新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

武漢肺炎の薬は製造を中国から日本へ移して、日本メーカーで製造をすべき

2020-05-04 18:58:10 | 新日本意外史 古代から現代まで

武漢肺炎の薬は製造を中国から日本へ移して、日本メーカーで製造をすべき

英フィナンシャル・タイムズが先月23日報じたところによると、米ギリアド・サイエンシズが開発した「レムデシビル」が新型コロナウイルスの治験で、有効性が得られなかったと報じました。
WHOが中国の研究者らの報告を査読の途中で誤って公開したもので、これについてギリアド社は「報告が不適切に意義付けされている」として反論しています。
この、レムデシビルはエボラ出血熱の治療薬です。
米トランプ大統領も新型コロナウイルスの治療薬になると発言していましたし、日本でも治験を始めていますが、どのような結果になるでしょうか。
一方で、アビガンの有効性に関しては証拠がいくつか出てきています。
そもそも、武漢肺炎の治療薬としてはどのような薬があるのかということだが、国内で観察研究しているものは4つあるらしい。
アビガン、レムデシベル、クレトラ、オルバスコなどである。
この中でアビガンが、日本でも一部において治療薬として使用を開始しています。
当初、アビガンの製造・拡販については、富山化学を傘下に収める富士フイルムが独占的に展開するのかと思いましたが、アビガンはすでに物質特許が失効しているため、他のメーカーでも製造可能だという。
特に、アビガンの原材料がある中国ではメーカーがこぞって製造に乗り出す可能性もあるというが、
そそっかしい私は、中国にしかない特殊な鉱物か、薬草から取り出すのだと想っていた。
しかしアビガンの原材料は、マロン酸ジェチルだという。これは化学物質で合成香料や農薬、医薬品の原料でもあるという。
さらに、このマロン酸の原料であるモノクロル酢酸は、日本で唯一デナック社で製造されているという。
ネットで調べてみると次の化学式で表記されていて、
クロロ酢酸は赤リン、硫黄もしくはヨウ素といった触媒の存在下で酢酸を塩素処理することで合成される。
CH 3 CO 2 H + Cl 2 ⟶ ClCH 2 CO 2 H + HCl {\displaystyle {\ce {CH3CO2H\ + Cl2 -> ClCH2CO2H\ + HCl}}}
{\displaystyle {\ce {CH3CO2H\ + Cl2 -> ClCH2CO2H\ + HCl}}}
また、硫酸を触媒にしてトリクロロエチレンを加水分解させる方法でも合成できる。 となっている。
門外漢の私には理解不能だが、これを見ると、中国頼みでなくとも、原料の製造を中国から日本に移して、デンカ、カネカなど日本のメーカーに製造させるべきではないか。
日本政府は、国内の製薬会社を纏め、一刻も早くアビガンの大量生産体制に踏み切って欲しいものである。
武漢肺炎に罹っても、何処の病院へ行ってもこの薬で治るなら、緊急事態宣言も解除でき、経済活動も再開できるだろう。
従って日本経済の大きな落ち込みも防ぐことができる。

宇部興産、「アビガン錠」の生産に必要な中間体の製造と供給を開始 
https://news.mynavi.jp/article/20200423-1022240/




吉田松陰と明治維新の考察

2020-05-04 11:33:15 | 新日本意外史 古代から現代まで

吉田松陰と明治維新の考察

 現在、日本各地にある神宮といっても、下に「宮」がつくのは被差別された存在という事を念頭にまず入れておくべきである。
ここの処がよく呑み込めず、一変した明治以降の観点で考えてはならない。なにしろ京の祇園花街の発生も、赤塗りの宮を護ってゆくために、官女が身を挺して乱暴され壊されるのを防いだからで、
こうした例は何処の宮にもあったのである。
さて吉田松陰の「討賊始末記」の本に、長門大津の川尻浦山王社の宮とよぶのがあり、宮番で堂守りの幸吉は妻登波の他に両親と年頃の妹四人と、ひっそり居付きにいた処、
喰いつめ者の浪人枯木竜之進が目をつけ、「宿場女郎では銭をとられる。
しかし履物も許されぬ宮番の娘なら一文もいらぬから儲かる」と忍びこんで、まず邪魔になる幸吉と、その両親を叩っ斬ってから、十八歳、十七歳、十五歳の三人の娘から、まだ子供の十四歳の末娘まで順ぐりに強姦してのけてから、
後の事を考えて、 「どうせ人外の宮で、寺人別帳にも入ってない者らゆえ、あやめても人殺しにはならぬ」と娘達を惨殺して逃亡。
所用があって留守をしていた嫁の登波は戻ってきて一家惨殺に仰天した。
それから十年がかりで、ようやく仇討ちをとげた登波を吉田松陰は、松下村塾に泊めて、当時もめったにない、稀らしい仇討ちの話をきき筆記した際、門下の高杉普作や久坂義助が門人一同を代表するみたいに、
「人外者の宮番づれの妻を、今のように何日も寝泊りさせるのは、塾の汚れとなります」と登波を即刻、松下村塾から追放して、塾をきよめ、お祓いをしようと申し出た。
しかし松蔭は、「何をいう。宮の者や社のつるそめ神人をとしたのは、徳川綱吉の神仏混合令からの悪法である。吾らは徳川を倒し四民平等の世をと志しているのに、なんたる差別思想か情けない」と、
二歳年上の登波の十年をこす苦労をいたわり、素足で山野を駆け廻っていたので、あかぎれと切り傷で腫んだ足に、自ら練り薬を塗ってやり膏薬をはって休ませ、身体が本復するまで、松下村塾で休ませたのは、
藩命で野山獄へ入れられる一ヶ月ほど前の事であった。
維新の元勲と謂われる、松蔭の門下生だった伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、桂小五郎たちは「四民平等」の精神を忘れ、富国強兵、経済重視政策を採り、日本は欧米植民地主義の後を追うことになる。
(注)四民というのは、現在学校でも教えている、士、農、工、商、のことを指すが、文中に「人外」とあるのは、学校では教えない、四民の他に、日本の人口の半分以上もいた、差別されて、
各地の限定囲い地に強制的に住まわされていた者達をいう。
さらに、この他に「サンカ」といわれる部族も居て、仇討ちをした登波一家は、何代も前から村にひっそりと隠れ住んでいた者である。
また、昭和の初期頃までサンカ部族の中でも定住せず、各地の山野河川にテントを張り、家族ごとに生活していた者も多かった。
 彼らの実態を五木寛之は「風の王国」で小説として描いている。
サンカの武器として前掲の画像にあるウメガイ「梅ガイ」について説明すると、サンカ部族というのは契丹(日本史では宋国)からの移住者も多く、唐を滅ぼした契丹より送られてきた鋼鉄製の短刀を
五等分し戦いの時には木の柄にはめて槍の代わりとした。そして契丹の国章は梅花だから五弁をデザイン化して刻印していた。
しかし、とても全ての人間に持たすことはできず、古来のホタテやアワビ貝を石で鋭利に研ぎすました貝剣の者も居たから、彼らの武器を梅ガイというのである。
この者達に比べ、近代民主主義の先駆け思想を持っていた、松蔭のような偉人を失ったのは大きな損失である。
何故なら、維新後もこの差別思想は残り、同和問題で現在でもその本質は解決していないからである。
吉田松陰が「討賊始末記」に詳細書き残しておいてくれたから、幕末になっても、まだ宮とか、宮の者といった存在が被差別対象にされていた事がよく判る。しかし、今の感覚では、判らないだろう。
なにしろ宮の者とか堂の者といわれるのは、本来は古代史の最後のしめくくりの平政子の赤系(平氏)なのだが、藤王朝のトウを滅ぼした契丹人が続々と日本海をわたって入ってくると、
京では、「江戸の仇は長崎でといやはるが、故国の恨みを此方ではらしたろまいか」と、でっちあげの天慶(天刑)の乱で、彼らが火山灰地を耕して農地化した坂東八ヶ国を奪って、京の公家どもが己が荘園にと分けあってしまった時、
東北へ追討されてサンカのシノガラの群れに彼らは隠れたからして、契丹系である菅原道真の天神信仰は、「封じ込め祟りよけ」の堂にしても、紅殻塗りの「天満宮」と、宮扱いにされて残っている。
「稲荷」こと「夷也」とて同じ紅殻塗りで、エビスなりに被差別してのけられたのは敵性人種とみなして唐でないつまりトウナイとなしてのことだろうか。
唐が滅ぼした随の人々が住みついていた「中ツ国」つまり今の中国地方の者を、進駐した郭ムソウ将軍も、通辞(通訳)に使ったり便利がって用いたけれども、それでも、
「ズイズイ、ズッ転ばし、糠みそズイ」と陰では蔑ませ歌わせ、同じトウの発音でも桃とした。
「桃原」「桃成」と藤文書にでてくる連中が彼らであるのは、「良き鉄は釘にならず、良き育ちは兵にならぬ」の中国の格言通りに、隠忍(おに)が島の討伐にやらされるのも藤太郎ではなく桃太郎のお伽噺として残っている。
ちなみに桃太郎伝説の本当の意味は、
「中ツ国」と呼ばれるのは今の中国地方の岡山。隋を滅ぼした中国の唐が白村江、朝鮮半島で日本よりの派遣軍を大敗させて九州からの進駐。
そして「唐」を「藤」と替字してからは、滅ぼした隋の人間には「桃」の字をばあてて区別していた。
黄塵吹き荒れる空気の悪い中国大陸から進駐してきた連中にとって、当時の日本は水澄花咲き乱れ、四季のはっきりした別天地と映ったろう。
これを桃源郷という。また、大陸にはない霊峰ふじさんを見て、これを藤原の山と当て字して「富士山」とも名付けた。
桃(藤)から生れた桃太郎は凛々しい貴公子として描かれ、
当時の事ゆえコウリャン団子だったのを、新羅系のサル、高麗のイヌ、百済系の戦士のキージーに食糧を給して、隠忍とよばれていた吾らのご先祖様の原住民討伐に行き、
彼らが耕していた穀物や干魚や荒塩を宝物として掠奪してきただけの話なのである。
原住民を鬼として卑しめ、占領者を正義とする、誠に倒錯した話に仕立てている。
こんな童話を子供の頃から絵本で洗脳している国がこの国なのである。
原住系が多く住む東海地方など、桃太郎話は禁止している所もある。
「わしらにツノが生えちょるか」「鬼は向こうで順序が逆だがや」と、お婆ちゃんは怒っていたものである。
    吉田松陰のもう一方の思想  
 松陰の内部には、平等とは相反する思想が同居していたようである。
さてここまで松陰を称賛する文を記してきたが、公平な歴史の解明を担保する意味で、彼の負の側面にも触れておかなくてはなるまいと思う。
何故なら、現在安部政府は今年を「明治百五十年」として記念事業を展開しており、明治を礼賛し、維新一方の雄である長州人脈を称える言動も窺えるからである。
そして、明治維新を近代日本の幕開けとして、明るい時代として讃える、所謂、維新を主導した薩摩と長州の薩長史観が根強く感じられる。
前項でも触れたが、松陰の四民平等思想は、これはあくまでも日本国内の問題提起だと思われる。
一方、松陰が幕末につづった『幽囚録』には、後の蝦夷地征服や、琉球処分、朝鮮併合を奨励する記述があるからである。
その内容は「蝦夷地を開墾して諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様参勤させ、朝鮮を責めて質を取って朝貢させ、北は満州の地を割き取り、
南は台湾ルソンを収め、漸時進取の勢いを示せ」この「脱亜入欧」の思想は明治政府に貫かれて、日本は植民地主義に激しく傾斜していく。
この、幽囚録と四民平等思想を合わせて考えれば、国民を労働力と兵士として、富国強兵政策によって、東亜を植民地とする軍国主義が透けて見える。
まず、この幕末時期に未だ諸侯、即ち大名を残す考えであり、隙に乗じてとは、まるで習近平中国のような世界侵略思想で、帝政ロシアの力が弱い土地に、まるで泥棒猫ような振舞いを提唱している。
そして、琉球を諭してとは、武力併合はしないまでも、日本の一州として、琉球王を一大名並みに徳川家に臣従させようとしている。
また、朝鮮を責めて質を取るとは、朝鮮の資源を奪い、日本に臣従させることになる。
さらに、大陸に目を向けて、満州を占領し、台湾やフィリピンまで日本の植民地にするという、この「脱亜入欧」思想は明治政府に引き継がれ、日本は欧米植民地支配の片棒を担ぐことになる。
こうして日本は征韓論から日清日露戦争を経て、大東亜戦争で昭和二十年の敗戦まで一気に突っ走るのである。