あちらはいかがですか、たかちゃん?

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海を見に行きたくなった 茨城磯原海岸

2021-09-25 07:15:31 | 日記
2021,9,24

今日の関東は、昨日の残暑に引き続き暑い。

急に海に行きたくなった。

私の田舎は太平洋に面したところ。
白い砂浜が続く海岸に、よく行ったものだ。
初日の出を見に行ったり、海水浴をしたり、高校の時は友達と海でボーっとしていたり、、

夕方、茨城の磯原海岸に着いた。

夕日に反射してだんだん色づいた。









ここは私の田舎の海ではないが、炭酸泉の湯に入って、今夜はグッスリ眠れるかな、





そう思って車を走らた。
ワンコと一緒に。



残念なことに、
湯に入っているとき

オレンジ色の月が
海の水平線辺りから上がってきて、
暗い海面に月の光、月の道と呼ばれるものが見えたが、それを撮ることはできなかった。
もう、中秋の満月は欠け始めていた。

炭酸泉の湯は、間口が7、8メートル、高さが3メートルの開口部が全開されて、海と一体化している感覚で湯に浸かり、海風が気持ちいい。
コロナ感染予防に良いね。

炭酸泉の湯、ゆかっぺ。






回想:母の交通事故 3

2021-09-24 14:14:59 | 日記
(母の交通事故 2からの続き)


母は、姉のリハビリ病院併設老人施設に入ってから、
家に帰りたい
と何度も訴えていた。
しかし、家がどこなのかわからなくなっていた。
自分の実家の地名を言ったり、結婚当初の地名を言ったりと明らかに認知症になってしまった。
これには、事故で頭を強く打ったことが関係していた。


私とたかちゃんは、たかちゃんがリハビリ病院から退院して少し落ち着いた頃、車イスを車に積んで、母の施設に面会に行った。

母はたかちゃんに会うと、
「◯◯さん(夫の名前)とは違う。」
と、たかちゃんを怪しげな人を見るような目つきだった。
私が、(難病の免疫抑制剤とステロイドで)薬のせいで顔がちょっと変わっただけだよと説明するが、
母はずっと疑いの眼差しだった。
まるで知らない人に会って困ったような顔だった。

たかちゃんも気にしていたから、とても変な空気だった。
たかちゃんは久しぶりの外出だったが、どんな気持ちだったのかと今、思う。

帰りに誰も住んでいない実家に寄り、たかちゃんはトイレに行こうとするが、まず玄関の上がりぶちをどうやって上がるかがとても大変だった。

自宅はそういう一つ一つの動作をリハビリ病院で考えてくれて、手すりを付けたり、お風呂を床面と段差を無くすため変えたりと家をリフォームした。

この外出によって、たかちゃんの外出は制限されるようになった。
車イスでトイレに行かれるところ限定になってしまった。
車イスになって初めて、道路のちょっとした段差でも大変であることを実感した。

母が老人施設での生活が長くなると
問題になったのは、母の睡眠障害であった。
夜に眠らない日が1日おきにあり、睡眠導入剤を飲まされても眠れない夜は、母は職員エリアにいつも車イスに乗せられていた。

母にはもう相談したり、料理を教えてもらったり、そういうことはできないんだな、、
もう、もとの母ではなくなっていた。


姉は、母の朝食と夕食の時間に間に合うように出勤、退勤して、食事の介助をしたり、洗濯や衣替えなど施設にいる母の世話をしていた。
私も、時々、靴下や上着を買って持っていったり、忙しい姉に代わり、病院受診の付き添いをしていた。
母の認知症は日々、悪化していたが、
私を忘れることはなかった。



そんな月日が流れ、
たかちゃんが亡くなっても、それを母に伝えることはしなかった。

たかちゃんが亡くなってからは、ワンコを連れて、面会に行ったこともあった。
母を外に連れ出して、ワンコと一緒に散歩をした。


母は持病もあったが、だんだん身体が弱っていき、

最期は誤嚥性肺炎で亡くなった。

交通事故からちょうど2年
たかちゃんが亡くなってから、9ヶ月過ぎのことだった

この事故がなかったら、母はまだ元気にいたのだろうか、
たかちゃんが病気にならなければ、事故に遭うことなく3人で生活していたのだろうか、
そんなことを考えても仕方ないのに、何度思ったことだろう。


事故で過失100%の女性が謝罪に来ることはなかった。
刑事責任は重大な過失とならず45万円の支払いだった。
この金額は、ぶつかってきた女性に支払われた母の自賠責保険の550万円から、払われたと思うと、やるせなかった。
それについては兄に任せていた。
兄は弁護士を依頼していたが、最後まで謝罪はなく、
反対にその女性に電話を2回かけたら、恐喝になるとまで言われた。

私は、諦めず謝罪を求める手紙を弁護士に託したが、そのときも恐喝になるような文面に気をつけるようにと言われた。

名古屋に住む弟に、手紙に何て書く?と聞くと、
一生恨んでやると書けばいいと言っていたが、
心情はそうでも、それは書かなかった。

弁護士はその女性について教えることはできないと話していた。
探そうと思えば、民放新聞に名前が記載されていたので調べられるが、、
母が亡くなって生き返ることはないのだからと、、


彼岸だから母の写真の前に、買ったおはぎを供えたが、
母の、小豆から煮てこしあんを作り、もち米はつぶさない、あのおはぎが食べたい。

交通事故は行き当たりばったりの人とのことかもしれないが、
その人やその人の周りの人の人生を変えてしまう。

私も運転する以上は、気をつけなければならない。



たかちゃんにもおはぎを供えたが、おはぎを食べないたかちゃんは、
「なんだよ、これー、俺いらないよ。」
と、きっと言ってると思う。
私「そんなこと言わないで、気持ちだけでも受け取ってください。」

心のなかで、たかちゃんとの会話をしていた。











回想:母の交通事故 2

2021-09-23 16:18:24 | 日記
(母の交通事故1からの続き)


翌日の民放新聞には、
78才の高齢者、車両衝突事故という見出しで、母が悪いような印象の書き方であった。

兄の話では、
事故現場を約1日通行止めにしての現場検証の結果、
母の過失ではなく相手側の全面的な過失になると警察から聞いた。

相手は40代女性で、携帯電話のメールかなにかをしながらの運転の可能性が疑われたが
この女性も頭を打ったということで病院に運ばれた。
その女性は、1週間で退院して、事故については記憶がないとの一点張りということだった。

その後、現場検証で過失割合が100%この女性の過失となったが、これを聞いたのはずいぶん後のことだった。

過失割合が決定する前に、
母の車の自賠責保険から、この女性は550万円を請求し支払われていた。
助手席に乗っていた母の友人には、同居していた娘さんから家の改装費に300万円が支払われた。
改装費は母の友人が退院しても生活できるようにバリアフリーにするためのものだった。
そのようなことを兄から聞かされた。


鉄道の下をくぐる形のトンネルで、緩いカーブがあるところ、今でも田舎に行った時にここで事故があったのかと複雑な思いになる。
相手の女性の対向車が母の車にぶつかってきたのは間違いなかった。

助手席に乗っていた母の友人も救急車で運ばれたが、今も元気に施設にいると聞いている。



たかちゃんが歩けなくなったのは、1月の末。
その正月には、
物忘れの母のことが心配で、姉と私とで相談し、母を私の家に連れていくことが決まっていた。
母の自宅はそのままにして、時々帰りながら私と生活するものだった。

たかちゃんも賛同してくれていた

たかちゃんは私の母と関わって
お母さんとは、私の母のようにいつも気遣ってくれて、あったかい気持ちにしてくれるものだなと、よく話していた。

私が仕事でたかちゃんが休みの時は、
たかちゃんが一人で母のところに行っていた。
母の好きなちらし寿司のおいしい寿司屋に二人で行ったり、母に天ぷら食べたいと言って、お土産に私の好きなさつまいもの天ぷらやかき揚げを持ち帰ってきたこともあった。

私もたかちゃんも、私とたかちゃんと母の3人とワンコの生活を描いていた。


しかし、その1月にたかちゃんの身体に異変があり、
姉から、
「今は◯◯さんが大変なんだから、お母ちゃんのことは私がみるから大丈夫だよ」
母との同居の話は、無くなってしまった。
姉は病院勤めの管理職で忙しい日々を送っていた。

田舎には、兄が母の自宅から車で10分もかからないところに住んでいたが、

母が季節が変わるとエアコンのリモコンの設定ができないからお願いと頼んでも、無理だと言われて、熱中症が心配で私が片道180キロを車で行ったことがあった。
母は兄と会うよりも、私と会うほうが多いよと話していた。
兄をあてにはしなかった。

救急病院で、腕の骨を整復する手術がされ、母は、姉のリハビリ病院の併設された老人施設に入ることになった。

事故の影響で、リハビリで歩くことはできるが、身体が左に傾き、頭もまっすぐに保つことができないため、車イスの生活になってしまった。

その時、たかちゃんはまだリハビリ病院に入院していた時期であった。
たかちゃんの身体の動きが悪くなり、思うようにリハビリが進まなかった時期でもある。
リハビリ病院の退院に向けて、自宅での生活ができるように、段差のない家のリフォームを考えなければならない時でもあった。

ワンコはいつもお留守番ばかりで、今思うとかわいそうな状態だった。




(老人施設に入っていた頃の写真、事故の影響で頭がいつも傾いていた)














回想:母の交通事故 1

2021-09-22 18:36:00 | 日記
私の母は、
父を亡くしてから5年目、今から8年前に
たかちゃんがリハビリ病院に移り、2ヶ月が経ったら頃、交通事故にあった。

母は一人暮らしをして、
田舎では車がないと不便であり、運転の大好きな母は毎日運転していた。

交通事故の1ヶ月前に、母は姉夫婦に連れられてたかちゃんのリハビリ病院にお見舞いに来てくれた。
たかちゃんは、難病の免疫抑制剤とステロイドを服用をしていたため、別人のように顔が変わりつつある頃だった。


姉から

お母ちゃんが事故ったの、
運転しているときに対向車とぶつかって、頭を打って腕と手首の骨を折っている。」
私は、ちょうどたかちゃんのリハビリ病院にいた時で、たかちゃんにそれを伝えて、車で180キロの道のりを急いだ。

なんでそんなことになったのよ
死んじゃったらどうしよう、
運転しながらこみ上げてくる想いをこらえながら、安全に行かなくちゃと車を走らせた。

運ばれた救急病院に着くと、
母はベットに横になって
「◯◯子、来てくれたの」
とニコニコ笑顔だった。
「お母ちゃん、大丈夫なの?痛くないの?何で笑ってんのよ?
母「◯◯子が来てくれてうれしくて」

今もこの笑顔が忘れられない。

姉にどうして痛みがないのか聞いた。
上腕の骨が折れて、今にも皮膚を突き破って出てきそうだった。
手首も折れている、
頭は陥没骨折しているのにもかかわらず、痛くないと言う。
姉は、頭を強く打ち、神経が麻痺してるとしか思えない、そう答えた。



母はたかちゃんが入院した3、4年前から、
父が亡くなったショックなのか軽い認知症なのか区別が難しいくらいの、すぐ直前の事を忘れることがあった

私は、実家近くの認知症専門の病院に連れていった。
認知症だと脳の海馬というところが萎縮するのだが、顕著な萎縮はなかった。
認知症の検査で、引き算もできるし、見せられるものも後から思いだし言うこともできた。
文章を書かせれば私より漢字も文章も達者であった。

医者は、予防的に認知症の薬を出しましょうと話され、いつもかかっている内科で出してもらえるようにお願いした。
よく、その内科医に私から手紙を書いて、母に持たせた。


父が亡くなって一年くらい経ってからか、寂しいのかよく電話がきた。
それでこの交通事故がある当日の朝まで4年間、
生存確認と称して、私は、毎日夜の8時に電話をかけていた。
たまには昔話に花を咲かせて、一時間も話をしていたこともあった。

この交通事故の前日まで、電話での話はたかちゃんの様子はどうかと仕事が大丈夫なのかと毎日そればかりだった。



主治医からは、車の運転に支障がないなら大丈夫だよと言われていた。




(老人施設に入っていた頃の母、事故の影響でいつも頭をかしげていた)



























回想:しづちゃん、母校の大学病院へ来る

2021-09-22 06:27:44 | 日記
(しづちゃんからの頼み事の続き)


しづちゃんが母校の大学病院での治療をしたいからと
私は、同窓会名簿を頼りに同級生に電話をかけた。

同級生にのツテで、消化器科の外来日が決まり、9月の末頃
同級生4人で羽田に迎えに行った。

しづちゃんは、外見からはとても癌患者には見えず、空港出口を歩いて手を振って出てきた。


この4人としづちゃんとで母校の大学病院の消化器科に行、しづちゃんの診察を待合室で待っていた。


しづちゃんは、それから数回、山形と東京を往復した。
その度に同級生のだれかが付き添っていた。
しづちゃんの夫であるご主人の影が伺えないことを心配して、みんなで
「おうちは大丈夫なの?」
しづちゃん「息子(14才)がいるから、夫は来れないの。」


2回目の外来で、抗がん剤を始めた時、しづちゃんの身体には、足のむくみが出始めていた。
しづちゃん「なんだか足が浮腫んで、ちょっと大変なの」


病理医の細胞の見立ては

肝臓の癌は、乳癌の転移ではなく、肝臓原発の癌であった。
また、とても細胞が珍しく、それでも山形の病理診断は機材がないなか、よくここまで調べたなと思ったとのこと。
決して、山形の病理診断を否定するものではなかった。
山形の病院の検査結果に、乳癌の転移とは記されていなかったようだった。
ただ、長年の細胞を見てきた病理医の見立ては

癌細胞の顔つきが悪い



私は、仕事をしながらしづちゃんが良くなるようにと、ただそう思ってできることをした。
息子も、事情を聞いて夕方私が居なくても、何も言わなかった。

この頃、娘が仕事で大阪転勤が決まり、11月には家を出ることになっていた

しづちゃんは、11月には東京で入院となり、抗がん剤治療をしていた。
私は仕事が終わってから週2~3回面会に行っていた。


たかちゃんが亡くなって、ボーと悲しむ時間を、しづちゃんが救ってくれたように思う。

12月になると、
しづちゃんのお腹は腹水で大きくなり、手足も浮腫み、まるでたかちゃんのようだった。
たかちゃんよりも、早いスピードで悪化していった。

12月の中旬になると、
抗がん剤の効果ないとの判断が下された。
私たちは、しづちゃんの許可を得て、かなりの人数の同窓生にしづちゃんの様子を知らせた。
代わる代わる関東近辺の同級生が、お見舞いに訪れていたが、皆、今のうちに山形に帰らなければ帰れなくなるとそればかり心配していた。

それと同時期に、
病院から私の自宅に戻るとき、ワンコが待っていたが、自宅をたかちゃんの脱け殻と感じることが多くなっていった
日が短くなり病院から自宅に戻るときは真っ暗で、息子は隣の市に帰っていた。
娘も大阪に転勤で、一人ぼっちを初めて味わうことになっていた。


しづちゃんが山形に帰る前日にしづちゃんの病室に行った。
しづちゃんは帰り際に
あさり、ごめんね。あさりを利用したのに、こんなにしてくれて。」

利用したとはどういうことなのか、、

時々、メールしてもちっとも返信がなく、会えばいつも上の空で違和感を感じていたが、、
しづちゃんは私にペンダントを見せて、
「わたしね、◯◯教なの。」
無宗教の私には聞いたこともないし、何を言い出したのかと。
後に、病棟看護師長の友人に◯◯教について聞くと、
「知らないの?新興宗教の大手だよ、
しづは結果論かもしれないけど、家族と過ごす大事な時期なのにね。

宗教の本山は東京にあって、そこに行って今までのことを示唆されていたと告白された。
他の同窓生にはこのことは話さなかった。


そして、


私は、死ねないの、生きてまだまだやらなければならないの」


そう言って泣いていた。
私は、しづちゃんを抱きしめていた。
利用されようがそうでなかろうが、山形から離れ、どんなに心細かったことかと、、

翌日、12月のクリスマス前に、
しづちゃんのご主人が迎えに来て、車イスでしづちゃんは山形に帰った。
みんなで大学病院から、タクシーで羽田に向かうしづちゃん夫婦を見送った。

その後は、山形で高校が一緒だった看護学校の同級生に連絡して、お願いしていた。

しづちゃんは、山形に帰ってからも、治療を諦めることなく、治験のような抗がん剤治療をしていたと聞いて、みなびっくりしていた。
あの身体で、まだ抗がん剤治療をするのかと。



翌年の1月に、しづちゃんに関わった同級生には、しづちゃんからお礼の品が届いた。
連絡を入れても通じることなく、メールも返ることがなく、しづちゃんは連絡を断った。同級生たちはそれを嘆いていたが、、
私は、そんな時期の体調と精神状態を考えたら仕方のないものと思っていた。



4月のある日、山形の同級生からは、時々経過を知らせるメールがあったが、今回は、しづちゃんが亡くなったことを知らせる電話であった


私はしづちゃんの葬儀に、代表として一人山形まで行き、関わった同級生一同のお花をあげてきた。


今でも、
髪が抜けても気にせず、目がパッチリとしてキューピーさんのようだった、しづちゃんが思い出される。

しづちゃんの遺影は、
同級生の一人が、もしものことを考えて写真館で気に入った自分の写真を撮ったらと話していた。
東京と山形を往復していた頃、撮ったものだった。

生き生きとした綺麗な笑顔のしづちゃんの遺影だった。
しづちゃん、51才だった


(この写真はしづちゃんの故郷の月山)