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なんつータイトル…
いえ、C.S.ルイスとJ.R.R.トールキンのそれぞれの女性に対する見方が、それぞれの作品にも反映されているんじゃないか、寧ろ、作品からその女性観を探ることも可能なのでは?と思ったので。
別にきちんとした考察でも研究でもなくて、本当にただ何となく思ったことを書いているだけです。
トールキンは、少年時代に下宿先(?)で出会った年上の女性と、彼女の親の反対などに遭いながらも、初恋を実らせて結婚。終生添い遂げました。
このあたりの事情は、そのままアラゴルンとアルウェンの物語に反映されているようです。
一方ルイスは、後に結婚するジョイ・デヴィッドマンも含めて、女性絡みで何かと物議をかもすことの多かった人です。
彼の描く女性像の中でも、『ナルニア』の白い魔女(ジェイディス)や「緑の貴婦人」などについて、かつてはステレオタイプの「悪女」に過ぎないという批判があったと思いますが、今の時代では、逆にあれはあれとして受け入れられているようです。
強くて怖くて悪くて、そして「児童文学」としてはどうかと思うくらい、セクシャルに男を支配する女。
もちろん「悪」の象徴としての登場ではありますが、反面その抗しがたい魅力も描かれていて、「あんた結局そういう女が好きなんじゃないの?」と言いたくなるくらいです。
トールキンの描く女性たちは、人間もエルフも、最も「怖い」とされるガラドリエル様でさえも、どこか悲しい感じがします。
大雑把に言えば、彼女たちはいつも「ここではない場所」を求めているように思えます。
特にファラミア大将と深く関わる二人の女性----母フィンドゥイラスにエオウィン、または『シルマリルの物語』のアレゼルなどは、「ここ」は私が自己実現できる場所ではないという思いに駆られ、自分に相応しい「どこか」を求めずにいられない女性たちでした。
『指輪』の映画を観た後で原作を読んだ人は、原作のエオウィンが映画より遥かに「キャリア志向」型であることに驚かれたかも知れません。
彼女は最終的にファラミアという理解者にして伴侶となるべき人を得た訳ですが、それ以前の彼女に対する「氷の花」という言葉などを見ると、まるで「ここではないどこか」を求めてしまうことが、彼女たちの不幸の源泉であると言っているかのようです。
反面、ホビット族の女性は、ロージィもロベリアばあさんも(当初「悪役」扱いでしたが)生き生きと描かれ、トールキンがどういう女性を、というより、どんな生き方を理想としていたか、わかる気もします。
どちらも「男の視点」であることに違いはありません。読む側(特に女性読者)がどちらに共感を覚えるかというのも、人それぞれだと思います。
私はと言えば、昔はトールキンのストイック?な筆致が好きでしたが、今は「女」に魅せられていることを隠さないルイスもかなり好きです。
「悪魔のようなたちの女じゃったがね。しかし、めっぽうきりょうよしでな、あなた、いやはや、すごい女でしたよ」
『魔術師のおい』のラストが、或る人物のこの台詞ってのもすごいことかも。