そういう訳で、『ファウンテン 永遠につづく愛』感想を書きます。
公開も終了したことなので、ネタバレ有りで。これから公開の地域にお住まいの方はご注意下さい。
と言っても、実は昨年10月、東京国際映画祭でこの映画が上映された時に、一度感想は上げているのです。
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書きたかったことはその時に殆ど書きましたが、当時とは違う考えに到った個所もあります。その検証は後ほど。
主人公(ヒュー・ジャックマン)が三つの異なる時空を旅する物語──と言われるこの映画、確かに好みははっきり分かれそうな、観る人を選ぶ作品だと思います。
内容はひとことでは説明しにくいし、万人にお奨めできるものでもありません。
あまり他の方のレビューやブログ等は拝見していないのですが、幾つかをざっと読んだ限りでは、大方の反応やご意見は、
「感動した」「何だこりゃ?怒!」「映画自体はともかく、ヒューとレイチェルは素晴らしい!」
くらいに三分される感じでしょうか。映像の美しさや音楽の良さに言及しているレビューもありました。
また、ご覧になった方の人生経験によって、賛否が左右される作品であるかも知れません。たとえば、親しい人や愛する人を看取ったり、見送ったりした経験の有無による反応の違い、というものはあるようです。
つまりこの映画は、監督にとっても観る側にとっても、極めて私的な作品だと言えるのではないでしょうか。
極度にネガティブな評は、作品の中に一片の「わたし」も見出せなかった人による殆ど生理的な拒否反応であるとも思えます。
ただ、この映画に限ったことではありませんが、『プレステージ』の時にも感じたことを一言述べさせて頂けるなら、
「自分には理解できない=駄作」
は、単なる思考停止でしかないと思いますよ。
という訳で、前回の感想を若干の加筆、修正のもと、以下にコピーしました。
『そうは言っても、感想が「何だこりゃ?」でも無理ない映画ではあるとは思います。
未来人(?)トムのヨガもどき太極拳もどきなど寧ろ噴飯ものです。
この映画で語られる輪廻──と言うより転生の思想は、古代ギリシアはじめ各国の神話にも見られるもので、必ずしも「東洋的」という訳ではなく、従って、その辺りの描写は「難解」なのではなく、単に安直なのだと言ってしまってもいいでしょう。
クライマックスのとあるトンデモシーンに到っては失笑を抑えられませんでした。
その一方で、映画の中心となる「現代」パートの悲痛な愛と死の物語は胸に迫ります。
この映画を観て私が連想した既存作品を幾つか上げると──
・『火の鳥 未来篇』(手塚治虫)
・『惑星ソラリス』(レムの原作でもソダーバーグ版でもなく、あくまでもタルコフスキーの『ソラリス』)
・『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)また「永訣の朝」から様々な挽歌に到る、妹トシを悼む彼の詩。
ソラリスもまた、設定はSF、手法に於いて実はきっちり怪奇映画の文法を踏まえつつ、中心となるのは或る夫婦のラブストーリーでした。
他の二つも、心から愛する人(ヒトじゃない存在もあるけど)を失って、この地上のどこにもない「永遠」を求めてしまう人間の悲嘆を追究した作品たちです。
そう言う訳で、私見を述べるなら、『ファウンテン』はSFでもファンタジーでもなく、寧ろそういう世界に救いを見出さずにはいられない「人間」というものを描いたドラマであると思います。
その観点から見れば、「スペイン~マヤ編」はイジーの書いた物語(これは判り易い)、「未来編」は現在のドクター・トミー・クレオの妄想であるとも考えられます。
勿論、彼が例の新薬を自らに投与し、「不死人」となったという可能性も否定できないでしょう。その場合、彼の体の無数のタトゥーは、そのまま彼の「死ねなかった年月」を表し、それもまたつらいことには違いありませんが。
また或る時点の「ループ」ですが、実はあの最後に選択した方こそが「正しい歴史」だったのでしょうか?あり得べからざる「過去」も「未来」も、そこで閉じて、残ったのはただ、現在の彼の生のみ……?
主演のヒュー・ジャックマン、レイチェル・ワイズの演技は、共に素晴らしいものでした。それは、一歩間違えれば(既に半分くらい間違えている気も)それこそ大駄作となりかねない設定や構成のこの作品の根底となる部分をしっかりと支え、観る側に深い感動をもたらしてくれます。
特にヒューの演技は、愛する者の死に直面した人間の苦痛、悲嘆、そして狂気を余す所なく表現していました。そういう演技に於いて陥りがちなわざとらしさや大げさな所もなく、観る側にも痛みの感覚を起こさせるほどのリアリティを以て胸に迫ります。
まさに演技派ヒュー・ジャックマンの真骨頂を目の当たりにした思いでした。』
──というのが最初の感想ですが、これに二、三付け足したいことがあります。
まず、上記では、「未来編」を現在のトミーの妄想かも知れないと書きましたが、これは寧ろ、彼の「心象風景」であると思います。
観直して判ったのが、あの宇宙空間に「シバルバ」を求める彼の言動は、その時その時のトミーの心情を如実に反映しているということでした。遥か未来、遥か宇宙の彼方に「永遠」を求めずにいられないほど、トミーの心は狂おしく痛ましいものだったです。
映画の始まりが、マヤ→宇宙と続くので混乱しがちですが、中心はあくまでも現在の時点に於けるトミーであり、彼が「不死人」となった可能性について、今の私はかなり否定的です。
なぜならば、騎士トマスは「生命の木」を用いて地上に「永遠」を顕現させようと試み、失敗しているのです。
一方でトミーは、例の「ループ」を修正し「正しい答え」を選んだ時点で、ヒトの力で「永遠」を手に入れることを放棄したのだと思います。
それを踏まえた上で、「未来」のトム即ちトミーの「心」は、「永遠」とは死の彼方にしかないことを受け入れたと、私は解釈しました。
生きられる限り生きよ。そして怖れることなく死を受け入れよ。永遠はその彼方にある。
多くの人が選択して来た(せざるを得ない)命題を受け入れるまでに、人はどれほど苦しみ悩み、挑戦し、逃避し、遥かな過去や存在しない未来にまで想いを馳せ、思考を重ね続けなくてはならないのか。
この普遍的なテーマを表現するに当たって、あのような手法を取ったアロノフスキー監督は、確かにトンデモな人かも知れません。
しかしそこには、ジョバンニを銀河鉄道に乗せた宮沢賢治と、どこか通底するものがあるようにも思えるのです。
「ブルカニロ博士編」で得た「そこでばかりおまえはほんとうにカンパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」という「答え」すら、最終稿(と思われるもの)では捨ててしまった賢治の心情は、更に痛ましいものですが。