(しづちゃんからの頼み事の続き)
しづちゃんが母校の大学病院での治療をしたいからと、
私は、同窓会名簿を頼りに同級生に電話をかけた。
同級生にのツテで、消化器科の外来日が決まり、9月の末頃
同級生4人で羽田に迎えに行った。
しづちゃんは、外見からはとても癌患者には見えず、空港出口を歩いて手を振って出てきた。
この4人としづちゃんとで母校の大学病院の消化器科に行き、しづちゃんの診察を待合室で待っていた。
しづちゃんは、それから数回、山形と東京を往復した。
その度に同級生のだれかが付き添っていた。
しづちゃんの夫であるご主人の影が伺えないことを心配して、みんなで
「おうちは大丈夫なの?」
しづちゃん「息子(14才)がいるから、夫は来れないの。」
2回目の外来で、抗がん剤を始めた時、しづちゃんの身体には、足のむくみが出始めていた。
しづちゃん「なんだか足が浮腫んで、ちょっと大変なの」
病理医の細胞の見立ては
肝臓の癌は、乳癌の転移ではなく、肝臓原発の癌であった。
また、とても細胞が珍しく、それでも山形の病理診断は機材がないなか、よくここまで調べたなと思ったとのこと。
決して、山形の病理診断を否定するものではなかった。
山形の病院の検査結果に、乳癌の転移とは記されていなかったようだった。
ただ、長年の細胞を見てきた病理医の見立ては
「癌細胞の顔つきが悪い」
私は、仕事をしながらしづちゃんが良くなるようにと、ただそう思ってできることをした。
息子も、事情を聞いて夕方私が居なくても、何も言わなかった。
この頃、娘が仕事で大阪転勤が決まり、11月には家を出ることになっていた。
しづちゃんは、11月には東京で入院となり、抗がん剤治療をしていた。
私は仕事が終わってから週2~3回面会に行っていた。
たかちゃんが亡くなって、ボーと悲しむ時間を、しづちゃんが救ってくれたように思う。
12月になると、
しづちゃんのお腹は腹水で大きくなり、手足も浮腫み、まるでたかちゃんのようだった。
たかちゃんよりも、早いスピードで悪化していった。
12月の中旬になると、
抗がん剤の効果はないとの判断が下された。
私たちは、しづちゃんの許可を得て、かなりの人数の同窓生にしづちゃんの様子を知らせた。
代わる代わる関東近辺の同級生が、お見舞いに訪れていたが、皆、今のうちに山形に帰らなければ帰れなくなると、そればかり心配していた。
それと同時期に、
病院から私の自宅に戻るとき、ワンコが待っていたが、自宅をたかちゃんの脱け殻と感じることが多くなっていった。
日が短くなり病院から自宅に戻るときは真っ暗で、息子は隣の市に帰っていた。
娘も大阪に転勤で、一人ぼっちを初めて味わうことになっていた。
しづちゃんが山形に帰る前日にしづちゃんの病室に行った。
しづちゃんは帰り際に
「あさり、ごめんね。あさりを利用したのに、こんなにしてくれて。」
利用したとはどういうことなのか、、
時々、メールしてもちっとも返信がなく、会えばいつも上の空で違和感を感じていたが、、
しづちゃんは私にペンダントを見せて、
「わたしね、◯◯教なの。」
無宗教の私には聞いたこともないし、何を言い出したのかと。
後に、病棟看護師長の友人に◯◯教について聞くと、
「知らないの?新興宗教の大手だよ、
しづは結果論かもしれないけど、家族と過ごす大事な時期なのにね。」
宗教の本山は東京にあって、そこに行って今までのことを示唆されていたと告白された。
他の同窓生にはこのことは話さなかった。
そして、
「私は、死ねないの、生きてまだまだやらなければならないの」
そう言って泣いていた。
私は、しづちゃんを抱きしめていた。
利用されようがそうでなかろうが、山形から離れ、どんなに心細かったことかと、、
翌日、12月のクリスマス前に、
しづちゃんのご主人が迎えに来て、車イスでしづちゃんは山形に帰った。
みんなで大学病院から、タクシーで羽田に向かうしづちゃん夫婦を見送った。
その後は、山形で高校が一緒だった看護学校の同級生に連絡して、お願いしていた。
しづちゃんは、山形に帰ってからも、治療を諦めることなく、治験のような抗がん剤治療をしていたと聞いて、みなびっくりしていた。
あの身体で、まだ抗がん剤治療をするのかと。
翌年の1月に、しづちゃんに関わった同級生には、しづちゃんからお礼の品が届いた。
連絡を入れても通じることなく、メールも返ることがなく、しづちゃんは連絡を断った。同級生たちはそれを嘆いていたが、、
私は、そんな時期の体調と精神状態を考えたら仕方のないものと思っていた。
4月のある日、山形の同級生からは、時々経過を知らせるメールがあったが、今回は、しづちゃんが亡くなったことを知らせる電話であった。
私はしづちゃんの葬儀に、代表として一人山形まで行き、関わった同級生一同のお花をあげてきた。
今でも、
髪が抜けても気にせず、目がパッチリとしてキューピーさんのようだった、しづちゃんが思い出される。
しづちゃんの遺影は、
同級生の一人が、もしものことを考えて写真館で気に入った自分の写真を撮ったらと話していた。
東京と山形を往復していた頃、撮ったものだった。
生き生きとした綺麗な笑顔のしづちゃんの遺影だった。
しづちゃん、51才だった。
(この写真はしづちゃんの故郷の月山)