新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 悪人毛利元就 毛利の「三ツ矢」の虚構

2020-08-18 17:28:45 | 新日本意外史 古代から現代まで
 悪人毛利元就 
毛利の「三ツ矢」の虚構


 最近つぶれた出版社から出た国定教科書の復刻版が、まだ出廻っているのを見かける。
『尋常小学校修身書』も本屋の店先で売られているが、その巻三の、第二十三章をあけると、
「三つ矢の教え」というのが出てくる。原文は長くて廻りくどいから要約すると、毛利元就が、その子の隆元、元春、隆景の三人を集めて矢を一本ずつ持たせ、「折ってみよ」と次々に折らせてから、
今度は三本かためて渡し、折れぬのをみすましてから、
「一本の矢ならたやすく折れるが、三本一緒では折れまい。お前たち兄弟も一人ずつでは敵に負けるかも知れないが、三人兄弟が一つになって仲良く手を握りあえば、決して他から侮られたり、
戦を仕掛けられて負けることもない」といってきかせれば、
「はい、われらはこの世で三人きりの兄弟、今の御教訓をよく守りますでございましょう」と、幼い三人は手をつき、白髯をしごく元就に対して固く誓いました。
 このため毛利家は、三人の兄弟が互いに力を合せて助け合いましたから、いつまでも栄えました----という内容である。
「一本の矢は折れても三本かためてなら折れない」というのは力学をもち出さなくとも、常識で考えて当然のことである。
しかし「元就の子供は三人ではない、男女とも十二人もいたのである。この三本の矢の話は<鳩翁道話>という江戸末期に流行した心学ものといった説教話にすぎぬのである。
かつての修身とは、そんな頼りない作り話で吾々を道徳教育してくれたのかと思うと、教えてくれた先生が怨めしくなるし、気の毒にもなる。

 さて、三つ矢の話は、大正時代には、尋常小学校読本巻五。五年生のときに習う『読み方』の本にものっていて、「第三、父の教え」という題で、名前も毛利元就ではなく、
「ある侍」となっているが、内容は修身の本と同じである。だから、大正、昭和を通じて、学校の教科書でこれを習った老年の日本人にはこの、「毛利三つ矢」説は常識みたいなものに、なってしまっていて、それを、今さら、
「間違っている」などと指摘しようものなら、殆どの人が、「何をっ、ばかばかしい」と不快な表情で顔を横にそ向けてしまうだろう。
 しかしどうも本当の事よりも、広く弘まっていることの方が、ともすれば正しいような錯覚を与えてしまい、それを是とし別に考えもせず、といったおざなりな国民性が出来上がったのは、
後述する大岡越前守忠相の弾圧政策からのことであろう。しかし真実はあくまでも、どこまでも真実であらねばならない。
 別に毛利元就の作った子供が、三人でも十人でも差支えないようなものだが、それでも引っ掛かりがでてくるのは、
「隆元、元春、隆景の三人兄弟が仲良く力を合わせましたから、毛利家はさかえました」という結びの一章からだろう。
 なにしろ関ヶ原の天下分け目の合戦のとき。既に毛利元就は亡く、その長男の隆元も死に、伜輝元の代になっていたが、小早川隆景の方も、おねねの方こと秀吉の未亡人北の政所の甥にあたる秀秋が養子に入っていて、
「金吾中納言秀秋」を名のっていたが、その血筋から関ヶ原では西軍の大将のような立場にあった。
 なのに、この小早川が、東西両軍激突の最中に松尾山から、それまでの味方の大谷方へ鉄砲を射ちかけ俄かに裏切った。このため、それまで勝っていた西軍も総崩れとなり敗走といった結果になる。
 
毛利家三つ矢の教えからすれば、いくら秀秋が養子とはいえ、毛利本家や吉川家が、彼のなす儘に勝手に寝返りさせたとは、とても思えない。どうもこれは一つ穴のムジナだったのだろう。
 となると、三つ矢の教訓とは、
「儲かる方へ寝返りをうて、裏切りをしろ」という教えで、それを承知で修身や国語の時間に、「教科書」という絶対的権威のもとに、なにも知らぬ児童に教えていたことになるのだろうか。

 さて、その小早川秀秋は裏切りの褒美に、「五万一千五百石」を新たに家康から加増され、それまでの筑前名島から、備前岡山城へと移ったが、二年たった慶長七年(1602)十月十八日に二十一歳で死んだ。
すると家康は、「跡目の相続人の届出がでていなかった」 と幼い男児がいたのにこれを無視して、先に渡した五万一千五百石はもとより、それ以前から秀秋が領していた筑前筑後五十二万二千五百石までエビで鯛を釣ったみたいに一切を没取してしまった。
 秀秋に裏切りさせた吉川元春の子の吉川元家や、西軍大将として兵一万人で大坂城の留守居をしていた毛利輝元は、もし、「三つ矢の家訓があるならば」そういう時こそ一緒に掛け合って、小早川の存続に尽力すべきだと思うが、てんで何もしていない。
 それどころか『吉川家譜』では、
「御本家毛利輝元さまとて西軍大将だったゆえ、もし吉川元家のすすめで小早川が裏切らなかったら百二十万五千石は全部没取、その御命もなかった処である。
それを助命され周防長門三十六万石にてあれ家名が残れたは、吉川家の策よろしきを得た為である」ぬけぬけと裏切りの正当性をといている。
 しかし毛利百二十万五千石、小早川五十二万二千五百石、吉川十四万二千石、しめて百八十七万石が、裏切りなどせず、「毛利輝元が西軍総大将ゆえ、みっともない真似はできぬ」
 と三家が揃って西軍のままで戦っていたら、これは誰が考えても、東軍の負けで、「毛利家百二十万五千石」を三分の一以下に滅ぼされることもなく、小早川家とて秀秋が死んだにせよ五十二万石はそのままで家名は残ったろう。
 この当時、毛利三家の裏切りで西軍に組した大名はみな取り潰され、浪人が天下に溢れたので、彼らはみな口を揃え、「毛利の三馬鹿大将」と罵ったものだという。

 これでは三つ矢の教えたるや、どうも本当のところはインチキでしかなくなる。しかし毛利の危機は、その前にもあったのである。
 秀吉は備中高松を攻めている最中、本能寺の変を知り、すぐさま取って返すため、毛利と和約を結んだが、これは仕方なくしたことで、本心からなにも仲直りがしたかった訳ではない。
 折あらば毛利を滅ぼそうとしている内に、朝鮮征伐となった。そこで九州名護屋へ行っていた処、「大政所さま御危篤」の知らせが入った。そこで取るものもとりあえず秀吉は引き返したが、今の門司と下関間の柳浦のところで、
乗っていた船が海中の岩に衝突し沈んでしまった。
 幸い海面に突き出ている岩へ泳ぎついたが、折柄の満潮にどんどん海水が上がってきて、今にも岩は呑まれかけんとする有様。
 こうなっては秀吉とても、どうできるものでもない。すでに足の踝まで浸してくる海水に、歯の根をがたがたさせている処へ、「あいや難波なされてか‥‥」と、小舟を漕ぎよせてきた若者が、「さあお年より、救って進ぜましょう」
 まさか秀吉とは知らず裸ん坊の相手を、抱えるようにして救命した。死中に生をえてほっと人心地ついた秀吉が、くだんの若者に、「これ其方は何者じゃ」と尋ねると、
「礼儀を知らぬ爺さまだ。年よりのことゆえ勘弁してとらせるが、こういう時には助けて貰った礼の一言ぐらいはいい、それから自分の方から私は何のなにがしでございますと、先に言うものだ」
 と口ではきつくいったが、寒かろうと自分の木綿織りの厚司(あつし)を肩にはおらせた。そこで秀吉も、
「成程、いわれてみればその通り、こりゃわしの粗忽であった」すぐ大きなくさめをしつつうなずき、
「危うい処を助けてくれ済まなんだ、礼をいうぞ‥‥実は、わしは太閤秀吉であるぞ」とうちあけた。これには若者も、「うへッ」とびっくりして三拝九拝。

「てまえ、四郎元清の伜めにてござりますして、今は亡き毛利元就の四男にて安芸猿掛五千貫を領する者の跡目‥‥今までの御無礼は存ぜぬことと云いながら、平に平に御容赦を程を」と詫びながら、
白布の巻いたのを持ち出してきて、「これは、てまえの替えの下帯でございますが、よお洗ってございますれば‥‥」と、しなびた一物を股ぐらに挟んで居る秀吉へ、「‥‥御免」と近よって背後から、六尺褌を廻し締め、
「いくらか暖うなりましてござりまするか」と、伺いをたてた。すると、

「元就が四男というと、吉川御前の死後、五十余歳の元就が迎えた来島海賊衆の、十五歳の孫のような嫁女に生まれさせた子の伜なるか‥‥」
 毛利とは信長在世中から戦っていた秀吉は、よく知っていた。「はい、その奈々は、てまえのおばばにござりまする」
「左様か、怒涛を漕ぎ切る手つきの鮮やかさには見とれていたが、来島の河野通有の血をひくとあれば、生まれながらにして海に馴れとるも道理というもの」すっかり感心したように秀吉は唸り、
「おれが名を一字くれてやらす、今日より秀元と名のるがよい」そのまま大坂城へつれ戻り、丁度、城へきていた毛利元就の孫の輝元をすぐさま呼びよせ、

「わしは、いつか毛利を滅ぼす気でいたが、この秀元に助けられたゆえ放念する。しかし其方は百二十万石の大身で、同じ元就の孫のこれが五千石とはなんじゃ、
今すぐ譲れとはいわんが養子にでもせいやい」といいつけたが、せっかちな秀吉は、取りあえず、
「領所長門周防山口城は秀元の分、何人もこれを奪うべからず」と三十六万石分だけ別扱いするよう五大老徳川家康らの加判までとった。‥‥このため関ヶ原役後毛利家を丸ごと取ってしまうつもりだった家康も、
周防長門三十六万石だけは毛利輝元に認めざるをえなかったのである。

 つまり本当に毛利家を幕末まで残すことのできた功績は、己れの下帯まで差しだした四郎元清の伜秀元の働きであるゆえ、これが三つ矢に入っていないのは怪しからんといいたいのである。
 その当座は、恐らく徳川家の権勢を恐れた重臣共が、「四郎元清さまは故太閤に目をかけられた御方ゆえ、今の世では反体制‥‥」というので名を削ったにしろ、明治になっては、もう徳川家に気兼ねすることもないから、
せめて「毛利は四つ矢」にすべきなのにしなかったのは、横着というか。それとも、「論語よみの論語知らず」といった具合に、なにも判らなかったのかどちらかであろう。
 なにしろ己が家系のこととか、茶器を値良く売るためにしか、歴史は必要でないといった考え方が伝統的で、自分本位にしか視野を向けぬ傾向が多く、純粋の歴史のための歴史をといった風潮は、かつては希薄だったようである。
 しかし民族の歴史とか真実の歴史とかいうものは、欲得抜きで誰かが取り組むしかないものであると想う。