新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

中国一辺倒の二階幹事長

2020-08-10 10:45:54 | 新日本意外史 古代から現代まで

   中国一辺倒の二階幹事長

先頃、米国有力研究機関が日本の対中匡政策形成の実態を調査した。
7月下旬に公表されたこの報告書は、安倍晋三首相の対中姿勢に大きな影響を与えてきた人物として、
首相補佐官の今井尚哉氏の名を明記していた。また安倍首相の対中政策を親中方向に向かわせる存在として、二階俊博・自民党幹事長や公明党を挙げていた。
(公明党の池田大作氏も中国と仲の良いことは有名で、池田氏が中国へ訪問した時には国家主席が歓迎してくれるほどです)また、過剰に中国に媚びる鳩山元首相の名も挙がっている。
日本の政治家や、文化人や学者の中には骨の髄から左がかったのや、中国一辺倒、韓国大好き、さらには北朝鮮を称賛する馬鹿者までいる。全くこのご時世にどうかしているのではなかろうか。
ここで、二階幹事長について、何故にこうも中国贔屓なのかを考察してみたい。
何故なら彼には、中国に対して、「友好」とか「善隣」とか「先人の努力」といった曖昧な言葉が出てくるだけで、政策と呼べるような外交方針の説明は聞いたことがないからである。
また氏の経歴を見ると、国会議員の秘書から県会議員を経て衆議院議員となった、典型的な出世コースを辿っている。
だが、自民党から新生党、新進党、自由党、保守党と政界渡り鳥でもあり、自己中心的な側面も窺われる。
また、旧親分である当時民主党幹事長だった小沢一郎も2009年、民主党議員143名と一般参加者など483名で構成された大訪中団を率いて胡錦濤国家主席など中国要人と会見している。
この親分を平気で裏切ったくせに、親分の真似をして、二階氏は2015年5月にも、自民党総務会長として約3000人の訪中団を連れて北京を訪れた。習近平国家主席とも、親しく会談した。これぞまさしく「媚諂朝貢外交」だった。
さらに、新幹線の中国への輸出に関し、2000年1月の訪中時に、新幹線担当の国家発展計画委員会主任(大臣)曽培炎、さらに中国大使陳健に対し、
【日本は中国から文化を教わり、その延長線上に今日の日本の繁栄がある。そのなかから、たまたま新幹線の技術を開発した】
「この技術が中国の発展にもしお役にたつならば、どうぞ一つお使いください。積極的に協力します」と述べている。
上の【】の部分には驚くを通り越して情けない。この人の歴史認識はこの程度なのであり、大きな間違いでもある。
日本の飛鳥から奈良時代にかけ、坊主という宣教師を手先に仏教と漢字を持ち込んで強制的に広めたのが中国ではないか。
そして彼らは「藤原氏」と称して300年近くも君臨し、我ら日本原住民のご先祖様たちを差別し奴隷化した史実がある。漢字の国の強みで、大陸にはない美しい富士山を見た彼らは、
これぞ「藤原氏の山である」と思い上がりも甚だしく「富士山」とつけている。そしてさっさと自分たちに都合のいい「日本書紀」と「古事記」を捏造し、現在までこの呪縛は日本史を毒している。
その後ご先祖様たちは日本の風土寒暖に合わせ、日本独特の文化や科学、文学、芸術を開花させたのである。
今や世界が認める堂々たる日本文化を、中国に媚びることなど全くないのである。

さて、歴史上隠されてはいるが、前記したように、この日本列島には中国は「隋」や「唐」の時代から中国人が日本に住み着いていた事実がある。
さらに朝鮮人も「馬韓、弁韓、辰韓」時代から移住し、日本で代理戦争の時代さえあった。そして、我ら原住民と混血した子孫が綿々と現在まで続いているのである。
ここで彼らを別に差別や区別する気は毛頭ない。何故ならこの日本列島はアラブ系、ポリネシア系、インドシナ系、中国系、契丹系、朝鮮系、白系ロシア(韃靼)、インド系と、
雑多な民族で構成されいて、雑種民族の強靭さ故、今の日本が造られているからである。そしてこれらは全て黄色民族で一見したところ、見分けがつかないのが特徴である。
大和民族単一説は昭和軍部の宣伝だから、「海洋渡来系」と「騎馬皆族系」に大別することができる。
そして日本人の姓には「あいうえお」の母音に「いきしちに、うくすつぬ、えけせてね、おこそとの、」の子音がつくが、今回は二階氏の「イキシチニ横列」の「ニ」の付く姓についての考察。
この姓は二階、二階堂、蜷川、西田、西本、西山、二本柳、などそう多くはない。
戦国人名辞典にも、新位田元定(秀吉馬廻)、二階堂長五郎、二本松義継(奥州探題)、仁賀保挙誠(由利十二党の筆頭)、仁科盛信(武田勝頼の弟)、丹羽源太夫(秀吉馬廻)
丹羽長秀(信長から秀吉に仕える)、新国上総介(奥州水沼城主)、新納忠元(薩摩大口城主)、西尾五郎右衛門(秀吉馬廻)、西川方盛(秀吉使番)、
西洞院時慶(にしのとういんときよし・廷臣でその日記「時慶記」が有名)、西堀勘九郎(豊臣秀次馬廻)、蜷川親長(足利将軍、義輝、義昭に仕え、後家康に仕える)
如法寺親武(にょほうじちかたけ・豊前の地侍)と少ない姓である。

〝姓〟のイニシャルで明確に判別できる
 明治五年に時の薩長政府が、新しく地租とよぶ税金を取りたてることになったのは、一般にも知られています。しかし、徴税令書を発行し、それを間違いなく送り届ける必要上からして、
『庶民に称氏を許可する』といって姓のない者にも新しい姓を与えたのが、今でいえば郵便番号制のような姓の普及化ですが、それでは、先祖伝来の姓ではなく、そのように与えられた姓で判断しても、
それはナンセンスではないか?と早呑み込みする向きもありましょう。
 しかし、それは≪壬申戸籍≫とよばれるその当時に作成された台帳にも、はっきりと色々書き込まれ、その由来が判るようなものが残っており証明してくれます。
 というのも、住んでいる地名からか、昔からの伝承の姓をつけるにしても、その最初の発音、つまり<姓のイニシャル>で直ぐ耳から入って分類できるようにとの新政府の命令で、
役場はそれを守って命姓に協力したからです。
   
◆もともとこれは文献の上でも、きわめて明白なことで「関馬之允の姓は、伊勢の地名からきているが、武者の姓は、これ本貫地の地名を取るが慣わしであるからである」と、
十六世紀に書かれた北条早雲の<永正三年小笠原定基宛文書>にも明示されているくらいのものであって、なにも明治になってこと新しく始まったことでもないのです。
 さて、「上州、国定村の忠次郎」というように、また源平時代の、「武蔵の熊谷在の直実にて候」といっていたのが、その内に、村とか在をやがて省略し江戸期からは、
(何の)の〝の〟が縮まってしまったのが、姓と名の直結になるのです。
   
◆例外として、「美濃かとう武者の勢いすさまじく、上等の土岐侍よりも、目ざましい働きをした」と<天文三年朝倉文書>にもありますように、呼び名というか、渾名のような、
(美濃かとう武者)が転化して姓となった加藤などと言ったものもあります。(もちろん下等といっても、それは低級の意味ではなく、足利時代には仏徒が、「浄土」を「上等」と当て字していたので、
その釣り合いから神徒系は「かとう」と呼ばれたのが始りです)ですから、従来いわれていたような、
「加賀へ入った藤原氏が加藤の姓になる」といったのは単なるこじつけにすぎません。
また第二横列(イ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、
『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。
 原住農耕系(仁徳王朝系)─イ姓列
 関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。
 つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、第五横列(オ姓列)に入ります。
また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)
 何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは原住民なのですが彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、早いとこ藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中。
それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、あくまで公家に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。
 反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じことですが、いち早く藤原側について、種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、
編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、昔は軽くみられ、「奴百姓」とも呼ばれました。
 しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、
今では土地成金になった人も多く、その要領のよさでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。
 一般には、イのつく姓は、十世紀に編纂されたところの≪延喜式≫に多く現われてくる姓です。が、関東では討伐されてやむなく田夷となったり閉伊族ともなりましたが、その点、関西の住人であったイ姓の者は、
地理状況から藤原船舶系にすぐ結びつき、いち早く降服をしいられ、種籾と鋤鍬をもたされて、体制下に組み入れられて、「編戸」の民になった人達で、この子孫が二十世紀の今も多いのは当然
といえましょう。日本原住民の中では真っ先に体制側についてしまった民族として要領のよさとか、人当たりのよさというものが、その生きていく必須条件であったため、その歴史の上からしても体制に近く、
きわめて外向的かつ親善型といえます。つまり、世の中が激動しているときなどには、その波にうまく乗っていける抜け目のなさというか、非常にお利口な人というか、
ともかく今日でもエリート的な存在であることは間違いないといえます。
 そして人当たりの良さと美男美女が多いので、今では代表的日本人といえるでしょう。
〝セールスの必携〟という本に有能な販売員の名前の一覧表がありますが、驚くなかれ七割がこのイのつく姓だったのには感心させられました。つまり、頭が良いのも特徴らしく、どこの会社でも、
「切れる」といわれるのはイのつく姓でいわゆる立身出世型であるといえましょう。
 ですから、もしサラリーマンにして、上司にイのつく人がいた場合は、相手が相手ゆえ、自分の方も、「これ要領を本分とすべし」といった仕え方をするしかないというわけです。
 また、企業側としては、新しい事業の計画などのときには、きわめて抜け目のないこのイの姓の人を使えば、それで効果は十分に上がりますが、いわゆる番頭役として企業を守らせるという点においては、
危険性がないとはいいきれません。しかし、それは企業側からの立場であって、イのつく人自身は処世上、何の不安もなければいかなる波風にも負けることがなく、
きわめてラッキーな人生が送れることを保証できるといえます しかし、この姓は、歴史的にみた場合には、まこと厄介で、難しくなってきます。
 何故かといえば、東京から東北のほうの、イは「夷」を夷と発音して、それで通りますが、西南に入ると、このイの姓は、アと同じになるからです。それは、前にも述べましたように日本語には、
修辞と本辞があって、例えば関東語の「いけません」「いかん」という否定語が、関西語では「あかん」「あきしまへん」となるごとく、青森県の下北半島のイタコが、≪義経記≫などでは「イタ」という言葉で、
そのままでて
きますし、利根川沿岸の水郷で、かつての天の朝の残党が、閉じ込められていたあたりを、いまでも、「潮来」と書いて「イタコ」と呼んでいますがこれが京都の方に行くと、「アタコ」と変わります。
つまり吉田神道家で祀る、「愛宕神社」がそれです。(これに関して知りたい方は、私の「日本原住民史」(朝日新聞社刊)を参照してください。)
 何故こうなったのかといえば、天の朝の卑弥呼の系統の日本原住民は、紀元前九十七年の崇神王朝にとって変わられたあとも、非常にまだ人口も少なかった頃で雑居生活をしていたのです。
ところが船舶民族の仁徳王朝が現在の大坂にあたる難波に都を設けたときから、それまでの原住民はすべて反体制下に置かれてしまったからです。やがて六世紀の継体王朝が大陸から日本列島へ入ってくる
と、仁徳王朝系の人々も、同じように被占領民という扱いを受けてしまい、やがて仏教の流入が激しくなってきて、原住民の代表として政務に携わっていた蘇我氏が、
ついに藤原氏によって斥けられるという時代になってくると、いわゆる西暦六四六年の大化改新となって、
ここにはっきりと大陸渡米の藤原権力と、日本列島にいた日本原住民との間には格差がついてしまいます。ついで、その七世紀から八世紀にかけて、
次々とレジスタンスをはかる日本原住民への討伐隊が繰り出されたのです。そして、捕虜となった者たちは、人的資源の少ないその当時のことゆえ、現在の大坂、京都、奈良の周辺に集団で移住させられ、
これに種籾や農耕機具を与えて、今日の言葉でいうならば、集団コルホーズ化されたのです。
 イ姓の人の中には、あくまでもレジスタンスを心がけ反骨を示す東北系の者と、強制的に収容されて、体制べったりでなければ生きてゆけない境遇に追い込まれたために、
非常に馴化させられた者との二種類が生まれました。つまり終戦直後にアメリカ軍の基地に心安く出入りして、チョコレートやガムを横流ししたり、カタコトのスピークを操って、
二世風を気取ってうまく立ち廻った人々の多くはこのイ姓をもっています。つまり何をやるにしても、どんな場合でも、きわめて抜け目がなく、時機をみるに敏にして、
衆に抜きんでたものを生まれながらにして身に備えています。これは、とても他の人間の真似ができることではありません。
作家の五木寛之や石原慎太郎などは、その典型的なものといえます。現在次期総理候補と言われる石破氏や岸田氏は、この要領本分が特徴の典型。
千年前の犬は、現在でも犬であるように、民族の血にまつわる陰影を感じざるを得ない。
今や世界は武漢病毒症候群が猖獗を極め、日本は敵対する中国、北朝鮮、韓国に向き合い、内外の難題山積である。
激動する世界情勢の中、日本の指導者としては力量不足が心配するのは私だけだろうか。
誰が何処の国を好きだという気持ちは主観的なもので一向に構わない。
しかし、覇権主義を隠さず、尖閣まで盗りに来ている中国べったりの態度をとる二階氏は、もっと国益を考えた冷静な態度をとるべきであろう。

令和二年八月 武漢病毒症候群過の終息を、妄想が杞憂で終わることを願いつつ