1969―新宿西口地下広場 | |
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1969年、私は中学生でした。
翌年1970年は大阪万博が開催された年。
戦後のベビーブーム後の世代で、人口増加のピークは過ぎていましたが
通っていた中学校も近隣校もすべてマンモス校ばかり
どの学校も一学年が10数クラスありました。
卒業アルバムを見てみると
中3卒業の年、各クラス44人くらいで14組まで
高校は16組までありました。
あの頃の同級生たちは、どうしているのでしょう。
余談になりますが、親しくさせていただいている英語先生仲間の中には
この年に生まれたという方がお二人いらっしゃり
それも、おふたり同じ誕生日
そしてその中のお一人のご主人も同日同年の誕生日とのこと。
その頃、新宿西口広場でベトナム戦争反対を歌い、語る人々が大勢集まったとのこと。
その群衆の中でフォークソングを歌っていたのが、「フォークゲリラ」と呼ばれた若者たち。
その中心にいらしたのが「新宿ローザ」こと、大木晴子さん
その頃、西の大阪では、元HT(Home teacher)仲間のCandyちゃんも歌い手としてフォークソングを歌っていた。
(Candyちゃんからのメッセ)
①「えっとー、あの当時、鴨川の三条で「(べ平連って付いていたかなぁ)橋の下大学」っていうのがあって、そこには大学教授や議論好きの人たちや私たちみたいな歌うたいたちが集まっていたの。
私はただの歌うたいだったけど、デモにも一度参加した覚えがあるな~。」
②「ブログに乗せてもらっていて大丈夫ですよ。
チラシの写真って、セーラー服の女の子たちのことですよね。
ちがいます、ちがいますよ。
東京のどこかでの写真じゃないかな?
制服を着て歌ったことはないの。みんな私服だったのよ。
私たちのあのチラシのコンサートはホールで確か2日間やったんだけど、何年になってる?カコちゃん。
私も調べればわかるんだけどね。あはは!
それからニックネームね。
いや、なかったわ。 広恵ちゃんって普通に呼ばれてたよ。
男の子からは苗字でね。
ところが、いま、あのguys はひろえさんって呼ぶな~。なぜか。
あっそうか、苗字で呼んだら変やもんね。
変わってるしね。中村やしね!(笑)」
お二人の心の広さや温かさは半端ない!
私に対してのお声かけに関しては、感謝の気持ちでいっぱいです。
特に、大木さんがブログトップに下記のように記されていらっしゃる言葉には平和への強いメッセージを感じ、
自分自身の行動の支えになっています。
「平和を守る戦いは政治活動ではありません。
人間や全てのものの生存を守る、最も基本的な、権利を守る戦いです。」
(明日も晴れ!大木晴子のページ・トップから抜粋)
私の記憶では、その頃の沖縄にも、べ平連の方々だったのか、新宿の広場のように集い歌い、語りあっているグループをよく見かけました。
しかし、私の両親のような戦争犠牲者の遺族や大人たちの多くは、立場上、運動という形ではなく、物言わぬ平和への祈りだけだったのかもしれません。
その影響なのか、姉たちはノンポリ、しかし姉たちの学生時代の友人には大木さんのように活動なさった方も少なくなかったようです。
果たして、今の私に何ができるのか、大木さんを見習い、平和への願いは心の中で思っているだけではダメ、自分のできる範囲で声に出し、行動に移したいと思う今日この頃です。ブログも英語学習もそのためのツールと言っても差支えないでしょうね。
中川五郎「受験生ブルース」