新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

真説 織田源五郎長益

2019-04-29 18:43:45 | 古代から現代史まで

 

真説 織田源五郎長益

NHK真田丸で、織田有楽は陰湿で軽薄、猜疑心の強い茶坊主として描かれている。 そして、牢人達を疑い、真田幸村と戦術面で対立する。 だが実際の彼は、淀君や秀頼の相談役ではないし、ましてや軟弱な穏健派でも平和主義者でもない。 源五郎と呼ばれていた十四、五歳の頃から、兄信長の名代として、各地に転戦を重ねていた、武将としても一流であった事を見落としている。 だから、これらは、全くの間違いで有楽の実像とはかけ離れているのも甚だしい。
さらに、毛利勝長、後藤又兵衛、明石全登、長宗我部盛親、片桐且元らの実像も違う。 作者の三谷幸喜は「僕は歴史の面白さを知り、テレビドラマの面白さを知りました」と、のたまって居るが、 歴史は正しい理論に基づいて史実となるのである。面白がっていては、そこから真実など見えてこないし、こういうトンチンカンが歴史ドラマを作るのは困りものである。この男、公共電波を使って、お上の愚民教育の片棒を担いでいることに気付いているのか。
以下は、戦国人名事典(故高柳光寿博士著)による織田有楽の略歴である。
 
 尚、史料出典は次による。『寛政譜』『茶人大系図』『桃山末分限帖』『慶長見聞録』
織田有楽、幼名を源五と云う。後に有楽と名乗り、従四位下、侍従。 尾張の織田信秀の十一男として生まれる。天正十年摂津島下郡味舌二千石を安堵される。 同年六月本能寺の変の際、明智光秀の軍が二条城を包囲したとき、彼は城中にいたが、幸運にも無事だった。 この後豊臣秀吉に従う。晩年は剃髪して有楽と号し秀吉に近侍、お伽衆となる。 慶長三年、秀吉が死ぬとその遺物金から黄金三十枚を受領した。
同年四年十二月八日、徳川家康の摂津茨木での放鷹の時、お伽衆の面々と随従する。 慶長四年五年当時、味舌一万五千石。 同五年、関が原の役には東軍に属し、敢闘する。 後に茶人となり利休高足七人の内に入る。元和元年十二月十三日死す。七十五歳。
【注】高柳博士は昭和四十六年「歴史読本」十一月号で、本能寺で信長を殺したと云われている明智光秀犯人説は疑わしい、と論評されている。    現在、光秀犯人説の史料の数多く存在する中で一つだけ光秀を犯人にしていない「織田軍記」がある。    以下の織田有楽に関しても、これを下敷きにしての考察であることを、ここに、ことわっておく。
 実際は大阪冬の陣の総大将だった有楽。
織田備後守信秀の三男が、かの有名な織田信長である。 信秀の末っ子の十一男とされているのが、織田源五郎長益で、元和二年当時は有楽を名乗っていた。そしてこの春から出府して江戸住まいをしていた。 千利休門下の<七哲>の一人に数えられ、元伯、宗旦と並んで茶の湯の大家ともてはやされていた。 そして自分も有楽流の開祖として、点前などにも新しい流儀を編み出している。 だから当時は茶匠として悠々自適の生涯を過ごしていたように思い込まれていたらしい。 江戸での住まいは数寄屋橋の堀美作屋敷の斜め前に敷地を貰い、己の邸宅を設けると、土佐町わきのこの一角を、人呼んで有楽町という。 次の鍛冶橋まで、ずつと回り道をするのが大儀ゆえ、掛板を渡し酒井右近邸の前へ出られるようにしたところ、これも便利がられて、有楽橋と名付けられ、 これが現代にも到っている。この頃は東国へ移ってから比較的平穏な生活ではあった。 しかし、門塀等に墨黒々と「裏切り有楽」「腰抜け有楽」といった張り札をされるようになった。 (昨年五月八日に落城した大阪方の残党の仕業であろう)と、そのたびに牢人取締の役向きが、小田原口の番所から駆けつけてきた。
    大阪冬の陣
この訳は、慶長十九年十月三日。 徳川家康はいよいよ大阪征伐の布令を出した。これに驚いた大阪城の実質的な城主である淀君は、織田一門で叔父に当たる織田有楽を、大阪城へ招きいれ 関東方への対抗馬にと担ぎ出し、関西側の総大将として軍配を預けたのが事の始まりである。 この戦を俗に、大阪冬の陣と呼ぶ。関が原合戦の時は西軍の総大将は毛利輝元だった。この時の有楽は東軍に加わっている。 有楽は何と言っても織田信長の弟で、格式からいってもふさわしいお方だと、大阪城から大野治長が、夥しい黄金の山を持って、使者に訪れた。
  有楽の指揮で大阪城は陥落しなかった
そして織田一門が、東西に分かれていては、前の関が原合戦の時みたいに具合が悪い。そこで松山から大和へ移っていた常真こと織田信雄も呼んで、 これを大阪城の副大将にした。軍編成としてその下に、新規に入城した、真田幸村、明石全登、毛利勝長、後藤又兵衛、長宗我部盛親を派属させた。 大野修理らの城内衆は、女鎧を纏った淀殿指揮の女武者隊と共に、これは秀頼を守護した。
この織田一門が大阪城の総大将になったのに驚いたのは家康で、今度の戦には、なまじ家名の者は信用出来ない、ということで、前の関が原で手柄のあった者でも、ことごとく江戸残留を言いつけた。 だから、福島正則や黒田長政、平野長泰といった者は、小姓を二名だけを伴っただけで、江戸城へ押し込められて、ていのいい軟禁で留守居をさせられた。
この戦で有楽の指揮で、牢人衆も善戦したが、何といっても大阪城は難攻不落の日本一の城である。どう攻め込まれても負けはしなかった。 その為攻めあぐんだ関東方は、十二月二十日に和議を申し込んだ。そこで有楽は「役目は終わった」として大阪城を出ると上洛して、洛外の建仁寺の塔頭 正伝院に入り、そこで自己流の茶席を建て、織田如庵と号して茶道に専念した。
  大阪城夏の陣で豊臣家は滅亡する
しかし、年が明けると又開戦の知らせが来て、大阪城から再度の招きが来たが、これを断った。これが大阪夏の陣。 ・・・・一年前の総大将のくせに、知らぬ顔をして、みすみす淀君と秀頼を見殺しにした、と洛中洛外に悪名が轟き渡り、挙句のはてに(徳川秀忠の室になっている姪の江与の方の手引きで、有楽が大阪城の総掘を埋めさせて、関東方に勝利を与えた)そして前もって結果が判っていたからこそ(今度は籠城せずに、京の 建仁寺に隠棲していたのだ)とさえ陰口された。
江与の方とは、徳川秀忠の御台所だが、先に尾張の佐治与九郎に嫁ぎ、のち秀吉に連れ戻されて、その養子羽柴秀勝の妻となり、その死後は九条左大臣に嫁入りし、秀吉の為に禁裏の裏工作に骨を折らされ、その後二十三歳の時に又秀吉の養女として、文禄四年伏見城で当時十七歳だった徳川秀忠に、四度目の嫁入りをさせられ、江戸へ与えるのだからと<江与の方>と改名された、淀君の末の妹である。やはり浅井長政へ嫁いだ於市御前の娘だから、織田有楽とは叔姪の間柄になっていた。
人の口に戸は立てられぬ、といっても堪りかねた有楽は今でも大名には違いなく、そこで大和の所領を、上の倅長政に芝村一万石。下の尚長には柳本一万石と等分に分け与え、自分は駿府の家康に進められるまま江戸に出て落ち着いた。 ところが丁度この時、思いがけなく頼みの綱の徳川家康が死んでしまった。
      卑怯者扱いされた晩年の有楽
考えれば、裏切り呼ばわりされたり、腰抜けと嘲られのは何も今に始まったことでもない。 兄信長と、その嫡男信忠が不慮の死を遂げ、一年と経たぬ内に秀吉は、岐阜城に移っていた信忠の弟、三七信孝と仲違いしてこれを攻めた。 そして助力した柴田勝家や滝川将監を討ってから、信孝の異母兄に当たる織田三介信雄をやって、信孝を尾州野間で殺させたが、その時も有楽は仲介に入らず、甥を見殺しにしたからと、「虜外者」と、冷ややかに取り沙汰された。
その翌年の天正十二年四月。今度は、織田信雄と秀吉が手を切って、徳川家康がこれを後押しして、小牧長久手の合戦が尾張であった。 その時も折角参陣して、信雄に味方したのに、ろくに戦をせぬからと、 (あれでも二年前に亡くなられた天下様の実の弟なのか、織田信長様もとんだ不所存者の、げてな弟殿を残されたものよ) と、散々に、嘲笑されたものである。陰口とは嫌なものである。そこで耐えられなくなって頭を丸め、織田長益から有楽と、小田原陣の後からは、とうとう改名もした。十五年たって、次に関が原役が起きた。
岐阜城の跡目を継いだ、嫡男信忠の忘れ形見の三法師が、織田秀信と成人し、西軍に加担した。だが利あらず敗れて、福島正則に捕らえられ、芋洗里に移された。そして剃髪させられ高野山へ追われ、後顧の憂いのないようにと、家康の手の者に二十一歳で殺されてしまった。 ここにはっきりと織田の正統は断絶した。すると、 「命惜しさに、己は東軍に加担して、日和見してござつたとは、まこと卑怯未練な。よくもまあおめおめと生き恥をさらされる」と、 酷評され、まるで人でなしのようにさえ、有楽は爪はじきされた。 いまや織田一門や譜代の者で、生き残れたのはなんといっても有楽一人になってしまったのである。
全ては偉大な兄である織田信長が、突然、本能寺で爆殺されたことに起因するとはいえ、有楽も、数奇な運命を辿った一人と言えよう。 だから晩年は、凄まじい権力闘争に嫌気が差し、その渦中を離れ、虚無的な人生を送る道を選んだのであろう。 「臆病、腰抜け」と永遠の汚名を背負ったため、歴史家に認められない哀れな男、織田有楽へのこれは挽歌であり、 「有楽」「有楽町」と口にするとき、人間それ自体がいかに虚しい存在であるかの証でもあろう。
 
 

大江戸四方山話 身振り手振りの語源

2019-04-29 10:06:35 | 古代から現代史まで

   大江戸四方山話             

 
       手ぶり
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  現代、この言葉は「大袈裟な身振り手振りで話す」等と使われている。だが江戸時代は「棒てぶり」の名前で、江戸日本橋に在ったアマダナと呼ばれ繁盛していた商売で、魚を売り歩く者たちのことを言った。  又、旅人が川を渡るとき、蓮台や肩に乗せて運ぶ者たちを川越人足と呼んだが、彼らのことを「肩てぶり」といった。  そして川の渡守を小舟を長い竹竿で操るから「竿てぶり」と呼んだ。
 
江戸享保年間に、映画やテレビでお馴染みの大岡忠相(越前守)が五街道目付を新設するにあたって、食い扶持、即ち  今で言う給料を払わなくて済む方策として「祇」を信仰する、日本原住民系の内の海洋渡来民族の、流れ職人や旅芸人を堂(道)の者として目付にし、 幕府公認であることの目印に朱鞘の大刀と逮捕、捕縛、処刑の特権をを与えたのである。    (この者たちに幕府は扶持は出さない代わりに博打の権利を与えたのである。そして次第に彼らが日本各地に定住するようになり  博打のてら銭で、西部劇の補助シェリフにも当たる捕り方や子方を養い、やがて日本全国を勝手に区割りして縄張りと称し親分子分の  関係を築きこれがヤクザの源流となる。
 
現在ヤクザを一括して暴力団として排斥しているが、昭和の50年代までヤクザはタカマチで物を売る  テキヤと博打を打つ博徒は厳然と分かれていたし、博打のテラ銭は昔から一割と決まっていた。日本政府は博打のテラ銭ほしさに彼らから  賭博の権利を奪ったので、ヤクザは止む無く様々な裏稼業に手を染めざるを得なくなったのである。そしてお上が開帳する競馬のテラ銭たるや  二割五分もとっているのは周知の事実で、全くヤクザより阿漕なのが現在のお上である。近頃は全国にカジノを作り、国民から更に銭を巻き上げようとしているのだから、全く残酷な話しである)さて、この時代日本各地では凶作で、別所、院内、院地、山所と呼び名は様々あるが現代ではという、被差別の原住民の囲い地から「江戸へ行けば 何とかなるだろう」とこの限定囲い地から次々と抜け出し、西は名古屋、大阪、東は江戸と続々と流入した。
 
この時代から何の産業もない江戸が130万という世界一の人口になったのもこれが原因なのである。  この囲い地を抜け出した部族も、街道目付の部族も同じ「祇」を信仰する同族だったため伝達をつけからの脱出は容易だったらしい。しかし無事に脱出して江戸へ来たものの、そうやすやすと仕事(職)はない。そこで江戸でも同信心で弾佐衛門配下の日本橋アマダナで魚を売るため 天秤棒を借りて江戸町内を売り歩いた。  講談や映画で有名な大久保彦左衛門の腰巾着のような一心太助はベランメイ調でベラベラしゃべっているが、あれはあくまでもフィクションである。日本は往古より六十余州というくらいで、その地方独特の言葉があり、これは現代でも青森と鹿児島ではまるで言葉が通じない。  だから当時でも江戸へ北から南から流入した脱出人間は江戸言葉が上手く使えず、言葉に難儀したらしい。 そこで客に呼び止められ「今日の魚は何があるんだい?」等と聞かれると、天秤棒を下ろし、身振り手振りで魚を売ったのが語源なのである。 ヨーロッパも多くの国が国境を接していて言語もバラバラな所は、意思疎通も大変だから、身振り手振りの大袈裟な所作で会話をするのと同じことである。
 
 
 戦国時代後期の信長、秀吉時代、彼らの出身地である尾張弁が公用語だったから、「ここにきゃーたる」「そうだなきゃも」等の言葉に面食らわされ  地方の大名は慣れるのに随分苦労したらしい。  関が原で多くの大名が徳川に付いたのも、仏教系の三成を初めとする西国大名と、祇や白山(神信心)を奉じる徳川のいわば宗教闘争の側面は正しいが、再度豊臣の天下なればこの尾張弁に又悩まされるのはかなわんと、徳川を勝たせたという大名心理も 大いに関係があるのである。江戸時代、馬で人や物を運ぶ商売は騎馬民族系の末裔で、駕を担いだり大八車で荷物を運ぶ方は、太古飛鳥人と呼ばれた古代海人族の  限定職業で厳しく決まっていた。
 
そして騎馬民族系(源氏)の民族色は白で海洋渡来古代海人族(平氏)は赤とこれもまた決まっていた。  大井川などで蓮台や肩に乗せ人を運んでいた者たちは赤ふんどし、一方街道で雲助とも呼ばれた馬方や荷物運びの人足は白ふんどしで はっきり見分けが付いた。さて、こうした資本や、たいした技術のいらない仕事に各地のを抜け出して就労したが、言葉が上手く通じないため、やはり身振り手振りで話したらしく 苦労したらしい。
 
 今でこそ学校教育で標準語が定まっている。だが江戸時代はそうは行かず、関東のイは中部地方ではシになり、関西ではアとなる。  例として関東の「いかん、いけない」が関西では「あかん、あきしまへん」となる如く。津軽弁と越後弁は同種同族だから、似通った言葉で通じるが、九州となると古代朝鮮新羅系人間が多く住む北部と、 古代朝鮮高麗系人間が多い薩摩ではやはり身振り手振りを入れなければ会話が出来ない。
 
前述したように、人種が入り交じり、国境が錯綜している欧米人が会話の合間に大袈裟なジェスチャーを挟むのもやはり同じことである。  つまり日本原住民を差別し、限定居住地に押し込めていた日本では、この手振りが会話の中で幅を利かすようになったのは、  徳川八代将軍吉宗の時代に日本各地のから大挙して着の身着のままの人間が都市に溢れ出した為である。
      手 妻
奇術の中に「和風奇術」という分野がある。 現在の説では、水芸や南京玉すだれやの手品をなす芸人を手妻使いといったとなっている。これは江戸期近松門左衛門の<三国志>の中の「さらば拙者が手妻を御覧に入れん」という口上からである。 十返舎一九の<東海道中膝栗毛>の中にも、「ありぁ釜七という有名な手妻使いじゃねえか」と出てくるから、これは徳川綱吉以降の用語らい。 というのは、先住民族である日本原住民の女は奴隷とされ、大陸勢力の豪い様は、妻を連れて進駐してきた訳ではないから、単身赴任の彼らに強制的に召し上げられていた。さらに奴隷化された男といえば、生涯嫁とりは出来なかったから、先住民を「セン」として、これが「センズリ」の語源ともなっている、誠に哀しい言葉なのである。
 
処が、若い間は自分の事は自分で済ましても、次第に自分でしては済まされないようになった時。つまり男は、歳をとると中々勃起はしない。しかし、哀しいかな男の性(さが)でそうした要求は無くなりはしない。こうした男達の要求を満たすため、代行してくれる器用なのが出てた。
昭和初期まで浅草や大阪通天閣にも「かきや」とよぶ商売人が居たもので、これは文字を書く代書屋とは違って、他人の一物を舌等を使い、巧く操って用をたたせて銭を取っていたという。 奴隷制が小作百姓とか水呑み百姓の名称で続いた江戸時代までは、手を人間の妻の代わりにする手妻使いが居たというのが、真実なのである。
つまり、シュツシュツと水が噴出す有様が男の射精に似ていたり、ぐんにゃりして頭を垂れている玉すだれが、突如として勃起する如く立つ有様が似ているので、手妻を連想してそうした呼称が始まったものなのである。 だから、私達日本原住民のご先祖様たちの、悲しくも憐れな話なのである。井原西鶴の「俗つれづれ」に、魚釣りの説明のくだりで、「手妻のききし人は、間もおかず次々と数多く釣りける」と、やはり水から魚が跳ねつつ飛沫をあげて釣り上げる情景を説明している。
処が、手妻の本当の意味を隠さなければ、昔の施政者の残酷な原住民差別が解ってしまう。 これでは具合が悪いと、歴史屋共が「手品」「手先の仕事」だと意味を変え、国語学者も同調して辞典もこうなっている。 日曜大工とか、指物師という家具職人なら、それでも当てはまるだろうが、魚釣りは手先の器用さや不器用で数多く釣れるものではない。 これは常識で判りきった事なので、嘘だと理解できるだろう。