真夏の夜の夢20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
夏至なのでこの映画を。でも東京では、夏至の日はたいてい雨ですね……
クリスチャン・ベイル出演作ということで、カテゴリはこれですが、その他もなかなかの豪華キャスティングで、中でも特筆すべきはボトム役ケヴィン・クラインでした。彼については後述します。
原作はご存知ウィリアム・シェイクスピアのファンタジック・ラブコメディ──なんて言い方でいいんでしょうか?
ストーリイ:モンテ・アテナ(原作のアセンズ=アテネ)の公爵シーシアス(ギリシア神話のテセウス)とヒポリタ(原作ではアマゾンの女王)の婚礼前日の出来事。
貴族イージアスの娘ハーミアは、恋人ライサンダーとの結婚を父に反対され、二人で森に駆け落ちする。彼らの後を追うのは、ハーミアのために父が選んだ婚約者ディミトリアスと、その彼を慕うヘレナ。
同じ頃、街の六人の職工たちも、結婚式の余興に演じる芝居の稽古のため、森に集まっていた。
その森では妖精王オベロンと女王タイターニアが仲違い中。オベロンは腹いせに、眠るタイターニアの瞼に、目覚めて最初に見たものを恋する愛の媚薬を塗り、女王はいたずら妖精パックによってロバ頭にされた機屋のボトムに一目惚れしてしまう。
一方でオベロンは、その媚薬を人間の若者たちにも使って、カップルを取りまとめようとするが、パックの手違いにより予想外の展開が……
とまあ、他愛ないと言えば他愛ないお話ですが、私自身は子供の頃からこのお話(戯曲)がけっこう好きです。
と言うのも、大昔にTVで観たロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの公演が印象的と言うか衝撃的だったので。
装置も衣装もごくシンプルで、妖精たちの登場シーンには空中ブランコを用い、俳優たちは舞台狭しと駆け回っていた記憶があります。
シーシアスとオベロン、ヒポリタとタイターニアを同じ俳優が演じるという、現在では一般的になったキャスティングは、この時が最初だったようです。
もちろん映画では、それぞれの役を別の俳優さんたちが演じています。
個々の出演者については後述するとして、映画の舞台は古代ギリシアではなく、抽象的なファンタジー世界でもなく、19世紀末のイタリア、トスカーナ地方に設定されています。
これがなかなか物語にマッチして、婚礼の祝祭感や、華やかでいながらどこかのどかな雰囲気を醸し出していました。小道具としての自転車や蓄音機の用い方も楽しかったです。
音楽も、もちろんメンデルスゾーン作曲の序曲に始まり、婚礼の場ではちゃんと結婚行進曲が流れますが、その他、『椿姫』の「乾杯の歌」や、『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲などが効果的に使われていました。
妖精たちのシーンは……まあ『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ以前の妖精の造形や「妖精の森」の演出と言ったら、あんな感じでしょう。
ミシェル・ファイファーのタイターニアは、もちろんガラ様みたいにおっかない人じゃありませんが、彼女も「人間じゃない」役が似合う人ですね。
ルパート・エヴァレットのオベロンは、他の誰がこんな役をやれるだろう、と思わせます。この頃の彼になら、『ホビットの冒険』のスランドゥイル王ができたんじゃないでしょうか。
それにしても、なぜ自分はスラ王にこだわるんだろう?トールキン作品の中では、彼がいちばん一般にイメージされる「妖精王」に近いからかな。
パックは、日本の舞台では女優さん、それも割とアイドル系の人によって演じられることも多くて、この17日までの新国立劇場での公演でも、神田沙也加さん等が演じたようです。
しかし、この映画のパックは何とスタンリー・トゥッチ!彼がとんがり耳に小さい角までつけて演じてるんですよ~!
でも、この「おっさん」パックが案外良かったです。ちょっとブキミだけど、森の中で自転車を乗り回すところとかが可愛かったりもして。それにラストをパックの口上で締めるからには、この人くらいの役者でなくては、とも思います。
四人の恋人たちは、アンナ・フリエルのハーミア、キャリスタ・フロックハートのヘレナ、ドミニク・ウェストのライサンダーと来て、クリスチャン・ベイルはと言うと、そりゃこの中じゃこの役しかないだろうって感じでディミトリアスでした。
おそらく意識的にだろうと思いますが「舞台」風の発声法で、一見賢そう、でも結構ヌケてるお坊ちゃんを演じています。
よく指摘されることだけど、四人の中で実はディミトリアスだけが「魔法」を解かれていないんですよね。まあそれでもいいか……と思わせてしまうのは、映画自体の雰囲気のおかげか、クリスチャンの或る面での持ち味ゆえか?(演技の賜物、とまではまだ言えない気が……)
ライサンダーから「この穢らわしい男が…」云々なんて言われるのを聞くと、ちょっと笑っちゃいます。
そのライサンダー役ドミニク・ウェスト氏、近頃では何と言っても、『300』のセロンが印象深いですね。ライサンダーは登場場面の三分の二くらい脱ぎっぱなしでしたが、『300』ってやっぱり「脱ぎっぷりのいい」俳優さんを集めたんでしょうか?
でもまあ、この人たちなど(この時点では)まだまだ若造の域だと思わせてしまうくらい、妖精たちのキャストは濃く、人間の大人たちはベテラン揃いでした。
ハーミアパパのイージアスがバーナード・ヒル、ヒポリタがソフィー・マルソーで、シーシアス公はデイヴィッド・ストラザーンです。ダンディかつセクシーで、情も理も品格も備えたご領主様という感じがぴったりはまっていました。
そして、そのご領主様に芝居を演じてみせる(映画の中ではコンテストに応募して選ばれる)六人の職工たちがとても良かったです。
実は原作でも舞台でも、彼らの出て来るシーンはコメディの中としてもどうにもドタバタっぽく、おふざけが過ぎる気がして、あまり好きではなかったのですが、この映画ではお伽噺に深みやリアリティをもたらす役割を担っています。
彼らの演じる悲劇『ピラマスとシスビー』(『ロミオとジュリエット』の元ネタの一つ)、原作では笑劇(ファルス)になり果てて、貴族たちを呆れさせ、それがまたシェイクスピアのパロディ精神の現れなどと評されていますが、映画での扱いはひと味違い、シスビー役のフルート(サム・ロックウェル)が、カツラも女形の作り声もかなぐり捨てた演技で却って感動を呼ぶ、という展開でした。
原作のこのエピソードによって提示される「悲劇と喜劇は紙一重」を、もう一度「悲劇」の側にひっくり返すことでより明確にしたという訳で、この脚色は良かったと思います。
仲間うちで脚本兼演出担当のクィンス役はロジャー・リーズ。皆のまとめ役として、特にボトムのフォローに、年中胃の痛む思いをしていそうなところが良かったですが、実はこの人『プレステージ』にも出ているんですよ。コールドロウ卿の使いとしてボーデンの面会に来る弁護士さん。あの人も苦労の絶えなさそうな人でしたが。
でもやはり、何と言ってもボトム役ケヴィン・クラインが、群を抜いて素晴らしかったです。
実を言うと、がさつで目立ちたがりな原作ボトムにあまり好感は持てず、それはそれとして、彼に対する妖精たちの愚弄ぶりも決していい感じはしませんでした。
しかし、この映画、そしてクラインが描き出したボトムは──
ちょっと騒がしいくらい陽気な街の伊達男。しかしそれは、妻との軋轢を抱え鬱屈した生活を忘れるための仮面だったかも知れません。そのことは承知で、彼を盛り立てようとするクィンスたちの気遣いが泣かせます。
が、迷い込んだ森の中で、彼は夢のようなひとときを過ごす。若い恋人たちがドタバタの末に愛を獲得する傍らで、彼は束の間、何かを得、そして永遠に失った……
「ボトムの夢」と題されたチャプターは、目覚めてのち、二度と触れることのできない何かへの喪失感と憧憬をたたえたボトム=クラインの表情や豊かなエロキューションともに、とても美しいシーンでした。
そうして婚礼の余興に対する褒美を手に街に帰り、仲間たちと別れた後で彼が見たものは……
原作には決して出て来ないこのシーンには、思わず涙がこぼれました。
人生でたった一つでも何か美しいものに出逢ったなら、それだけで人は生きて行ける。
夢は覚める。しかし一瞬の至福を胸に、空しく味気ない日々をも人は生きて行ける。
最近になって自覚しましたが、私は本当にそういうのに弱いです。
まさかこの作品で、それもボトムで泣かされることになるとは思ってもみませんでした。