あちらはいかがですか、たかちゃん?

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回想:しづちゃんからの頼み事

2021-09-21 06:37:44 | 日記
たかちゃんの葬儀から一週間位した夜に、学生時代のいつも隣の席にいた、しづちゃんから電話があった
しづちゃんは故郷の山形に戻り、小学校の養護教諭(保健の先生)をしていた。
毎年、年賀状のやりとりをしていて、この電話の8年前の同窓会の前日に会ったきりだった。

懐かしさと今の近況を伝えると、しづちゃんはたかちゃんの死にびっくりしていたが、、
それから、
しづちゃん「お願いがあるんだけど」
と話し始めた。


しづちゃんのその年の年賀状には、「乳癌の初期で手術しました。」
そう書いてあったのを思い出していた。



しづちゃん「乳癌の転移かもしれないけど、肝臓に癌が見つかって山形で治療したけど、もう治療の方法がないと言われたんだ。(母校の)◯◯大学病院で診てもらいたいけど、あさり、ツテはないかな。」

私は、一瞬言葉を失って、、黙ってしまった。
しづちゃん「聞こえてる?あさり」

たかちゃんが亡くなってから、ボーとしていたので、頭が回らない。

私「うん、聞こえてる。

私としづちゃんは都内の某大学病院の医学部付属の看護学校の同級生だった。
私は、すぐに結婚して地域病院の小児科に2年働いただけで、その後はたかちゃんと自営業の事務、経理をしていた。
看護については、もう遠い昔しか知らない。
それでも、看護には携わっていたくて、午前中に家の事務仕事をして、午後は保健センターで仕事をしたり、市の社会福祉協議会の自立支援のデイサービスで血圧や健康管理、たまにはクリニックに行ったこともあった。

我にかえって、しづちゃんをどうにか助けないと、、
そう思った後に、
私「待ってて、同窓会名簿をもってるから連絡してみるね」


さて、誰に連絡を取ろうかな、
◯◯は病棟看護師長してるけど、顔が広いのは◯◯だしと、
結局、名簿を見て、手当たり次第電話をかけていた。

(この写真はしづちゃんの故郷の月山)



回想:たかちゃんの葬儀

2021-09-20 13:35:21 | 日記
たかちゃんの葬儀は、たかちゃんの遺言通りにはならず、それは仕方ないことだった。
ひっそりと身内だけでとたかちゃんは話していた。

葬儀にたかちゃんの結婚前の親族は一人もいなかった。
両親に1才半の時に捨てられ、父親の弟である叔父さん夫婦の家で、おばあさんに育てられた。
たかちゃんの親は父親の酒癖の悪さで離婚して、両親ともに育てることを放棄したと聞いていた。
叔父さん夫婦には娘がいたが、たかちゃんはかなり差別され育ち、たかちゃんは邪魔者扱いだったとも聞いていた。
私たちが結婚してから、叔父さん夫婦に恩を返せと言われ、たかちゃんはお金を送っていた。
叔父さん夫婦の娘には、面倒をみろとも言われたが、叔母さんが嫌いだったたかちゃんはそれを断っていた。
たかちゃんが25才のとき、おばあさんは亡くなり、叔父さん夫婦ももう亡くなっていた。その娘さんとは音信不通である。

通夜はたかちゃんの遺言通り、4、50人を考えていたが、息子が仕事をしている以上、仕事を休むのに知らせないわけにはいかないと、、最低限の範囲で知らせた。
たかちゃんの友人からも、後々自宅にお線香をあげにくるから、一気に済ませた方がいいんだよと助言された。

結局、予想外の多くの人が通夜に来られて、、
たかちゃんは、俺が死んだらたくさんの人が来ちゃって大変だから、知らせなくていいよとよく言っていた。
これ以上、私に負担をかけたくなかったのだと思う

葬儀は仏教でなく神道でというたかちゃんの意志通りに
みな、お線香でなく、さかきをあげる神道にとまどい、神主さんが位牌と似たものに魂入れをした時は、ビックリしていた。
まるで歌舞伎の世界に入り込んだような神主さんの声だったので。

私もたかちゃんも無宗教
仏教を嫌っていたたかちゃんが、無宗教式の葬儀は大変だからと、私の実家と同じ神式でというだけで決めたこと。
通夜の終わりに、最後だから顔を見ていってくださいと、葬儀の進行の人が話すと、列を作ってたかちゃんの顔をみて、声をかけてお別れをしていってくれた。
通夜が終わるのも一時間も延びてしまい
たかちゃんの側にずっと佇んでいた人もいた。

たかちゃんが亡くなった夕方、息子が仕事関係に連絡を入れて、現場から駆けつけてくれた現場監督が声をあげて泣いた。
私も何度かお目にかかったことのある人である。
たかちゃんとは夕食のとき、今日の仕事や仕事で会った人の話をしていた。だから会ったことのない人も、私の想像のなかにあった。
この方は、たかちゃんの話によると、家族関係の悩みがあって、よく愚痴っていた人である。

たかちゃんは、仕事をもらっているにも関わらず、表面上は低姿勢でも気が合うと10年来の友人となってしまう不思議な人であった。
仕事をもらっているお偉いさんも、なぜか仲良しこよしで、、そのうち一緒にいたいから、たかちゃんの仕事をしてしまう始末で。

ある大晦日に、現場帰りでちょっと寄るよと関連会社の人が来たこたともあった。
2、3人かなと思っていたら12人も来て、12人分のお寿司をとって、狭い我が家でぎゅうぎゅうになって食べていった。
仕事をもらっている若い監督と気が合うと、急に我が家に泊まっていったり。
たかちゃんはお酒はからっきしダメだから、私が飲んでいた。

大きな仕事をもらうのに、お酒の場をつくるのはいつも私で、飲むのも私。
若い時は、たかちゃんは、自分よりずっと年上の高学歴のお偉いさんと何を話せばいいんだと私に相談した。
私は、期日を守る、きっちり仕事をする、これだけ話せば十分だよと、他人事のように話していた。
若いときは人見知りで、でも仕事が軌道に乗ると人と会うのが楽しみになっていった。


あとで私の友人から、
通夜の時に、これから大変だから息子のことも面倒をみてやらないとな、、と話しているのを聞いたよと。



青い空と白い雲が見える空に、たかちゃんのけむりが上がって行った
みんな集まっているところから離れて一人で見ていた。
たかちゃんは本当に逝ってしまったと思った。



なんとか葬儀を済ませ、
かわいそうにワンコは動物病院に預けてしまったので、たかちゃんがいないことに、おかしいおかしい、どうしていないの?、、、
そう思っていたと思う
今にしてみれば、告別式に連れていってあげたら、少しは理解できたかなと思う。
未だにたかちゃんを探している。



この後、葬儀から一週間した頃だったか、夜に一本の電話がかかってきた





















回想:たかちゃんの最期 3

2021-09-19 10:47:28 | 日記
たかちゃんが逝ってしまってから、ダイニングテーブルに座りうなだれていた。

息子が、時間外の在宅の医師が来るまで時間があるなら、朝御飯つくるよとキッチンに立った。
卵焼きを作るにおいがして、出来上がると
息子、「食べないとしょうがないだろ、これから大変なんだから」
私は、「いらない、食べたくない」
息子、「食べろよ」
このやり取りが何回か続き、息子は声を荒立たせるので、仕方なく。
よそったご飯、昨日の味噌汁の残りと漬け物、卵焼きが出されていた。卵焼きを口にすると全く味がなく
私、「おいしくない」
その後すぐに、息子は流しにフライパンを力任せにガシャン。
びっくりした娘は、
「お兄ちゃん、やめてよ。」
私は、言わなきゃよかったと思ったが時すでに遅し。
たかちゃんが逝ってしまったのと、息子のイラつく態度に、ただただうなだれるだけで、
たかちゃんが居なくなってまだ30分でこんなことになるのかと、ため息と涙が。

その後息子は、怒鳴りちらし、何を言っていたのか覚えてない。

今まで息子は、たかちゃんが入院してから何一つ愚痴も言わずやってきた。
それでも、たまに仕事の事で私と衝突するが、たかちゃんがそれをおさめていた。
息子は、父であるたかちゃんの言うことは聴いていた。

私はたかちゃんが亡くなる覚悟はしていたが、そんな覚悟はないに等しく、今思えば、息子も私と同じだったのかもしれない。


時間外の在宅の医師が来たのは、この2時間後。
長かった、私と息子と娘はずっと黙りこくっていた。

その医師と車を運転してきた人が、家に入ってくると、ものすごいお酒のにおいがした。
普通の病院と違って、在宅医療は不規則なのだろう。そりゃーお酒も飲むときもあるだろうけど。
きっと急な呼び出しだったんだろうな、、
脈をとり、眼球をみて、聴診器で心臓音を聞いて、
「8時10分、死亡を確認しました。」
その後、その医師は死亡診断書を書くのだが、よほど酔いが残っているのか、ちっとも書けない。
書類を覗くと、たかちゃんは6時過ぎに逝ってしまったのに、死亡は医師が来た時刻の8時10分になるの?
そんなことをぼーとした頭で思っていた。
お茶を出し、水を出し、字は波打ってる、、
なんとかこれも済み、帰ることになり見送った。

帰った後、息子がまたまたブチ切れて、
息子「なんなんだよ、あれは。酔っぱらって仕事なのか。
私「あなただって、この間、5時に私と待ち合わせなのに、7時に来て、パーキングのトイレに入ったままだったじゃない」
仕事で、私に見積の補助をしてくれと待ち合わせをしたのだが、二日酔いで2時間も遅れ、運転も私で、現地での打ち合わせもひどいもので、、そんな息子をみて仕方ないかと黙っていた矢先のことだった。
自分はよくても他人には非難、それは違うでしょ、

みな精神が混乱して、理性もないのか、

悲しくて泣いているのか、こんなんでやっていけるのかという不安なのか、本当にわけがわからない涙だった。


しかし、これは序章であって、息子との仕事は、表面上はまわっていたが、私と息子は空回りの日々であった。
たかちゃんは、こんなこと想像もしてなかっただろうな、、
















草津へ、軽井沢白糸の滝、八ッ場ダム

2021-09-18 21:42:13 | 日記
2021,9,13~

道の駅六合(くに)から

草津に向かう292号線を北上する途中の

峠からの景色。

別名志賀、浅間さわやか街道というが、

ここの草津までのくねくね道は、ちっと

もさわやかではなく、途中、対向車が来

たらどうしようかなと思ってしまうとこ

ろ。

何度も軽くクラクションを鳴らして、来

てるよ、来てるよと知らせた。

ここまで来ると、気温が16度、

とっても快適。

途中の川原で




草津を抜け、軽井沢の白糸の滝へ。

途中の浅間山は霧と雨で全く視界ゼロ。

白糸の滝はなんとか曇りで、

今回もお天気には恵まれず、、

ここから八ッ場ダムの道の駅巡りをして

帰ろう。

八ッ場ダム(やんばダム)



道の駅あがつま峡へ

ここのドックランで一休み。

自分へのお土産は、浅間酒造のお酒の

秘幻。


当分、これで楽しめる。

一番の美味しいものは、道路脇で野菜や

果物を売ってるところで、

とれたてのトウモロコシを生で炭火で焼

いた、焼きトウモロコシ。

ゆでたものを焼いたのではないのは、初

めて。本当に甘くて美味しかった。

写真はありません。


こんな旅で、気が晴れる。

旅に行くと一人(シェルポ君も一緒だけど)

を感じるけれど、運転、景色に夢中にな

っているから、リフレッシュされる。

人も生物も物も永遠はないけれど、この

時代に巡り会った時間を生きてる限り、

よろしくね、シェルポ君。
(ワンコ依存症)


たかちゃんが生きていた頃




顔が白髪で、人間だと私と一緒のあらら

還暦。ずっとずっと側にいてね。











回想:たかちゃんの最期 2

2021-09-18 13:43:26 | 日記
7年前の9月11日朝6時に、たかちゃんは逝ってしまった。
ワンコは片時も離れず、たかちゃんのベットの足元にいた。
ワンコもたかちゃんの様子が変わってしまったのを気づき、意識のないたかちゃんの手足を舐めていた。


亡くなる前日の朝まで、たかちゃんはどうにか意識があったが、午後には意識がなくなり、ずっと横になったままだった。
2、3日前から食べるものもプリンや梨を少し、尿パックの量も少なくなっていた。




亡くなる2日前に会いたい人に会った翌日から、ずっと眠るばかりとなっていた。

9月11日の朝3時頃から呼吸が乱れ、肩で息をするようになった。
痰(たん)がからむのか、苦しそうで、これを取り除いたら楽になるかと、訪問看護ステーションに電話をして吸引器をお願いしようか迷っていた。
死を迎える小冊には、痰がからんでも、その時はもう苦しさは感じなくなっていると記載されていた。




この時はまだ大丈夫と思っていたが、ますます呼吸が荒くなりもうダメなんだなと思い、寝ていた娘を起こし、隣の市にいる息子に電話をかけた。
「お父さん、もうダメみたい、来て
息子が駆けつける頃になると、顎を上下させる呼吸に変わっていた。

娘と息子と私が見守る中、2時間くらいだったのだろうか、最後には
「もういいよたかちゃん、がんばったものね、もうがんばらなくていいよ
心の中で何度も言っていた。

いよいよ最期になると
耳だけは聞こえているから話しかけてねと言っていた訪問看護師の言葉を思いだし、
娘と私で
「お父さん、ありがとう、今までありがとうね」
娘も私も泣きながら声に出して何回も言っていた。
息子はずっとだまりこんで、壁にからだをもたれかけていた。


ありがとう

この言葉は、闘病と療養していた1年8ヶ月に言いたくても言えない言葉だった。
これを言ったらもう終わり、そんなことを何度も感じていた。


最後にはゆっくり呼吸して、だんだん呼吸が小さくなり、呼吸が途絶えた。


たかちゃんが逝ってしまった、
そう思った瞬間、全身の力が抜けて涙が延々と流れた。

たかちゃんの顔を見ると、両方の閉じた目から涙が流れていた。

きっと、ありがとうが聞こえて、
一人で逝くんだな、もうみんなといられないんだな、、
そう思ったんだよね。
一人ぼっちが嫌いだったたかちゃん。
たかちゃんは、子どもができてからは、私をお母さんと呼び、
お母さんとお父さんに捨てられたたかちゃんにとって、私は、妻であり、お母さんであった。
子どもたちが大きくなってからは、名前で呼ぼうねと言っても、いつもお母さんだった。


訪問看護ステーションにたかちゃんの死を告げると、時間がかかるが時間外の医師が行きますから待っているようにと指示があった。
前もって、何があっても救急車を呼ぶことはしないで下さい、と説明されていた。

いつもの在宅の医師ではなく、時間外の医師が来るまで、、
この後すぐに、わけのわからない家族けんかが勃発してしまった。

これが、これから始まるたかちゃんの居なくなった世界の始まりなのかと思い、
ため息がでた。