東京はここ何日かとはうってかわって寒いです。
さて、主な劇場での公開も終わった頃になって、やっとこの映画のレビューを上げることが出来ます。とにかく書き上げるのに難儀した作品で、以下の文章にもまとまりがありませんが、お読み頂ければ幸いです。ネタバレ有りにつきご注意下さい。
ノーカントリー公式サイト
ストーリー:1980年、メキシコ国境にほど近いテキサスの荒野。そこでハンティングをしていたルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)は、放置された車と男たちの死体を発見する。麻薬取り引きのいざこざで銃撃戦が行なわれたとおぼしき現場から、モスは240万ドルもの大金がはいった書類鞄を持ち去った。
かくして彼は、組織の放った殺し屋シガー(ハヴィエル・バルデム)、そしてベル保安官(トミー・リー・ジョーンズ)双方に追われることとなる。
ベトナム戦争仕込みの銃の腕とサヴァイバル術で、追っ手をかいくぐって逃亡を続けるモス。モスとシガー双方を追うベル。そしてシガーは、行く先々で出遭う人間(や動物)を淡々と、しかし容赦なく殺戮し続けながら、着実に目標へと近づいて行く。
原作はコーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』(原題は映画の原題と同じく『No Country for Old Men』)。映画『ノー・カントリー』は、その小説に忠実な映画化作品である。ジョエル&イーサン・コーエン兄弟の許に、「あなたがたに向いていると思う」と原作が持ち込まれたことから立ち上がった企画であるらしい。(この映画を観て、彼らにはジム・トンプスン作品も向いているかも知れないと思った。)
ストーリーラインは兄弟の代表作『ファーゴ』に似通っているようにも思える。しかし、似ているのはその表層のみである。
『ファーゴ』が描いたのは、ダメな人間の行動が予期せぬ事態を招き、ますますダメな方向へと状況が転がって行ってしまう悲喜劇だったが、『ノーカントリー』は、逃げる者と追う者、殺す者と殺される者たちの荒涼たる光景を、冷徹に捉え続ける。
この映画に主人公はいない。モスは結局シガーではない者の手にかかり、多数の死体の内の一つとして地べたに転がる。あれだけの大殺戮を繰り広げたシガーは捕えられることなく、行方をくらます。誰の死も特権化されることはない。それは即ち、誰の生も特権化されないことを意味する。
そして語り手であるベル保安官は、結局何ひとつ解決することはできないまま、寂寞たる思いを抱えて引退を決意する。
ストーリーラインとその表層にのみ目を向けるなら、この映画は一本の犯罪サスペンスに過ぎない。
しかし『ノーカントリー』は、それ以上の「読み」を誘う映画である。否、作品自体が、そのことを要求する。ここに描かれているのは何なのか、よく考えてみろ、と。作中人物であるベル保安官にも「それ」は理解できず、ただ困惑するだけだと言うのに。
時代のせいか、とベルは問う。
映画でもベトナム戦争の影は感じられるし、原作に於いてそれは更に色濃く投げかけられている。実際、「ベトナム」以後のアメリカの病理は、サイコサスペンスを含む多くの小説や映画作品で取り扱われて来た。
しかし、そのように安直な結論づけは、「猫屋敷」に独り住むベルの伯父の言葉によって否定される。
時代のせいではない。理不尽な暴力も不条理な死も、この国に昔からあったものだ、と。
ではそれが、先住民を殺戮し、また開拓者たちも同じように殺されて来た歴史がそう遠くない過去に存在する「アメリカ」に固有の病理であるかと言うと、それもまた違う気がする。
No country for old men.
「old men」の意味するものが「弱者」であるにせよ「老兵」であるにせよ、彼らが存在できる場所など、アメリカに限らず、どの時代、どの国にもなかった。そもそも、タイトルとなったこの言葉自体、アイルランドの詩人W.B.イェイツの詩の一節なのである。
ともあれ、そう思うことは、人類の歴史も、培われたはずの知性も、文化も、すべてを否定することでもある。この作品が描く真の恐怖はそれだ。
その恐怖から逃れるため、ベルをはじめ多くの善良な人たちは、「時代」を慨嘆し、形ある答えを求め、何かしらの結論を導こうとする。
それも一種の思考停止ではあるが、何らかの「答え」が得られなければ、人は剥き出しで無造作な、いっそ無意味と言ってもいいくらいの生と死の有り様を目の当たりにしなくてはならない。それに堪えられる人間はそう多くないだろう。
そして、作中でその無慈悲さ残酷さを体現するのが、言うまでもなく殺し屋アントン・シガーである。
『血と暴力の国』の訳者あとがきによれば、原作者は彼を「純粋悪(pure evil)」と呼んだという。
一方、イーサン・コーエンは、プログラム掲載のインタビューで
「彼は善悪を超えた存在だ。我々を取り巻くこの世界の人格化だ。無慈悲で気まぐれなこの世界の。」
と語っている。
原作者を差し置くようだが、これに関してはコーエン兄弟が正しいと思う。少なくとも、映画に於いてシガーはそのように描かれている。
彼は殆ど考える余裕も与えず、その被害者となる者たちの許を訪れ、死をもたらす。登場人物の一人はシガーを「サイコパス」と呼んだが、その種の作品に出て来る快楽殺人犯と異なり、彼は殺害行為そのものに快楽を覚えている訳ではなく、また被害者の苦痛を長引かせて楽しんだりもしない。
彼はそれが義務でもあるかのように、命を刈り取って行く。
そして彼の獲物は人間だけでなく、犬や鳥もその中に含まれる。彼は平等であり公平である。
その姿は死神と言うより「死の大天使」とでも呼ぶ方が相応しいかも知れない。
映画でシガーを演じ、オスカーはじめ各賞を総なめにしたハヴィエル・バルデムもそう解釈したようで、雑誌のインタビューでは「シガーにとってそれは使命であり、(被害者にとっての)ヒーリングでさえあると考えている」と語っていた。
これは運命だと、彼は言う。「おまえ」が今ここで死ぬことは必然であると。
「ほとんどの人にとって何が問題かはわかるだろう。自分が存在を認めたがらないものに打ち勝つのは困難だということだ。わかるか?おれがおまえの人生の中に登場したときおまえの人生は終わったんだ。(中略)これはほかの道じゃない。これはこの道だ。おまえはおれに世界に対して口答えしてくれと頼んでるんだ。」(『血と暴力の国』p.341)
多くの人が「死」を怖れるのは、それがかくも無意味なことであり、かつ誰にも逃れようのないものだからだ。そこに意味を見出そうとして、人間は或るときは宗教に、また或るときは法に救いを求めるのかも知れない。
上で、シガーが鳥や動物までも無慈悲に無意味に殺していると書いたが、あらすじで触れたように、映画でも原作でも、この作品にモスが登場するのは、彼が羚羊狩りに出ているシーンからである。周囲には狼やコヨーテも棲息する荒野が広がっている。
映画では(映画でのみ)、川に逃げ込んだモスが組織の放った犬に執拗に追われるというエピソードもある。この犬は後にシガーに殺されたのと同一犬であろう。
無敵に見えるシガー自身もモスの返り討ちで負傷し、その後も突発的な事故に遭って重傷を負う。
善良に生きている筈のベル保安官にも、ヨーロッパ戦線で戦友たちを見殺しにしたという過去があったし、モスがベトナム帰還兵であることの意味は、もはや言うまでもない。
この映画が描いているのは時代や人心の荒廃などではない。
荒野も戦場もどこにでも存在する。そこでは人と動物の区別さえ意味をなさない。
「死」を相対化できるのは、自らがそういう狩り狩られる関係、文字通り食うか食われるかの世界の中にいるということの自覚にしかない。
死の不条理さ、無意味さ、そしてそれを見据えた上でなお生きることの覚悟。この作品が描くのは、そういう端的な、いっそ神話的と言ってもいいテーマなのである。
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それ自体には全く救いのない映画でしたが(原作のラストには少しその「光明」を感じられたけれど、映画の解釈は違うようです)、意外な人が意外な形でそれをもたらしてくれました。日本公開に先駆けて来日したハヴィエル・バルデムその人です。
各メディアのインタビューに答える彼は、まずシガーの「あの髪型」の一件で笑いを取り、自分自身は暴力シーンなど嫌いだと語っていました。温厚で気さく、と言うより、何だか非常に「育ちのいい人」という感じで、映画史上に残る殺人鬼を演じた俳優自身が映画の印象を中和してくれたことにホッとしたし、面白いとも思ったものです。