吹き抜け空間であろうこの建物をどんなふうに使いこなしているのかな。


そしてここが、槇文彦展の会場。旧横浜銀行本店別館。鋭角の角地にぐぐっと突き出したこの建物は、
1929(昭和14)年に第一銀行横浜支店として建てられた。ここだけ3階建ての低層だが、
大海原の水をかきわけ突き進む舳先のように力強く感じられる。
そしてその背後にある高層の建物が槇文彦設計の新市庁舎だ。


内部は撮影NGだったので写真はないが、2階までが吹抜けとは言っても普通の建物の3層分ぐらいある。


槇文彦氏の建物って実のところほとんど意識したことがなかったが、代官山ヒルサイドテラスという昔から
よく名前を聞いて知っている建物群がそうだったとは初めて知った(汗)。
1969(昭和44)年に第1期計画が完成したあと、第2期、第3期・・・と、1992年まで、
時代の要求を取り入れながら段階的に拡張を続け、50年以上の年月をかけてまちなみを、コミュニティを、
そして文化をも作り続けている、「建築」という枠ではくくれない、大プロジェクトである。
・・・ということを知り興味深く見た。
代官山って、高校の卒業旅行で東京へ憧れの雑貨屋めぐり(笑)をしに行ったときに初めて行って、
その後何回かは行ったかな・・・久々に行ってヒルサイドテラスをじっくり見てみたくなった。

さて道路を海側へ渡ったところの、旧帝蚕倉庫本社事務所の奥が村野藤吾展の会場である。


どちらか言うとこっちに期待が大きかった。そして期待通り素晴らしい展示で、見てきたばかりの
旧横浜市庁舎の魅力もおさらいできたし、日本各地の村野建築の模型や村野デザインの椅子などの
展示もあり、村野建築の魅力を堪能した。


この会場で別の友人にもばったり会ったので、一緒にランチをとることにし、前にも入った海岸通り沿いの
「海岸通壱番館」へ向かうことに。

横浜市第二合同庁舎。旧横浜生糸検査所。こないだ火事あったのここ?


横浜税関。


前に行った店が1時半過ぎでもうランチ終了というので(早!)上の店で、ちょっとリッチに
タンシチューのセットを食べたら、これがとろけるようなタンの塊がごろごろ、めちゃくちゃ
おいしくて大当たり!!あぁもう一度食べたい。。
ビルの屋上に上がってもいいですよとのことだったので行ってみると、うわぁ~~、いい眺め!!


港も一望できるし、旧神奈川県庁舎も俯瞰できる。


坂倉準三作のタイル貼り神奈川県庁新庁舎も全体がよく見えた!




その後また建築を見ながら関内駅へ向かう。


旧神奈川県庁舎。


横浜情報文化センター。旧横浜商工奨励館。




横浜地方裁判所。


「ザ・ベイズ」。旧日本綿花横浜支店。




横浜スタジアムのある横浜公園の入口の門柱は、スクラッチタイル貼りの円柱形でちょっと古そうだな?


通り抜けようと歩いていると説明板に目が留まる。そこには古い絵図が載っていた。
・・・ほほう?ここに、昔遊郭があったと?
「港崎(みよざき)遊郭」は、1859年の横浜港開港に合わせるべく作られたという。


旧横浜市庁舎の南側が運河だったというのは見学会の時に聞いたが、そもそもこのあたり全部、元は海だろう。
ちょっと調べてみると、JR関内駅の南西側の市街地は江戸時代前期に、江戸の材木商の吉田勘兵衛という人が
入江を埋め立てて開発した「吉田新田」(1667年完成)であった。その後、現在の中華街にあたる
「横浜新田」(1818年完成)、旧市役所などのあったエリアである「太田屋新田」(1853完成)が
開発され、その間の沼地として残っていた場所を、遊廓を造るために新たに埋め立てたということらしい。
そして、その港崎遊廓は火事により7年後に消失し、その後他の地へ移転してしまった。
同じ場所で復興しなかったのは、開港により町が栄えたからだ。新田は居住区となり遊廓跡地は公園となった。
当時の横浜公園の名残の噴水が今も残されている。


さて、まだ日暮れまで少し時間があるので、根岸へ移動する。
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コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ

2021-02-05 20:37:10 | 建物・まちなみ
旧横浜市庁舎の見学に行った日は、そのために関西から来ていた友人と一日横浜で建物を見ながらうろついた。
朝イチで見学を終えたあと、ちょっと休憩しようと、タイルスポットでもあるコーヒーの大学院へやって来たのだが、、、


あれ、閉まってる?「本日貸切」の看板が・・・・ええ~っ、そんな~~~(涙)。


喫茶店で貸切って、パーティか何か??電気は点いているけど・・・
ドアを開けて聞いてみたら、もうすぐ撮影があるんだけど、とのこと。30分ぐらいでもよければどうぞ、と
入れていただいた。よかった~~~


1974(昭和49)年創業。1970年代の空気感を感じさせるインテリア。
店内の撮影の承諾をいただいて、控えめに撮る。


座った席の横の壁には中世風の石張りの暖炉の装飾が。本物ではないのだろうけどインパクトは抜群!


その横には古そうなステンドグラスがあった。
「ペンと書物をもつ聖人」というタイトルで、1850年代に英国で製作された、との説明がある。
「金拾五萬七千九百六十圓也」とも書かれているが、いつの値段だろう。。


天井からはゴージャスなシャンデリアが下がる。


真っ赤なデザインタイルが70年代を彷彿とさせる。




温かいカフェオレを頼んだら、銀のポットを二つ運んで来られて、目の前で両手に持ったポットからミルクとコーヒーを
カップに注いで下さった。うわぁ、すごい!!あっという間のの出来事で、うまく写真に撮れず(苦笑)
本場フランス仕込みのやり方なのだとか。

そして、このお店の名前は「ルミエール・ド・パリ」だと。「コーヒーの大学院」だと思ってた(笑)。

店の奥には特別室があるというが、そこで撮影が行われるらしい。雑誌か何かの撮影だろうか?


トイレに行ったときにちらりと見えた「オーキッド特別室」と書かれたドア。この向こうにはどんな世界が広がって
いるのか・・・残念ながら今回は見ることができなかったが、いろんなサイトに載っている写真を見ると、
本当にきらびやかな内装で、王様気分を味わえそうだ(笑)


店を出てから建物の横の方に回ってみると、こちら側には特別室の入口があった。確かに業界の人がたくさんいて
中で何やら撮影をやっている。




ガラス窓からちょっと中を覗くと、一面金色のタイル貼りの壁に大きな花模様のモザイク画が見えた。


あぁ、残念だけどまた今度来よう。。
あとから友人が言っていたが、ドラマ「名建築で昼食を」横浜編の撮影だったようだ。
番組はあとからPC上で見た。
素敵な建物がじっくり映るのはうれしいけど、個人的には、ドラマ仕立てじゃない方がいいかなぁ・・・(苦笑)
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かどや(旧広野家住宅)のタイル

2021-02-02 23:43:19 | 建物・まちなみ
2019年1月の伊勢・鳥羽の続き。



大王崎から鳥羽のまちなかへ戻ってきた。「鳥羽なかまち」と呼ばれる商店街の中ほどに建つ、
「鳥羽大庄屋かどや」。今回の旅の2大目的は二見浦とここだった。


角屋と呼ばれた広野家は江戸時代には大庄屋を務めた家で、戦後まで薬舗を営んでいた。
旧鳥羽街道がクランク状に曲がっている、文字通り角に建つこの建物は、1825(文政8)年に建てられ、
1884(明治17)年までに増改築された。2004(平成16)年に鳥羽市に寄贈されたのち、明治期の姿に
修理復元され、一般公開されている。主屋、内蔵、土蔵が登録有形文化財となっている。


入口付近には古い薬の看板がたくさん飾られていた。


タイルも展示してある。瀬戸の銅板転写本業タイルだ。う~ん、楽しみ楽しみ!


鳥羽随一の資産家であった広野家、豪華絢爛ではないが遊び心ある意匠があちこちにあってとても見どころが多い!
特にガラスはとても豊富なデザインが一堂に会す。・・・なので次回にまとめることにして、今回はそれ以外を。
お庭に面した座敷は主人の間。落ち着いた風情で、書院の欄間など繊細な意匠が見られる。


廊下のガラス戸の上にぽつぽつ穴が空いているのは虫食いではなく(笑)北斗七星をかたどった意匠だ。天井は網代。


この釘隠しは手裏剣みたいだな!?


赤い壁、曲がった木の落とし掛け、古い扇などの絵を集めて仕立てた襖など、数寄屋風の粋なインテリア。


欄間のデザインは海辺らしく二枚貝や巻貝がモチーフになっている。


こちらは千鳥。


かわいい真向兎の釘隠し。


押し入れの内張りに使われた明治時代の新聞。広告からも当時の世相が伝わる。


箱階段もあった。今はふさがれていたが。。。


古写真がとても興味深い。今ではちょっと想像がつきにくいが、昔はなんとこの建物の東側はすぐ海だったようだ。
船を横付けして商品などを蔵へ直接運び込むことができた。敷地の東側を走る近鉄線は、1929(昭和4)年に
開通。現在の海岸線はさらに国道167号線の向こう側となっている。


そして・・・こちらが目当ての本業タイル貼りの流し!!うひゃ~~素敵!!
ここは江戸時代に建てられた棟に当たるが、流しは明治中期以降に作られたものだろう。
元々は土間だったような雰囲気だ。


流し本体は人研ぎで造られており、その表面に本業タイルが貼られているのだが、驚くべきは、人研ぎ部分との
境界のなめらかさ!平らな部分がツライチになっているのは当然なのだが、この角の部分を見て!!


柔らかく丸みを帯びた人研ぎの曲面にあわせてタイルもきれいにカットし、段差ができないように仕上げてあるのだ。


硬いタイルのエッジがどこにも出ないように。また隙間ができるとそこから剥がれたり割れたりするので、
隙間ができないようぴったり密着させてある。なんと丁寧な仕事だろう。あぁ静かに感動・・・




入口に展示してあったタイルの説明書きにはお風呂場にも使われていたとあったが、お風呂はもうつぶしてしまった
ようだ。そして、もう1ヶ所タイルがあると係の方が案内してくれたのは、現在は倉庫になっている昔のトイレ。
見れば壁に2色刷りの銅版転写の本業タイルが貼られていた!


この建物を公開するにあたり実際に使用できるトイレとしてリニューアル工事をし便器も入れ替えたのだが、
問題があり使えないまま倉庫になっているとか。


奥の部屋に数台のオルガンが置いてあった。広野家で所蔵していたものに加え、寄贈されたものも。




松阪のメーカー、長尾風琴製造所で明治30年代に製造された長尾オルガンは、日本に3台しか現存しない
大変貴重なもの。2000(平成12)年に、広野家の蔵から「発掘」されたそうだ。募金で修復費用を集め、
オルガン修復家の手によってよみがえった長尾オルガンは、年に何回か演奏されるのだとか。




鳥羽・長尾オルガン協会、会員募集中。興味ある方はどうぞ。


続く
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二見浦の木造旅館街

2021-01-29 23:26:11 | 建物・まちなみ
2020年1月の伊勢・鳥羽の続き。

この通り沿いには賓日館や麻野館の他にも風情のある2階建てや3階建ての木造旅館がずらりと建ち並んでいる。
道路に面した棟はほとんどが入母屋造りの妻入りで、上を見上げると連続ガラス窓に欄干が回っている。
中にはしもたやになっているところもあるが、バブル期にも建て替えられることなく、また旅館を廃業しても
建物が残っているのは貴重だ。

こちらは、いろは館。麻野館の別館という位置づけのようだ。こちらも56畳の折り上げ格天井の大広間を持ち、
団体客メインに受け入れているらしい。




麻野館の隣にある、松坂屋吸霞園。


ここはほんの一部の和館を残して建て替えてしまったようだな。。。昭和4~50年代ぐらいだろうか。


残った部分を見ると、やはり他と同様入母屋妻入りの建物だったのに、惜しいなぁ。。。
宿のサイトを見ると、古い和室も一部あるみたいで、麻野館と同じような意匠も見える。


さてこちらは、旅館街の入口あたりに立地する朝日館。


建物の表側が町家のように直接道路に接する形の旅館が多い中、賓日館と同じように塀に囲まれた庭つきの邸宅風だ。
格式高いことが見て取れる。


宿のサイトによると創業300年以上、昭和天皇や中国のラストエンペラー溥儀も泊まられたというから
賓日館にも劣らないVIP宿じゃないの!江戸時代の宿帳の写真には、徳川、前田、松平などの文字が・・・


締め切られた入口の扉の格子の間から覗くと、短いアプローチの先に式台付きの玄関があった。
この棟は清風荘という名がついており、「雲井の間」は昭和天皇が宿泊された貴賓室。


内部の意匠はやはりすごいな!!
そして料金ももちろん手が届かないが(汗)、せっかくならこの部屋に泊まってみたいなぁ・・・いつか。


朝日館のクールなガレージも健在。


カッコイイ昭和のビルディングは、名前不明。やっているのかもわからない。。。




こちらは、「見濱屋」という旅館だったようだが、今はカーテンが閉ざされて静まり返っていた。
早くに廃業してしまったのだろうか、結構古い形態を残していそうなのにな。。。




その隣の3階建の建物も、人の気配が感じられなかった。


錦波軒というお土産物屋。


上の写真の建物とよく似ているがまた別のお土産物屋。
このあたりは元は旅館だったのかと想像するが、どうだろうか。


ショーケースの中には美しい貝殻がたくさん並べられていた。


うーん、安い?高い?売れているのかな?


まちのどこだかに貼ってあった二見浦の案内リーフレットに「元治元年(一八六四)の旅館茶屋の位置図」が
載っていたが、何度見ても位置関係が理解できない・・・(汗)


続く
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麻野館に泊まる

2021-01-27 23:36:34 | 建物・まちなみ
2020年1月の伊勢・鳥羽の続き。

さて今宵の宿は、海沿いの旅館街の中の1軒、麻野館。1893(明治26)年創業の老舗旅館だ。
以前二見浦をうろついた時も、こんな宿に泊まりたいなぁと思って見ていたのだが、10年の時を超えて実現(笑)。
実際のところ比較的リーズナブルなのだ。


左側のむくりのついた破風の玄関は現在は使われておらず、その前が業務用の車の置き場になっていたのは
残念だが(苦笑)、老舗らしい風格ある佇まいに気分が上がる~~


あらかじめ指定していた「寿」の間に通される。おぉ~~、よいねぇ~~!!


海に面したいちばんいい部屋。窓の外には青い海が!!


この部屋はその名の通り、おめでたい意匠がたくさんあるのだが、いちばんの見どころはこれ!
次の間との境の2枚の欄間に、七福神の顔が透かし彫りされているのだ!




そして床の間の袖壁には、この部屋の名になっている「寿」の文字が、透かしで入っている。面白い!
どうやって作ったのだろう。土壁を糸のこで切り抜いたのかなぁ!?こんなきれいに切り抜けるのかな!?


アルファベットの「SU」の文字が見える。「寿」の音が文字の中に組み込まれているなんて、粋だなぁ!


袖壁の裏側は棚になっている。垂れ壁の小口には曲げた竹をつかって美しく納めてある。


書院の欄間には、扇型に水車(観覧車ではないよな笑)、波に千鳥、太鼓橋に松の木。おめでたい雰囲気の
モチーフが盛りだくさん!


他の部屋も皆違った意匠があるらしいので、空いている部屋を案内して頂いた。
こちらは「菊」の間。欄間には菊の垣が。


床柱に四方竹、花灯窓。


「桐」の間の欄間は桐の花が大胆にあしらわれている。


こちらは、「鶴」の間。松に鶴のダイナミックな構図。


おや、この床の間の壁を扇型に抜いた意匠、見たことあるぞ・・・デジャブかな?いや、賓日館で見たのと
同じじゃない?翁の間にこういうのがあったな。


実はこの麻野館は賓日館と同じ建築家(棟梁?)が手がけたのだとか。賓日館ほどのきらびやかさはないが
共通する意匠はこのほかにも見かけた。


こちらは「宝」の間。




この障子は賓日館のさくらの間で見たものに似ているし、その下の透かし彫りも大広間にあったのと雰囲気が似ている。


窓を開けると階段ホール。


各部屋違ったデザインの下地窓が廊下を飾る。




細竹を組み合わせた格子。うまくできているなぁ。


おや、ここは何?


ちらっと覗いたら大広間だった。賓日館の120畳の大広間には及ばないが、80畳敷きの折り上げ格天井の
大広間は十分豪華!


続く。
コメント (2)
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賓日館を見学 その4

2021-01-26 22:37:12 | 建物・まちなみ
2020年1月の伊勢・鳥羽の続き。

なかなか終わらない賓日館だが(苦笑)、今回で最後。これでもかなり端折っている。それほど隅々まで
こだわりを尽くした建物なのは、皇族がお泊りになる場所だったから当然なのだろう。
そしてこちらが大正天皇や皇族の方々が使用された部屋、「御殿の間」である。


ちょうどことぶきの間の階上で、お庭に面した角部屋だ。
賓日館の公式サイトに載っている写真を見ると、この棟は明治20年創建時から2階建てで建てられていた
ようであり、今も当初の状態を残している。


1階のことぶきの間は広間だったが、客室としてはやはりちょっと広すぎるので、2室に仕切られている。
この奥の部屋には立入れず、次の間から覗き込むだけしかできないのだが、さすがにすごい!!


まず目を惹かれるのは二重格天井。格縁は輪島塗(漆)で、両脇に細い材を伴った両子持ち格子になっており、
交差する部分には金色の十字形の金物があしらわれている。




ちょっと遠目で分かりにくいが、床框には螺鈿の花菱模様がちりばめられている。花菱は伊勢神宮の寺紋だという。


書院の欄間の透かし彫りもやはり民間の(?)建物では見られない雅な雰囲気。


この模様も花菱のアレンジか。


サンルームのような縁側。


ここに座ればお庭はもちろん二見浦の海岸まで眺められる。眺望もスペシャル!
今は木が育って見えにくいが。。。


花菱があちこちに。




壁紙や襖紙、引き手・・・すべてが格調高い。


御殿の間の隣にある千鳥の間は、お付きの人が泊まった部屋だとか。


その名の通り、かわいい千鳥モチーフの装飾がいっぱい!


欄間に描かれた千鳥の群れは、ひよこみたいに丸々、ふわふわした感じがとってもかわいいな!
これも中村左州の作品だという。






大広間棟と本館の間に、締め切られた入口があった。増改築前に使われていたのだろうか。




庭の水琴窟。


あぁ重要文化財の名にふさわしいこの素晴らしい建物を将来にわたって残すために、火事だけは気をつけてほしいな!

続く
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賓日館を見学 その3

2021-01-25 21:37:54 | 建物・まちなみ
2020年1月の伊勢・鳥羽の続き。



2階の中庭に面した明るい廊下を歩いていくと、廊下に何か出っ張ている。何だこれは!?


縁には曲がった木が使われ、見付部分には割竹が貼られている。そして足元はここだけ寄せ木になっている。
飾り台?にしても何でこんなところに?じゃまじゃない??


・・・ははぁ、これは元は手洗いだな。よく見ると壁に穴が空いている。
その横はトイレだった。ここは今も使える現役のトイレだが、古い意匠が残されている。


廊下の窓から見えた鬼瓦には、鳩?が2羽。


さっき見た客室の真上に、織上げ格天井が圧巻の120畳敷の大広間がある。
廊下の天井は半分が傾斜がついている。平らな部分の天井板は屋久杉かな?1枚がとても大きく分厚そうだ。


この大広間は1930(昭和5)年からの大改増築で増築された部分。
S字型になった折り上げ部の部材を「亀の尾」と言い、このような優美なスタイルが桃山時代に流行したので
「桃山式」というのだとか。しかし亀の尾ってそんなに曲がってないんじゃない?(笑)


中央に柱もないこの大空間に圧倒されるが、ディテールもまたすごい。
格縁には木曽檜が使われ、交差する部分には十字形の飾り金物が。格間の花模様は、型押しした紙に彩色し
金箔を施したものだそうで、シャンデリアの灯りに照らされ艶めかしく光る。


こちらの舞台は床下に6つの甕が埋め込まれた本格的な能舞台の仕様で、音響を考慮して床には檜、天井には
桐が使われている。背景の老松の絵は、ここ二見町に生まれ育った画家、中村左州の1935(昭和10)年の
作品で、畳に座って見ると枝が浮き出して見えるのだとか。


舞台とその脇の鴨居の上にある、花形の枠の中に鳳凰や菊の花が描かれた装飾も、気品を感じさせる。


舞台の反対側は床の間になっており、またとても細かい細工があちこちに。


床脇の天袋の繊細な飾り金物。


床板はなんか変わった木目の入った材が使われている。


その脇の障子の下の透かし彫り。


左側の書院もまたすごい。模様は見たことのないデザインのオンパレード。




床の間の壁には丸窓が空いているのだが、その格子がなんとなく中国風なイメージで。


菊の葉をデザインした引き手。


あぁ細部まで抜かりなく装飾で埋め尽くされ、すごいとしか言いようがない。これは民間の旅館となってから
作られたわけだが、皇族や各界の要人を迎える場所だからお金に糸目をつけずに作られたのだろうな。
当時、お金を払えば一般人でもここに泊まれたのだろうか!?


続く
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賓日館を見学 その2

2021-01-24 23:04:06 | 建物・まちなみ
2020年1月の伊勢・鳥羽の続き。

賓日館は中庭を囲んでぐるりと廊下が回っている。廊下を奥へ進んでみよう。


「大広間棟」の1階に客室が6室、配されている。
この手前の廊下は少し広くなっており、2方向からの廊下が合流するホールのような空間だ。


いろんな引き手を集めた面白い額が飾られていた。これ全部館内にあるのかな!?


うわ、奥側の廊下に、太鼓橋のような欄干がついている。面白いなぁ!


擬宝珠は木を彫り出したもので、さすが良い材を使っているのだろう、割れもせず滑らかで美しい。
当初は床も太鼓橋のように盛り上がっていたのだとか。




欄干のある廊下を進んだ西側のエリアは資料室や展示コーナー。そちらは確か写真撮影NGだったのだな、
写真が一枚もないのであまり覚えていないが(汗)、二見浦の歴史資料や賓日館の昔の調度品、二見町が生んだ
日本画家、中村左州の作品などが展示されている。


客室の方を見に行こう。各室は形も広さも全部異なっていて、さくら・うめ・まつ・もみじ・うぐいす・つる、
というそれぞれの部屋名にちなんだモチーフや材を使うなど趣向が凝らされている。
さくらの間では、床柱に桜の皮つき丸太、床の間の天井には桜の皮で編んだ網代が使われるなど。




材を曲げて作られた面白い格子。


うめの間は、書院が2畳の独立した部屋のようになっているのが面白い。


室境の欄間に梅の透かし彫り、書院の欄間にも梅の木の透かし彫りが。




まつの間でも書院欄間に松の木の透かし彫り、廊下の突き当りの杉戸絵も松が描かれている。
床柱は松材だったかどうかうろ覚えだが、松の絵の掛け軸も飾られていた。




美しい襖の引き手。


さて、エントランスホールへ戻り、階段を上がろう。踊り場もさっきの階段下と同じ寄木の床だ。




壁には洗濯板のようなこんなぎざぎざな腰板が張られている。


階段の中央に取り付けられた照明。


階段の支柱に取り付けられた金物。


階段を上り切ると八角形の窓が目に飛び込んでくる。枠は漆塗りのようだな。


翁の間と名付けられた2階の中広間は大きな格間の格天井。床柱は絞りの杉材、欄間の格子も繊細で上質な
空間だが、装飾は少なく比較的あっさりした印象。床の間の壁が扇型にくり抜かれているのが、唯一目を引いた装飾だ。


この翁の間は元は大広間だったのだとか。
明治末期の増改築で「玄関棟と西棟を2階建に」したと書かれており、そのときに作られたと思われる。
昭和の増改築でもっと大きな広間が作られたので中広間に格下げ(?)となったのだろう。

この扇の間と6つの客室は貸し部屋として使えるらしい。

続く
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賓日館を見学 その1

2021-01-23 21:12:12 | 建物・まちなみ
2020年1月の伊勢・鳥羽の続き。

一身田から二見浦まで一気に移動してきた。
二見浦は伊勢神宮のおひざ元で、古くからお伊勢参りの人々がここでみそぎ(浜参宮)をする習わしがあり、
天皇や皇族も訪れる重要な場所であった。現代でも式年遷宮の行事の参加者は伊勢神宮に入る前に二見興玉神社で
お祓いを受けるのだとか。
1882(明治15)年には日本第一号の国指定海水浴場が開設されたことで、名勝地として名を馳せ、
夫婦岩のある立石崎へ至る道沿いには風格ある木造旅館がずらりと建ち並んだ。
1911(明治44)年に国鉄参宮線が開通。大正~昭和初期には修学旅行や観光客が増え、関西からの
海水浴や観光旅行の定番となったが、近年では旅行も多様化し、ご多分に漏れず宿泊客は減少しているようだ。

さて、この二見浦にある重要文化財の建物、賓日館を見学するとしよう。


賓日館は、伊勢神宮へ参拝する賓客の休憩・宿泊施設として、1887(明治20)年に、伊勢神宮の崇敬団体、
神苑会により建てられた。明治天皇の母親である英照皇太后の宿泊が建設前から決まっていたらしく、なんと
着工から2か月余りで完成したという。まぁ最初は今ほどの規模の建物ではなかったようだ。
以降、大正天皇が幼少時に避暑や療養で滞在されたのをはじめ、多くの皇族や各界要人が宿泊した。


1911(明治44)年、隣接する旅館、二見館に払い下げられ、賓日館は二見館の別館となった。
その後建物は明治末期~大正初期と昭和初期の2回、大規模な増改築が行われて今の姿になったという。


玄関も、昭和初期の大増改築で唐破風になったというので、元の姿はずいぶん印象も違っていただろう。
上がり框は檜、式台は欅、天井は屋久杉が使われている。




1999(平成11)年に二見館が休業、2003(平成15)年に二見町に寄贈され、資料館として一般公開
される。そのあと2010(平成20)年に重要文化財に指定。価値が認識されるのは意外と遅かったんだな・・・
こんな建物が310円で誰でも見学できるのは本当にありがたいことだ。


唐破風の玄関の脇にある見学用の入口から中へ入る。
ここはあの唐破風の玄関の内側。ガラス障子にはひし形の模様が入っている。


中庭を見通せるエントランスホール。


階段の親柱にカエルの彫刻が。この「二見蛙」は一本の木から彫り出されており、彫刻家板倉白龍の手による。




「日本赤十字社三重支部」とガラスに金泥で書かれた、大きな古時計。「ANSONIA&CO」という
アメリカのメーカー製のようだ。


このエントランスホールは畳敷きだが、階段の上り口だけ寄木の床になっていた。すごく細かい細工!!


かわいい千鳥の模様が入った照明器具。千鳥は二見館時代のマークだったのだとか。


透かしの入った扇モチーフのこれは、欄間だろう。どこの部屋にあったのかな!?


中央にぽっかりと空いた中庭のおかげで建物の中は明るい。




こちらは庭園に面した1階の角部屋、寿の間。ここはかなり広く、客室ではなく食事などをする広間なのだろう。
障子を開け放せばお庭が見渡せる館内の一等地だ。


書院の障子の格子に引っ掛かっているように見えるのは、コウモリ。縁起のいいモチーフだ。


天井の竿縁が床の間に対して垂直になっている「床挿し天井」は一般的に不吉とされるようだが、江戸中期
以前には普通にあった古い形式らしい。




続く
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週末山形旅 旧済生館本館

2021-01-19 23:24:44 | 建物・まちなみ
2019年の山形旅の続き。

最後にやって来たこの建物は、1878(明治11)年に県立病院として建てられた、済生館本館。
見ての通り擬洋風建築だが、こんな風変りな建物はなかなかお目にかかれないだろう。
こちらも重要文化財に指定され、現在は山形市郷土館として公開されている。あぁ重要文化財の多いこと!


裏手の方にある入口から建物内へ入ると、反復された木製アーチ、色ガラスのはまったファンライトなど、
明治初期の建築らしい意匠におお~~っと感嘆するが、それどころではなかった(笑)。


正面から見ただけでもぎょっとする異様だが、なんとこの建物は中央に中庭のあるドーナツ型だったのだ!
ええ~~っ、びっくり。まるで円形校舎、いや客家円楼じゃないか!


正確には円形でなく十四角形らしい。ドーナツの穴の直径は12~3mぐらいだろうか。外から見たイメージ
よりも広いな!各病室は中庭を囲むように並んでいて、内側にぐるっと吹きさらしの廊下がめぐっている。
廊下に出ればどこからでもお互いが見える。
全体が平屋建てだが正面の一部だけが4階建て(?)の塔屋となっている。塔屋の下が玄関だった。


山形県のサイトによると、この風変りな建物は、棟梁原口祐之のもと山形の宮大工と300人の職人たちの
手によって、当初7か月で造り上げられたのだとか。当時横浜にあったイギリス海軍病院を参考にしたと
言われているそうだが、元となった海軍病院はどんなのだったのか。おそらくまるっきり違うだろう(笑)
洋風のおさまりなど苦労しただろうが、モノマネだけでなくいろいろと日本人ならではの工夫を付け加え
日本人の美的感覚をちりばめて作ったに違いなく、そういうのが明治の擬洋風の面白いところ。


階段は奥行きのある正面の塔屋部分に配置されており、優雅な手すりがついているが、ちょっと妙な感じ。。。


途中までまっすぐ上ったところで長い踊り場があって、しばらくしてまた階段が始まるが、その先は天井を
切り欠いて通し、塔屋の壁沿いにぐねっと曲げて2階へつなげている。なんか無理やり感が半端ない(笑)。
構造上天井がここしか抜けなかったのだろうか、それなら階段の始まりをもう少し奥からにすれば
よかったのでは・・・とか思ってしまうが、踊り場から来訪者を確認するなどの目的があったのかも・・・?


ファンライトの色ガラスがカラフル!しかしこれは色が淡く明治のものではなさそうな感じだな。


玄関の上にあたる2階の部屋。


ここから中庭がきれいに見渡せた。美しい瓦屋根のおさまり。


塔屋へ上る螺旋階段。


唐草の彫刻がどことなく寺院風だ。


3階以上は立入禁止だったので見れなかったが、展示されていた写真によると、こんな色ガラスのはまった
星形の窓があるらしい!


実はこの建物は、復元建物である。
済生館の現役の最晩年にあたる昭和30年代後半には建物は相当老朽化しており、解体することになったが、
現在地である霞城公園内に復原保存することが決まった。1967(昭和42)年より、解体しながら調査を
行い、現場主任の兼子元吉氏が復元設計図を作り上げたが、長年の間に原形が損なわれており相当苦労したとか。
復元建物とは言え装飾まで細かく再現されていて明治の擬洋風建築の頑張った感までリアルに伝わってくる。
昭和の棟梁、職人、あっぱれ!

→山形県のサイト こちら

その解体復元工事の資料展示もあったが、帰りの時間が迫っていたため、ダッシュでの見学となってしまい
じっくり見れなかったのはちょっと残念だった。。

さて、まだまだ日は高いが友人と別れバスで仙台へ。空港へ移動する前に仙台駅で牛タンを食べたかったが
そんな時間はなかったな・・・(苦笑)

おわり。
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週末山形旅 旧山形師範学校

2021-01-18 23:49:28 | 建物・まちなみ
2019年の山形旅の続き。

山形市内へ戻り、旧山形師範学校にやってきた。
うわぁ~、なんとおしゃれな学校建築!弓型のペディメントと時計塔が目を引く。


ルネッサンス様式の木造桟瓦葺き2階建の建物。
山形県のサイトを見ると、この本館の建物は1901(明治34)年に「新築移転された」と書かれているが、
学校の移転に伴い現在地に新築されたということだと思われる。
晩年は県立山形北高等学校の管理となり、1971(昭和46)年に現存する部分以外が解体された。
その後重要文化財に指定され、現在は山形県立博物館教育資料館として一般公開されている。


門を入ってすぐ左手にある小屋から見て行こう。これは守衛室だったのだろうな。とってもかわいい~~
小さい建物だけに装飾の比率が大きく頭でっかちな感じがするが(笑)。


分厚い軒板飾り。木製の持ち送りも骨太だな!


その背後にあるのは講堂。白ペンキ塗りの下見板、軒飾り、持ち送りなど守衛室とお揃いだ。
この建物は横から見るとそれほど目を引くようなものはないが、妻面に特徴がある。




入口付近には室内と同レベルのテラスが作られていて、軒飾りのついた屋根が差し掛けられた、いかにも
明治建築な外観。


華やかなハーフティンバーの妻壁!一部の壁がせり出しているような意匠は、何と呼ぶのか。
そしてそのせり出した壁の見付け部分には、レリーフ状の唐草模様が入っているのだ。こんなの見たことないなぁ。




さて、こちらが本館。他の建物は入れないがここは博物館なので入れる。




エントランスホールの天井は中央部に八角形の凹みがあり、シャンデリアがつく。格天井ではなくフラットだが
天井板は細長い板を斜めに張ってある。足元は石敷き。


受付を済ませたら順番に見ていこう。ただしあんまりゆっくり時間がないので建物メインで。。
廊下には紅花が生けられていた。




教育に関する資料のほか建物の修復に関する資料もあり、取り外されたオリジナル部材なども展示されていた。


もともとの施設全体の図面を見ると、さっき見た講堂のほかに体操場、各専門教室、寄宿舎や付属小学校も
一体となった広大な施設で、まるで大学のキャンパスか、鉱山村のようだ。すごい規模だな!!




2階にも上がる。食事会が始まりそうなおしゃれな教室。


部屋の床板も廊下の床板も斜め張りだ。



あぁ、ここは迎賓館でもないしお抱え外国人向けに手当された住宅でもないのだ。
これほどの建物を造るとは、いかに学校教育に力を入れていたかということの現れである。ああすごい。

近くで見かけた洋館。


古そうに見えるが詳細は不明。


続く
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週末山形旅 長谷川合名社

2021-01-17 22:27:50 | 建物・まちなみ
2019年の山形旅の続き。

高畠駅舎から山形市内へ戻る途中に、一か所寄り道。国道に平行する旧道沿いの集落に入ると、正面にペンキ塗りの
洋館が見えてきた。


おぉ、これは工場か。大きな門の中には、事務所らしき小さな洋館がぽつんと建っていた。
くすんだピンク色にペイントされた下見板張り。腰から下は板が縦に張られていたりして洒落た感じ。


門のすぐ脇には守衛室だったらしき小屋があった。その後ろの敷地際に建っている2階建ては倉庫かな。
アスファルト敷の通路が敷地奥へと伸びている。かつては何棟もの建物が建っていたのだろうが、現在これ以外に
建物はなく、背後の山や国道沿いのセブンイレブンが見通せた。


門の外から写真を撮っていたら、たまたまここのご主人が出て来られ、門を入って建物に近づくことをご了承頂いた。


入口ドアのガラスに「長谷川合名社」と書かれている。中をのぞくと木造のカウンターが見えた。現在も事務所
として現役のようだ。
ネット検索すると今もこの場所で「合名会社長谷川製糸工場」という名で事業をされていることがわかる。


もともと1882(明治15)年に創業、民営の製糸工場として大規模に生糸生産を行い、この高畠工場から
1926(大正15)年には上山工場を分社開業したほど勢いがあったようだ。
この小さな洋館は、長谷川製糸工場の出納を管理するために工場敷地内に設置された、旧東銀行高畠支店の建物で、
昭和初期頃に建てられたと言われている。小さな建物に事務所、応接室、物置、宿直室がコンパクトに納められた。
東銀行は両羽銀行に吸収され、現在は山形銀行となった。




この裏手には池というか水槽があった。絹糸の生産過程で洗ったりするのに使ったのだろうか。
この水槽の枠は石で組まれており、おそらく高畠石だろう。


このような水槽がもっとたくさんあったのか、又は建っていた工場建築の基礎だったのか、同じ石の角材が
草むらの中に積み上げられていた。


工場の敷地は左手に広がっており、その奥に大きな邸宅が建っていた。
外部から邸宅に入る門は別に作られており、まるでお城の堀のような水路の内側に、この立派な茅葺の門が建っている。


内側に控え柱のある薬医門。本当にお城みたいだな!


この門の向かいにある小さな建物は新しいものかな?奥様がやっているカフェというので、建物見学のあと
立ち寄り休憩を。ハーブが一面に植えられたイングリッシュガーデンを眺めながら優雅なティータイムを楽しんだ。




ガトーショコラとプリンのセット・・・だったかな。おいしかった!






帰り道、のどかな田園風景の中に突如高層マンションが現れた。何じゃこりゃ!?
結構有名な物件らしい(笑)。すごいな!


続く
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週末山形旅 旧高畠駅舎

2021-01-16 23:15:50 | 建物・まちなみ
2019年の山形旅の続き。

瓜割石庭公園からほど近いところに、高畠石を使った建築がある。


旧高畠駅舎。
高畠鉄道は、1922(大正11)年に国鉄奥羽南線糠ノ目駅(当時)を起点として開通した。高畠駅は当初
終点だったが2年後に二井宿まで延伸された。人と貨物を運び地域の産業文化の発展に寄与してきた高畠鉄道は、
戦時中の合併により山形交通高畠線となり、戦後モータリゼーションの波を受けて1974(昭和49)年に
全線廃止、52年間の営業に幕を下ろした。


矩形の建物だが、柱型が出っ張っている上外壁の石は江戸切り加工されているので、立体的で陰影のある表情に
なっている。待合室の入口のひさしと、右側のアーチもバランスよく、とてもカッコイイ駅舎だ。


右側のアーチは事務所入口だったのだろう。「山形交通株式会社高畠営業所」のプレートが今も残っていた。




裏から見た高畠駅舎。


窓からのぞいてみるとガランとしていたが、出札窓口などもそのままの状態だった。「凸」型のらんまがおしゃれ!
窓の格子も美しいなぁ。


こちらは駅務室側だな。出札窓口の部分の床が一段高くなっているのは椅子を使ったからかな。右は荷物の窓口だろう。


裏には青々した緑地が広がっていた。ここはかつて何本もの線路が伸びたヤードだったのだ。
遠くに見える小さな建物、あれも高畠石でできているようだな。見に行ってみよう。


無数に咲いた小さな花が風に揺れ、まるで夢の中のお花畑。ここは現実の世界なのか・・・?


これは変電所だったらしい。駅舎と同じくとても丁寧なつくりになっている。
このほかもうひと回り小さい駅倉庫の建物があり、そちらはトイレになっていた。


これはヤードを渡る地下道跡なのかな?


そしてホーム跡に車両も保存されていた。ツートンがかわいい客車車両。


そして黒い凸型の電気機関車と、貨車。ホームや階段も高畠石積み


これらの車両が広いヤードで生き生きと動き回っていた風景・・・あぁ、見たかったなぁ。


高畠線の現役時代の魅力的な写真満載のサイトがあった。→こちら



駅前にあったこのガレージも高畠石でできているようだな。お祭りの準備だろうか、人々が何やら熱心に作業していた。


これは昭和前期に建てられた自動車修繕庫で、RC造だが、駅舎に合わせて高畠石を外側に貼ったものなのだとか。


今でも列車が来そうな高畠駅舎。登録有形文化財にもなり、地域のシンボルとして今も大きな存在感を放っている。


駅前のメインストリートには看板建築っぽい建物やちょっと目を引く商店建築などが立ち並んでいて、
駅の乗降客で賑やかだった時代をしのばせる。


続く
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